名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

ロマノフとして果てる ウラディミル・パヴロヴィチ・パーリィー

2015-07-05 19:15:40 | 人物
ロマノフを名乗れない皇族が
ロマノフの血によって殺される不条理
ウラディミル・パヴロヴィチ・パーリィー




Vladimir Pavlovich Paley
1897~1918



1.出生
ウラディミルは1897年12月、サンクトペテルブルクで生まれた。その時の名は、Vladimir von Pistohkors。
母は平民のオリガ・カルノヴィチ・ピストリコルス。ウラディミルはその母と、皇族のパーヴェル・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ大公(当時の皇帝ニコライ2世の叔父)との不倫から生まれた子である。

オリガと元夫ピストリコルス

オリガとパーヴェル大公

オリガとウラディミル




ウラディミルの出生当時のパーヴェルは、6年前に妻を亡くして独身だった。パーヴェルには1男1女、マリアとドミトリ(身分は大公)がいた。オリガはまだ離婚が成立していなかったので、ピストリコルス姓だった。オリガとピストリコルスの間には1男2女が既にいた。
多額の手切れ金を積んだ末、1904年に離婚が成立、皇帝に結婚の許可を願い出たが、平民でしかも離婚歴ある相手との結婚はロシア皇族には許されず、パーヴェルは国外追放となった。
二人は子を連れて亡命先のフランスで結婚し、パリで暮らす。

パーヴェル、オリガ、ウラディミルとオリガの母、オリガの前夫の子供達


その後、ドイツ諸侯により、オリガと子供達はホーエンフェルゼン伯爵に叙せられ、名前はGraf Vladimir Von Hohenfersenとなった。
父パーヴェルが皇帝へ働きかけたことで1907年にロシアへの帰国が許され、サンクト=ペテルブルクに居を構えることができた。1908年、ウラディミルは皇室の子息の倣いとして父の勧めるサンクトペテルブルクの貴族士官学校に入学した。



ウラディミルは幼少の頃から、誰もが驚くほど多才な子だった。ピアノを始め様々な器楽、絵画、言語は英語、仏語、独語は全て自在、その後はロシア語も操り、多読で、記憶力にも優れていた。
士官学校の多忙な生活のなかにありながら、13歳頃からは詩作を始め、その後は戯曲、翻訳と様々な才能を開花させた。1913年と1918年に詩集も出版している。
兄弟姉妹は、同じ家庭の妹イリナとナターリア、父方の兄ドミトリ大公と姉マリア大公女、母方の兄アレクサンダー、姉オルガ、姉マリアンナがいる。

パーヴェルの新家庭とオリガ前夫の子供達 写真右端マリアンナはラスプーチン暗殺のとき階上にいてイリナ不在の演出に協力していたらしい 一方で兄夫婦はラスプーチンの熱心な擁護者であった

左からナタリア、ウラディミル、イリナ

パーリィーの邸宅



父が同じであっても、正規の結婚の子であるマリアやドミトリは大公と呼ばれるが、ウラディミルとイリナとナターリアは大公の尊称とロマノフ姓を名乗ることは許されていない。
1915年、ようやく母オリガと子供達は皇帝から特別に公爵の位とプリンスの称号を授けられたものの、パーリイ公爵(公、プリンス)であり、ロマノフを名乗ることと大公(グランドプリンス)の称号は、このときも認められなかった。



2.第一次大戦
1914年、第一次大戦開戦により、皇族も軍に派遣される。士官学校を卒業したばかりのウラディミルも18歳で前線に送られた。
グランドプリンス(大公)であるドミトリは本営の総司令部へ配属されたが、プリンス(公)であるウラディミルや他のプリンスたちは前線にでも送られる。プリンスの母たちも、平民の母同様、身を切られる思いで若い息子を送り出した。

後年、ウラディミルの母オリガが息子のことを語る文を残している。


『Memoires of Russia 1916-1918』
By Princess Paley


冒頭より

I come now to the time when my dear Vladimir experienced his last joy.

I wish to speak of my beloved son, and of the divine flame which God had placed in his poet's soul.

By temperament a dreamer, he observed everything and nothing escaped his subtle, watchful attention; neither nobility of feeling, nor beauty, nor ugliness, nor, above all, the ridiculous. He loved Nature ardently. He went into ecstasy over everything God had created. A moon-beam inspired him, the scent of a flower gave him an idea for a poem. He had a prodigious memory. What he knew, what he had had the time to read in his short life, was truly marvellous.


Everyone admired him, and it was generally agreed that he was the handsomest figure at the Ball.
Some French friends paid me many compliments on the subject.
The painter, Leon Bakst, who was present came up to me and said:

"Your son is the Prince Charming who is dreamt of in fairy-tales! "

That evening my maternal pride exulted!


息子への想いを溢れるばかりに吐露している。彼の詩の才能、初めての舞踏会での彼の美しさ、それを周囲に褒められて、母として嬉しかったことなど。彼女の中で、ひとつひとつがとても大切な、大切な思い出なのだろう。




From the time of my son's going I seemed no longer to live for this boy of mine was that which I loved most in the world. He was my joy, my happiness, my pride. I was proud of his beauty, of his talents as a painter, as a musician, as a poet. When he danced he was grace incarnate. When he laughed his laughter lit up his charming countenance. He was an ideal son for mother a to have for he was tender and loving.

息子が出征して行くそのときから、自分はこの、世界で一番愛する我が息子のために生きているのだと感じた。
彼は私の喜び、私の幸せ、私の誇りだった。
彼の美しさと、画家として音楽家として詩人としての才能を誇らしく思った。
彼が踊るときは、まるで気品そのものだった。
彼が笑うとき、その魅力的な顔は上気した。
彼は考えうる限り、母親にとって優しく愛に満ちた理想的な息子であった。



He was my joy,
my happiness,
my proud.


過去形で綴られているのがとても重く響く。







しかし、幸運にもウラディミルは戦場の数々の危険を生き残った。戦功が讃えられ、聖アンナ十字章を授けられた。

ウラディミルは塹壕の中でも詩作はもちろん、父の又従兄で、ロマノフの誇る文学者であるコンスタンティン・コンスタンチノヴィチの戯曲『ユダヤの王』のフランス語への翻訳も書き上げた。コンスタンティンはKRの名で詩集を出し、皇帝や皇后にも愛蔵され、ウラディミルも若い頃から影響されてきた。音楽にも造詣が深く、チャイコフスキーは親友であり、KRの詩に曲をいくつか付けていた。KRは皇族、貴族の誰からも尊敬を集めていた、ロマノフきっての芸術家だった。

コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ・ロマノフ
詩人としてのペンネームはKR


コンスタンチンの年長の子供達

ウラディミルは休暇中、自分が翻訳したものを持ってコンスタンティンを訪ねた。この頃、コンスタンティンはすでに重病だった。彼には6男2女がいたが、そのうち5人の男子が前線に出されていた。【ロシアの皇族は、ニコライ1世の定めた法律により、皇帝から3世代以降(曾孫)は大公の位を失い、公となります(姓はロマノフを継げる)。KRは大公ですが、その子息は公になります】

1914年10月に彼の最も愛した四男オレーグが21歳で戦死しており、コンスタンティンは落胆していた。


KRの四男オレーグ
戦争から戻ったら結婚をする予定の相手がいた



瀕死のオレーグの最期の言葉は

「僕はとても幸せだ。帝室の人間も血を流すのを怖れないと知ったら、軍隊は奮起するだろうからね」

彼は最後に、その名に誇りをかけて命を捧げて亡くなったのだった。

ウラディミルが病床のコンスタンティンに翻訳したものを読み聞かせると彼は涙し、ウラディミルの才能を讃えた。

「君が私の息子だったならば…」



その後、程なくしてコンスタンティンは亡くなった。
存命中、オレーグを失う悲しみに直面したが、近い年月のうちにさらに3人の息子がロマノフの名のゆえに惨殺され、同時に、息子ならばと感服したウラディミルも惨殺される、そんな残酷な悲劇を観ずに済んだのは幸いだったといえよう。

このうち長男イオアン、三男コンスタンチン、五男イーゴリがウラディミルとともに殺された



3.革命後
1917年、二月革命のあと、ウラディミルは臨時政府のケレンスキーを揶揄した詩を書いたかどで自宅軟禁された。
その後、十月革命でボリシェヴィキが台頭し、ロシアに残っているロマノフの元皇族にはさらに厳しい状況が迫っていた。

1918年3月、新しくペトログラードにやってきたコミッサールは、ロマノフ家の者全員に対し革命政府のもとに出頭するよう命じた。ウラディミルの父は当時、病のため出頭不可能との医師の診断で、免除されていた。
一方、ウラディミルはロマノフ姓ではないため、おそらく対象にはならないだろうと家族は考えていたのだが、予想に反して呼び出しがあった。

再び母の文より。


Next day Vladimir set out for Petrograd and the Tche-Ka. It was not Bokiy he saw, but Ouritzky himself. Ouritzky received him very amiably, asked him to sit down and, after some questions about his verse-writing and his works, said:

"I made you come here because I wanted to know you. I know you are an honest boy. . ."

My son bowed ironically. Ouritzky pretended to ignore this gesture, and repeated:

"An honest boy. I am going therefore to ask you to renounce once and for all your father, Paul Alexandrovitch, the ex-Grand Duke. . ."


翌日、ウラディミルはペトログラードのチェカのところへ出頭した。彼が会ったのはボーキィではなく、ウリツキーだった。ウリツキーはウラディミルに好意的に応対した。椅子に掛けるよう促し、ウラディミルの詩作などについて尋ねたあとに言った。
「ここへ来てもらったのは、あなたのことを知りたいからなのです。あなたは誠実な青年です」

息子は皮肉をこめて頭を下げたが、ウリツキーはそのしぐさを見逃してことばを繰り返した。

「誠実な青年よ、それゆえお尋ねしますが、あなたは元大公であなたの父であるパーヴェル・アレクサンドロヴィチと絶縁なさいますね」


"What-what is that you say?"
exclaimed Vladimir, knitting his brows.

"I repeat: You are going to sign a paper saying that you cease to regard Paul Alexandrovitch as your father, and then you will be free at once; if not, you will sign this other paper and that will mean exile."

My son (who described the scene to me as soon as he came back, still boiling over with rage) now kept his gaze firmly fixed on Ouritzky. . . . Then, without averting his eyes, he took his cigarette-case out of his pocket and began to smoke. . . . This scene without words lasted for some moments. Ouritzky must have seen in my son's face such a look of reproach and contempt that he said brusquely:

"Very well, then, if that's how it is, sign your sheet of departure into exile."

Vladimir stood up, signed and went out without saying a word.

"To-morrow you will send me two photographs," called out Ouritzky when my son had already reached the door.



「何?何と言ったんだ?」


眉を吊り上げてウラディミルは叫んだ。
「繰り返しましょう。あなたは父パーヴェル・アレクサンドロヴィチとの関係を断つことに同意して署名する。そうすればあなたはすぐに解放されます。
さもなくば、あなたは別の紙に署名することになる。追放の書類に」

ウラディミルはウリツキーをにらみ続け、そのまま目をそらすことなく、黙ってポケットからタバコを取り出し、吸い始めた。
終始にらんだまま、無言のままで。

ウリツキーは息子の非難と軽蔑の形相から、言わんとしていることを理解した。

「よろしいでしょう、ではそういうことならば、こちらに署名を。追放に向けて出発する方へ」

ウラディミルは立ち上がってサインし、一言も発さぬまま部屋を出る。

「明日写真を2枚提出してください」ウリツキーが言った時、彼はもうドアを出ようとしているところだった。


母オリガは翌日、何とか取り消してもらえないか、お願いに行ったが、請け合ってもらえなかった。


I returned home. My heart was heavy with forebodings. I prayed and wept for a long time. But not wishing to let my dear ones perceive my anguish, I went down to dinner gay and smiling. I could not take my eyes off my boy's dear countenance. That forehead of his, so white and pure, the regular arches of his eyebrows, his great eyes with so much depth in them, and his laughing mouth! Two days only separated me from the terror of his going. On March 22nd/April 4th, after a night of sleeplessness and weeping, I rose and my first thought, returning to the cruel reality, was: " You will see your dear Bodia for the last time this evening-you will kiss him, you will give him your blessing for the last time." Those words: "for the last time" had grown into a veritable obsession. My fears stifled me, I felt as though I should go mad. Having always had control over myself, however, I succeeded in concealing the intensity of my suffering.
After lunch, we remained, all the five of us, clinging together, miserable, heartbroken with grief. My dear husband spoke to Vladimir with all the tenderness, all the nobility of that heart of his. He could not feel anything but approval for the conduct of his son who was going into exile for refusing to renounce him, his father. . . . He spoke of the Emperor and of the oath our son had taken to him the day of his promotion as officer. Nothing in the world, no abdication of the Emperor, could annul that oath. He spoke of the hope . . which he had that the accursed regime would not last and that one day we should meet again, all of us, happy and free, in our dear France.


帰宅した。私の心は不吉な予感で重苦しかった。長い間、祈り、泣いた。それでも私の悲しんでいるのを愛しい者たちに知られないよう、微笑みながら夕食に下りていった。
私は息子の顔から目を離すことができなかった。
彼の澄んだ額、穏かに弧を描く眉、その下にはとても奥深い瞳、そして笑っている口元。彼が行ってしまう恐怖のときまでたった2日しかなかった。
4月4日、泣き通して眠れない夜のあと、この恐ろしい現実、彼を見るのも、キスをするのも抱きしめるのも、この夕方でもう最後になるだろうということが真っ先に頭に浮かんだ。この「最後に」という言葉が徐々に迫ってきた。恐怖で押し潰されそうになり、まさに気が狂いそうだった。けれどもどうにか自分をコントロールして心配を隠し通すことができた。
昼食の後は、家族5人皆がその場にとどまり、悲しみのあまり抱き合って泣いた。私の夫は、彼に備わる優しさと高潔さで息子に言った。
息子が父である自分との縁を切らないがために追放させられるのはとても受け入れ難い。しかし、息子が皇族としての忠誠を表明した日のこと、皇帝のことを話した。忠誠を破棄して皇帝を退位させるなど、世界にそのようなことがあっていいものなのか。
そして希望。このいまいましい政権が続かなくなり、いつか自分たち皆が自由と幸福のもとに再び、懐かしいフランスで会いたい、と。







なぜ、そもそもロマノフを名乗ることを許されなかった者が、他のロマノフたちと同列に処されなければならないのか?

なぜ、たまたま父がロマノフの者であったからと言って、父子の縁を断つよう強要されなければならないのか?

彼の高潔な精神において、生き残るために心に背いて署名をする選択などあり得ない。
ただ、正統なロマノフの者として認められていたのだったら、その名の下に尊厳を持って死んで行けるでしょう。しかしウラディミルにとってはそんなに事情は透明ではない。
彼がロマノフたちと共に自ら進んで死地に赴いたのは、同じ宿命を背負うことで彼らと同じロマノフの名の下に、つまり死を代償にロマノフの名を得られるからなどとは全く考えてなかっただろう。
彼はパーリイとして死ぬ。
敢えて、突きつけられた理不尽に抗議するために死を選ぶ。
ロマノフとして死を差し向けられながら、その矛盾については一言だに言わず、何かに立ち向かうように、「ウラディミル・パヴロヴィチ・パーリイの死」を覚悟していたのだろう。



4.最期、森の中で
さて、ウラディミルと共に連行されたのは、亡きコンスタンティン・コンスタンチノヴィチ大公の長男イオアン公、三男コンスタンティン公、五男イーゴリ公の三兄弟と、彼ら及びウラディミルの双方の父の従兄弟セルゲイ・ミハイロヴィチ大公、それに数名の従者であった。コンスタンティンとイーゴリは、ウラディミルとは士官学校時代からの友人でもあった。

最初に送られたブャトカでは問題なく日常生活を送ることができた。4月20日に一行はエカテリンブルクに送られた。エカテリンブルクには当時、皇帝、皇后、三女のマリアが、彼らがのちにそこでそのまま殺害されることになる館に幽閉されていた。そして5月10日には残りの皇太子や皇女たちも到着する。
皇帝一家は厳重な監視下にあり、高い塀の外に出ることはできなかったが、ウラディミルたちは比較的自由に町に出ることができた。皇帝幽閉の館の周りを歩き回るなど、どうにかして皇帝とコンタクトを取ろうとしたが、かなわなかった。

皇帝の家族が監禁されたイパチェフ館


ロマノフたちをエカテリンブルクに置いておくのは皇帝と接触する危険があると判断した革命政府は、ウラディミルたちをアラパエフスクに移す。
ここで、彼ら一行に、他のところで幽閉されていたエリザヴェータ・フョードロブナが合流した。アレクサンドラ皇后の実の姉であり、ウラディミルやドミトリの父であるパーヴェルの兄セルゲイの妻であり、ドミトリとマリアの養母で、のちに修道女となったエラです。


エラは合流した一行の中にウラディミルがいることに嫌悪感を示した。彼の父母の結婚のいきさつから彼の母を嫌っていたため、ウラディミルのこともこころよく思えなかったのだ。しかし、同じ死の運命にある者として彼に接していくうちに、ウラディミルの素晴らしい気質に心を動かされ、互いに尊敬できる関係が築かれた。

監禁された小学校


アラパエフスクでは、うす汚れた廃校の小学校に監禁されていた。
ウラディミルが家族に宛てた手紙にこう記されている。

“All that used to interest me formerly, those brilliant ballets, those decadent paintings, that new music – all seems dull and tasteless now. I seek the truth, the real truth, the light and what is good…”


「かつて自分を魅了したもの、バレエ、音楽、絵画、それらすべてが今は馴染めぬものになった。
僕は真実を求めている、ほんとうの真実と光、そして、、良きもの、、」




彼がその時、何かを掴んだのかどうか。
殺害の時がやってきた。




1918年7月18日午前1時、皇帝一家が殺害された翌日、一行は目隠しをされ、後ろ手に縛られて森の中の廃坑へ連れて行かれる。
およそ20メートルの深さで底には水がたまっている穴へ、一人ずつ落とされる。
そして手榴弾を落とし、上から材木や土を投げ込む。唯一、抵抗したセルゲイ大公は銃殺された上で投げ込まれたが、他は皆生きたまま落とされた。

のちの調査でウラディミルやイーゴリは頭部の挫傷でほぼ即死、しかしウラディミルは坐位で発見されたので姿勢を整えるほどの間は生きていたのかもしれないとのこと。
エラは致命傷がなく、しばらく生きていたようで、近くのイオアンのところに這っていき、負傷した額に布を当てていた形跡があった。エラは護送中から絶命するまで賛美歌を歌っていたと言われている。

処刑されたロマノフ家の人々と、ともに殺害された従者

イーゴリ公はウラディミルの次に若い23歳での死



ウラディミルとドミトリ、年齢は6つ違う異母兄弟。
ロマノフの名を持つドミトリはペルシャの前線に送られたため革命を生き延び、ロマノフを名乗れなかったウラディミルがその名の下の死をすすんで受けた。
ウラディミルは家族に宛てた手紙の中で、ドミトリが海外で生き延びたことを喜んでいた。


父パーヴェルは1919年1月、病気が少し良くなったところで拘束され、同じ皇族のドミトリ・コンスタンチノヴィチ、ニコライ・ミハイロヴィチとともにペトログラードのペトロパヴロフスク要塞で銃殺されました。

1923年、ウラディミルの妹イリナはニコライ2世の妹クセニア大公妃の次男フョードル・アレクサンドロヴィチ大公と結婚した。つまり、イリナは結婚によりロマノフ姓になった。フョードルの姉のイリナはユスーポフの妻である。(ニコライ2世の妹クセニアの家族は、母マリア皇太后やユスーポフも含めてクリミアに避難していたので、ブレスト=リトフスク条約でドイツの管轄下になったため難を逃れたが、その後も命を狙われたためイギリス海軍により救助された。イリナ、ナターリア姉妹はフィンランドに逃れていた)

彼らの結婚式の写真にドミトリが写っている。父はもう他界していても、血縁上は兄だから当然なのだが、不思議に感じる。

左端 ドミトリ

これまでに、ドミトリとウラディミルが一緒に写っている写真や対話についてを、私はまだ目にしたことはない。ただ、ドミトリの姉マリアは戦後の著書のなかで、幼少時からのウラディミルのことを詳しく書いているので時を共有することはあったようだ。

母オリガは1929年に亡くなった。
もう一人の妹ナターリアはアメリカに渡り、ナタリー・パーレイという名でハリウッド女優になっている。

ナタリー・パーレイ


かつて革命が迫りつつある中、ウラディミルを知るある芸術家がこうつぶやいた。


"It is not possible. . . he will not live. . . . When one is gifted with such genius, with an inspiration so pure and so beautiful, one cannot have a long life. . . ."

「不可能だ。彼は生き永らえないだろう。これほど才能に恵まれた者、純粋で美しい発想を持つ者は、長生きできない…」



21歳の死。
高潔な生涯を貫き通した彼にとっては、短くとも決して不完全に終わった生涯ではない。完璧に描き切った見事な生涯だったと言えるだろう。
彼の強い眼差しが最後に求めていたもの。
その「真実」を、見ることはできただろうか。
目隠しされて、夜の闇の中で、おそらく彼の聡明な目にはしっかり何かが見えていたに違いない。
迷いのない人生の、最後の足取りさえも力強い確かな歩調であっただろう。


前列 パーヴェルとウラディミル






〈付〉日記から

Is it not clear where we are going and how it will end? The monarchy has fallen, one after another, we see more restrictions on the rights of Christians, a world republic and… of course! … the tyranny in the world. This tyranny will be the precursor of the Antichrist… sad thoughts walk into my weary head. Yet, the power of light will win! It’ll cry with a great voice, and weep over those who’re vexed by the devil. Not here, but there, victory will come from Christ, because He’s Truth, Goodness, Beauty, Harmony…

The Diary of Prince St Vladimir Paley the New Martyr

1917

______________________________

〈パーリィーの詩〉

Antichrist

The dark times are coming, are coming,

He promises power and wealth,

Under slogans on fiery banners:

Liberty, equality, and fraternity!

******

He comes in bright vesture,

He shall rule for a moment,

He is the forerunner of thunder…

Republican confusion.

******

With blasphemous praise

He lies with arrogance,

To get earthly happiness

We must oppose God’s kingdom.

******

But his reign shall be short,

His diabolical ravings smothered,

For the cross shall shine on high,

At the time of the Last Judgement.

******

来た、暗い時代が来た
燃えるような横断幕に掲げられたスローガンは自由、平等、連帯。
富と力を約束すると。

輝く中から到来し
すこしの間は支配するだろう
それは嵐の前兆なのだ
すなわち共和制の波乱という

冒涜的なフレーズを口にし
傲慢に居坐る
我々は全地の幸いを叶えるためにも
神の王国に刃向わなければならない、と

だが彼の繁栄は短いだろう
残忍なたわ言は揉み消される
最後の審判のときに
天の高みに輝く十字架によって




God is in Every Place and Thing…

God is in every place and thing,
Not only in our lucky star,
Not only in the fragrant flower,
Not just in joys sweet dreams bring,
But also in the darkness of poverty,
The sightless terror of our vanity,
In hurtful things, where light is not,
In things to bear which is our lot…
God’s in the tears of our pain,
The wordless sorrow of goodbyes,
The faithless seekings of our brain,
In suffering itself is God.
It is through life upon this sod,
That we must reach the unknown land,
Where the crimson trails of nails
Lord Christ will touch the wounds of man.
And that is why all flesh must die,
And why God is in all that is.

神はすべての場所すべての物に宿る
神はすべての場所すべての物に宿る
幸運の星にだけでなく
かぐわしい花にだけでなく
甘やかな夢がもたらす喜びの中だけでなく
貧困の闇の中に
目に見えぬ虚栄の中に
傷つける物に
光なきところに
我々が耐えねばならないあらゆる物の中に

神は
われわれの苦しみの涙の中に
別れの言葉ない悲しみの中に
われわれの考えの不信心な逡巡の中に
悩みそのものの中に
神は存在する

人間の傷に主キリストが手を触れれば
深紅の爪痕ととなる
見知らぬ世界へと導かれる人生は
総じてやるせないものだ

それがすべての肉体は死すべきものであり
神がすべてのものに宿る理由だ

by Prince Vladimir Paley







ヴャトカ幽閉中に綴られた詩
(パーヴェル・パガヌッツィ著:進藤義彦訳「ロシア皇帝一家暗殺の真相」より)

静かな夜は不気味だ。時はゆっくりと流れて行く。
捕らわれの身はまんじりともせず‥‥心は苦悩に充ち、
遠く、懐かしい、来し方の
その時々の思い出が次々と心に浮かぶ‥‥
見張りの兵がたえず窓外を行き過ぎる、
ただ見張りをするだけの男ではない、
そうだ、あれは不倶戴天の敵、
不機嫌で無表情で、捕らわれの身に冷たい敵意を吹きかけるラトヴィア人だ‥‥
なに故に?なに故に?魂の底から思いがほとばしる。
この苦悩、これはすべて成人の受難、
ひそやかに刻々と忍び寄る暗殺の脅威を、
捕らわれの身は祈りの時にあれこれと思いをめぐらす‥‥
周りの人を悩ますのはひどく忌まわしく卑しいことだ‥‥
近い肉親の者達ははるかに遠く、
すぐ近くにいるのは敵ばかり。