私は中国のことを好んで支那(しな)と呼ぶ。
「支那」という言葉は一般には差別語だとされ、一部の人たちが極めて感情的な反応を示す危険な言葉である。
特に報道機関などでは絶対に使ってはいけない言葉とされている。
それでも私がその言葉を使う理由は他人に不快感を与えるためであり、私を嫌悪させ、論争と罵倒を招き、この場を炎上させるためである。
ただし私はいたずらに他人に不快感を与えることを良しとはしない。
私が不快感を与えたい「他人」とは「言葉狩り」をすることが差別の改善に役立つと信じるような輩に限定される。
彼らは問題を隠蔽することで「解決した」と誤解するような倒錯した人間であり、自分たちの正義に反する異論を許さない集団であり、人権を錦の御旗に掲げているくせに他人の精神を尊重しない矛盾した存在である。
そこでまず私は、中華人民共和国とその人民を侮蔑する気持ちは微塵(みじん)のかけらも抱いておらず、彼らの全てに不快感を与えるのを望んでいないことを強調しておかなくてはならない。
私は支那の歴史書を好んで読んでおり、仮にかの国を嫌悪する気持ちを持っていたのなら、私はわざわざその国の歴史を学ぼうとはしないはずであり、また私の知人にはかの国の人々が何人もおり、私が彼らに対して敬意を抱きこそすれ侮蔑の念を抱くことなどはありえないと断言できる。
私はかの国の文化に対して敬意を抱き、現共産党政権の安定を願い、かの国が抱える多大な困難を嘆き、その人民の多くが安息を得られることを希望し、日本が今後ともかの国の問題解決のためにODAなどによる金銭的かつ人的援助を続行することを求めるものである。
私は「親支那派」であり、(左右という分類に何の意味もないことを知りながら敢えて言えば)私は「サヨク」である。
しかし差別意識がないとはいえ、公的な場で明らかな差別語を使うことは控えるべきだという意見にも一理はある。
そこで次に主張したいのが、この言葉を使う正当性についてである。
まず「支那」という言葉が広く知られるようになったのは、革命者 孫文が自分の目指す国家「中華民国」と当時の政権である清朝を区別するために、清朝をさして「支那」と呼んだことに求められる。
この言葉の背景には西洋列強の進出、日本帝国との外交や闘争、袁世凱、西太后とそれに連なる歴代皇帝たち、太平天国、義和団事件といった「崩れてゆく清朝」というイメージが存在していた。
これ以降「支那」という言葉には侮蔑的な意味が込められ、日本が日中戦争や大東亜戦争を通じて「中国」そのものを支那と呼び植民地支配したことから、支那は完全な忌み言葉となった。
しかし語源的には「支那」はCina(チャイナ)の音声に基づいた漢語訳で、古代インドにおける古代中国の呼称であり、かの大陸の文化圏を指し示す普遍的な意味がある。
そして欧米が語源を同じくするChinaを使うのを許して、日本語だけが遠慮する理由もない。
よってこの単語は根源的には差別語にあらず、明らかな差別語とみなすべきではないと私は考える。
よって私としては
一、この言葉を使うのは中華人民共和国の人々への差別意識からではない。
一、この言葉を使う正当な理由がある。
という二点を示したのであり、この二点に偽りがない限り私にはこの言葉を使う権利があると信じている。
この正当なる理由を理解した上でそれでも「支那」を使うのは不愉快だと言われる方には、「嫌がるほうが悪い」と私は返答する。
最後に付け加えておくと、私が罵倒とケンカを好むのは、衝突を通じて意見を出し合うことに意義があると考えるからである。
だが私は論争による相手の説得や和解を期待しているわけではない。
この世には価値観の違いというものが存在し、相反する2つの意見のどちらも間違っていないという矛盾があり、万言を尽くしたとしても決して相容れない隔たりがあることを私は知っている。
私が論争をする目的は決して正解を見つけて白黒決着つけることではなく、異なる価値観の存在を確認し、自分の意見が完全に正しいわけではないことを自戒し、それでもなお他人と相反する価値観を選択する覚悟を決めるためである。
しかし最近はネットにおいて反中国感情が高まり、私が支那という言葉を使っても誰も不快感を表明してくれなくなってしまった。
むしろ喜ばれる始末である。
まったくもって遺憾である。
どうやらネットの世界で嫌われるためには反中国的とみられる態度は不利であるようだ。
よって今後はネットにおいてのみは支那という言葉の使用を控えることにしようと思っている。
「支那」という言葉は一般には差別語だとされ、一部の人たちが極めて感情的な反応を示す危険な言葉である。
特に報道機関などでは絶対に使ってはいけない言葉とされている。
それでも私がその言葉を使う理由は他人に不快感を与えるためであり、私を嫌悪させ、論争と罵倒を招き、この場を炎上させるためである。
ただし私はいたずらに他人に不快感を与えることを良しとはしない。
私が不快感を与えたい「他人」とは「言葉狩り」をすることが差別の改善に役立つと信じるような輩に限定される。
彼らは問題を隠蔽することで「解決した」と誤解するような倒錯した人間であり、自分たちの正義に反する異論を許さない集団であり、人権を錦の御旗に掲げているくせに他人の精神を尊重しない矛盾した存在である。
そこでまず私は、中華人民共和国とその人民を侮蔑する気持ちは微塵(みじん)のかけらも抱いておらず、彼らの全てに不快感を与えるのを望んでいないことを強調しておかなくてはならない。
私は支那の歴史書を好んで読んでおり、仮にかの国を嫌悪する気持ちを持っていたのなら、私はわざわざその国の歴史を学ぼうとはしないはずであり、また私の知人にはかの国の人々が何人もおり、私が彼らに対して敬意を抱きこそすれ侮蔑の念を抱くことなどはありえないと断言できる。
私はかの国の文化に対して敬意を抱き、現共産党政権の安定を願い、かの国が抱える多大な困難を嘆き、その人民の多くが安息を得られることを希望し、日本が今後ともかの国の問題解決のためにODAなどによる金銭的かつ人的援助を続行することを求めるものである。
私は「親支那派」であり、(左右という分類に何の意味もないことを知りながら敢えて言えば)私は「サヨク」である。
しかし差別意識がないとはいえ、公的な場で明らかな差別語を使うことは控えるべきだという意見にも一理はある。
そこで次に主張したいのが、この言葉を使う正当性についてである。
まず「支那」という言葉が広く知られるようになったのは、革命者 孫文が自分の目指す国家「中華民国」と当時の政権である清朝を区別するために、清朝をさして「支那」と呼んだことに求められる。
この言葉の背景には西洋列強の進出、日本帝国との外交や闘争、袁世凱、西太后とそれに連なる歴代皇帝たち、太平天国、義和団事件といった「崩れてゆく清朝」というイメージが存在していた。
これ以降「支那」という言葉には侮蔑的な意味が込められ、日本が日中戦争や大東亜戦争を通じて「中国」そのものを支那と呼び植民地支配したことから、支那は完全な忌み言葉となった。
しかし語源的には「支那」はCina(チャイナ)の音声に基づいた漢語訳で、古代インドにおける古代中国の呼称であり、かの大陸の文化圏を指し示す普遍的な意味がある。
そして欧米が語源を同じくするChinaを使うのを許して、日本語だけが遠慮する理由もない。
よってこの単語は根源的には差別語にあらず、明らかな差別語とみなすべきではないと私は考える。
よって私としては
一、この言葉を使うのは中華人民共和国の人々への差別意識からではない。
一、この言葉を使う正当な理由がある。
という二点を示したのであり、この二点に偽りがない限り私にはこの言葉を使う権利があると信じている。
この正当なる理由を理解した上でそれでも「支那」を使うのは不愉快だと言われる方には、「嫌がるほうが悪い」と私は返答する。
最後に付け加えておくと、私が罵倒とケンカを好むのは、衝突を通じて意見を出し合うことに意義があると考えるからである。
だが私は論争による相手の説得や和解を期待しているわけではない。
この世には価値観の違いというものが存在し、相反する2つの意見のどちらも間違っていないという矛盾があり、万言を尽くしたとしても決して相容れない隔たりがあることを私は知っている。
私が論争をする目的は決して正解を見つけて白黒決着つけることではなく、異なる価値観の存在を確認し、自分の意見が完全に正しいわけではないことを自戒し、それでもなお他人と相反する価値観を選択する覚悟を決めるためである。
しかし最近はネットにおいて反中国感情が高まり、私が支那という言葉を使っても誰も不快感を表明してくれなくなってしまった。
むしろ喜ばれる始末である。
まったくもって遺憾である。
どうやらネットの世界で嫌われるためには反中国的とみられる態度は不利であるようだ。
よって今後はネットにおいてのみは支那という言葉の使用を控えることにしようと思っている。