忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

還暦過ぎてからのメールの使い方

2010年09月18日 | 過去記事

妻の仕事場で60代半ばの男性がいる。その人は元々どこかの板前だったらしく、専ら「調理」を担当している責任者だそうだ。店のメニューを決めたり、その日のオススメを選んだりするから、妻を含める仕事場の従業者はその人をメインとした指揮監督で動く。

しかし、ある時から「指示が聞き取りにくくなった」とのことだった。何言ってるかわかんないのは我が妻も負けてはいないが、そうではなく、発音が怪しくて意味を解さない場合が増えてきたのだという。商品名や調理器具など、そのシチュエーションに応じて判断して動くことも出来るが、やはり、細部まで確認せねばならない業務もないわけではないから、周囲の従業者はとても困っていたのだという。男性に自覚症状があるのかないのかはともかく、忙しい時に何度も聞き返されることになるから、その男性は不機嫌にもなる。

いい加減、周囲の従業員もブツブツ言い始めた。そして、こういうときこそ我が妻の出番だ。昼飯にアイスでも奢ってもらったのかは知らんが、ともかく、駆り出されることになったらしい。さあ、あの職人気質の頑固ジジイに、どういう切り口から質問して行くのかと、周囲はどぎまぎしながら見守っていたことだろう。しかし、そこは我が妻のこと、だ。

「なにいってるかわからんで?みんな困ってるで?」

今から直球を投げるぞ?と言ってからのど真ん中ストライク。160キロは出ていたと思う。

本人も「なんかおかしい」とは感じていたのである。その頑固職人は「なにおおぉう!」と言い返すわけでもなく、あまりの直球に対して「やっぱり?」となった。

職場における指示命令系統の整備はそれで功を成したのであるが、問題はその原因であった。妻は「これは仕事に害が出るから、ほっといたらアカンやろ?」ということで、自らが先頭に立って、猫の首輪に鈴をつけに行ったのであるが、妻の懸念はそれだけではなく、何か「口の病気」ではないか?とのことだった。そして、それは当たっていた。

病院に行って検査を受けたら「舌癌」だと言われたそうだ。もちろん、早期発見であるから心配ないのであるが、私はその御仁が板前上がりで、現在も惣菜屋の調理場とはいえ「店の味」を任されているというとこが気になった。料理人にとって「舌」は命に他ならない。

本人も相当に凹んでしまい、周囲は声もかけられない状態だったという。そして、あくまでも最悪の場合であるが、その相棒である「舌」を切断せねばならない可能性もゼロではないのだ。しかも、舌癌はリンパ節へ転移することがとても多い。そうなれば早期発見も意味をなさなくなる可能性もある。本人も知っているのだろう、仕事場で周囲に不安を漏らすことが増えたという。「もう死ぬのだろうか」「舌が無くなったらしゃべることもない」などと、急にぽつりとやるらしいのである。趣味はカラオケだそうだ。

気持ちはわかる。また、こういうとき、臆病なのは往々にして男だ。舌を切断する、など、聞いただけでも背筋が凍る。

妻は基本的に「お昼からパートさん」なので、これを午前の従業者から聞かされる。「もう、たまらんわー」ということだ。そして、これまた、妻の出番となる。




「ええやん、生きてるんやから」



凍りついた周囲のパートさんがさすがに言う。「そんな、他人事みたいに・・」




「んあ?しやかて、他人事やん?」






――――私は妻に「華岡青洲」の話をした。世界で初めて全身麻酔を施して(通仙散)乳癌の手術をした日本の医者だ。1846年にアメリカでエーテルを用いた麻酔が使用されているが、実にその40年以上も前のことだ。「華岡青洲は患者を助けたい」だけでなく「苦痛をなんとかしてやりたい」と考えていた。「直す」のではなく「治す」ということだろうか、私はここにも日本人らしさを感じてしまう。そのころ、欧米での舌癌治療といえば、患者を押さえつけて舌をペンチで引き出し、巨大な植木バサミのようなものでばっさりやるのが当たり前の時代だった。

私はこの話を「べろの癌のおっちゃんがなー」という妻にした。それよりマシだと言いたかったのだ。妻がこの話をその御仁にしたとは思わないが、妻は妻なりに理解してくれたようで、要するにまあ、いろいろ難儀なこともあるけれども、どうにか生きてるやんか、と言いたかったのであろう。また、これは「他人事」というよりは「客観的」である。

もちろん、これが自分や自分に近い人ならば、なかなか客観性を保つのは難しい。しかし、だから、他人様がいる。自分自身を客観視できる人とは卓越した人格者である。これを新渡戸稲造は「武士」だとした。自分がどう思っているか、よりも他人からどう思われるのか、という価値観も日本にはあった。世間様という概念のことだ。そうすることによって、誰が何をすればよいのか、また、何が出来ることなのかも分かってくる。

どうしてよいかわからず、なんと言ってよいかわからず、単にオタオタするだけではなく、ましてや、心の底から「自分には関係ない話」として切って捨てるわけでもなく、あくまでほどほどの、お節介や大きなお世話からなる接し方、付き合い方のことだ。

妻は休憩時間にメールを教え始めた。聞くまでもない頑固オヤジ、アナログ人間と知れている。この御仁はそれまで、携帯メールなどとは無縁の世界に生きていた。この御仁は60歳で再婚したらしく、ある意味、まだ新婚さんだ。少しだけ年下の奥さんともメールし始めたようだが、教えているのは妻であるから、やたら絵文字やデコメールを使いこなすという妙なオヤジになってしまった。

現在は入院治療中であるが、奥さんとも仲良くやっていることだろう。口では「おう」とか「ふろ」とか「ねる」でも、まさかメールでそうはいくまい。まあ、仮にそうであっても、人間、覚えたことは使いたくなるものだ。頑固一徹の旦那が「ねる」のあとに、ついうっかり「(。´-ω-)_ウトウト・・・。」とか入れてしまったら楽しいではないか。むっはっは。

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