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タイの生活と日本の生活

タイの蝶の写真と、タイの風俗習慣生活等を紹介できれば、と思っています。日本ではタイの雑貨等を輸入販売しています

キスゲの花が咲きました、

2017-06-05 17:17:28 | パタヤビーチ
APG植物分類体系ではキスゲ科 Hemerocallidaceae として分離されていたが、APG IIIではススキノキ科に含めている。タイプ属であるHemerocallis の標準和名「ワスレグサ属」により、ワスレグサ科、あるいはゼンテイカ科とも呼ばれる。他の体系ではダールグレン体系で採用されていたが、従来よく用いられたクロンキスト体系・新エングラー体系などの分類ではユリ科またはリュウゼツラン科に含められていた。

キスゲは高山植物だと言われていますが、何とか南国高知でも咲きました、








10年ぶりの睡蓮の花

2017-06-04 16:47:24 | パタヤビーチ
10年ぶりの睡蓮の花が咲きました、何故か10年前に買いましたが、毎年花が咲くことがなく

無駄な時間を過ごしましたが、今年は突然一輪の花が咲きました、人から見ると、

何だそんなことか、、、と言えると思いますが、私にとっては大変な出来事です、

来年のことは分かりませんが、何とか来年も咲くように祈っています、わかってくれる人

がいると、嬉しいです、




野見湾に行った!

2017-05-31 18:34:47 | パタヤビーチ
須崎市のケーズデンキに用事があって、そこに行ったついでに、海が見たくなり、

行き当たりばったりに走っていくと、行き止まりになりました、そこが野見湾でした、

素朴な漁村で、あちこちに養殖の池が見受けられます、漁師のおじさんに聞いてみたら、

この地域は、チャンバラ貝の産地で、唯一の供給地だそうです、その上釣りの宝庫で、

ここから釣り船が出ている様で、県外からのお客様も多いそうです、




















春野町のアジサイ寺が今日からはじまるよ、その1

2017-05-29 17:15:05 | パタヤビーチ
六條八幡宮の由緒書を見ると、京都左女牛八幡宮から産土神として此処に祀られるようになったがが応永9年(1402)と言うき、室町幕府・足利義満の時代と、かなり古い神社ながです。

此処は、あじさい神社として知られちょります。

参道や、拝殿手前右側にゃ花の小道も作られちょり、沢山の種類の紫陽花が植えられちょります。
















高知にも初雪が!!

2017-02-11 20:23:39 | パタヤビーチ
朝起きて外を見ると庭に白いものが積もっていました、今年になって、

初雪です、まいねん、立春頃には雪が降ったりしています、

写真を撮っておこうと思い外に出ると、思った以上に寒かった、一応

下手な写真を出します、











若宮八幡宮の枝垂れ梅が咲きました

2017-02-10 15:17:21 | パタヤビーチ
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の記述によれば、源頼朝は平氏を討ち果たした文治元年(1185年)に京都六条にあった祖父源為義邸跡に石清水八幡宮を勧請し六條若宮八幡宮を創建した。この時、土佐国吾川郡一円を六條若宮八幡宮の神領とし、鎮護のために同年12月30日、当地にも若宮八幡宮を分祀したとされている。

戦国時代の永禄3年(1560年)長宗我部元親は初陣に臨み、若宮八幡宮馬場先に陣を構えた。この時に初陣を勝利で飾った。以来、元親は合戦のたびに当社で戦勝祈願を行うようになった。

江戸時代に入り山内氏が土佐藩主となって以後も崇敬され藩主祈願八社の一つとされた。

明治時代になり近代社格制度が制定されると、明治6年(1873年)郷社に列した。更に昭和5年(1930年)には県社となった。










春野町 種間寺の猫塚 猫地蔵があるよ、

2017-02-08 10:00:51 | パタヤビーチ
34番札所種間寺には、猫地蔵があるのをご存知ですか?入り口の公衆電話の

そばの足元にひっそりとあるので、最初はわかりませんでした、三体有りますが

線引き地蔵ですので、風化が激しく、よく見ないとわかりませんでした、

昔、養蚕が盛んだった頃、繭のサナギをネズミの被害から守るために、祈りを込めて祀られたそうです。







四国八十八ケ所34番札所 種間寺

2017-02-07 11:35:07 | パタヤビーチ
寺伝によれば用明天皇在位(585年 - 587年)の頃、四天王寺を建立するため来日した百済の仏師が帰国の際に暴風に襲われてこの地に近い秋山の港に漂着、航海の安全を祈願して薬師如来刻んで本尾山頂に安置したのが起源であるという。その後、弘仁年間(810年 - 824年)に空海(弘法大師)が巡錫し、堂宇を建立し仏師が刻んだ薬師如来を本尊として安置して開基したといい、その際に唐から持ち帰った五穀の種を境内に蒔いたことから寺号が定められたという。

天暦年間(947年 - 957年)には村上天皇が藤原信家を勅使にして「種間」の勅額を下賜。土佐藩主からの信仰も得ていた。神仏分離令で廃寺となるが、明治13年(1880年)に再興される。





















薬師如来:毎年3月8日、本尊薬師如来が開帳される。
大黒天(さわり大黒) - ケヤキの寄木造、身丈100cm、全長150cmの大黒天像。現[いつ?]住職の「お遍路さんや参拝の方々に触って頂き、色艶が出る方がよい」との想いから、彩色を施さず素地仕上げとした。寺院の特徴を活かすため、「抱き稲に種」という独自の紋を本大黒天のために作成した。