名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

マクダ・ゲッベルスと7人の子供達

2015-10-20 21:32:30 | 人物
ドイツ第三帝国崩壊とともに
6人の幼い子供達を毒殺し自殺した
ナチス最高幹部ゲッベルスの妻




国家社会主義ドイツ労働党員、ドイツ第三帝国の宣伝相としてナチスのプロパガンダを牽引したヨセフ・ゲッベルス(1897~1945)。
幼少時の小児麻痺によって発育に問題があったゲッベルスは、小柄で足を引き摺り歩く、見栄えのしない風貌であったが、人を扇動する鋭い弁舌と美声、機転の利く工作により、党の絶頂をヒトラーとともに築いたナチス最高幹部の1人であった。その妻マクダはゲルマン系の金髪の美女、そしてたくさんの子供を産み育てる、プロパガンダ通りの、模範的な女性像を誇っていた。

子供の頃のゲッベルス 右

ゲッベルスとマクダ

ゲッベルス夫妻と夫妻の6人の子供と妻の前夫の子ハラルト


マクダの生涯を簡単に追う。

Johanna Maria Magdalena Goebbels
1901~1945

1901年、当時家政婦をしていた母はマクダを出産後に主オスカー・リッチェルと結婚。1905年に離婚。
1906年に母は裕福なユダヤ人男性と結婚、ブリュッセルに住み、マクダを修道院の寄宿学校に入れた。第一次大戦が始まると迫害を怖れてベルリンへ戻る。貧困の中、1914年に離婚。
一方、マクダは実父リッチェルの資金で大学へ進学する。ユダヤ人の友人の兄に恋し、マクダもシオニズムに心酔していた。
1920年、38歳のドイツ人実業家ギュンター・クアントと列車で出会い、翌年結婚する。ギュンターは前年に妻を亡くし、2人の息子がいた。
1921年11月にハラルトが誕生。
子育ての大変さと夫が家庭を空けることに不満が募り、夫婦仲は疎遠になる一方、マクダは5歳年下の継子ヘルムートに惹かれていく。しかしそのヘルムートは1927年に盲腸炎で急死した。
1928年、マクダは若い学生との不貞が夫に知れてしまい家を出されるが、夫の引出しから盗んだ、信用を損なう内容の極秘の手紙を用いて脅迫し、多額の住居費や治療費、月々50000マルクもの生活費を獲得し、1929年に正式に離婚した。当時の一般的な月収は150マルクだった。

若い頃のマクダ


1930年、暇を持て余した裕福な美女は友人に誘われるままにナチスの会合に出席し、ゲッベルスの演説を聴く。政治的な関心は低かったが、ナチスの本部での活動を希望し、ゲッベルスの補佐官の秘書に、のちに語学力が買われてゲッベルスの個人秘書になった。
1931年、ヒトラーが立会人となって2人は結婚した。



結婚式 ハラルトも連れ添っている


夫妻にはほぼ1年半おきに、6人の子供が生まれた。

ヘルガ 1932年生
ヒルデ 1934年生
ヘルムート 1935年生 boy!
ヘッダ 1937年生
ホルデ 1938年生
ハイデ 1940年生


ヘルガ

ヒルデ

ヘルムート

ヘッダ

ホルデ

ハイデ

前夫の子ハラルトも養子となり、総勢7名の子。
ハラルトは最初のうちは実父の下にいて定期的にゲッベルスのところへ来ていたが、間もなく母の家で共に暮らすようになった。のちに、ハラルトはドイツ軍のルフトヴァッフェに所属し大戦突入後は戦線に出るようになった。

マクダの前夫の子ハラルトとゲッベルス
ゲッベルスは養子にも分け隔てなく愛情を注いだ


ハラルトは長女ヘルガの11歳年上、末妹ハイデの19歳年上
ハラルトと母も19歳違い







ハラルトも含めて全員名前がHから始まるのは偶然?
ヒトラーのHとは関係ないもよう


やはり男の子の誕生は嬉しかったようでゲッベルスは日記にはち切れんばかりの喜びを記している。一方マクダは最初の妊娠の時から愛しい亡き継子の名"ヘルムート"を名付ける望みを叶えた
以下、ヘルムート誕生の日のゲッベルスの日記より

A joy with no end.
I rush with 100km/h to the clinic.
My hands are shaking with joy.
‥‥That sweet creature.
Sweet sweet. And there is the baby,
a real Goebbels face!
I am overjoyed !
I could smash everything with joy!
A SON! A SON!



総統ヒトラーには妻子はいなかったため、ナチスの理想の母マクダがナチスのファーストレディとして活躍した。マクダは常に多忙で、実際に子育てしたのは数人の子守や家庭教師だった。しかし、ニュース映画に模範的な家族として出演するときは、良き母良き父でなければならなかった。
実際は夫婦仲も綱渡りだった。特にゲッベルスは宣伝相の仕事柄もあって様々な女優と交際した。なかでもチェコの女優リダ・バアロヴァとは真剣な恋愛の末、マクダと離婚して宣伝相を辞め、リダと結婚して日本で外交官を務めたいとヒトラーに相談した。もちろん、ヒトラーには否定され、リダとは別れさせられた。

リダ

模範的な母マクダは多忙であまり家にいなかった














戦争が始まると、"模範的な"家庭の母マクダと子供達は野戦病院の慰問に出かける。しかし幼い子供達にとっては野戦病院などはひたすら恐怖する場所でしかなく、また特別気丈というわけでもないマクダにとっても苦痛でしかなかったが、ニュース映画撮影のためにマクダは酒で紛らしながら敢行した。
ドイツは次第に敗色が濃くなり、英空軍による都市部の空襲が始まると、マクダと子供達は疎開した。
息子ハラルトは従軍していたが、イタリアで捕虜になり、終戦時は北アフリカに収容されていた。

"ベルリンにソ連兵が来たらその時が終わり"。
マクダはそう思っていた。

1945年4月20日、ソヴェート赤軍がベルリンに到達、『ベルリンの戦い』が始まる。
22日、マクダは6人の子供を伴って、総統地下壕に避難してきた。子供達は着弾の音に怯えながらもお互いに励ましあって耐えていた。マクダは子供達に明るい歌を歌わせる。そうしておきながら、マクダは次第にふさいでいった。ゲッベルスはひたすら自分の書類や日記の整理をするだけだった。
地下壕の人々はみな同様に陰鬱だった。
病気により最早判断力もなく国の指揮などとうに取ることができなくなっているヒトラーもそうだった。唯一最後まで人間性を保っていたのはヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンであったとのちにシュペーアが語っている。彼女だけが、落ち着いていて終末を受け止める覚悟ができていたと。シュペーアはまた、マクダに対し、子供達をもっと安全な所に避難させるために協力を申し出たが、母は聞き入れなかった。

エヴァ・ブラウン

29日、ゲッベルス立会いのもと、ヒトラーはエヴァと結婚し、その後間もなく2人で自殺する。
ヒトラーの遺言により首相に任命されたゲッベルスは、ソ連に条件付き降伏を願い出たが拒否され、無条件降伏を押し付けてきたので交渉中止。ゲッベルスは地下壕で家族と自決することにした。

5月1日、医師の助けを借りながら、マクダは子供達にモルヒネ入りのココアを飲ませて眠らせ、青酸カリを投与して殺した。それが夜9時前。
そしてゲッベルスとマクダは戸外に行き、服毒あるいは銃殺により心中、遺体には隊員にガソリンをかけさせ焼失させた。
しかし焼失は不完全なまま遺体もその場に放置され、夫妻の焼死体は翌日、ソ連兵に発見された。
地下壕にはそれぞれのベッドに眠るように横たわる子供達の遺体があった。皆寝巻き姿で、女の子はリボンを付けていた。
長女の遺体にのみ、いくつかの内出血のあとがあったという。毒殺に気付き、抵抗した可能性がある。
遺体は戸外に運び出され、夫妻の黒焦げの遺体と並べられ、ソ連兵は写真を撮り、世界に流し、勝利を顕示した。


眠るように安らかな死顔の子供たち


手前の焼死体はマクダ(左)とゲッベルス
周囲はソ連兵


遺体はマグデブルクに極秘で埋められたが、発覚してネオナチの聖地になることを怖れて、1970年に掘り起こし、近くを流れるエルベ川に遺灰を流したらしい。

埋められていたとおもわれる場所



戦争とは関係のない幼い6つの命がなぜ、断ち切られねばならなかったのか?
シュペーアに託す以外にも、命を救うたくさんの機会があったはずだろう。
いのちは救えなかったのではなく、奪われたのである。その父と母に。
ただし私が今それを批判することは難しい。
戦時を生きた経験がないからである。
しかし今の平時の遠い世界から申すのならば、いかに親といえども子供の命を本人の意思に拠らず取り上げていいような権限はないと思っている。

あの時代に、ああした状況下で、マクダが何を考え、あの結果に至ったか。
マクダが最後にハラルトに宛てて書いた遺書に、その決断が明らかにされている。

以下、その手紙である。
捕虜として拘禁中のハラルトへ宛てている。



愛する息子よ!官邸の地下壕に来て6日、お前のパパ、6人の弟妹たち、そして私は今、国家社会主義者として唯一受容できる名誉ある終焉を迎えようとしています。
お前も知っているように、パパは私たちがここに残ることに反対だったし、この前の日曜日(4/22)には総統までもが私たちを逃したいと言ってくださったのです。
同じ血の流れるお前ならわかるでしょう。私にはもう迷いはありません。私たちが抱いた理想は崩れ去りましたが、実現していたらこの世はどんなに壮麗で甘美なものだったでしょうか。
総統と国家社会主義が消えた後の世界など、もう生きる価値のないものですから、子供たちをここに連れてきたのです。
これからの世の中など、この良い子達はもったいないですもの。私がこの子達を救済することについて、慈悲深い神はきっと理解してくださるはず。
子供たちは立派ですよ。文句も言わず、泣くこともありません。爆弾で地下壕が揺れると、上の子が下の子達をかばってくれるのです。子供たちがいるだけで、神の恩恵が感じられ、総統でさえ時折微笑みを浮かべるほどです。
最後の、そして最も辛いその時にも強くいられますように。私たちは今、唯一残されたゴールに向かっています。それは死んでも変わらない総統への忠誠です。
ハラルト、私の息子よ、私が人生で学んでことをお前に残してやりたい。誠実でいなさい!自分自身に、他人に、そして祖国に‥。
私たちを誇りに思って、そして私たちのことを忘れないで欲しい。


Wikipediaより



ハラルトは戦後に解放されたのち、ドイツに戻り、腹違いの兄ヘルベルトとともにグループ企業を運営する。医薬品、自動車なども含めた一大コンツェルンとなる。しかし、ハラルトはプライベートでの飛行機事故でわずか45歳で亡くなった。5人の娘がいた。
初めて飛行機に乗ったものなのか、幼いハラルトが嬉しそうに飛行機に乗降している写真があり、のちの運命を皮肉に思う。同乗しているのは母マクダ、妹、ゲッベルスの妹






この文の中で、理想・救済・名誉、慈悲・恩恵・誠実という言葉が尊ばれている。
私すなわちマクダの上位に、総統・神がいる。
彼女の心は上位のものに支配されてしまっているように思う。

理想を描きそれを実現することにしばられない。理想に至る道は一つだけではなく、いろいろなルートを見つけておきたい。
他者の選ぶ道を否定しない。
修正しながら、中道を選んでいく。
20世紀はすべてに性急過ぎた、そして消耗、疲弊していった。
急流がたくさんの人を呑み込んで押し流していく。そこに、つかまれる何かがあれば、その人は岸にあるいは岩に上がり、流れる河を見るだろう。











画像お借りしました