忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

ガチコメ的「とある決意」

2008年10月14日 | 過去記事
■2008/09/22 (月) ガチコメ的「とある決意」1

最近ではめずらしく早起きする。

妻は洗濯しながら掃除しながら化粧しながらテレビ見ながら犬と遊びながら目玉焼きを焼いている。私は自室で読書している。映画館に行くまで「自分の時間」である。

めっきり涼しくなった。窓を開けていると、涼しげな風が家の中を通り抜ける。それでも、「部分的」には暑いので扇風機を『熱い』ポイントに設置する。最近、油断していると「りーちゃん」がスイッチを入れたり消したりして遊ぶ。「ぴっ」とかいうから面白いのかもと思って、私もやってみたら面白かった。ぴっ。

「ぽぉ~~にょ、ぽぉ~~にょ、ぽにょさかなのこぉ~~♪」

私の部屋の窓を開けると、道路を挟んですぐ「保育園」がある。「お歌の時間」である。オルガンに合わせて、幼児の歌声が聞こえてくる。

「ぽぉ~~にょ、ぽぉ~~にょ、ぽにょさかなのこぉ~~♪」

その保育園は、屋上にプールがあって、少し前なら子供たちが水遊びをしている声も聞こえた。窓から覗くと、元気に遊ぶ姿が見られる。しかし、私が腕組みしながら微笑ましく見ていると、もしや、向かいのおっさんが、

“うっさいのぉ~~くそ餓鬼ども、頭から喰うたろかぁ?”

と「クレームをつけにくる」とでも思われてもアレだし、もし、その帰りにひとりでも「いなくなったり」すれば、その日の午後には我が家のチャイムが鳴るだろう。次の日、仕事に行こうとすれば、駐車場に待ち受けていた報道陣に囲まれ、

「この保育園の子供さんが行方不明らしいです。どう思いますか?」

などとマイクを向けられ、マスコミ嫌いの私は無愛想に&威嚇しながらガチコメタンクのエンジンをかける。カメラは運転席に張ってある「日本海軍旗」を大写しにするだろう。メータの前に散乱する「懐かしの軍歌」とか「君が代の全て」と書かれたCDなんかも見逃すまい。クラクションを鳴らしながら走り去るガチコメタンクのナンバープレートにはモザイクがかけられ、某巨大掲示板では「犯人扱い」されることに違いない。

「2」へ

■2008/09/22 (月) ガチコメ的「とある決意」2

また、パートに出ようとした妻が報道陣に捕まり、更に事態はややこしくなるだろう。

妻:「おとしゃんは、子供を食べようとしていましたよ。わたしもかじられてます。」

とか、絶対言う。

マスコミは「人喰いパチンコ屋!」とか「子供を景品に?」などと見出しをつけて、面白おかしく報道する。で、妻は「スッキリ」のスタジオなんかに呼ばれて(ガリガリくん3本とかで手を打つ可能性アリ)言うのだ。

妻:(音声は変えてあります)「あの~~ちょっと前なんですけどぉ~月見バーガーに子供を挟んで食べる夢を見たとかぁ~~私の頭もかじりますぅ~~」

となれば、その日、たまたま居合わせた「猿回し」なんかが、

猿回し:「ハンバーガーでしょ?やっぱり!!で、喰って太って訴える、こんな国にね、そのハンバーガーの金はだれにもらったのか、ね、そういうことききたいわけ、」

などとコメントし、更にテリー伊藤も、

テリー:「これね、車、大きい車ですよね、体がでかいからベンツに乗ったとかいうロシアの力士ね、あれと同じなんですよ!で、パチンコ屋さんで在日の方ですよね?国際問題にしたいのかってんですよ!やったと素直に認めてね、それからですよ、」

などとほざく。それを受けた、あの「つまらん芸人崩れ」、ウコンの力なんかが、

加藤某:「これ・・・相撲協会の言い分のほうが通ってますね。なんか普通に聞こえるような感じがしますよね?このパチンコ屋さんも検査結果で高血圧だと出てるわけですから、それで夜中にトンカツ2枚とかね、ちょっと説得力が無いなって思いますよね。」

と〆るわけだ。ああ、くそ、腹立ってきた。私はやってない。

「3」へ

■2008/09/22 (月) ガチコメ的「とある決意」3

「ぽぉ~~にょ、ぽぉ~~にょ、ぽにょさかなのこぉ~~♪」

・・・!!

り、リビングのほうからも・・・きょ、共鳴している・・・!!

ま、マテ。

ベランダに出て一緒に歌うのだけはやめてくれ。まだ、ここに住んでいたいんだ。

http://www.asahi.com/national/update/0922/SEB200809220002.html
<男児殺害容疑、母親逮捕 「最初は殺すつもりなかった」 >

今年に入って「親が子供を殺した事件」は少なくないらしい。増えているそうだ。信じられん。例えば、だ。

ハムスターとかリスなどの小動物を「殺せ」といわれたらどうだろう。

普通はもちろん「殺せない」わけだ。何の理由もなく、「生あるもの」を殺傷するという行為自体に抵抗があると答える人が多いと思う。もしくは「100万円あげるから、野良猫を引き裂いて殺せ」と命じられればどうだろう。中には「仕方なく・・・」という人もいるかもしれんが、やはり、ほとんどは「いらない」と断ると思われる。

で、それが「自分の子供」ならば、その判断基準は明確なはずだ。

「自分の命と引き換えでも・・・」

コレが正常なのである。更に、その判断を「咄嗟の場合」に限定すれば、普通の人は「他人の子供を護るために」でも、咄嗟に自分の命を投げ出す人も少なくなかろう。それが「人間」である。

私のような「子供嫌い」であっても、保育所から聞こえる「子供の歌声」には和んでしまう。自然と笑みがこぼれ(そこ、気持ち悪いとか言わない)、元気に成長して欲しいと願ってしまうものだ。

「4」へ

■2008/09/22 (月) ガチコメ的「とある決意」4

「障害があった」
「自分も病気だった」

「反抗されて手に負えない」
「将来的に悲観していた」

無論、どれも「理由」にはならん。言うまでもなく「もっと重度」の障害を持つ子供を育てている親もいるし、世の中に「不幸」はもっとある。それでも前向きに、懸命に生きている人も存在する。この軟弱な「母親」は許されることがないことをした。決して「理解」も「同情」もされない(してはならない)ことをしてしまった。

「遠因」は想像できる。あくまでも憶測であるが、完全に関連性を否定することはできまい。また、単純に「地域(コミュニティ)の破壊」から「相談できる人がいなかった」とする一般論や、「障害者を育てる環境が悪いから(整ってないから)」などという愚見にも、偽善にして無責任だという他ない。

先ほども言ったが「もっと不幸な人、時代、環境」があるのだ。

ともすれば、その遠因から辿ることで、最終的に「その真因」というものが見つかるならば、それはやはり「親」自体にあるのではないか。脆弱、且つ、軟弱な「親」が増えることにより、このような「やりきれない」事件は後を絶たんのではなかろうか。

「5」へ

■2008/09/22 (月) ガチコメ的「とある決意」5

「普通に社会に出て働いて暮らす」ということができない者が跋扈する世の中になった。「近代的で文化的に暮らす」ということに幸福を感じない餓鬼が増え続けている。「安全と水はタダ」だといわれた時代が日本にはあった。世界を見れば『安全と水』どころか「油や宗教」、ましてや「経済」でも殺しあっているのに、現在、そこに「ある」それらに「感謝」することすらわからない者が増えた(製造された)。

日本における倫理観や道徳観というものの瓦解が、例えば「このような」事件を誘発させているという論拠にはならないだろうか。「乗り越える」ことよりも「投げ出すこと」を優先させる思考からは、とても「成熟した大人」ができるとは到底思えないのである。

だが、至極当然に「投げ出せないこと」はある。それらに直面するとき、「それ」だけを投げ出す方策が浮かばず、短絡的に、且つ、発作的に、だ。

「全てを投げ出してしまう」

という選択肢をとらせるのではないだろうか。

徹底して「自分だけが大事」と教え擦り込まれた者は、極端に「犠牲」を嫌う傾向がある。「苦労する」ということを否定し、「努力の価値」に気付かない。「自分の人生」と区切ることで、全ての「犠牲」に意義を感じなくなる。卑近なところで言えば、

「結婚して家庭を持つ」

ということを「金と時間」で考える者も、その傾向にあるといって大過ない。比較対象が狂っているといわざるを得ない。「自分の人生を謳歌する」目的から、収入から「生活費」や「養育費」を削られ、更には「休日」なども奪われるという理由から、結婚しないという判断をする人もいるが、そういう人は本当に、一生、結婚しないほうがいい。

何をもって「人生の成功」とするかに対すれば、それは「人それぞれである」ということには、ひとまず納得してもいい。それは「結婚したくともできない」という人の人生が否定されるわけではないからだ。私が言う「結婚」とは(日本社会において)「最も平均した人生の意義」であると信じることから、それは「己自身」が既に「誰かと誰かの恋愛関係」や「様々な人間関係」を基盤として誕生していることからも自明であると思う。

「6」へ

■2008/09/22 (月) ガチコメ的「とある決意」6

「人間はひとりでは生きられない」というが、その前に、

「人間はひとりでは存在し得ない」

ということもいえる。

「結婚できない」とする者も、家族があり職場がある。プライベートもある。つまり、その濃度や頻度はともかく、「人と接する空間」にいないわけではないのだ。

この「母親」にもあった。我が子の首を絞める前に「できること」も「やりたいこと」も「せねばならないこと」も山積していたはずだ。自分の病気、更には子供の障害を受け、この「母親」は己の人生と天秤にかけた。「比べるべきではないこと」を測ってしまった。

『人はすべからく人のために生きている』

いや、

『人は人のためにしか生きられない』

という絶対的な摂理を失ったとき、それはもう「人間」ではなくなるのだろう。

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誰だか知らんが、

「人生の労苦は投げ出すことが可能」

と教えた(騙した)者らの罪は深く重い。耐久性がなく、すぐに「リミット」に達するフラフラした個人を大量生産した者らの罪は万死に値する。

己の人生の不遇を埋めようと、我が子を殺す「親」までが出没し始めている。
己の人生の不遇を埋めようと、見知らぬ他人を殺しまくる狂人が闊歩している。

もう、「信頼関係」を基礎とする「秩序」で成り立っていた日本社会は崩壊寸前である。つまるところ、「無秩序」な社会が現実のものとなりつつある。私は、致し方なく、「信用」を基礎とする「武器」や「方策」をもって家族や仲間を護らねばならない。

心の底で希求する「信頼の回復」を認めながら。

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