タイの生活と日本の生活

タイの蝶の写真と、タイの風俗習慣生活等を紹介できれば、と思っています。日本ではタイの雑貨等を輸入販売しています

岩手県 小岩井農場に移動しました

2016-08-31 06:14:40 | パタヤの生活は?
小岩井農場にやってきた
岩手県盛岡市から北西約12kmに位置し岩手山南麓に約3,000ヘクタール(ha; 900万坪)の広大な敷地面積を誇り、その敷地の3分の2は雫石町、残り3分の1は滝沢市に属する。約3,000ヘクタールとは、東京都23区の中央区と港区を大凡合わせた大きさである。東京ドームで例えると約640個分に相当する。





元々は、何もない荒地だった現在の小岩井農場。木を1本1本植えることからスタートしており、適地適木を実践し、持続的な運営管理を成功させ、現在の広大な緑溢れる農場が形成された。現在も山林部門、またそのノウハウを生かした緑化部門が存在する。東京都内、特に丸の内エリアの緑化事業は、小岩井農牧の緑化部門と共に行われていることが多い。丸の内エリアでは三菱一号館広場、交通会館、KITTE屋上の緑化事業など。 レストラン、ショップの事業として、丸ビル5階の農場直営レストラン“小岩井フレミナール”、文京区駒込の東洋文庫(岩崎久彌と繋がり深い)内にある“オリエントカフェ”、東京駅構内の旗艦店“小岩井農場 サウスコートエキュート東京店”があり、農場直営の味が楽しめる。
















岩手県鶯宿温泉 おうしゅくおんせん あけぼの荘に到着しました

2016-08-30 17:38:14 | パタヤの生活は?
岩手県雫石・鶯宿温泉/温泉民宿 あけぼの荘は、アルカリ性単純泉の源泉100%部屋数9室の小さな湯宿、自家栽培の野菜や米、雫石牛を使った地産料理で雫石の恵みが満喫できる宿です。
小岩井、田沢湖とアクセスに好立地いで湯の里山で疲労回復や筋肉痛、ストレス解消などのんびり休養できます。鶯宿温泉に到着

鶯宿川の両岸に、21軒(2010年4月現在)のホテルや旅館、民宿が立ち並ぶ。規模の大きなホテルから、自炊部を備えた湯治を行える旅館まで存在する。

温泉街にはけんじワールドという屋内に海岸を再現した遊泳施設が存在し、日帰り入浴温泉施設も併設されている。










三内丸山遺跡パート3

2016-08-30 11:49:09 | パタヤの生活は?
三内丸山遺跡パート3

出土遺物は段ボールで数万箱に及んだと言われる。土器、石器が中心であるが、日本最大の板状土偶などの土製品や石製品も多く出土している。この他にも日本各地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土している。出土遺物1,958点が2003年(平成15年)5月29日に国の重要文化財に指定された。翡翠は糸魚川でしか産出されないので、翡翠の産出は上越地域との交易が証明される。また平底の円筒土器やけつ状耳飾りなどは遼河文明(興隆窪文化)との類似性が指摘されている[4]。

三内丸山遺跡から出土した動物遺体は、縄文集落で一般的なシカ・イノシシが少なく、7割弱がノウサギとムササビであり、三内丸山遺跡においてはノウサギやムササビの肉を食料としていたと推察でき、彼らの食生活の一端を伺い知ることができる[5]。背景には巨大集落を支えるシカ・イノシシ資源が枯渇していた可能性が考えられている。







三内丸山遺跡では、一般の住民が暮らしていたと思われる竪穴式住居跡も多数検出されている。屋根に関しては茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類の屋根を持った住居をそれぞれ想定・復元した。これも内部見学が可能である。










三内丸山遺跡 パート2

2016-08-29 07:26:01 | パタヤの生活は?
三内丸山遺跡パート2
この地に遺跡が存在することは江戸時代からすでに知られており、山崎立朴が弘前藩の諸事情を記した『永禄日記』(えいろくにっき、館野越本)の元和九年(1623年)正月二日条に多量の土偶が出土したことが記録されているほか、菅江真澄の紀行文『栖家の山』(すみかのやま)の寛政八年(1796年)四月十四日条に、三内の村の古い堰が崩れた場所から、瓦や甕、土偶のような破片が見つかったことが記録されている






本格的な調査は新しい県営野球場を建設する事前調査として1992年から行われた。その結果、この遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり、1994年には直径約1メートルの栗の柱が6本検出され、大型建物の跡とも考えられた。 これを受け同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定した。

その後、資料館を作って整備を行い、六本柱建物跡においては湿度を一定に保った保存ドームを作り、柱の現物は他の場所に保存しレプリカを代わりに元の場所に置くなどの措置を行った。また、墓の道の遺構が非常に長く延びていることが分かったため都市計画道路も建設を中止した。




三内丸山遺跡に到着しました パート1

2016-08-27 08:32:41 | パタヤの生活は?
青函連絡船で青森県に到着しました、これから四国の高知県まで車で移動します、
気になるところは訪問しようかと思っていますが、三内丸山遺跡を思いつき
見学することになりました、
三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡。沖館川右岸の河岸段丘上に立地する。2000年に国の特別史跡に指定。遺跡跡には住居群、倉庫群のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料館もある。2007年12月現在、青森県教育庁文化財保護課三内丸山遺跡保存活用推進室が発掘調査を行っている。

















青函連絡船で本土に渡ります

2016-08-26 06:40:10 | パタヤの生活は?
青函連絡船(せいかんれんらくせん)は、1908年(明治41年)から1988年(昭和63年)までの間、青森県の青森駅と北海道の函館駅との間を結んでいた日本国有鉄道(国鉄)・北海道旅客鉄道(JR北海道)の航路(鉄道連絡船)である。

航路の名称は青函航路、実距離は61海里[1][2]、旅客営業キロ程113.0km[3]、貨物営業キロ程300km[4]で、津軽海峡は陸岸から20海里以内のため就航船は沿海区域航行資格を持っていた。旅客輸送と鉄道車両航送の他に乗用車の航送も行っており、指定駅のみどりの窓口で予約が可能だった。
















北海道浦臼町の武市やすやの墓と坂本家の墓訪問 パート2

2016-08-25 06:47:42 | パタヤの生活は?
編浦臼町の武市やすやと坂本家の墓
1879年(明治12年)に高知県会議員に出馬して当選し、1881年(明治14年)には県会議長に選出され、板垣退助らの率いる自由党の議員として活躍した。1885年(明治18年)に高知教会で、坂本直寛、山田平左衛門、片岡健吉と共に受洗してプロテスタントになり、生涯にわたり熱心に信仰する。1887年(明治20年)12月、三大事件建白で、片岡健吉、坂本直寛と共に京橋警察署に保安条例違反で逮捕される。その後、警視庁に送られ、東京地方裁判所で軽禁固2年6か月の判決を受けて、石川島監獄に投獄される[1]。1889年(明治22年)に大日本帝国憲法の発布にあたり大赦により出獄し、故郷に帰る。




1892年(明治25年)第2回衆議院議員総選挙に自由党より出馬して当選する。その年の秋に、三大事件建白で投獄中の同志の慰問と、開拓用払い下げ問題の財務調査のために北海道に視察に行き、北海道開拓に興味を持つ。払い下げ用地のある石狩平野を視察して、北海道庁長官の北垣国道と会見し払い下げの話をまとめた後、浦臼内の札的、晩生内、黄臼内、於札内などの樺戸集治監用地を視察して、払い下げを申請する。高知県に戻ると高知殖民会規則を作成して、高知殖民会を設立、北海道移住者の募集を始める。板垣退助、土方久元、谷干城、福岡孝弟、片岡健吉らが協賛する、





1893年(明治26年)、衆議院議員を辞職し、キリスト教に基づく理想のまちづくりを夢見て北海道に渡る。樺戸郡浦臼の原野に、高知県からともに移住したキリスト教徒数十名と入植する。そして、教会(現日本キリスト教会聖園教会)、小学校の設立、聖園農場の設立・経営を行う。1894年(明治27年)12月、高知県に一度帰郷して北海道に戻る途中、青函連絡船の船中にて脳溢血で死去した。このとき、末娘の時代(ときよ)が同船していた。聖園農場の経営は安哉の没後、親族である坂本直寛に引き継がれた。聖園農場はその後分解するが、聖園を足場に北見北光社、遠軽などへのキリスト教的な開拓が展開する。聖園教会は日本基督教会に所属して、今日も存在している












http://ouendaichi20092.web.fc2.com/douou/takikawahtml/sakamoto.html

北海道北見市浦臼町 武市安哉の開拓地訪問 パート1

2016-08-24 20:19:53 | パタヤの生活は?
土佐国長岡郡大埇村住吉野(現・高知県南国市大埇)で、土佐藩郷士の武市家の分家に武市才次の長男として生まれた。1862年に15歳で本家の武市善之助より武市本家を相続する。1868年(慶応4年)には、土佐藩士として鳥羽・伏見の戦いに参加する。明治維新を迎え、1872年(明治5年)に小学校の教師となるが、1876年には小学校を辞して、立志学舎の学生とになる。立志学舎には、坂本龍馬の甥である坂本直寛も学んでいる


1893年(明治26年)、衆議院議員を辞職し、キリスト教に基づく理想のまちづくりを夢見て北海道に渡る。樺戸郡浦臼の原野に、高知県からともに移住したキリスト教徒数十名と入植する。そして、教会(現日本キリスト教会聖園教会)、小学校の設立、聖園農場の設立・経営を行う。1894年(明治27年)12月、高知県に一度帰郷して北海道に戻る途中、青函連絡船の船中にて脳溢血で死去した。このとき、末娘の時代(ときよ)が同船していた。聖園農場の経営は安哉の没後、親族である坂本直寛に引き継がれた。聖園農場はその後分解するが、聖園を足場に北見北光社、遠軽などへのキリスト教的な開拓が展開する。聖園教会は日本基督教会に所属して、今日も存在している














クラーク記念国際高等学校 甲子園出場おめでとう、

2016-08-23 08:03:30 | パタヤの生活は?
今年北海道代表で甲子園に出場を果たした高校です、偶然出張中にこの高等学校の前をと売りました、
通信教育の高校が甲子園に出たのは初めてではないでしょうか、
1992年、日本で6校目の広域通信制高等学校として開校。広域通信制高等学校としては実に25年ぶりの認可。 W・S・クラーク博士の子孫(デブラ・Y・クラーク)より、W・S・クラーク博士の精神を受け継ぐ高校として認知されている。デブラ・Y・クラークはクラーク記念国際高等学校を度々訪問し、W・S・クラーク博士の精神を伝えるために生徒や保護者と交流を深めている。[2]
クラーク記念国際高等学校における「通信制全日型教育」は、一般的な通信制高等学校と違い、全日制高等学校と変わりない高校生活を送ることができるのが特徴である。全日型コースでは制服を着用し、週に5日間の通学をする。通信制とはいえ、「キャンパスに行って学ぶ」というスタイルで高校生活を送るので、友達や先生とコミュニケーションを取る機会や、行事・部活・課外活動も多く、一般的な全日制高等学校と変わりない高校生活を送ることができる。










札幌市役所と時計台

2016-08-23 06:00:45 | パタヤの生活は?
札幌市役所と時計台を撮影できました、
市役所訪問の時に偶然前を見ると、時計台があり、写真に撮るために
場所を探していたら、市役所の一角に、撮影スポットと書いた
看板があり、ガードマンが教えてくれました、その写真が2枚ですが
さすがに植木が大きく茂り、時計台が透かししか見えませんでした、
現存する日本最古の時計塔。北海道大学の前身である札幌農学校の演武場として明治11年(1878年)10月に建築されたもので、国の重要文化財に指定されている。館内では鐘を鳴らす様子など時計の動く仕組みを大型画面で見ることができるほか、時計台と同型の時計機械などを展示。パソコン検索、パネル写真、図書コーナーなどもあり、市内や道内の文化財についても調べることができる。2階は多目的ホールとして利用可能(夜間)。