イギリス、ロシア、ドイツに嫁いだ
美しきデンマーク王女三姉妹
ヨーロッパの王室を彩る
⑴アレクサンドラ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/b9/e6466a5854ec67f4cf5704a783587152.jpg)
Alexandra of Denmark
1844~1925
Dagmar of Denmark
1847~1928
Thyra of Denmark
1853~1933
デンマーク王家
19世紀中頃に生まれたデンマーク王女の三姉妹、アレクサンドラ、ダウマー、テューラ。
父クリスティアン、母ルイーゼのいずれも家柄はデンマーク王家に繋がる名家だが財産はなく、コペンハーゲンの借り物の邸宅で暮らした。家庭教師も雇えず、子女の教育は自らが行った。
しかし嗣子のいないデンマーク国王フレゼリク7世の後に王位を継承することになり、1963年にデンマーク国王クリスチャン9世になった。子女は以下の通り。
❶フレゼリク 1843~1912
デンマーク国王フレゼリク8世
②アレクサンドラ 1844~1925
イギリス国王エドワード7世妃
❸ヴィルヘルム 1845~1913
ギリシャ国王ゲオルギオス1世
④ダウマー 1847~1928
ロシア皇帝アレクサンドル3世妃
⑤テューラ 1853~1933
元ハノーファー王太子エルンスト・アウグスト2世妃
❻ヴァルデマー 1858~1939
フランス、オルレアン家の娘と婚姻
次男ヴィルヘルムは1963年に17歳でギリシャ王に即位。父が同年にデンマーク国王に即位するより早く国王になった。ゲオルギオス1世の娘アレクサンドラはロシア大公ドミートリ・パヴロヴィチ(別記事)の母、息子アンドレオスは現エディンバラ公の父である。
17歳で即位した弟とは対照的に、兄フレゼリクは64歳でデンマーク国王に即位しており、在位期間は6年のみ。1912年没。弟は1913年に暗殺されるまでほぼ50年在位していた。
なお、歳の離れた末弟ヴァルデマーは、ブルガリアやノルウェーの君主候補になっていたが実際に選ばれることはなかった。
6人の子女は、イギリス、ロシア、ギリシャ、ドイツ、フランスに関係を持ち、父クリスチャン9世は「ヨーロッパの義父」とあだ名されていた。
デンマーク国王クリスチャン9世と王妃ルイーゼ
美しい母ルイーゼ譲りの美貌を誇るデンマーク王女を求めて、ヨーロッパ中の王室が縁談に乗り出した。少し歳の離れた三女テューラはさておき、財政難だったデンマーク王家としては、長女アレクサンドラを強国イギリスの王太子に、次女ダウマーをヨーロッパ随一の大富豪ロマノフ家の皇太子に相次いで嫁がせることができ、非常に幸運であった。
しかし、当の王女たちにとっては、国外の、しかも大国の嫡子に嫁ぐことは大きな心の負担になったに違いない。いずれもまだ18歳での結婚。そして時は激動の時代の幕開けでもあった。
長女アレクサンドラ
母、妹テューラと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/59/170a911f04799973a3267fc416acb3cd.jpg)
婚約したイギリス王太子アルバート・エドワード
結婚
とても美しく、明るく華やかなアレクサンドラはイギリスに嫁いでからも皆に愛された。ただ、最も残念なことに、夫との関係は冷めたものとなった。アレクサンドラには首に結核性リンパ腫瘍切除手術の痕があり、巧みに髪やアクセサリーで隠していたのだが、夫バーティーはその痕を見るのが嫌だったのか、妻を遠ざけるようになり、愛人のもとに走った。
アレクサンドラは子供達には深い愛情を注ぎ、夫は愛人に好きなようにかまけさせた。
もともと女性関係がふしだらで、ヴィクトリア女王を立腹させ、父の早死を誘発したバーティーは、王太子時代から宮廷内にも女性を囲い、アレクサンドラの面前でも平然と情事に耽ったという。こうした愛妾たち、「ロイヤル・ミストレス」は王室の公式行事にも席が与えられ、列席していたという。なかでも長く仕えた代表的な愛妾は3人おり、アレクサンドラに礼を尽くすもの、立場を無視するものとさまざまで、アレクサンドラの方でもそれぞれに好き嫌いがあった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/d6/b9271b4a13ef89703418020e1a5cbc56.jpg)
アリス・ケッペル
プリンス・チャールズの妻カミラ夫人の曽祖母にあたる
国王の、最後の、また最愛の「お気に入り(ラ・ファボリータ)」といわれたアリス・ケッペルは奇しくもアレクサンドラと同じ名前であり、控えめで大らかな態度が周囲の人びとに好感を与えたが、豊満な彼女を夫とあわせて「豚のつがい」とアレクサンドラは喩えた。国王の臨終のときも、お気に入りを呼び寄せたい国王の意向に取り合わず、死に目に会わさなかった。アリスを嫌っていたジョージは即位するとすぐアリスを宮廷から追い払った。
家族関係
コペンハーゲン時代は全く裕福でなかったので、英語はイギリス人看護婦や牧師から教わっていた。言語ではそれほど不自由はなかったと思われる。
ただ、大らかで家庭的なアレクサンドラは、王室に厳格さを重んじる義母ヴィクトリア女王とは波長が合わないところもあった。
センスの良いファッションは宮廷内での憧れにもなり、彼女が首の傷を隠すために首元にチョーカー形のネックレスを飾るとそれが流行り、後年、出産時の影響で脚を引きずるようになってからはパラソルを杖変わりにファッションに添えるようになると、それも皆が真似をした。
ロシアに嫁いだ妹のダウマーことロシア皇妃マリア・フョードロヴナとは大変親しく、パリでおちあって買い物をしたり、デンマークに別荘を共同購入して互いの家族とともに休暇を過ごした。
アレクサンドラの美しさは年齢を重ねても衰えることなく、夫エドワード7世の戴冠式当時は50歳を越えていたにもかかわらず、30歳代のような美しさであったらしい。
アレクサンドラと妹ダウマー(ロシア皇后マリア・フョードロヴナ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/0b/1ce2ff1b78ef7b483051dbc6def73e98.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/4d/2b434026d6c8dac43071edd8a019b9a2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/8a/78cc767b84ffee79b8b0826f1ff651fa.jpg)
夫や姑ともどうにかうまく表面的に折り合いをつけてやっていたアレクサンドラだったが、義妹との関係は複雑だった。義弟アルフレートの妻は当時ロシア皇帝アレクサンドル2世の娘マリアであった。皇女と王女とでは皇女の方が位が高い。ロシアからの莫大な資産とともにイギリス王家に嫁いだマリアは、本来ならそれまでの「皇女」から「王女」に格下げになるのだが、アレクサンドル皇帝は娘に結婚後も皇女の称号を使わせることをイギリス王室に要請した。しかしそれを不服とするヴィクトリア女王は当然の如く、マリアに王女の称号を使わせた。マリアの方でそれに合わせて振る舞えば良かったのだが、彼女自身が自分を高位の者と見做すようにと周囲に威丈高に振る舞い、たちまちイギリス王室で嫌われ者になるとともに、マリアはイギリスを憎むようになった。
ヴィクトリア女王在位50周年の式典において、その席次争いが起こった。マリアは女王の次男ザクセン=コーブルク=ゴーダ公妃で、ドイツの公国の妃。アレクサンドラは王太子妃であるから、アレクサンドラのほうが上だとするのがアレクサンドラの考え。他方で、マリアはロシア皇女、アレクサンドラはデンマーク王女だったから、マリアのほうが上とするのはマリアの考え。現在の位か出自の位かの争いになり、これはヴィクトリア女王が間に入り、アレクサンドラに折れさせた。
アレクサンドル2世と最愛の娘マリア・アレクサンドロヴナ
晩年は難聴で生活に支障をきたしたが、それでも明るい性格はそのままだった。孫で後年のエドワード8世は回顧録に祖母アレクサンドラの年を経ても変わらぬ美しさと愛情を記している。ヴィクトリア女王に倣い王室の厳格さを重んじて子供の養育をかえりみなかった嫁のメアリーに、もう少し子供達と過ごすようにしてはどうかとすすめたこともあったが、自分はイギリス王室のしきたりに従うまでだと一蹴されてしまった。アレクサンドラは寂しそうな孫たちを自分の城に度々招き、祖父母は話し相手になってやった。自閉症のジョン王子のために庭をきれいにさせていたのもアレクサンドラの心遣いによるものだった。
エドワード誕生
母メアリー、祖母アレクサンドラ、曾祖母ヴィクトリア
孫のエドワード8世
子女
エドワード7世とアレクサンドラの子女は以下。
❶アルバート・ヴィクター 1864~1892
❷ジョージ5世 1865~1936
③ルイーズ 1867~1931 ファイフ公爵夫人
④ヴィクトリア 1868~1935
⑤モード 1869~1938 ノルウェー王妃
❻アレクサンダー・ジョン 早逝
三女モードはアレクサンドラのデンマークの甥、フレゼリク8世の次男カール王子と結婚、のちにカールはノルウェー国王ホーコン7世となる。このホーコン7世と、兄であるデンマーク国王クリスチャン10世の第2次大戦時下の振舞いはよく比較対照される。
息子2人と
5人の子供達
家族
王太子の家族と
三女モードの一人息子、のちのノルウェー国王オラーフ5世と
アルバート・ヴィクターの妃選びに、ヴィクトリア女王は自分のお気に入りの孫アリクス(ヘッセン大公女)を推した。アルバート・ヴィクター自身も乗り気であった。しかしアレクサンドラは強く反対し、この話を阻止した。アリクスはヨーロッパ随一の美女と言われたエリザベスの妹であり、エリザベスによく似て美しかったが、内向的で頑固、ときに癇癪を起こすと知られていた。母を喪い、祖母であるヴィクトリア女王の元で暮らしているアリクスをアレクサンドラは見知っていたはずだ。自分とは正反対の気質のアリクスを嫁に迎えることと、将来のイギリス王室の妃を務める資質と、主観的、客観的に判断して、アリクスでは不適であると考え、猛反対してヴィクトリア女王の望みを覆させた。最も、当のアリクスもこの話を敬遠した。
また、次男ジョージが従妹のマリー・オブ・エジンバラ(エジンバラ公アルフレート、ザクセン=コーブルク=ゴーダ公の娘)と恋愛結婚を望んだ時も、周囲はみな祝福したがアレクサンドラは強く反対し、そのためにこれも破談になっている。マリーの母は例の元ロシア皇女マリア・アレクサンドロヴナ。イギリスに嫁ぎながらイギリス嫌いの母も、アレクサンドラに反対されるまでもなく、この結婚には大反対した。
息子アルバート・ヴィクターは1892年、肺炎を起こして亡くなり、婚約していたテック公メアリーは王位継承順位とともに弟ジョージに引き継がれたが、大切に育てていた息子を喪ったアレクサンドラには大きなショックであり、癇癪持ちの次男ジョージが王位継承者になることにも心を暗くした。
晩年
1910年に夫エドワード7世が他界し、王太后となったアレクサンドラはサンドリンガムで暮らした。サンドリンガム城のあるノーフォーク周辺は故郷のデンマークと景観が似ているので、かつて結婚当初はここに新居を構えた。
夫亡き後1923年に80歳で亡くなるときまで、この城で過ごした。その間にはイギリスの内政も大きく揺れ、世界も大戦を経験した。
結婚後の新居にしたサンドリンガム城にて
アレクサンドラを苦しめたのは、やはりロシア革命で皇太后だった妹マリア・フョードロヴナの安否だったようだ。クリミアに避難していた妹とその家族を救出するべく、アレクサンドラは手を尽くし、息子ジョージ5世の差し向けた軍艦によって保護された。憔悴した妹に、皇帝一家の悲惨な最期のことを話さなければならないのは身を切られる思いだったようだ。
イギリス王室の重い空気のなかで明るく振舞い、強く生き、短い王妃時代には国民のために家族協会や看護施設を築く貢献を見せ、何より子や孫たちに愛情を教えた。王侯にありがちな自分本位の態度をとらないあたたかな心は、見た目のクールな印象の美しさとは異なる、優しい心根から生まれるものだった。
この人の美しさと気丈さには心底惹きつけられるものがある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/31/de998b8b94fcdd5f0e3af2e3d3ae0baf.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/9c/8c2564cd2e5e938827a9b734b4005cf2.jpg)
このあとにダウマーとテューラを続けます。
美しきデンマーク王女三姉妹
ヨーロッパの王室を彩る
⑴アレクサンドラ
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Alexandra of Denmark
1844~1925
Dagmar of Denmark
1847~1928
Thyra of Denmark
1853~1933
デンマーク王家
19世紀中頃に生まれたデンマーク王女の三姉妹、アレクサンドラ、ダウマー、テューラ。
父クリスティアン、母ルイーゼのいずれも家柄はデンマーク王家に繋がる名家だが財産はなく、コペンハーゲンの借り物の邸宅で暮らした。家庭教師も雇えず、子女の教育は自らが行った。
しかし嗣子のいないデンマーク国王フレゼリク7世の後に王位を継承することになり、1963年にデンマーク国王クリスチャン9世になった。子女は以下の通り。
❶フレゼリク 1843~1912
デンマーク国王フレゼリク8世
②アレクサンドラ 1844~1925
イギリス国王エドワード7世妃
❸ヴィルヘルム 1845~1913
ギリシャ国王ゲオルギオス1世
④ダウマー 1847~1928
ロシア皇帝アレクサンドル3世妃
⑤テューラ 1853~1933
元ハノーファー王太子エルンスト・アウグスト2世妃
❻ヴァルデマー 1858~1939
フランス、オルレアン家の娘と婚姻
次男ヴィルヘルムは1963年に17歳でギリシャ王に即位。父が同年にデンマーク国王に即位するより早く国王になった。ゲオルギオス1世の娘アレクサンドラはロシア大公ドミートリ・パヴロヴィチ(別記事)の母、息子アンドレオスは現エディンバラ公の父である。
17歳で即位した弟とは対照的に、兄フレゼリクは64歳でデンマーク国王に即位しており、在位期間は6年のみ。1912年没。弟は1913年に暗殺されるまでほぼ50年在位していた。
なお、歳の離れた末弟ヴァルデマーは、ブルガリアやノルウェーの君主候補になっていたが実際に選ばれることはなかった。
6人の子女は、イギリス、ロシア、ギリシャ、ドイツ、フランスに関係を持ち、父クリスチャン9世は「ヨーロッパの義父」とあだ名されていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/f1/659e6531dcc07ace6fbaa0101942079a.jpg)
美しい母ルイーゼ譲りの美貌を誇るデンマーク王女を求めて、ヨーロッパ中の王室が縁談に乗り出した。少し歳の離れた三女テューラはさておき、財政難だったデンマーク王家としては、長女アレクサンドラを強国イギリスの王太子に、次女ダウマーをヨーロッパ随一の大富豪ロマノフ家の皇太子に相次いで嫁がせることができ、非常に幸運であった。
しかし、当の王女たちにとっては、国外の、しかも大国の嫡子に嫁ぐことは大きな心の負担になったに違いない。いずれもまだ18歳での結婚。そして時は激動の時代の幕開けでもあった。
長女アレクサンドラ
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/1c/ebd16f45f662d3b30b97b60be5407c9f.jpg)
結婚
とても美しく、明るく華やかなアレクサンドラはイギリスに嫁いでからも皆に愛された。ただ、最も残念なことに、夫との関係は冷めたものとなった。アレクサンドラには首に結核性リンパ腫瘍切除手術の痕があり、巧みに髪やアクセサリーで隠していたのだが、夫バーティーはその痕を見るのが嫌だったのか、妻を遠ざけるようになり、愛人のもとに走った。
アレクサンドラは子供達には深い愛情を注ぎ、夫は愛人に好きなようにかまけさせた。
もともと女性関係がふしだらで、ヴィクトリア女王を立腹させ、父の早死を誘発したバーティーは、王太子時代から宮廷内にも女性を囲い、アレクサンドラの面前でも平然と情事に耽ったという。こうした愛妾たち、「ロイヤル・ミストレス」は王室の公式行事にも席が与えられ、列席していたという。なかでも長く仕えた代表的な愛妾は3人おり、アレクサンドラに礼を尽くすもの、立場を無視するものとさまざまで、アレクサンドラの方でもそれぞれに好き嫌いがあった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/d6/b9271b4a13ef89703418020e1a5cbc56.jpg)
アリス・ケッペル
プリンス・チャールズの妻カミラ夫人の曽祖母にあたる
国王の、最後の、また最愛の「お気に入り(ラ・ファボリータ)」といわれたアリス・ケッペルは奇しくもアレクサンドラと同じ名前であり、控えめで大らかな態度が周囲の人びとに好感を与えたが、豊満な彼女を夫とあわせて「豚のつがい」とアレクサンドラは喩えた。国王の臨終のときも、お気に入りを呼び寄せたい国王の意向に取り合わず、死に目に会わさなかった。アリスを嫌っていたジョージは即位するとすぐアリスを宮廷から追い払った。
家族関係
コペンハーゲン時代は全く裕福でなかったので、英語はイギリス人看護婦や牧師から教わっていた。言語ではそれほど不自由はなかったと思われる。
ただ、大らかで家庭的なアレクサンドラは、王室に厳格さを重んじる義母ヴィクトリア女王とは波長が合わないところもあった。
センスの良いファッションは宮廷内での憧れにもなり、彼女が首の傷を隠すために首元にチョーカー形のネックレスを飾るとそれが流行り、後年、出産時の影響で脚を引きずるようになってからはパラソルを杖変わりにファッションに添えるようになると、それも皆が真似をした。
ロシアに嫁いだ妹のダウマーことロシア皇妃マリア・フョードロヴナとは大変親しく、パリでおちあって買い物をしたり、デンマークに別荘を共同購入して互いの家族とともに休暇を過ごした。
アレクサンドラの美しさは年齢を重ねても衰えることなく、夫エドワード7世の戴冠式当時は50歳を越えていたにもかかわらず、30歳代のような美しさであったらしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/d1/c766a8fb7139748208d43e3b38468c6c.jpg)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/8a/78cc767b84ffee79b8b0826f1ff651fa.jpg)
夫や姑ともどうにかうまく表面的に折り合いをつけてやっていたアレクサンドラだったが、義妹との関係は複雑だった。義弟アルフレートの妻は当時ロシア皇帝アレクサンドル2世の娘マリアであった。皇女と王女とでは皇女の方が位が高い。ロシアからの莫大な資産とともにイギリス王家に嫁いだマリアは、本来ならそれまでの「皇女」から「王女」に格下げになるのだが、アレクサンドル皇帝は娘に結婚後も皇女の称号を使わせることをイギリス王室に要請した。しかしそれを不服とするヴィクトリア女王は当然の如く、マリアに王女の称号を使わせた。マリアの方でそれに合わせて振る舞えば良かったのだが、彼女自身が自分を高位の者と見做すようにと周囲に威丈高に振る舞い、たちまちイギリス王室で嫌われ者になるとともに、マリアはイギリスを憎むようになった。
ヴィクトリア女王在位50周年の式典において、その席次争いが起こった。マリアは女王の次男ザクセン=コーブルク=ゴーダ公妃で、ドイツの公国の妃。アレクサンドラは王太子妃であるから、アレクサンドラのほうが上だとするのがアレクサンドラの考え。他方で、マリアはロシア皇女、アレクサンドラはデンマーク王女だったから、マリアのほうが上とするのはマリアの考え。現在の位か出自の位かの争いになり、これはヴィクトリア女王が間に入り、アレクサンドラに折れさせた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/72/d2eeaa9335e1ce77099d3283bfb289f8.jpg)
晩年は難聴で生活に支障をきたしたが、それでも明るい性格はそのままだった。孫で後年のエドワード8世は回顧録に祖母アレクサンドラの年を経ても変わらぬ美しさと愛情を記している。ヴィクトリア女王に倣い王室の厳格さを重んじて子供の養育をかえりみなかった嫁のメアリーに、もう少し子供達と過ごすようにしてはどうかとすすめたこともあったが、自分はイギリス王室のしきたりに従うまでだと一蹴されてしまった。アレクサンドラは寂しそうな孫たちを自分の城に度々招き、祖父母は話し相手になってやった。自閉症のジョン王子のために庭をきれいにさせていたのもアレクサンドラの心遣いによるものだった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/98/cc2ca2be8a0aaaa25f16c39b4ad6418d.jpg)
母メアリー、祖母アレクサンドラ、曾祖母ヴィクトリア
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子女
エドワード7世とアレクサンドラの子女は以下。
❶アルバート・ヴィクター 1864~1892
❷ジョージ5世 1865~1936
③ルイーズ 1867~1931 ファイフ公爵夫人
④ヴィクトリア 1868~1935
⑤モード 1869~1938 ノルウェー王妃
❻アレクサンダー・ジョン 早逝
三女モードはアレクサンドラのデンマークの甥、フレゼリク8世の次男カール王子と結婚、のちにカールはノルウェー国王ホーコン7世となる。このホーコン7世と、兄であるデンマーク国王クリスチャン10世の第2次大戦時下の振舞いはよく比較対照される。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/90/5ec4a0bb012fb7ee95d6bbe1c8d8da2f.jpg)
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アルバート・ヴィクターの妃選びに、ヴィクトリア女王は自分のお気に入りの孫アリクス(ヘッセン大公女)を推した。アルバート・ヴィクター自身も乗り気であった。しかしアレクサンドラは強く反対し、この話を阻止した。アリクスはヨーロッパ随一の美女と言われたエリザベスの妹であり、エリザベスによく似て美しかったが、内向的で頑固、ときに癇癪を起こすと知られていた。母を喪い、祖母であるヴィクトリア女王の元で暮らしているアリクスをアレクサンドラは見知っていたはずだ。自分とは正反対の気質のアリクスを嫁に迎えることと、将来のイギリス王室の妃を務める資質と、主観的、客観的に判断して、アリクスでは不適であると考え、猛反対してヴィクトリア女王の望みを覆させた。最も、当のアリクスもこの話を敬遠した。
また、次男ジョージが従妹のマリー・オブ・エジンバラ(エジンバラ公アルフレート、ザクセン=コーブルク=ゴーダ公の娘)と恋愛結婚を望んだ時も、周囲はみな祝福したがアレクサンドラは強く反対し、そのためにこれも破談になっている。マリーの母は例の元ロシア皇女マリア・アレクサンドロヴナ。イギリスに嫁ぎながらイギリス嫌いの母も、アレクサンドラに反対されるまでもなく、この結婚には大反対した。
息子アルバート・ヴィクターは1892年、肺炎を起こして亡くなり、婚約していたテック公メアリーは王位継承順位とともに弟ジョージに引き継がれたが、大切に育てていた息子を喪ったアレクサンドラには大きなショックであり、癇癪持ちの次男ジョージが王位継承者になることにも心を暗くした。
晩年
1910年に夫エドワード7世が他界し、王太后となったアレクサンドラはサンドリンガムで暮らした。サンドリンガム城のあるノーフォーク周辺は故郷のデンマークと景観が似ているので、かつて結婚当初はここに新居を構えた。
夫亡き後1923年に80歳で亡くなるときまで、この城で過ごした。その間にはイギリスの内政も大きく揺れ、世界も大戦を経験した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/34/d063bd441777ef1f0daa516a62354ee5.jpg)
アレクサンドラを苦しめたのは、やはりロシア革命で皇太后だった妹マリア・フョードロヴナの安否だったようだ。クリミアに避難していた妹とその家族を救出するべく、アレクサンドラは手を尽くし、息子ジョージ5世の差し向けた軍艦によって保護された。憔悴した妹に、皇帝一家の悲惨な最期のことを話さなければならないのは身を切られる思いだったようだ。
イギリス王室の重い空気のなかで明るく振舞い、強く生き、短い王妃時代には国民のために家族協会や看護施設を築く貢献を見せ、何より子や孫たちに愛情を教えた。王侯にありがちな自分本位の態度をとらないあたたかな心は、見た目のクールな印象の美しさとは異なる、優しい心根から生まれるものだった。
この人の美しさと気丈さには心底惹きつけられるものがある。
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このあとにダウマーとテューラを続けます。