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タイの生活と日本の生活

タイの蝶の写真と、タイの風俗習慣生活等を紹介できれば、と思っています。日本ではタイの雑貨等を輸入販売しています

島原の隠れ切支丹展 島原城で展示、

2015-11-19 08:38:40 | パタヤの水上マーケットその1
日本では、1549年にフランシスコ・ザビエルが来日して以降、キリスト教の布教がおこなわれて次第に改宗する者(キリシタン)が増えていったが、1614年に徳川家康による禁教令によってキリスト教信仰は禁止され、さらに1637年に起きた島原の乱の前後からは幕府による徹底したキリスト教禁止、キリシタン取り締まりが行われた。こうして、当時のカトリック信徒(キリシタン)やその子孫は、表向きは仏教徒として振る舞うことを余儀なくされ、また1644年以降は国内にカトリックの司祭が一人もいない状況ながらも、密かにキリスト教の信仰を捨てずに代々伝えていった。これを「潜伏キリシタン」と呼ぶ[1][2]。彼らは、ごく小さな集落単位で秘密組織を作ってひそかに祈祷文「オラショ」を唱えて祈りを続け、慈母観音像を聖母マリアに見立てたり(今日、それらの観音像は「マリア観音」と呼ばれる)、聖像聖画やメダイ、ロザリオ、クルス(十字架)などの聖具を秘蔵して「納戸神」として祀ったり、キリスト教伝来当時にならったやり方で生まれた子に洗礼を授けるなどして信仰を守りつづけた(これらの信仰の形式は地方によって異なる[3])。当初は国内のあちこちに広く潜伏していたと思われるが、多くの土地ではすぐに途絶えていったとみられる。しかし、長崎県をはじめ熊本県の天草など九州の一部では、キリスト教伝来当時から継続的に宣教師の指導を受けて信仰が広く浸透していたこともあって、幕末まで多くの信仰組織が存続していた。














島原城の隠れ切支丹展を観てきました、

2015-11-18 09:26:09 | パタヤの水上マーケットその1
隠れキリシタン(かくれキリシタン)は、日本の江戸時代に江戸幕府による禁教令の後、

強制改宗により仏教を信仰していると見せかけキリスト教(カトリック)を偽装棄教したキリスト教信者(潜伏キリシタン)。
1873年(明治6年)に禁教令が解かれて潜伏する必要がなくなっても、江戸時代の秘教形態を守り、カトリック教会に戻らない信仰者の群(カクレキリシタン)。
上記両者を特に区別せず指す俗称である。




















千本木展望所

2015-11-17 08:01:50 | パタヤの水上マーケットその1
島原市千本木地区は、平成5年6月23日、24日の2日間にわたって断続的に発生した火砕流と、それに伴う熱風(火災サージ)によって、壊滅的な被害を受けました。現在、この地区は土石流の発生を軽減するための砂防工事が行われていますが、一部地域には、火砕流に伴う堆積物がそのまま保存されています


















島原市 板倉重昌の墓

2015-11-16 08:27:23 | パタヤの水上マーケットその1
天正16年(1588年)、徳川氏の家臣・板倉勝重の次男として駿河駿府にて誕生。

慶長10年(1605年)4月10日、主君・徳川家康の参内に伺候し従五位下内膳正(ないぜんのかみ)に叙任された[1]。松平正綱・秋元泰朝とともに徳川家康の近習出頭人と呼ばれた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、豊臣方との交渉の任にあたった。

寛永14年(1637年)11月、島原の乱鎮圧の上使となった。嫡子の重矩を伴い、副使の石谷貞清と出陣。動員された西国の諸侯を率いる命を受け下向するが、九州の諸侯は小禄[2]の重昌の指揮に従わず[3]、小身の重昌では統制が取れないことや一揆勢の勢いの強いこと、長期化した際に幕府の権威が揺らぐことや海外からの勢力の参加の恐れなどを鑑みた幕府は老中・松平信綱を改めて大将とし、大幅な増援も決定した。

重昌は功を奪われることに焦慮を覚えたとされる。翌寛永15年(1638年)1月1日に総攻撃を命じるが、やはり諸軍の連携を失い4000人とも伝わる大損害を出す。重昌自身は板倉勢を率いて突撃を敢行し、眉間に一揆勢の鉄砲の名手・三会村金作が放った銃弾の直撃を受け、戦死した。享年51。墓所は島原市の江東寺。辞世は、「あら玉のとしの始に散花の 名のみ残らば先がけとしれ」とされるが「咲く花の」とする説もある。

残された嫡子の重矩は、元の副使石谷貞清と共に原城陥落の際、抜け駆けを行った佐賀藩に遅れじと突入を行った。この際、一騎打ちで敵将・有家監物を討ち取る功をあげているが、佐賀藩との抜け駆けと当初の敗戦の軍律違反により、一年ほど謹慎処分を受ける。しかしその後は老中や京都所司代を務め、5万石にまで加増する。重昌の子孫はその後、下野烏山藩、武蔵岩槻藩、信濃坂木藩、陸奥福島藩と転封され明治まで続いた。












熊本城に行きました、

2015-11-12 08:02:41 | パタヤの水上マーケットその1
熊本市北区植木町の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城。現在の地名では中央区の本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。

中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在のような姿の熊本城を築いた。日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある[1]。

細川氏の居城となった後も盛んに改築が行われ、明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る(建物が失われる経緯は、同項の歴史(明治時代以降)を参照のこと。)。石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、1889年(明治22年)の熊本地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、ほぼ江戸期の改築による変遷の痕跡をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている。昭和時代中期には大小天守と一部の櫓が外観復元され、近年では、櫓や御殿などの主要な建物を木構造で復元する事業が行われている。

サクラの名所としても知られており、日本さくら名所100選に選定されている。
















土佐の海をクールピックスAにPLフィルター付けて写す実験。

2015-09-18 08:49:39 | パタヤの水上マーケットその1
土佐の海をクールピックスAにPLフィルター付けて写す実験。
写してみたら、砂の一粒一粒がきれいに写っているようです、でかいカメラを持ち歩いていましたが、
重くて大変です、coolpix Aは小さなコンデジですが、機能は一流です、






















高知県 大樽の滝に行ってきました。その2

2015-06-01 08:37:53 | パタヤの水上マーケットその1
高知県 大樽の滝に行ってきました。その2
この写真も滝までの道中です、駐車場から2-30分歩きます、この時期
あちこちにウツギの花が見どころです、真っ白いウツギの花をみながら
歩くのも楽しいものです。





















浦戸城天主跡 

2015-04-25 08:55:06 | パタヤの水上マーケットその1
浦戸城天主跡は竜馬館の入り口の近くにありました。

高知市南部、桂浜の北部丘陵の浦戸山(標高59m)上に築かれた中世の平山城跡で、土佐湾(太平洋)に面している。浦戸は高知平野の入り口に位置し、紀貫之の『土佐日記』にも浦戸の港として記載されるなど、古来より水運の拠点となる地であった。
古くより城砦があったとされるが、本格的には戦国時代に本山氏により築城されたと考えられている。その後本山氏を滅ぼした長宗我部氏が支城とし、長宗我部元親が大幅に改修した後、大高坂城(現 高知城)より移って居城とした。長宗我部時代には本丸・二の丸・三の丸・出丸で構成されて3層の天守が設けられる大規模な城であり、丘陵北部の浦戸湾岸に城下町が置かれた。江戸時代、長宗我部氏に代わって土佐に入国した山内一豊もまた本城を居城としたが、高知城築城後に居を移したため、廃城となった。
現在は県の史跡に指定されているが、城跡には国民宿舎桂浜荘・県立坂本龍馬記念館が建ち、石垣・堀切の一部を遺構として残すのみである。