名のもとに生きて

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20世紀前半の英王室(5)エドワード7世

2016-01-11 17:49:43 | 人物

醜聞多く母女王に怯えた長き皇太子時代
10年足らずの国王時代は見事な外交
“ピースメーカー”エドワード7世





Albert Edward
King Edward vii

1841~1910
在位1901~1910


1841年、ヴィクトリア女王と王配アルバートの第二子、長男として生まれる。ヴィクトリア女王の子女は以下のとおり。

①ヴィクトリア 1840~1901
ドイツ皇帝フリードリヒ3世皇后

❷アルバート・エドワード 1841~1910
英国王エドワード7世

③アリス 1843~1878
ヘッセン大公ルートヴィヒ4世妃

❹アルフレッド 1844~1900
ザクセン=コーブルク=ゴーダ公
エディンバラ公

⑤ヘレナ 1846~1922
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子クリスティアン夫人

⑥ルイーズ 1848~1939
アーガイル公爵ジョン・ダグラス・サザーランド・キャンベル夫人

❼アーサー 1850~1942
コノート公

❽レオポルト 1853~1884
オールバニ公

⑨ベアトリス 1857~1944
バッテンベルク公子ハインリヒ・モーリッツ夫人


16人の子を産んだ女帝マリア・テレジアよりは少ないが、女王ヴィクトリアは18年間に9人の子を産んだ。このうち、第8子レオポルトが血友病、第3子アリスと第9子ベアトリスが血友病保因者であったため、女系子孫の婚姻先のドイツ、ロシア、スペインの王家に血友病の王子が現れた。

ヴィクトリア女王

アルバート・エドワードとアリス
アリスは女王の子女のなかで1番最初に亡くなった
ロシアに嫁いだエリザベータ・フョードロヴナや皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの母


生まれながらにして王太子であったアルバート・エドワード、愛称バーティーは、姉ヴィクトリアの才媛ぶりとは対照的に、女王には「出来損ない」と目されていた。厳格な父母や家庭教師の下で教育を受けるも、はかばかしい成果はなかった。ただし語学には優れ、ドイツ語、フランス語は流暢に操れるようになった。これが将来に生きることとなった。

1852年、初めての国外訪問でナポレオン3世に会い、子供のいなかったナポレオン3世はバーティーを大変可愛がり、バーティーは馬車に同乗した際に「あなたの子供だったら良かった」ともらしたという。その後、1959年にイタリア留学するも、イタリアの政情不安で帰国、オックスフォード大学に王族として初めて入学した。1961年には英国陸軍入隊、同年ケンブリッジ大学へ転校。転校後たちまち学友と連んでの不良行為で問題となり、病をおして父が訪問、厳しく説教して帰ったが、このときの心労がたたり、翌月に父は亡くなった。
女王は、最愛の夫は不徳な息子のせいで亡くなったと激怒し、息子を公務からも遠ざけた。自身も落胆のあまりワイト島のオズボーンハウスに籠るようになった。
「女王は姿が見えず、王太子は尊敬されていない」と当時の首相グラッドストンは語っている。

王太子時代

バーティーはカナダ、アメリカを訪問。帰国後復学し、ある女優と交際し、またしても目に余る不良行為に耽った。女王は、バーティーを美しい妃と娶せればこのような行為は慎むだろうと、一計を案じた。
その頃、美貌のデンマーク王女姉妹が内々で騒がれており、女王は重い腰を上げ、バーティーを連れて会ってみることにした。イギリスはかねてからプロイセンやドイツの各国と親密な関係があるため、プロイセンとの間でホルシュタイン=シュレースヴィヒを争っているデンマークと関係を結ぶことには慎重だった。そういう状況も考え、面会はヴィクトリア女王の叔父レオポルト1世のベルギー王宮で行なわれた。

アレクサンドラ・オブ・デンマーク

デンマーク王女アレクサンドラ、愛称アリックスは当時18歳。父は即位したばかりのデンマーク王クリスチャン9世、弟は少し先にギリシャ王に即位したゲオルギオス1世。余談だが、エリザベス2世の王配フィリップはゲオルギオス1世の孫である。
女王とバーティーは噂以上の美しさに目を奪われ、大変気に入り、妃として英国に迎えることを望んだ。経済的窮地にあったデンマーク王室にとってこの縁談は大変良い話だった。早速、翌年には結婚し、英国に王太子妃を迎えることとなった。
アレクサンドラの兄弟姉妹は兄1人弟2人妹2人。
上の妹ダウマーは、のちのロシア皇帝アレクサンドル3世皇后マリア・フョードロヴナ。最後のロシア皇帝ニコライ2世の母である。アレクサンドラとダウマー、三女のテューラは母譲りで皆大変美しく、容姿もそっくりであった。ニコライ2世とジョージ5世がそっくりなのもそのせいである。
この姉妹については次記事にて述べる予定。





女王の計画も空しく結婚後すぐにバーティーの女遊びが始まってしまった。アレクサンドラには頸部に手術痕があったのだが、どうやらそれを見たバーティーは興ざめしたらしい。生涯で娼婦を除き101人の女性と関係したといわれる王太子の不貞ぶりには、王太子妃もあきれるほかなく、子育てに専念して気を紛らした。

第一子アルバート・ヴィクターとアレクサンドラ妃

三男三女をもうけたが末子アレクサンダー・ジョンは早逝した

子女は年齢順でアルバート・ヴィクター、ジョージ5世、ルイーズ、ヴィクトリア、モード


皇太子時代の公務
女王からは相変わらず信頼のないバーティーは、重要な国家機密は知らせてもらえないことも多かった。女王は、無能な息子が自分より長生きしないことを望んでいた。アレクサンドラ妃は子供達に、「お父様のように愚かな人間になってはなりませんよ」と繰り返し諭していた。確かに、家庭人としての品行は最悪で、モンダント離婚訴訟事件では当の身分では考えられない証人喚問を受けたり、ロイヤル・バカラ・スキャンダルでも王室の恥を上塗りすることになり、ますます女王の怒りを買った。50の歳を過ぎても、母女王の前では萎縮して身を硬くしている有様だった。
ただし、与えられた条件のなかでではあるが、公務において、とくに外交においてはなかなかの手腕を発揮するようになっていた。

アレクサンドラの弟が治めるギリシャを公式訪問することに意欲を抱いていたが、その頃エジプト、トルコ、ギリシャの間で対立が起こり、親族といえどギリシャを選んで訪問すれば良からぬ問題が起こりそうだった。バーティーはそこで3つの国を全て連続訪問することで対立を和らげられる可能性を示し、女王と首相を説得した。どの国とも対等に友好的に接したことで、この外交は成功だった。

ウィーン万博やパリ万博へも英国が積極的に参加することを望み、首相に頼み込んで助成金を倍増してもらい、イギリスをアピールするだけでなく、各国との友愛関係も築き上げた。また、近隣国の冠婚葬祭にはイギリスの代表として列席し、礼儀を尽くした。得意の外国語を生かし、必ず好感を抱かれた。

パリ万国博覧会

1888年、オーストリア訪問時に、この年新しくドイツ皇帝に即位した甥のウィリーことヴィルヘルム2世を通じて、オーストリア皇帝との三者で会見をしたいと打診したが、このときウィリーは失礼なやり方で断ってきた。ウィリーにとってバーティーは叔父(ウィリーは姉ヴィクトリアの息子)ではあるが、王ではなく王太子であり、皇帝である自分が物申されるのは不服だったのだろう。「他国の地で別の国の代表と会見するのはおかしい」という理由で断ったのだが、この経緯をヴィクトリア女王は激怒し、後でウィリーに謝罪文を書かせた。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世

そんな中、最大の不幸が起きた。1892年、長男のクラレンス公アルバート・ヴィクター(愛称エディ)が肺炎で急死した。クラレンス公は遠縁のメアリー・オブ・テックと婚約したばかり。長男を目をかけて育てていたアレクサンドラ妃の落胆もはげしかったが、バーティーも「自分の命に何の価値も見出せない私としては、喜んで息子の身代わりになりたかった」と吐露していた。

幼少時のアルバート・ヴィクター(エディ)

エディの隣はのちのロシア皇后アリクス
ヴィクトリア女王はアリクスを可愛がり、エディと結婚させたいと考えていたがアリクスは拒んだ


婚約したエディとメアリー・オブ・テック

メアリーを王室に迎えることを強く望んでいたヴィクトリア女王の思いもあって、メアリーはエディの弟ジョージと結婚した。気が強く、王室のしきたりに厳格に従うメアリーは、家庭的なアレクサンドラとは合わなかったが、バーティーやヴィクトリアの信頼を勝ち得ていた。アレクサンドラは孤立を深めたが、放任された孫たちをいたわることで自らも安らいだ。

孫 エドワード8世、ジョージ6世、メアリー、ヘンリーとエドワード7世


国王時代
1901年、20世紀の始まりとともにヴィクトリア女王は姿を消した。20世紀の始まりは、10年に足らない歳月であったにもかかわらず、華やかで多分に女性的なエドワーディアン・イーラから明け染めた。即位したバーティーことアルバート・エドワードが自分の国王名をアルバートとせず、エドワードに決めたのは、アルバートという名は自分の父アルバートと真っ先に結びつけて欲しかったからだという。
即位時で既に59歳。在位期間が短いのは仕方のない成り行きだが、その短期間に国王エドワード7世の成し遂げたものは大変価値あるものであった。

内政においては、議会が大きく揺れ動き、その在位期間のあいだに保守党から自由党に交代した。議会に口出しはできないものの、なるべく過激な展開を起こさないよう、国王として口添えしていた。外交においては、まだこの当時のヨーロッパでは王族が外交カードを持っていた。イギリスの方針を首相らと確認した上で、エドワードは平和的な外交に奔走した。ドイツ皇帝もロシア皇帝もエドワードの甥であり、「ヨーロッパのおじさん」と呼ばれたエドワードは、ドイツやロシアの拡張主義が加速しないようバランスをとっていた。
長期にわたっていたボーア戦争を終結させた。
日本との友好も重視し、1904年に日露戦争が起きたときも、心情としては甥のニッキーを応援したかったが、日英同盟を重んじ、仲介役をニッキーに申し出たが断られた。この年8月に、ロシアに待望の皇太子が誕生すると、英露関係改善を願って、自分や王太子ジョージ、デンマーク王クリスチャン9世らも誘い、皇太子の代父となった。
一方で、勝つと思っていなかった同盟国日本が勝利するとそれを祝福し、同盟延長を前向きに考えた。
日露戦争後はロシアとの関係改善のために英露協商も結び、英仏協商、日英同盟も合わせ、英仏日露関係は安定した。


1908年、ニコライ2世の求めにより英露の直接会見が持たれることになったが、専制君主国でユダヤ人迫害もあるロシアへの訪問はイギリスでは反発が強く、会見はロシア上陸を避けて、バルチック海レヴァル沖停泊のインペリアルヨット艦上で会見が行われた。姉妹であるアレクサンドラ王妃とマリア・フョードロヴナ皇太后、アレクサンドラ皇后もニコライ皇帝も幼い頃から見知った顔ばかりで、大変和やかな会見であった。

英国国賓を艦上に迎えるニコライ皇帝





アレクサンドラ皇后に挨拶するエドワード7世





ニコライ皇帝とアレクセイ皇太子



一方、ヨーロッパの雲行きを妖しくするのはドイツ、オーストリアだった。ドイツによる第一次モロッコ事件、ブルガリアのオスマン帝国からの独立、オーストリアのボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合など、野心的なこれらの動きをロシアもイギリスも抑えきれずにいた。エドワードもドイツとの関係改善を図り、外相や皇帝と会見を重ねたが、溝は埋まらなかった。1909年、エドワードは重い体で再び訪独したが心労は深まるばかりであった。

このようなこともあって体調を崩したエドワードは、思えば内政に外交に、休む間もなく働き続けていたのだった。
1910年に入っても調子は戻らず、休養に入ったが、混乱する内政に、病をおしてロンドンに向かわねばならなかった。5月には床に伏すようになり、それでも体を起こして仕事を続けた。5日にはひどく衰弱し、見舞いに駆けつけたジョージが、エドワードの愛馬がレースで勝ったことを告げると嬉しそうにしていた。
翌日、昏睡のなかでの最後の言葉は、
「いや、私は絶対に降参しない、続けるぞ、
最後まで仕事を続けるぞ」
であった。

ヴィクトリア女王の最後の言葉は、
「バーティー」
だった。
父アルバートは最期の時、駆けつけたバーティーの姿を見て嬉しそうにした。
父母に心配をかけていたバーティーは、最期の時まで立派に国王の務めを果たした優秀な国王だった。

1902年




愛人問題を考えればとても評価はできないが、バーティーはどのような相手とも心を通わせようとする温かい心があり、またそれを相手にうまく届ける術も自然な形で心得ていた。
インドや南アフリカを訪れた時に、有色人に対する軽蔑的な態度をとる人達が理解できなかった。ウィリーのような黄禍論も持ち合わせず、日本との外交にも友好的で、伊藤博文がロンドンで会見を求めた時、クリスマス時期であったにも関わらず休暇せずに会見し、英語の堪能な伊藤に気を良くし、たちまち親しくなったという。
また、国王就任間もない頃にフランスを訪れた時には、心温まる演説を行い、フランス国民の心を1日で掴んでしまった。帰国を見送る沿道の市民からはなんと、「国王陛下万歳!」との声がかかった。
愚かしい面も多々あったが、素直な愛情を振り撒き、思わず素直に返されるような、慈愛溢れる国王だったようである。実際には、20世紀始めの妖しくなりつつある世界のなかでどうにか安定を維持していたのはエドワードの、水面下の水鳥の足かきの如き努力のおかげもあった。



しかし、ウィリーことヴィルヘルム2世にとってのエドワードは最悪だった。
「悪魔め!彼は計り知れないほど恐ろしい悪魔だ」と。ドイツ包囲網の中心人物だとして恨み、第一次大戦の元凶だとも叫んだ。
むしろそれはウィリー自身ではなかったか?と私は思うのだが。
エドワードの死後数年のうちに、独墺が大戦を挑発した。ロシアは挑発に乗ってしまった。イギリスは慎重だった。ジョージ5世はいきなり混迷の世界に立つことになった。













2 コメント

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人たらし。 (棗)
2017-04-30 09:10:40
女性にだらしない 男ではなく、「人たらし」に思えます。お妃様にすれば、最低の夫でしょうけど。公正な目線と人間味が溢れる王族だったからこそ、外交面でイギリスの国益をもたらしたのだから、私生活では感心出来なくても、たいした事ではなかったのでしょう。母の最期の言葉が、息子の名前だったところにいろんな思いが凝縮していて、泣けてきます。ウィルヘルム二世は、全くの正反対の王ですね。本人の不徳の致すところが、ああいう結果になったのだから。悪魔と呼ぶところが、本人の性格の悪さを表してます。歴史にイフは無いといいますが、もし母女王が譲位していたら、ヨーロッパの歴史も大きく変わったかもしれません。良い資質の持ち主だったから尚更、そう思います。
Re:人たらし。 (geradeaus170718)
2017-04-30 11:38:11
棗さま
こんにちは。
残念ながら『好色』でばかり有名なエドワード王ですが、人々に見下されながらも暴挙に出ることなく、にじみ出るような素朴な心が愛されるところ、国王として大切な資質を持っていました。
尊敬される存在でなければならないのは皇帝、国王は親しまれる存在であるのが良いと思います。
息子を亡くした時の、哀切な心の言葉。
弱いけれど素直な心が、実は強い。
エドワード王の時代がもう少し続いて欲しかったと私も思います。