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ラスプーチン殺害 ドミトリ・パヴロヴィチ・ロマノフ

2015-07-03 00:18:55 | 人物

ラスプーチンを殺害した皇族であり
後年ココ・シャネルの愛人に
ドミトリ・パヴロヴィチ・ロマノフ




Dmitri Pavlovich Romanov
1891~1942


ロシアロマノフ王朝末期の皇族で、ニコライ2世の叔父パーヴェル・アレクサンドロヴィチ・ロマノフの子息、ドミトリ・パブロヴィチ・ロマノフ大公(1891~1942)と、ウラディミル・パブロヴィチ・パーリィ公(1897~1918)のふたりの生涯を調べた。

ドミトリとウラディミルは父親は同一で異母兄弟だが、姓がロマノフとパーリィ、また敬称も大公と公、違っている。その事情も述べる。
今回は、年長のドミトリについて。



1.ドミトリ 幼少~青年
ドミトリの父パーヴェル・アレクサンドロヴィチはロシア皇帝アレクサンドル2世の6人の息子(前妻)のうちの末子であり、次兄がアレクサンドル3世、最後の皇帝ニコライ2世はアレクサンドル3世の子であり、パーヴェルには甥。つまりドミトリとニコライは従兄弟。



ドミトリはパーヴェルの第二子、長男として誕生。
出産は事故により引き起こされたものだった。妊娠中の母がボートの事故で早産を引き起こし、7ヶ月での早産、数日後に母は亡くなりました。困惑する父パーヴェルに手を貸し、生存が困難と目されたドミトリを世話したのはパーヴェルのすぐ上の兄セルゲイ。
セルゲイはベビーベッドのまわりを湯を入れたボトルで囲み保温して、未熟児を無事に育てた。幼い頃から友人のように親しい兄セルゲイとその妻エラの助けを借りて、ドミトリとその姉は育てられた。


ドミトリの父パーヴェルと母アレクサンドラ・ゲオルギエブナ(ギリシャ大公女)


パーヴェル(左)と兄セルゲイ 幼少時


妻亡き後の父パーヴェルは、平民の人妻オルガ・カルノヴィチ・ピストリコルスと不倫を続け、彼らの最初の子ウラディミルの誕生後に結婚を望んだ。しかしそれは貴賤婚にあたるため、皇帝によって国外追放を言い渡された。パーヴェルは1902年に渡仏、パリで新家庭を築いた。この一件は当時の宮廷で最大のスキャンダルであり、ロマノフ家の威信を傷つけたとして皇帝を苦しめた。
パーヴェルの子、マリアとドミトリは国内在留を認められたため、セルゲイが後見人となり彼らを養育した。
セルゲイの妻は皇后アレクサンドラの姉"エラ"ことエリザヴェータ・フョードロブナ。この夫妻に子供がなかったのは、セルゲイが同性愛者だったからとも言われているが定かではない。皇后の姉であるエラは、血友病の保因者であった可能性もあるが、子が出来なかったため不明。


1才上の姉マリアとドミトリ



養父セルゲイ、養母エラと


マリアとドミトリ


1905年、モスクワ総督をしていた養父セルゲイが暗殺され、エラは自らの意志で修道女になる道を選ぶ。そのため、以降、ドミトリとマリアはツァールスコエ・セローのアレクサンドル宮殿でニコライ皇帝一家と同居した。

皇帝ニコライは、ドミトリの若者らしい自由闊達さ、明るく健康的な性格を気に入り、好んで一緒に散歩を楽しんだ。日記には夕食後にドミトリとビリヤードをした、あるいはゲームをしたことなどが頻繁に、またアレクセイとドミトリと3人で入浴したことなども書かれている。
別の家庭を築いて国外に行ってしまった実父や、厳格な養父らとはは父子のあたたかい触れ合いが得られなかったドミトリだったが、23歳違いの従兄の温厚なニコライとは、父子のような兄弟のような、良好な関係だった。皇后アレクサンドラも、当初は彼の気の利いた冗談を楽しみ、病児を抱える、神経の張り詰めた生活のなかで安らぎを得ていた。
1912年頃には、第一皇女オリガとドミトリの婚約がささやかれるようになった。




エラ、マリアと


左からドミトリ、第1皇女オリガ、姉マリア

スウェーデン王子のもとに18才で嫁いだ姉マリアだが数年で離婚 これもロマノフ家の不信を買う事となった



2.ユスーポフとの出会い
背が高くスマートな美男子、決闘好きで放蕩、近衛連隊に所属し、彼が馬を駆って現れると誰もがその美しさに溜め息が漏れる。それが1912年頃のドミトリの姿だった。




オリンピックストックホルム大会 馬術に出場

1912年の第5回オリンピックストックホルム大会の馬術に出場し、第7位の成績。
その頃はまだ皇帝一家と同じ宮殿で暮らしていたが、当時、皇帝のもとにはラスプーチンが頻繁に来訪していた。
ラスプーチンの、我が物顔で振る舞うさまが宮廷内や側近、庶民にまで良く思われておらず、皇帝一家の側近くで暮らすドミトリも嫌悪感を露わにしていた。ドミトリのその態度が、ラスプーチンを盲信する皇后には腹立たしく、次第にドミトリを遠ざけるようになった。
しかし当時のドミトリでさえも、皇太子の絶望的な病気のことは知らされていなかったようで、革命のあとにそれを知り、自分がラスプーチンを暗殺したことが皇帝を苦しめることになったことを悔やんだという。


皇帝家族とともに暮らす


皇后アレクサンドラと


皇帝専用ヨット シュタンダルト号にて


皇太子アレクセイが帽子をつかんでいるのがオリガ 婚約が噂されていた


次第に窮屈に感じていた宮廷生活の折に、ドミトリに衝撃的な出会いがあった。
オックスフォード大学に留学していたフェリックス・ユスーポフがイギリスから帰国した。
フェリックス・ユスーポフは1887年にロシアで最も裕福な貴族の次男に生まれ、10代のうちから兄と共に放蕩の限りを尽くした御曹司。



フェリックス・ユスーポフ


ユスーポフの家族 左手前 フェリックス

遊び人の兄に夜の世界へ連れ回され、12歳にして初体験、その歳で家庭教師に導かれて娼館へも。
艶かしい面差しのフェリックスは、兄の思いつきで女装をして夜の街に繰り出す。言い寄られてその気にさせ、いよいよ、というところで逃げ去るというスリリングなゲームを夜毎楽しんだ。
パリでは、女装姿に、あの好色のエドワード7世(英王太子時代)のお声が掛かったほど。



なるほど、女装をしていたならもちろん、していないときでも男性に求められる、妖艶な美男子であり、彼自身も同性愛を楽しんだ。
そんなフェリックスにドミトリは夢中になった。フェリックスは歳はドミトリより3つ上であり、自分が兄にしてもらったことを同じようにドミトリに経験させた。1912年から1913年はほとんど毎晩ふたりで出かけて行ったという。
ちなみに、フェリックスの兄は恋愛沙汰の決闘に破れて既に死去、フェリックスはロマノフ家をしのぐ資産を持つといわれるユスーポフ家の跡取りとなっていた。

ドミトリのこの放蕩生活はニコライ皇帝を悩ませた。特に、同性愛性向に。
一方、皇后とラスプーチンにとっては、ドミトリを追い出し、オリガとの婚約破棄をせまるには好都合だった。ドミトリは結局、宮殿を去り、婚約も立ち消えとなった。

しかし、フェリックスとの間に確執が起きた。
フェリックスが帰国したのは、実は結婚のため。相手は皇帝の姪で、その美貌で知られるイリナ・アレクサンドロヴナ。ところがドミトリもイリナに惚れてしまい、なんと求婚までした。
結局イリナはフェリックスと結婚する。ドミトリの求婚は、自分がフェリックスとのことが原因で皇女との婚約破棄までし、宮廷も去ったというのに、フェリックスはあっさり結婚してしまう、その腹いせだったのではと言われているが、その本当のところは不明だ。その後フェリックスとは一旦疎遠になった。


ドミトリは皇帝の宮殿を出てセルゲイの元邸宅に一人で住んだが、軍の本営では従前通り皇帝や皇太子とともに過ごしていた







ドミトリとフェリックスの妻イリナ


3.ラスプーチン殺害
ロシアは第一次大戦に参戦。苦戦を強いられる戦況のなか、この機を利用してかねてから敵視していた総司令官ニコライ・ニコラエヴィチ(ニコライ皇帝の叔父でニキ・ニキと呼ばれていた)を失脚させようと、皇后は躍起になっていた。
皇后は執拗に、本営に詰める皇帝にニキ・ニキの更迭を求める手紙を送るが、皇帝はなかなか応じない。皇后はその要因の一つとして、皇后に反感を持つドミトリが皇帝の近くに配属されているからだとも考え、ドミトリをもっと危険な前線へ送れとも要求した。
皇后は次第に内閣の人事にも手を出し、その乱脈によりラスプーチンに機嫌を取られながら、次第に内閣や議会を崩壊に至らしめた。皇帝がやんわりと、ラスプーチンの意見をあまり聞かないようにと諭すと逆上して、では皇太子の命はどうなるのか、と脅してかかる有様。とは言うものの、皇后にとってラスプーチンは、もはや皇太子のためというより、自分の保身のために必要だったのだ。


ラスプーチン

皇后のこうした暴走を皇帝が阻止できないため、ロマノフの親類たちは手を打とうと動き出す。しかし説得するため引見しても、そもそも親族を嫌う皇后は誰彼構わず追い返し、一層頑なになった。皇后はとうとう姉エラも、変わらず優しかったパーヴェル(ドミトリの父)すらも追い返した。

そこで、持ち上がったのがフェリックスらによるラスプーチン暗殺計画。
フェリックス・ユスーポフ公、ドミトリー・パブロヴィチ大公、ブリシェケヴィチほか医師1名が計画、実行する。

フェリックスは数ヶ月前からラスプーチンに接近し始めた。ラスプーチンの家まで通うほどの親しい関係を築きつつ、彼の生活を偵察する。そうしておいて、美人の妻イリナに会わせようと言って深夜に自邸に呼び寄せ毒殺する計画を立てた。ところがイリナは計画に尻込みしクリミアに留まったため、イリナ不在を悟らせないよう、〈彼女は急な来客で階上でパーティーをしているが、間もなく会が終わってこちらへ来る〉という設定で半地下の食堂でフェリックスと待ち、その間に毒殺するような流れにした。


ワインとケーキに毒物を仕込んだがいずれもほとんど効かなかった

一般的に、この暗殺の首謀者はユスーポフということになっており、ドミトリは監視役などでしか関わっていないと、事件後の証言でも後のユスーポフの著作でも明言されているが、実際はドミトリが首謀者だったと考えられている。それは、ドミトリはロマノフ家の者であり、ロマノフ王朝の危機をフェリックスより強く危惧する立場だったことから、明白のことだった。しかし、皇位継承の可能性のあるドミトリが殺害に関わったとなれば不利益であり、「大公はその手を血で汚さなかった」ということを明言しておく必要がある。そのためのプリシェケヴィチの証言であり、ユスーポフの著作だった。
計画はそこを十分配慮してなされたが、予期せぬ事態として、毒殺に失敗してしまった。
一人でラスプーチンの相手を続けるフェリックス、階上で待機する3人、イリナが現れないまま2時間が経過。ユスーポフは上の様子を見てくると言って階上に相談に行き、あやしまれる前に第二の計画の射殺に切り替えた。銃はプリシェケヴィチが用意したものだ。


ドミトリの自動車

背後から隠し持った銃で射殺して、医師が息のないのを確認し、ユスーポフとプリシェケヴィチは遺体を川に遺棄する準備を始める。その間にドミトリ大公は女中を自動車で送ろうと外に出て行った。
するとほどなくして遺体が息を吹き返し、フェリックスに襲いかかったのです!

遺体(⁈)は中庭に飛び出し、道に出ようと門に向かう、その背後をプリシェケヴィチが2発撃つが空を飛んで外す、しかしその後の1発がラスプーチンの脚をとらえ、続けて1発で後頭部に命中、そこで走り出した遺体はようやく動かなくなった。

そのまま遺体は自動車で運ばれ、川に投げ込まれたが、のちの検死の結果、死因は水死。つまり射撃でも絶命していなかった!、ということだ。

翌朝には、ラスプーチンが行方不明であることから既に暗殺が騒がれ、暗殺者もユスーポフであると語られるばかりでなく、もうすでにドミトリが関わっていることはロマノフ家の皆は知っていた。

その夜、異母弟ウラディーミルおよび継母オリガ、実父パーヴェルの家で催されたサロンコンサートに集まったロマノフの人々は皆、ドミトリの関与を囁いていた。皆が見離した皇后をも支え続けてきた、心優しいパーヴェルはどんな思いで聞いただろうか。
そしてこのとき、事件に関する電話をとったウラディーミルは、「やったぞ!これでもっと自由に息ができる」と浮かれていたらしい。
正統なロマノフではない彼のこと、異母兄ドミトリーの葛藤は知り得なかっただろう。しかし、この二人に訪れた未来は皮肉なものだった。


ドミトリの異母弟 ウラディミル

皇后はドミトリに憤り、絞首刑やシベリア送りを要求した。一方で、皇帝のもとにはロマノフ家の皆のドミトリ減刑請願の署名も届けられた。
結果、皇帝は意外と過酷な処罰をドミトリに与えた。ドミトリは苛烈なペルシャの前線に送られた。フェリックスの方は首都から離れて僻地に幽閉されることになった。
ラスプーチンは皇帝一家の手によって、宮廷内の片隅にひっそりと埋葬された。そのときに、皇太子は父に、ストルイピン(暗殺された政治家)が殺されたときは暗殺者を死刑にしたのに、なぜ今回はそうしないのかと言って、泣いて抗議したという。この件でニコライは、皇帝として父として、引き裂かれるような思いで判断を下さねばならなかったことだろう。心配された皇后の精神状態は、彼女の強いプライドで、必死に耐えて保っていた。

アレクセイのこうした反応に、この家族にとってのラスプーチンの存在の大きさが知れる。アレクセイにとっては血縁者のドミトリは家族のように一緒に過ごしてきていて別居してからも軍で共に過ごしていた。皇室の親族のうちでもかなり親しい関係だったはず。しかし怪しい素性のラスプーチンの方は、何度も彼を病の痛みから解放し、ベッドの脇で楽しい物語を聞かせ、母にも尊重されている様子を近くで見てきた。
ラスプーチンもドミトリを敵視し、宮殿から出て行った時はせいせいしたようで、アレクセイや姉たちに「大公(ドミトリー)と握手したら、すぐによく手を洗いましょうね」(すなわち、同性愛者だから病気がうつるというような中傷)などと言って悪い印象を植え付けてもいた。ニコライはラスプーチンとも親しかったが、慎重に距離をとって接していた。ただし皇后が執拗に結び付けようとするのを拒みきれなかった。


テヘランで

しかし、この翌年、この事件からほんの数ヶ月ののちに二月革命が勃発、ロシアにいたロマノフ家の者は皆、拘束され、やがて惨殺されることになる。
遠くの戦線に送られていたドミトリと、首都から離れていたフェリックスは、そのために難を逃れ、革命後にも生き残ることができた。
逆にドミトリのために嘆願書にサインしてくれたロマノフ家の者たちが惨殺された。のちにドミトリにこのことは重くのしかかった。
上官の配慮により、ドミトリはベルシャの戦地から抜け出して、イギリスへ、そしてその後アメリカへ亡命した。

実は、フェリックスが著作に書かなかったが類推されることとして、ラスプーチンをおびき寄せるために彼はその色欲を利用しただろうと考えられている。それはパーヴェルの従兄弟の歴史家ニコライ・ミハイロヴィッチ・ロマノフも確信していたようだ。
ラスプーチンは信者へ秘儀として性欲を刺激する術を多用したが、おそらくそこにつけ込んでフェリックスは彼を惹き込み、手なづけて操れるようにしたのではないかと。催眠術をかける側のラスプーチンが、フェリックスの術にかけられたということになる。毒殺が失敗した段階で、2時間も怪しまれないで相手ができたのは、フェリックスがその間、〈そういう〉相手をして注意を引きつけたからであると。
フェリックスはかつて、からかいのつもりで女装してラスプーチンを誘い、嘲笑してラスプーチンに平手打ちされたことがあった。農民の身分の者が貴族を叩いたとなればその場で射殺でも問題ないが、それをしなかったし訴えることもしなかったのはフェリックス側に不利になる際どい状況下だったからではと言われている。
そんな苦い思い出があるにもかかわらず、再びラスプーチンに接近し、一肌も二肌も脱いで暗殺を遂行したのは、真にドミトリへの友情によるものと思われている。




また、中庭の射撃の場面で、あとに2発を撃ったのは実はドミトリだろうとも考えられている。先の2発と、後の2発は射撃の腕の精度が明らかに違う。
中庭の異変に気づき、駆けつけたドミトリが近衛兵の腕で射殺した。秘密警察によって調べ上げたニコライ皇帝にはお見通しだった。

この事件により、皇帝一家はラスプーチンを失い、もはや皇太子が発病しても癒す術がなくなったことになる。そして、もうひとつ失ったもの、それはドミトリ。皇帝も、そして長女オリガも落胆したことだろう。華やかな騎乗のドミトリの姿がもう見られなくなり、近衛兵たちも寂しく思っただろう。




4.ドミトリの後半生

ドミトリの華やかな容姿はどの国に行っても社交界の華となった。そしてたくさんの恋人。ココ・シャネルもその一人。〈シャネル5番〉の誕生は、ドミトリーがサンクトペテルブルクの宮廷でかつて活躍していたロシアの調香師をシャネルに紹介したことに始まる。


ココ・シャネルと


シャネルの数多い愛人の一人であった

一方、社交界の花形ドミトリはそもそもが宮廷人のため、勤労生活などはできず、再婚後の姉マリアの事業からの援助で暮らしていた。一時期、姉の会社の手伝いでシャンパンのセールスをしたこともあるそう。

姉と


のちにアメリカに渡って、大富豪の女性エメリーと結婚し、息子も生まれたが11年目で離婚。
再び姉を頼り、慢性の結核でスイスの療養所でひっそりと亡くなった。その死を看取った人はいなかった。


妻と息子はロマノフではなくイリィンスキーを名乗る 名前の由来はドミトリの居住地(かつての養父セルゲイの居住地)イリィンスコエからとった
息子にはロマノフの資産を相続する権利があるものの権利放棄したようである


その後ユスーポフとはどうなったのか。
戦後、二人はパリで再会、ロシアの未来について話し合いったが、帝政復興を望むユスーポフに対し、もはや復興は現実的ではないとドミトリ。意見の衝突から心が離れ、それから会うことはなくなった。ユスーポフは1967年に亡くなった。


ユスーポフと妻イリナ

晩年のフェリックス・ユスーポフ



ラスプーチン事件の直後、ペルシャからドミトリがフェリックスに宛てた手紙にはこうある。

「僕の大切な、愛すべき忠実な友よ」

「僕は極端に走ることを恐れずに『僕の最も大切な友よ』ということができる」


彼らはラスプーチン暗殺のあと、皇后を修道院に送り、皇帝を退位させ皇太子を即位させることを考えていた。ドミトリが厳罰により首都にいなくなってしまえば、そのあとを他のロマノフの誰かでは何も実行できなくなる。実際には、「そのあと」を行ったのは平民による臨時政府と、その後の革命政府です。ただし実際はもう少し違った筋書きで、つまり全てのロマノフを殺害するという計画によって。













ドミトリはとても魅力的な人柄で、ハンサムでプレイボーイ、生活能力はなく姉に生活費をもらうという、なかなかのイカレ具合。
8頭身の長身で、乗馬はオリンピック出場レベル、実戦でも馬で前線を駆け回り、負傷兵を馬に担ぎ上げ命を救う活躍もしていた。大公という華々しい身分に最も似つかわしく思われる。


皇帝にラケットを突き立てているドミトリ 中央は皇后の兄ヘッセン大公エルニー

普通の集合写真と思いきや1人横になって写っているドミトリ

皇帝の三女マリア

変顔

養父母と

柵の上に乗っている 周囲に皇帝、皇太子、皇女ら

"Secret Dmitri Club"
ここに一緒に写っているのは皇帝の弟ミハイル大公の妻ブラソヴァ夫人。1911~1912年頃、ドミトリは夫人に手を出す。度々訪れるドミトリを見たブラソヴァ夫人の前々夫の娘(当時10歳頃)はかっこいいドミトリに一目惚れ!友人数人とSecret Dmitri Clubを結成し、交換日記のようなものを始めた。秘密だったはずが母に見つかり、冗談めかして母がドミトリに、本人の面前でばらしてしまう。仕方なく彼女はクラブを解散し、日記にドミトリを主人公にした物語を綴っていく。王子ドミトリが自分を救いに来てくれるシンデレラストーリー‥。もちろん、本物のドミトリは彼女ではなく彼女の母を求めて来ていることは、幼さゆえ気がつかずに。




2016/12/27追記

ROYAL RUSSIA NEWS. THE ROMANOV DYNASTY & THEIR LEGACY, MONARCHY, HISTORY OF IMPERIAL & HOLY RUSSIA













3 コメント

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リンク貼らせていただきました (happy)
2016-12-27 01:02:14
初めまして。

歴史上の人物について詳しく書いておられてついつい
読みふけってしまいました。

わたしのブログにリンクを貼らせていただきましたのでご報告いたします。

もし リンクを解除した方がいい場合はお手数ですが コメントにておしらせいただけますでしょうか。
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Re:リンク貼らせていただきました (geradeaus170718)
2016-12-27 01:11:45
こんばんは。
お知らせいただきありがとうございます。
今日はなぜかドミトリの記事へのアクセスが多い、と先ほどから思っていたところでした。
多くの方に読んでいただけるのは、恥ずかしくもありますが、大変嬉しく思います。
残念ながら、私の方からリンク元にたどりつけませんので、できましたらどちらでご紹介いただいているのか、教えていただきたく、お願いいたします。
返信する
Re:Re:リンク貼らせていただきました (geradeaus170718)
2016-12-27 08:19:48
失礼いたしました!
リンク元にアクセスできました
記事も読ませていただきました。
ありがとうございます。
とくに訂正は不用かと思いますが、
文中の「イレーネ」は、実在では「エリザベータ」と思われます。
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