忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

サムライと犬の話

2012年06月03日 | 過去記事

    


妻と祇園花月に行ってきた。「大木こだま・ひびき」に笑い殺される直前、意外なところで新喜劇団員の平山昌雄が出てきた。チャンバラトリオ改め「チャンバラ軍団」だった。リーダーの山根伸介が入院している、ということで、弟子の平山が急遽、応援という形でやっていた。平山は元ジャパンアクションクラブ。運動神経抜群で殺陣も上手い。

でも、しばらく見ない間に「チャンバラ~」も人が入れ替わっていて、何人か増えたメンバーの中には知らない芸人もいた。個人的主観、且つ、プロに説教するレベルの「長年のお笑いファン」として書くが、ネタも中途半端に詰め込み過ぎで落ち着きがなかった。このあとに「大木こだま・ひびき」がいなかったら、客席の雰囲気は「そのまま休憩」に入りそうだった。つまり、酷い退屈を感じた。

良かったことも書くと、それはやはり殺陣のシーンだ。時代劇役者や斬られ役の芝居は圧巻だ。表情や舞台を踏む音だけでも目が覚める。だから余計に「お笑いコーナー」の劣化が目立つ。なんとなくの流れで「ハリセン」など言語道断、天国花月にいる南方英二に謝りなさいと言いたい。それでもまあ、子供会かなにかしらんが、たくさんいた小学生には「チャンバラシーン」がウケていた。「新撰組の秘密兵器」というコント、気にせず「オチバレ」を書くと、最後に新撰組はパーティグッズの巨大クラッカーを持ち出して「テポドン」と称してぶっ放して終わりだ。それが反対側にぱんっ、ということで後ろの役者が倒れることになる。ここもそうだ、ベタを否定はしないが、登場から「後ろの人物」が移動しながら顔をだな・・・・ま、まあ、よろしい。

最近、テレビの時代劇が無くなったが、日本人は「チャンバラ」が好きだ。とくに子供。いまは「にんたまナントカ」というアニメがあるらしい。たぶん、忍者の子供かなにかの漫画だろう。子供らはソフトビニール製の「刀」を振り回して遊ぶ。私の幼少期と同じだ。

戦前も同じ。「チャンバラ」は日本人の御楽だった。しかし、羹に懲りて膾を吹くGHQはこれを禁止した。朝日新聞はこの理由を<GHQがチャンバラ劇を禁じたのは、日本から軍国主義を一掃して民主主義を根付かせるという目的から(2012.1.7夕刊)>とあっさり書く。<あだ討ちや切腹、人を殺すシーンは生命を軽視し、君主への忠義といった封建的な価値観をあらわしているとみなされ(後略)>とかGHQの言った通りに書く。

もちろん、これは嘘だ。GHQは侍が怖かった。日本刀が嫌だった。だからチューインガムやらホットドッグと一緒に「アメリカ文化」も大量に放り込んだ。朝日新聞は<人を殺すシーンは生命を軽視し>と書くが、昭和23年にはジョン・フォードの「荒野の決闘」が流行る。日本刀で斬り殺すのは残酷、生命の軽視であるが、しかし、拳銃ならばよろしい、ということか。


ヒッチコックの「断崖」もあった。中身はいまで言う「サスペンススリラー」だ。べつに<日本から軍国主義を一掃して民主主義を根付かせる>という意味などない。そもそも日本は軍事態勢だっただけだし、戦前から民主主義もあった。

だから昭和27年のサンフランシスコ講和条約以後、チャンバラ映画は復活する。西部劇というジャンルは残るが、それよりも多くの日本人は市川右太衛門やら片岡千恵蔵を観た。6年後の昭和33年には「映画館入場者」が11億2700万人を越えた。空前の大ブームが湧き起こる。日本人の子供はピストルを持って遊んだが、それは西部劇ではなく、怪傑ハリマオだったり、月光仮面だったりした。それからやはり「チャンバラ」は大人気だった。

巷には「早乙女主水之介」や「机龍之介」に扮する子供らが走り回る。悪党一味を前にして「天下御免の向こう傷」とやる。昔の子供も今の子供も、日本の子供は「チャンバラごっこ」がスタンダードなのである。アメリカ人の子供はようやく「スターウォーズ」でちょっとだけ気付いたが、チャンバラは基本的にカッコよろしいのである。





私の場合は「怪傑!ライオン丸!」だった。その日も私は「見参!(ライオン丸が変身するときに言う)」したわけだった。近所の美容院にいたブルドッグを倒すためだった。幼稚園の頃の私はオカンらに連れられて、よくこの美容院で待たされることがあったのだ。その美容院のオバちゃんは、大人しく絵本などを読んで待つ私に「クリームソーダ」をくれたのだった。その日の私も「クリームソーダ」を飲みながら「どうぶつずかん」などを読みふけっていた。しかし、そこにオカンがブルドッグをけしかける。オカンは、私が怖がるから面白かった、と当時の犯行動機を供述するが、私はその重大な結果「咬まれて犯された」を突き付け、今でも思い出したときに謝罪と賠償を求めるのであった。

その日、私は「復讐するは我にあり」ということで、私は祖母に買ってもらったばかりの「金砂地の太刀」をみつめていた。風よ、光よ・・・・と念を込めると「果心居士」が施した封印の鎖が解けた。「見参!!」ということで悪の根城である美容院を急襲する。私の中では美容院のオバちゃんは「大魔王ゴースン」になっていた。操られるブルドッグは「怪人ガンドドロ」だった。喰らえ!飛行斬り!!とジャンプして斬りつけるも、ガンドトロは怯む様子もなく、そのまま(また)私を押し倒して顔をべろべろやった。臭い。

半泣きで逃げ出すと、そのまま(また)後ろから乗られて犯された。泣いた。泣き濡れた。

飛びかかられたときに「金砂地の太刀」も投げ捨てていた。ガンドトロがいま、ぐちゃぐちゃと美味そうに咬んでいるのがソレだ。それをみた私は半ば錯乱状態になって、なんと、残った武器、つまり「沙織の小太刀」を口に咥えた。これも「ライオン丸セット」にあったのだ。しかも、この小太刀は「果心居士」の妖術により「男に負けない力」が発揮できるという優れモノだ。それを男の中の男である私が装備すればいったい・・・ということで、私はなぜだか、それを口に咥えながら、うぉ~!と吠えた。号泣とも言う。

すると、どうだ。ガンドトロが怯んでいる。明らかに狼狽している。私に恐怖している。「コレは利いている」と判断した私は、全力でうぉ~!!うぉ~!!をやった。ガンドトロは尻尾を丸めて逃げ出す。私はうぉ~!うぉ~!と追い詰める。それにしても美容院の床は危険だ。滑るのだ。だから、私もすってんころりんした。前に、だ。そらもう、なんだったら、ちょっと浮かんで床に叩きつけられる感じだった。それから気付いた。「小太刀」は逆さまだった。つまり、私は「刃のほう」を咥えていた。

床は白いタイルと茶色いタイルが組み込んであった。よくみるとちゃんと法則があった。白、白、茶色。白、茶色、白、白、茶色、白・・・・赤・・・・??

血が噴き出していた。私は上半身を立て直し、正座しているような格好になった。口からは「沙織の小太刀」が生えていた。そこから大量の血が流れている。私は「ライオン丸」のつもりだったが、これでは銭湯にある「ライオンの口からお湯が出るアレ」みたいになったなぁ・・・とか冷静に考えて、それから、まさか後頭部から小太刀の先っちょが出ているんぢゃ・・・?と心配になり、恐る恐る後頭部に手を当てていたりした。

大魔王ゴースン、つまり、美容院のオバちゃんは悲鳴を上げた。それからオカンを呼びに走った。ガンドトロは敵である私を心配そうに見ていた。しばらく見つめ合っていた。

美容院に来たオカンの顔は半分だけ化粧していた。それから「口から小太刀を突き刺して血を流しながら正座する我が子」をみて卒倒した。大魔王ゴースンはうろたえながらも救急車を呼ぼうとした。しかし、オカンは「自転車のほうが早い」と言い出し、私を自転車の後部座席に座らせた。もちろん、口からは「沙織の小太刀」が生えている。まゆ毛の無い真っ白い顔したオカンが浪速の下町を疾走する。後ろには口から刀、血が滴る幼児がいる。いくら大阪とはいえ、シュールではある。


総合病院に着く。医者が小太刀を引き抜く。「扁桃腺」の横を切っていた。縫える場所でもなく、縫うほどでもなく、薬を塗られてお仕舞いだった。いろんな意味で「見た目ほど」でもなかった。


家に帰ると、オカンは「(薬がとれるから)唾を飲むな」と言った。だから私は口の中を唾液で一杯にして、それをダラダラ流しながら座っていた。それからオカンは「しゃべるな」とも言った。「傷が膿むと手術やで」と怖いことを言うから、私も真面目にそれを守った。もちろん、腹が減ってもメシは食えない。私は絶望した。いちばん下の叔母さんは根性が腐っているから、わざわざ「今日は焼肉にしよか」などと言って、喰えない私をからかい、大いに泣かせるから、祖母に「ぐー」で顔面を殴られて泣いていた。末っ子かなんかしらんが「初孫の可愛さ」を舐めてはいけない。祖母は常に私の味方なのだ。

それから私は立ち上がり、怪しげなひらがなを駆使して「おばちゃんのとこいく」みたいに書いた。それだけですべてを察したオカンは、なぜだか同じく、その紙に「ええよ」と書いた。美容院はすぐ近く、というか、道を挟んだ向かいにあった。

美容院のオバちゃんが駆け寄ってきた。だいじょうぶ??と言うから、私は大袈裟に頷いた。ガンドトロ、つまり、ブルドッグの「ラッキー」もいた。私が上から見つめると、ラッキーは寝そべったまま顔を向けてきた。私はその場に座り込んで頭を撫でた。言葉は通じぬ、というか、私は声も発せられなかったが、そこは戦った者同士、はっきりと友情を感じた。ラッキーは「悪かったな?だいじょうぶか?」と言っていた。オバちゃんがクリームソーダをくれた。私は自宅玄関を警戒しながら飲んだ。喉にちょっと染みた。

小学校3年生のとき引っ越した。それからすぐ、我が家に「ミニコリー」がやってきた。私はずっと犬が欲しい、と言っていた。名前は「ラッキー」と名付けた。


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