「僕らが失ったのは町じゃない、全人生なんだ」
チェルノブイリ原発事故で被害の70%を被った
ベラルーシの10年の軌跡
30年後の現在 廃墟となっている家屋
2015年ノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエーヴィチが、チェルノブイリ原発事故から10年後の1996年に、事故の影響を受けた市民へのインタビューをまとめた著作「チェルノブイリの祈り 未来の物語」を読み直しました。
チェルノブイリ原発事故は、1986年4月26日午前1時23分の発生から30年が経ちました。アレクシエーヴィチによるインタビューからでも既に20年が経ち、その間、福島の原発事故も起きました。
福島からは5年。
チェルノブイリの軌跡は、福島の未来において同じ轍を踏まぬよう、よくよく検証していかねばなりません。
4号機で、外部電源喪失を想定し出力を下げて運転する試験中、原子炉が不安定化して爆発。炉心はむき出しになり、火災が続いた。国際原子力事象評価尺度レベル7、史上最大規模。レベル7は福島第一とチェルノブイリの2件。
写真は事故直後 建屋が完全に崩壊した4号機
コントロールルーム
アレクシエーヴィチの著作では、事故の規模や被害状況、原因、責任などの追及はありません。あくまでも被害者の心情に耳を傾け、そのまま伝えるのみです。何が真実か、ということよりも、直面した人間の心に否応なく投影されるものはどんなものかを重視しているようです。
等身大の自分が、その事実に直面すればどう生きることになるのか、例えば自分の幼子が髪を失い、衰弱し、自分の運命に驚いたような顔をして死んでいくさまを目前に見る、その自分を想像する、そして考える。何をすればいい、何をすればよかったか?
運命だなどと言って諦めない。未来を少しでも残すため、考え、判断する力を各人が持つことが大切だということが、この本から伝わってきます。
被曝の実態
冒頭は、事故直後にメルトダウンの現場で生身で消火活動した消防隊員の、死に至る14日間の壮絶を、付き添った妊娠6ヶ月の妻が語ります。
放射能の危険性に対し、なんの認識もないまま消火活動に駆けつけ、大量の被曝をした隊員28人は、飛行機でモスクワの病院に運ばれます。致死量400レントゲンのところ1600レントゲンを浴び、彼ら自身が既に高度の放射性物質となり、のちに病院のスタッフもほとんど亡くなりました。
初めは頭痛、吐き気ていどだったのが、目も開けられないほど顔が腫れてきます。
中枢神経系も骨髄も完全に侵されます。
「私は毎日違う夫に会った」
青、赤、灰色がかった褐色‥
火傷が表面に出てくる。粘膜が層になって剥がれ落ちる。1日25~30回の下痢、手足の皮膚がひび割れ、全身が水泡に覆われ、髪が抜ける。朝替えたシーツが夕方には血だらけになる。手足を持ち上げると骨がぐらぐら揺れる。口から内臓の欠片が出てくる。そして死。
遺体はセロハン袋、木棺、袋、亜鉛の棺に入れられ、墓地では上にコンクリート板。
2ヶ月後、妻は28レントゲンの女児出産。肝硬変、先天性心臓欠陥、4時間後に亡くなる。
目に見えず、匂いもなく、音もなく、人体深く貫く放射線に、人がどう屠られるか。
このストーリーは最初に、こんな残酷極まる事実を突きつけて始まります。
事故現場近くの行政施設は処理作業員待機に使用されていた。捨てられた大量のガスマスクは、冷戦期に毒ガス攻撃に備えて用意されたものだった
自身へのインタビュー/取材と著作の目的
続いて、アレクシエーヴィチ自身へのインタビューという形で、見落とされた歴史を語ろうとする意志が述べられます。
「あの夜、この未知なるもの、謎にふれた人々がどんな気持ちでいたか、なにを感じたか」
「なにかが起きた。でも私たちはそのことを考える方法も、よく似た出来事も、体験も持たない。私たちの視力も聴力もそれについていけない、私たちの語彙ですら役に立たない。‥なにかを理解するためには、人は自分自身の枠から出なくてはなりません」
ベラルーシはこの事故と、巨大だった社会主義国の崩壊をほぼ同時に受けました。
ここで、先立って、巻末に添えられている事故の情報を元に確認します。
当時のベラルーシは旧ソ連邦に属する一国であり、独立は1990年。チェルノブイリ原発は旧ソ連内にありましたが、ベラルーシ、ウクライナ国境に隣接しているため、被害は南風によってベラルーシに偏り、大気中に放出された5000万キュリーの放射性核種の70%がベラルーシに降ってきました。1平方キロメートルあたり1キュリー以上の汚染は国土の23%(ウクライナは同4.8%、ロシアは0.5%)。
長期にわたる低線量放射線の影響で、がん、知的障害、神経・精神障害、遺伝的突然変異の患者数が毎年増加しています。
ベラルーシ(ベラルーシ共和国)は、苦渋の歴史を持っています。大国ロシア、ヨーロッパ列強の狭間に位置するだけに、世界大戦での被害は悲劇そのものでした。ドイツにより619の村を焼き払われ、4人に1人が死んだベラルーシは、このチェルノブイリの事故によって485の町村を失い、そのうち70は永久に土の中に埋められたのです。そして5人に1人が汚染地域に住んでいます(当時)
汚染地に暮らす住民
放射能による被害とはどのようなものなのか、事故当時、知る人は少なかったのは当然でしょう。「汚染されている」として禁じられた井戸水は、以前と変わらず澄んでいるし、牛乳も野菜も果物も、見た目も味も変わらない。「除染のため」として、住民は3日間だけ住まいを空け、森でキャンプをせよとの指示により慌ただしく村を出されました。しかし、決して帰ることはなかったのです。村は埋められるかあるいは廃墟になり、荒れた土と墓だけが残ることとなったのです。
「ぼくらが失ったのは町じゃない、全人生なんだ」
その「全人生」とは過去だけではなく、未来も含んでいたのです。
プリピャチ市
プリピャチ市民プール
原発城下町として、また旧ソ連の都市計画を具現化した街として1970年に建設されたプリピャチ(ウクライナ)は事故現場から3キロ。事故翌日には約5万人の市民全員が避難。現在、人口0人、郵便番号も登録削除されたゴーストタウンと化した
ゴーストタウンの遊園地
居住が禁止されている地域に住み続ける人、戻って住む人、移住してくる人達がいます。
住み続ける人には、代々その地で育ってきた老いた農民が多いようです。戦争を生き抜いた経験のある人達にとって、放射能との戦いは目に見えず、理解できないものではありますが、過去の過酷な戦争に打ち勝ったという自負もあり、放射能を恐れないのです。
「あのとき、えらい学者さんがきなさって、薪は洗って使えと集会所で演説しました。もう、おったまげたよ!布団カバー、シーツ、カーテンを洗いなおせというんですよ。家の中にあるのに!タンスや長持にはいっているのに。家の中に放射能があってたまるもんかね。窓ガラスもドアもあるんだから。放射能なら森や畑でさがしなってんだ‥」
「私の妹は亭主と村をでていったよ。ここから、20キロのところに。2ヶ月おったが、となりの奥さんが走ってきていったんだとよ。「あんたらの雌牛からうちの雌牛に放射能がうつっちまった、死にそうだよ」「どうやって放射能がうつるのかね?」「空中を飛んでさ、ほこりみたいに。放射能は飛べるんだよ」
一度避難したにも関わらず戻る人には、補償金目当ての場合もありますが、移住先の新しい暮らしに馴染めないことが原因となっているようです。
他方、そもそも住民ではなかった人が空き家を求めて移住してくる場合があります。当時、ソ連邦内部で紛争中だったタジキスタンやチェチェン、キルギスから来るのです。
「私は、ここはあそこほどこわくありません。ここには銃を撃つ人はいない。それだけでもましです」「土地や水がこわいなんて考えられない。恐ろしいのは人間です」
「私はいろいろ質問されたり、驚いた目で見られるんです。ある人は、面と向かってわたしにきいたわ。「ペストやコレラがはやっている土地でも子どもをつれてきますか?」ペストやコレラたったら‥。でも、ここでいわれているような恐怖を私は知らないのです。私の記憶にありませんから」
今日死ぬかもしれない、という恐怖と、目に見えない先が見えない恐怖とでは、その肌感覚が違うことでしょう。しかし、銃による恐怖は保護されればただちに解消されるもの、解決しうるものでありますが、放射能の恐怖は持続的に増幅するブラックホールであり、認識しにくく、解決しにくいものなのです。
除染に駆り出された兵たち
町、家から追われた住民らに変わり、予備役兵が任務を知らされずに召集され、除染作業にあたらせられました。上司は「名誉」「昇給」をちらつかせ、挑んだ若者は次々に発病しました。
彼らの目に映った現場はどのようであったかが語られています。そこには素朴な驚きがあります。
「すてられた家。ドアに貼り紙。「親愛なる方へ、貴重品を探さないでください。私たちの家にはありません。なんでも使ってください。でも盗っていかないで。私たちは戻ってきますから」。ほかの家でもいろんな手紙を見ました。「私たちを許してね、私たちの家!」。「朝、でていきます」「夜、発ちます」日付、何時何分まで書いてある。ちぎった学習帳に書かれた手紙もあった。「ネコを殺さないでね。ネズミがぜんぶかじっちゃうから」「うちのジュリカを殺さないでね、いい子なんだよ」
「家に帰った。あそこで着ていたものはすっかり脱いで、ダストシュートに投げ込んだ。パイロット帽だけは幼い息子にやったんです。とてもほしがったから。息子はいつもかぶっていた。2年後、息子に診断がくだされた。脳浮腫‥このさきはあなたが書いてください。ぼくはこれ以上話したくない」
「アフガンから帰ったときには、これから生きるんだということがわかっていた。でも、チェルノブイリではなにもかも反対。殺されるのは帰ってからなんです」
「上空から大量の兵器が戦いをいどんでいた。大型ヘリコプター、中型ヘリコプター。MI-24、これは戦闘用ヘリコプターです。戦闘用ヘリに乗ってチェルノブイリでなにができるんだろう?」
住人のいなくなった村や町では、日々、盗難がありました。放射能に汚染された建具、家財は持ち出され、転売されていたのです。それらはそのままどこかで別荘として建っているらしいと。除染作業に使用され、廃棄処分されたトラックさえも姿を消していました。金属は特に強い放射性物資と化していたというのに。村に残っているのは墓だけだったと‥。
破壊された自然
現場に立った者にしか実感できなかった事として、人間が自然に対して施してしまった罪悪感があります。
「森を葬りました。樹木を1メートル半の長さに切り、シートにくるんで放射性廃棄物埋設地に埋めたんです。夜、寝付けなかった。目を閉じると、なにか黒いものがゆらゆらしてひっくり返るんです。生きもののように。地層は生きているんです。甲虫、クモ、ミミズといっしょに。‥だれかの詩で読んだことがあるんです、動物は別個の世界の住人なんだと。ぼくは彼らの名前すら知らずに、何十、何百、何千となく殺した。彼らの家、彼らの神秘さを破壊し、ひたすら葬ったのです。一番印象に残っているのは彼らのことです」
ドイツにより村ごと焼き払われ虐殺されたハティニ 以前の記事カティンと名前が似ていることから、ソ連はカティン事件の追及を受けたときわざとハティニとすり替えて報告したらしい 写真はハティニ記念公園
「がらんとした村。ペチカだけが立っている。まるでハティニだ。ハティニのまんなかにばあさんがふたり腰をおろしている。ばあさんたちは恐ろしくないんだ。ほかのやつなら気が狂っただろうに」
「ぼくが撮ったチェルノブイリの映画を子供たちに見せたんです。‥じつにいろんな質問が出ましたが、ひとつだけ脳裏に刻み込まれている。おとなしくて口数の少なそうな男の子でしたが、赤くなり、くちごもりながら聞いたのです。「どうしてあそこに残っている動物を助けちゃいけなかったの?」。ぼくは答えられなかった。‥ぼくらは動物や植物のところ、このもうひとつの世界におりていこうとしない。なのに、人間はあらゆる生き物にむかってチェルノブイリをふりあげてしまったんです」
人々の消えた町には野生動物が住んでいる
オオカミ イノシシ シカ ウシ ウマなど大型動物が多くいるため危険
事故後、人々の迷走
この本の中で、原発事故発生の原因を追及するところはありません。ただ、事故後の指導者側の行動や一般者の動向の関連性を、ベラルーシという国の社会体質として暴くことを、インタビューを通して丹念に提示しています。そこをつぶさに観察する事で、未来を見ようとしているのだと感じられます。
「事故処理作業に投入された部隊はぜんぶで210部隊、およそ34万人です。‥彼らは屋上で、燃料、原子炉の黒鉛、コンクリートや鉄骨の破片をかき集めたのです。‥無線操作のマジックハンドはしょっちゅう命令を拒否し、とんでもない動きをしました。放射線が高いところでは電子回路が故障するのです。いちばん頼りになる〈ロボット〉は兵士でした。軍服の色から、〈緑のロボット〉と呼ばれた。崩壊した原子炉の屋根を通りすぎた兵士は3600人です」
余談ですが、上空からの放水活動は福島でも行われていました。チェルノブイリでのこの作業に従事したパイロットはほとんどの方が犠牲者となりました。福島の時点ではこの危険性は明らかだったはずなのに、この方法をとらざるをえなかったのです。その後、高圧ポンプ車に変わりましたが、一時的にせよ、リスクの非常に高いことがわかっている手法をとるはめになったのは、前例に学んで備えておくことをしなかったからでしょう。安全神話を語るより、事故対応マニュアルを完備すべきです。それぞれの対応をだれが実行するかまで明確に決め、訓練が必要でしょう。軍事演習よりも重要です。
指導者たちは兵士だけでなく、市民の命さえも軽く見ている。当初から、事故の詳細を市民に告げず、避難も限定的にしか支持しませんでした。予定されていたメーデーの祝典のために、一日中屋外で子供たちを予行練習に駆り出してもいたのです。
市民の中でも知識のある人は、その危険性を承知していながら、『なにか』を信じて従い、口を閉ざしていました。そのなかで、ベラルーシの作家アレーシ・アダモービッチだけが演説を通して警鐘を鳴らしたのです。ところが被曝地の大人たちは冷ややかでした。
「環境保護監督局の上役たちが、騒然としだしたのは、わがベラルーシの作家、アレーシ・アダモービッチがモスクワで演説をし、警鐘をならしはじめてからです。アダモービッチに強い反感を抱いたんです。ここでくらしているのは彼らの子供や孫なのに、「たすけて!」と世界に向かって叫んだのは彼らじゃない。1人の作家でした。‥思い上がっているんだよ!ちゃんと通達があるじゃないか!上には従わなくちゃいかんよ!物理学者でもないくせに!このとき、わたしは、はじめてわかったんです、1937年がいったいなんであったか。いかにして起きたか」
1937年にはスターリンによる大粛清があったのでした。
上に従う、通達に従う。でなければ、党員証を取り上げられ、永遠に蔑まれることになります。
人々は自らすすんで、思考停止するのです。
それは昇格を望む人々だけではなく、市民も同じでした。
親しい主婦3人は、教師や医師といったインテリでした。みな子供がいます。1人が、明日、ここを離れると言い出しました。
「「もし子供たちが病気になったら、ぜったいに自分を許せないもの」
「新聞には数日後には正常に戻るって書いてあったわ。あそこには軍隊がいるし、ヘリコプターや装甲車もあるのよ。ラジオで聞いたわ」
「あなたにもすすめるわ。子供を連れて避難するのよ。これは戦争じゃないの。私たちには想像もつかないことが起きたのよ」
「みんながあなたみたいなことをしていたら、私たちはどうなるかしら?戦争にだって勝てっこなかったでしょうよ?」
「母性本能はどうしたの!狂信者よ!」
翌日、1人は子供を連れて町を出て、もう1人は子供を連れてメーデーに参加しました。いずれも自分の意志で、です。
「運命を信じていた。心の奥じゃぼくたちはみんな運命論者なんです、合理主義者じゃない。スラブ的な思考法です」
彼は放射線病を発病し二級身体障害者となった、と。
「わが国の人間は自分の事だけを考えることができないのです、自分の命のことだけを。ひとりでいることができない人間です。わが国の政治家は命の価値を考える頭がないが、国民もそうなんです」
「私たちの子どもたちは旗を持ってデモ行進に行くのよ。退役軍人、年老いたつわものたちも。
でも、これもやはり一種の無知なんです、自分の身に危険を感じないということは。私たちはいつも〈われわれ〉といい〈私〉とはいわなかった。でも、これは〈私〉よ!〈私〉は死にたくない、〈私〉はこわい」
事故から10年を経て、ソ連崩壊を経て、ようやく見つめた〈私〉。そのあり方を考えることを始められたとして、実際、まっとうに考え出せば次々に疑問が生まれ、判断に大いに悩むことにもなるでしょう。通達に従っていれば楽だった、という思考停止の時代に逆戻りしたくなるのでしょうか?
それは旧ソ連圏だけの問題ではなく、〈おかみ〉にしたがい安穏と過ごしてきたわが国の多数にも、私にも、あてはまらないとはいえません。
「ぼくが記憶していること。事故がおきて数日のうちに放射能やヒロシマ、ナガサキのついての本、レントゲンの本までもが図書館から姿をけしてしまったことだ」
ベラルーシの事故対応においては、上層部による情報操作がありました。例えば、毒ガスマスクやヨウ素錠剤の配布は、住民の不安を煽るおそれがあるからとして、倉庫にしまわれたままでした。
通達、公式見解。
日本の報道が最近陥っている危険をここに感じました。
子どもたちの記憶
最後に、アレクシエーヴィチが子供たちにインタビューしたものをいくつか上げます。
「ぼくは家に置いてきたんです。ぼくのハムスターを閉じ込めてきた。白いの。2日分のエサを置いてやった。でも、ぼくらは永久にもどれない」
「1年後、私たちは全員疎開させられ、村は埋められてしまいました。まず、大きな穴が掘られる。深さ5メートル。‥クレーンで家を引きはがし、穴に入れる。人形や、本、びんがころがっている。シャベルカーでかき集める。砂と粘土でおおい、平らにならす。村のあったところに原っぱができる。そこにライ麦がまかれた。そのしたは、私たちの家があるんです。学校も、村役場も。私の植物標本も。切手帳も2冊。取りに行きたかったわ。私は自転車も持っていたんです」
「兵隊さんたちが木や家や屋根を洗っていた。コルホーズの雌牛も。私、思ったの。森の動物はかわいそう。だれにも洗ってもらえないんだもの。みんな死んじゃうわ。森も、洗ってもらえない。森も死んじゃうわ」
高濃度汚染地域出身者の甲状腺がん発病率が有為に高いことが認められている 除染作業従事者はさらに白血病も多い PTSDや自殺の多さにも深刻に向き合わねばならない
ベラルーシでは、原発がこれほどの事故を起こし、被害は半永久的に続く重荷を背負っているにもかかわらず、現在、新たな原発を建設しています。チェルノブイリ原発も、実は完全に停止したのは最近でした(事故を起こした4号機以外。ただし、チェルノブイリはウクライナ領内)
日本でも、震災後に全ての原発は停止されたものの、5年と待たずに再稼動しています。他国への輸出もすすめています。輸出したプラントが事故を起こした場合、どうなるのか。
リスクと電力需要の天秤。経済発展との天秤。
人間の能力には限界があり、何もかもを欲しがることはかなわない。神話は、人間のものではないのです。
石棺と呼ばれたシェルターは30年を経て老朽化が著しい
現在は100年耐久を見込んだ新シェルターを建設中 既存の石棺ごと覆う形状で、構築後にスライドして設置する仕組み
メモ
・この事故では、広島の原爆250個分のプルトニウムが降り積もった
・現在、ベラルーシでは国内初の原子力発電施設2基を建設中である。リトアニアとの国境付近で、2018年、2020年完成予定。「どのみちベラルーシは周辺国の原発に囲まれている」
エネルギーの経済性と多角化がねらいのようだ
・昨今はチェルノブイリ見学ツアーがある。1日1人160ドル。立ち入り禁止区域に入る前に署名。地面に座らない、物を置かない、飲食しないなどの決め事がある。最近はドローンを使って現地の様子を見ることもできる。
2016年 30年目追悼式
以下、最近、廃炉になったベルギーの原子炉。
チェルノブイリ原発事故で被害の70%を被った
ベラルーシの10年の軌跡
30年後の現在 廃墟となっている家屋
2015年ノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエーヴィチが、チェルノブイリ原発事故から10年後の1996年に、事故の影響を受けた市民へのインタビューをまとめた著作「チェルノブイリの祈り 未来の物語」を読み直しました。
チェルノブイリ原発事故は、1986年4月26日午前1時23分の発生から30年が経ちました。アレクシエーヴィチによるインタビューからでも既に20年が経ち、その間、福島の原発事故も起きました。
福島からは5年。
チェルノブイリの軌跡は、福島の未来において同じ轍を踏まぬよう、よくよく検証していかねばなりません。
4号機で、外部電源喪失を想定し出力を下げて運転する試験中、原子炉が不安定化して爆発。炉心はむき出しになり、火災が続いた。国際原子力事象評価尺度レベル7、史上最大規模。レベル7は福島第一とチェルノブイリの2件。
写真は事故直後 建屋が完全に崩壊した4号機
コントロールルーム
アレクシエーヴィチの著作では、事故の規模や被害状況、原因、責任などの追及はありません。あくまでも被害者の心情に耳を傾け、そのまま伝えるのみです。何が真実か、ということよりも、直面した人間の心に否応なく投影されるものはどんなものかを重視しているようです。
等身大の自分が、その事実に直面すればどう生きることになるのか、例えば自分の幼子が髪を失い、衰弱し、自分の運命に驚いたような顔をして死んでいくさまを目前に見る、その自分を想像する、そして考える。何をすればいい、何をすればよかったか?
運命だなどと言って諦めない。未来を少しでも残すため、考え、判断する力を各人が持つことが大切だということが、この本から伝わってきます。
被曝の実態
冒頭は、事故直後にメルトダウンの現場で生身で消火活動した消防隊員の、死に至る14日間の壮絶を、付き添った妊娠6ヶ月の妻が語ります。
放射能の危険性に対し、なんの認識もないまま消火活動に駆けつけ、大量の被曝をした隊員28人は、飛行機でモスクワの病院に運ばれます。致死量400レントゲンのところ1600レントゲンを浴び、彼ら自身が既に高度の放射性物質となり、のちに病院のスタッフもほとんど亡くなりました。
初めは頭痛、吐き気ていどだったのが、目も開けられないほど顔が腫れてきます。
中枢神経系も骨髄も完全に侵されます。
「私は毎日違う夫に会った」
青、赤、灰色がかった褐色‥
火傷が表面に出てくる。粘膜が層になって剥がれ落ちる。1日25~30回の下痢、手足の皮膚がひび割れ、全身が水泡に覆われ、髪が抜ける。朝替えたシーツが夕方には血だらけになる。手足を持ち上げると骨がぐらぐら揺れる。口から内臓の欠片が出てくる。そして死。
遺体はセロハン袋、木棺、袋、亜鉛の棺に入れられ、墓地では上にコンクリート板。
2ヶ月後、妻は28レントゲンの女児出産。肝硬変、先天性心臓欠陥、4時間後に亡くなる。
目に見えず、匂いもなく、音もなく、人体深く貫く放射線に、人がどう屠られるか。
このストーリーは最初に、こんな残酷極まる事実を突きつけて始まります。
事故現場近くの行政施設は処理作業員待機に使用されていた。捨てられた大量のガスマスクは、冷戦期に毒ガス攻撃に備えて用意されたものだった
自身へのインタビュー/取材と著作の目的
続いて、アレクシエーヴィチ自身へのインタビューという形で、見落とされた歴史を語ろうとする意志が述べられます。
「あの夜、この未知なるもの、謎にふれた人々がどんな気持ちでいたか、なにを感じたか」
「なにかが起きた。でも私たちはそのことを考える方法も、よく似た出来事も、体験も持たない。私たちの視力も聴力もそれについていけない、私たちの語彙ですら役に立たない。‥なにかを理解するためには、人は自分自身の枠から出なくてはなりません」
ベラルーシはこの事故と、巨大だった社会主義国の崩壊をほぼ同時に受けました。
ここで、先立って、巻末に添えられている事故の情報を元に確認します。
当時のベラルーシは旧ソ連邦に属する一国であり、独立は1990年。チェルノブイリ原発は旧ソ連内にありましたが、ベラルーシ、ウクライナ国境に隣接しているため、被害は南風によってベラルーシに偏り、大気中に放出された5000万キュリーの放射性核種の70%がベラルーシに降ってきました。1平方キロメートルあたり1キュリー以上の汚染は国土の23%(ウクライナは同4.8%、ロシアは0.5%)。
長期にわたる低線量放射線の影響で、がん、知的障害、神経・精神障害、遺伝的突然変異の患者数が毎年増加しています。
ベラルーシ(ベラルーシ共和国)は、苦渋の歴史を持っています。大国ロシア、ヨーロッパ列強の狭間に位置するだけに、世界大戦での被害は悲劇そのものでした。ドイツにより619の村を焼き払われ、4人に1人が死んだベラルーシは、このチェルノブイリの事故によって485の町村を失い、そのうち70は永久に土の中に埋められたのです。そして5人に1人が汚染地域に住んでいます(当時)
汚染地に暮らす住民
放射能による被害とはどのようなものなのか、事故当時、知る人は少なかったのは当然でしょう。「汚染されている」として禁じられた井戸水は、以前と変わらず澄んでいるし、牛乳も野菜も果物も、見た目も味も変わらない。「除染のため」として、住民は3日間だけ住まいを空け、森でキャンプをせよとの指示により慌ただしく村を出されました。しかし、決して帰ることはなかったのです。村は埋められるかあるいは廃墟になり、荒れた土と墓だけが残ることとなったのです。
「ぼくらが失ったのは町じゃない、全人生なんだ」
その「全人生」とは過去だけではなく、未来も含んでいたのです。
プリピャチ市
プリピャチ市民プール
原発城下町として、また旧ソ連の都市計画を具現化した街として1970年に建設されたプリピャチ(ウクライナ)は事故現場から3キロ。事故翌日には約5万人の市民全員が避難。現在、人口0人、郵便番号も登録削除されたゴーストタウンと化した
ゴーストタウンの遊園地
居住が禁止されている地域に住み続ける人、戻って住む人、移住してくる人達がいます。
住み続ける人には、代々その地で育ってきた老いた農民が多いようです。戦争を生き抜いた経験のある人達にとって、放射能との戦いは目に見えず、理解できないものではありますが、過去の過酷な戦争に打ち勝ったという自負もあり、放射能を恐れないのです。
「あのとき、えらい学者さんがきなさって、薪は洗って使えと集会所で演説しました。もう、おったまげたよ!布団カバー、シーツ、カーテンを洗いなおせというんですよ。家の中にあるのに!タンスや長持にはいっているのに。家の中に放射能があってたまるもんかね。窓ガラスもドアもあるんだから。放射能なら森や畑でさがしなってんだ‥」
「私の妹は亭主と村をでていったよ。ここから、20キロのところに。2ヶ月おったが、となりの奥さんが走ってきていったんだとよ。「あんたらの雌牛からうちの雌牛に放射能がうつっちまった、死にそうだよ」「どうやって放射能がうつるのかね?」「空中を飛んでさ、ほこりみたいに。放射能は飛べるんだよ」
一度避難したにも関わらず戻る人には、補償金目当ての場合もありますが、移住先の新しい暮らしに馴染めないことが原因となっているようです。
他方、そもそも住民ではなかった人が空き家を求めて移住してくる場合があります。当時、ソ連邦内部で紛争中だったタジキスタンやチェチェン、キルギスから来るのです。
「私は、ここはあそこほどこわくありません。ここには銃を撃つ人はいない。それだけでもましです」「土地や水がこわいなんて考えられない。恐ろしいのは人間です」
「私はいろいろ質問されたり、驚いた目で見られるんです。ある人は、面と向かってわたしにきいたわ。「ペストやコレラがはやっている土地でも子どもをつれてきますか?」ペストやコレラたったら‥。でも、ここでいわれているような恐怖を私は知らないのです。私の記憶にありませんから」
今日死ぬかもしれない、という恐怖と、目に見えない先が見えない恐怖とでは、その肌感覚が違うことでしょう。しかし、銃による恐怖は保護されればただちに解消されるもの、解決しうるものでありますが、放射能の恐怖は持続的に増幅するブラックホールであり、認識しにくく、解決しにくいものなのです。
除染に駆り出された兵たち
町、家から追われた住民らに変わり、予備役兵が任務を知らされずに召集され、除染作業にあたらせられました。上司は「名誉」「昇給」をちらつかせ、挑んだ若者は次々に発病しました。
彼らの目に映った現場はどのようであったかが語られています。そこには素朴な驚きがあります。
「すてられた家。ドアに貼り紙。「親愛なる方へ、貴重品を探さないでください。私たちの家にはありません。なんでも使ってください。でも盗っていかないで。私たちは戻ってきますから」。ほかの家でもいろんな手紙を見ました。「私たちを許してね、私たちの家!」。「朝、でていきます」「夜、発ちます」日付、何時何分まで書いてある。ちぎった学習帳に書かれた手紙もあった。「ネコを殺さないでね。ネズミがぜんぶかじっちゃうから」「うちのジュリカを殺さないでね、いい子なんだよ」
「家に帰った。あそこで着ていたものはすっかり脱いで、ダストシュートに投げ込んだ。パイロット帽だけは幼い息子にやったんです。とてもほしがったから。息子はいつもかぶっていた。2年後、息子に診断がくだされた。脳浮腫‥このさきはあなたが書いてください。ぼくはこれ以上話したくない」
「アフガンから帰ったときには、これから生きるんだということがわかっていた。でも、チェルノブイリではなにもかも反対。殺されるのは帰ってからなんです」
「上空から大量の兵器が戦いをいどんでいた。大型ヘリコプター、中型ヘリコプター。MI-24、これは戦闘用ヘリコプターです。戦闘用ヘリに乗ってチェルノブイリでなにができるんだろう?」
住人のいなくなった村や町では、日々、盗難がありました。放射能に汚染された建具、家財は持ち出され、転売されていたのです。それらはそのままどこかで別荘として建っているらしいと。除染作業に使用され、廃棄処分されたトラックさえも姿を消していました。金属は特に強い放射性物資と化していたというのに。村に残っているのは墓だけだったと‥。
破壊された自然
現場に立った者にしか実感できなかった事として、人間が自然に対して施してしまった罪悪感があります。
「森を葬りました。樹木を1メートル半の長さに切り、シートにくるんで放射性廃棄物埋設地に埋めたんです。夜、寝付けなかった。目を閉じると、なにか黒いものがゆらゆらしてひっくり返るんです。生きもののように。地層は生きているんです。甲虫、クモ、ミミズといっしょに。‥だれかの詩で読んだことがあるんです、動物は別個の世界の住人なんだと。ぼくは彼らの名前すら知らずに、何十、何百、何千となく殺した。彼らの家、彼らの神秘さを破壊し、ひたすら葬ったのです。一番印象に残っているのは彼らのことです」
ドイツにより村ごと焼き払われ虐殺されたハティニ 以前の記事カティンと名前が似ていることから、ソ連はカティン事件の追及を受けたときわざとハティニとすり替えて報告したらしい 写真はハティニ記念公園
「がらんとした村。ペチカだけが立っている。まるでハティニだ。ハティニのまんなかにばあさんがふたり腰をおろしている。ばあさんたちは恐ろしくないんだ。ほかのやつなら気が狂っただろうに」
「ぼくが撮ったチェルノブイリの映画を子供たちに見せたんです。‥じつにいろんな質問が出ましたが、ひとつだけ脳裏に刻み込まれている。おとなしくて口数の少なそうな男の子でしたが、赤くなり、くちごもりながら聞いたのです。「どうしてあそこに残っている動物を助けちゃいけなかったの?」。ぼくは答えられなかった。‥ぼくらは動物や植物のところ、このもうひとつの世界におりていこうとしない。なのに、人間はあらゆる生き物にむかってチェルノブイリをふりあげてしまったんです」
人々の消えた町には野生動物が住んでいる
オオカミ イノシシ シカ ウシ ウマなど大型動物が多くいるため危険
事故後、人々の迷走
この本の中で、原発事故発生の原因を追及するところはありません。ただ、事故後の指導者側の行動や一般者の動向の関連性を、ベラルーシという国の社会体質として暴くことを、インタビューを通して丹念に提示しています。そこをつぶさに観察する事で、未来を見ようとしているのだと感じられます。
「事故処理作業に投入された部隊はぜんぶで210部隊、およそ34万人です。‥彼らは屋上で、燃料、原子炉の黒鉛、コンクリートや鉄骨の破片をかき集めたのです。‥無線操作のマジックハンドはしょっちゅう命令を拒否し、とんでもない動きをしました。放射線が高いところでは電子回路が故障するのです。いちばん頼りになる〈ロボット〉は兵士でした。軍服の色から、〈緑のロボット〉と呼ばれた。崩壊した原子炉の屋根を通りすぎた兵士は3600人です」
余談ですが、上空からの放水活動は福島でも行われていました。チェルノブイリでのこの作業に従事したパイロットはほとんどの方が犠牲者となりました。福島の時点ではこの危険性は明らかだったはずなのに、この方法をとらざるをえなかったのです。その後、高圧ポンプ車に変わりましたが、一時的にせよ、リスクの非常に高いことがわかっている手法をとるはめになったのは、前例に学んで備えておくことをしなかったからでしょう。安全神話を語るより、事故対応マニュアルを完備すべきです。それぞれの対応をだれが実行するかまで明確に決め、訓練が必要でしょう。軍事演習よりも重要です。
指導者たちは兵士だけでなく、市民の命さえも軽く見ている。当初から、事故の詳細を市民に告げず、避難も限定的にしか支持しませんでした。予定されていたメーデーの祝典のために、一日中屋外で子供たちを予行練習に駆り出してもいたのです。
市民の中でも知識のある人は、その危険性を承知していながら、『なにか』を信じて従い、口を閉ざしていました。そのなかで、ベラルーシの作家アレーシ・アダモービッチだけが演説を通して警鐘を鳴らしたのです。ところが被曝地の大人たちは冷ややかでした。
「環境保護監督局の上役たちが、騒然としだしたのは、わがベラルーシの作家、アレーシ・アダモービッチがモスクワで演説をし、警鐘をならしはじめてからです。アダモービッチに強い反感を抱いたんです。ここでくらしているのは彼らの子供や孫なのに、「たすけて!」と世界に向かって叫んだのは彼らじゃない。1人の作家でした。‥思い上がっているんだよ!ちゃんと通達があるじゃないか!上には従わなくちゃいかんよ!物理学者でもないくせに!このとき、わたしは、はじめてわかったんです、1937年がいったいなんであったか。いかにして起きたか」
1937年にはスターリンによる大粛清があったのでした。
上に従う、通達に従う。でなければ、党員証を取り上げられ、永遠に蔑まれることになります。
人々は自らすすんで、思考停止するのです。
それは昇格を望む人々だけではなく、市民も同じでした。
親しい主婦3人は、教師や医師といったインテリでした。みな子供がいます。1人が、明日、ここを離れると言い出しました。
「「もし子供たちが病気になったら、ぜったいに自分を許せないもの」
「新聞には数日後には正常に戻るって書いてあったわ。あそこには軍隊がいるし、ヘリコプターや装甲車もあるのよ。ラジオで聞いたわ」
「あなたにもすすめるわ。子供を連れて避難するのよ。これは戦争じゃないの。私たちには想像もつかないことが起きたのよ」
「みんながあなたみたいなことをしていたら、私たちはどうなるかしら?戦争にだって勝てっこなかったでしょうよ?」
「母性本能はどうしたの!狂信者よ!」
翌日、1人は子供を連れて町を出て、もう1人は子供を連れてメーデーに参加しました。いずれも自分の意志で、です。
「運命を信じていた。心の奥じゃぼくたちはみんな運命論者なんです、合理主義者じゃない。スラブ的な思考法です」
彼は放射線病を発病し二級身体障害者となった、と。
「わが国の人間は自分の事だけを考えることができないのです、自分の命のことだけを。ひとりでいることができない人間です。わが国の政治家は命の価値を考える頭がないが、国民もそうなんです」
「私たちの子どもたちは旗を持ってデモ行進に行くのよ。退役軍人、年老いたつわものたちも。
でも、これもやはり一種の無知なんです、自分の身に危険を感じないということは。私たちはいつも〈われわれ〉といい〈私〉とはいわなかった。でも、これは〈私〉よ!〈私〉は死にたくない、〈私〉はこわい」
事故から10年を経て、ソ連崩壊を経て、ようやく見つめた〈私〉。そのあり方を考えることを始められたとして、実際、まっとうに考え出せば次々に疑問が生まれ、判断に大いに悩むことにもなるでしょう。通達に従っていれば楽だった、という思考停止の時代に逆戻りしたくなるのでしょうか?
それは旧ソ連圏だけの問題ではなく、〈おかみ〉にしたがい安穏と過ごしてきたわが国の多数にも、私にも、あてはまらないとはいえません。
「ぼくが記憶していること。事故がおきて数日のうちに放射能やヒロシマ、ナガサキのついての本、レントゲンの本までもが図書館から姿をけしてしまったことだ」
ベラルーシの事故対応においては、上層部による情報操作がありました。例えば、毒ガスマスクやヨウ素錠剤の配布は、住民の不安を煽るおそれがあるからとして、倉庫にしまわれたままでした。
通達、公式見解。
日本の報道が最近陥っている危険をここに感じました。
子どもたちの記憶
最後に、アレクシエーヴィチが子供たちにインタビューしたものをいくつか上げます。
「ぼくは家に置いてきたんです。ぼくのハムスターを閉じ込めてきた。白いの。2日分のエサを置いてやった。でも、ぼくらは永久にもどれない」
「1年後、私たちは全員疎開させられ、村は埋められてしまいました。まず、大きな穴が掘られる。深さ5メートル。‥クレーンで家を引きはがし、穴に入れる。人形や、本、びんがころがっている。シャベルカーでかき集める。砂と粘土でおおい、平らにならす。村のあったところに原っぱができる。そこにライ麦がまかれた。そのしたは、私たちの家があるんです。学校も、村役場も。私の植物標本も。切手帳も2冊。取りに行きたかったわ。私は自転車も持っていたんです」
「兵隊さんたちが木や家や屋根を洗っていた。コルホーズの雌牛も。私、思ったの。森の動物はかわいそう。だれにも洗ってもらえないんだもの。みんな死んじゃうわ。森も、洗ってもらえない。森も死んじゃうわ」
高濃度汚染地域出身者の甲状腺がん発病率が有為に高いことが認められている 除染作業従事者はさらに白血病も多い PTSDや自殺の多さにも深刻に向き合わねばならない
ベラルーシでは、原発がこれほどの事故を起こし、被害は半永久的に続く重荷を背負っているにもかかわらず、現在、新たな原発を建設しています。チェルノブイリ原発も、実は完全に停止したのは最近でした(事故を起こした4号機以外。ただし、チェルノブイリはウクライナ領内)
日本でも、震災後に全ての原発は停止されたものの、5年と待たずに再稼動しています。他国への輸出もすすめています。輸出したプラントが事故を起こした場合、どうなるのか。
リスクと電力需要の天秤。経済発展との天秤。
人間の能力には限界があり、何もかもを欲しがることはかなわない。神話は、人間のものではないのです。
石棺と呼ばれたシェルターは30年を経て老朽化が著しい
現在は100年耐久を見込んだ新シェルターを建設中 既存の石棺ごと覆う形状で、構築後にスライドして設置する仕組み
メモ
・この事故では、広島の原爆250個分のプルトニウムが降り積もった
・現在、ベラルーシでは国内初の原子力発電施設2基を建設中である。リトアニアとの国境付近で、2018年、2020年完成予定。「どのみちベラルーシは周辺国の原発に囲まれている」
エネルギーの経済性と多角化がねらいのようだ
・昨今はチェルノブイリ見学ツアーがある。1日1人160ドル。立ち入り禁止区域に入る前に署名。地面に座らない、物を置かない、飲食しないなどの決め事がある。最近はドローンを使って現地の様子を見ることもできる。
2016年 30年目追悼式
以下、最近、廃炉になったベルギーの原子炉。