忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

ぱんとさーかすとけいたいとこんびに

2010年06月12日 | 過去記事

刑事ドラマなんかの中間管理職のおじさんが、主人公刑事の破天荒な言動にストレスを爆発させ、ある人は胃を押さえて「あいたたた・・・くすりくすり・・」となり、ある人は血圧の上昇から気を失いかけたりするシーンがある。若かりし頃、ンなことあるかいだ、なにを大袈裟なと思っていたそこのあなた、アレはちょっとホンマかもしれませぬ。

サラリーマン時代の不養生と不摂生、そこに楽しくもスリリングな不規則生活のツケ、または飲み過ぎ食べ過ぎ遊び過ぎ、借りたものは金でなくとも返さねばなりませんという今日この頃、胃がムカムカするというのはこういうことかとわかった39歳の初夏2010―――そこにくだらぬテレビなんぞを見る機会が増えてごらんなさい、血圧の上昇はもう、今使っているのがカイオウ拳10倍だ!これからが本当の地獄だ!ということで、じっと安静にして眠り続けたいほどの脱力感に身を任せ、血圧計がぼわっと壊れてしまうほどヒート、手が震えるほどハート、4tトラックにジェットエンジンを搭載してアクセル全開すればどうなるものか、あやぶむぶむぶmなかれ、逝けばわかるさ、ありがとー!

みなさま、長い間、ありがとうございました。「虹が消えるまで」は虹が消える前に、私の血圧計の針が消えてしまうわけでありますがしかし、虹の会の戦いは今始まったばかり、今月には飲み会もありそうな予感、死んでいるわけには参りません。青汁でも赤汁でも何でも飲んで、健全な精神は健全な肉体に宿かれし、体調の悪さなどナンダコラタココラ、ヤンノカコラタココラ、と、あの有名な古代ローマのユヴェナリスも申しております。


ま、ところで―――――

そういえば、ずいぶん前に「健全な精神は健全な肉体に宿る」は、実のところ「健全な精神は健全な肉体に宿かれし」であるのだと書いたことを思い出した。健全な肉体でなくとも健全な精神が宿ることは可能、しかしながらせめて、健全な肉体の人に健全な精神(魂)が宿ればいいよね?という意味らしいと書いたのだが、いま、また思いついたから書いておこう。すなわち、これ、年取ってくると、だ。

「健全な精神」にしか「健全な肉体」は宿らねーのではなかろうか。ちゃんと運動して腹八分目、酒もほどほど煙草は止めた、家族のために健康パパになるんだよ、という「健全さ」がなければ、この季節、やっぱスタートビールはキリンだよな~~とかなっちゃうのである。ぐびぐびぷはー。誕生日に会長からもらったスコッチはうまかったですなー


いや、酔っ払って書いているのではない。一応、こんな拙ブログでも読んでくれている人がいるんだから、ちゃんとすっきりした頭と心で書いているのである。そこ、こんなんでそうか?とか言わない。私の趣味なんだからいいじゃないか(泣)。民主党よりマシだし。



ンで、だ。

このユヴェナリス、もうひとつ有名な詩がある。これだ。

「(前略)かつては政治と軍事の全てにおいて権威の源泉だった民衆は、今では一心不乱に、専ら二つのものだけを熱心に求めるようになっている。すなわち“パンと見世物”を・・・」

日々の糧と娯楽、現在でも、いわゆる「3S(セックス・スポーツ・スクリーン)」とは国民から政治への視線を逸らす役割であると言われる。繁栄の絶頂期を迎えたローマではバラマキどころではなく、時の政権はローマ市民に無料で穀物を配布していた。コロッセウムでは剣闘士が命を賭けて戦う「見世物」が連日行われる。ローマ市民は政治に対する関心を失い、自分目線の小さな思考しかできなくなり、目の前にある楽しみにしか興味を示さなくなる。「国民が国のことを考えなくなる」――――その結果は周知の通り、ローマ帝国は衰退して滅んだ。ユヴェナリスの危惧はその通りだった。


日本でも、最近ちょっと調子の出ない朝日新聞が、とてもよいアンケートを行っている。これをみれば「パンとサーカス」にしか興味が無い人の比率が分かる。いやぁ、それにしても朝日、中の人になんかあったのか、それともネット世論に阿りだしたのか、いずれにしても心配である。私もたまには買って読もう。

http://www.asahi.com/politics/update/0610/TKY201006100468.html
<「日本は自信を失っている」74% 朝日新聞世論調査>


ところで、山田バーにはちょくちょく「ブログ読んでるぜ!」と言ってくれる嬉しいお客さんが来る。先日もひとり立ち寄ってくれた。しかし、私の杜撰な経営、店に着いて先ずやることが「他の店に飲みに行く」だったりする店だから、この御仁も何度か「せっかく来たけど店が閉まっていた」という憂き目に遭わせてしまったごめんなさい。次からは電話くださいねとか言いながら話していると、ちょうど「ネット世論」の話が出た。

「なぜネット世論は(どちらかといえば)保守的なのか」である。



私の意見はこうだ。

「1ミリでも能動的に情報を受信しようとすれば保守的にならざるを得ない」

テレビや新聞、あるいは井戸端会議、さらにはアゴラ(公共の広場)的なるものにおける論議などから、あくまでも受動的にしか情報を受け付けないと革新的になりやすいわけだ。これには根拠もある。先ず、言えることは「情報の媒体が、すべからく左翼的」だからである。また、能動的に情報を得ようとする動機とは「疑問」や「疑念」であるから、少し立ち止まって考えてしまった人は、ある種の違和感に気付く。すると、そこには「戦争反対」と「交通事故反対」の無意味さが堂々と落ちている。それからまた考える。考えるには情報が必須だから、能動的に成らざるを得なくなる。本を読み、ネットを見る。

いろんなことを例えてみる。わかりやすいのは「犯罪と警察」の関係などだが、これは他にも当てはまる。例えば「老人と介護」や「障害者と福祉」などでも同じだ。介護の仕事をしている人は「介護をせねばならない老人」がいるからメシが喰えている。だからといって「体が弱るお年寄り、自分で自分のこともできなくなる老人のおかげで、私は仕事にありつけます。だから、弱った老人には感謝しています!」といえば吊るされる。吊るされるが、これはあながち間違えてもいない。障害者の子供を持つ親に「お宅のお子さんのように、障害をもって産まれて来てくれる子供がいるから、私はこうして家族を養えるわけです」と言ったら吊るされる。吊るされるが、実はその通りなのである。

しかし、普通、こういうことは言わない。もっとわかりやすいのは葬儀屋さんなどであろうが、うちの主人が急に・・・と泣き崩れる奥さんに「まいど!おおきに!」とやれば、それはもうコントである。交通事故発生、どちらがどちらの所為にもせず、こちらが悪いんです、いやいや、とんでもない、私の方ですとやれば警察の仕事は減る。保険屋も楽だし、裁判所もいらない。人類皆兄弟、みんながみんな季節の移り変わりに心をときめかせ、道端に咲く可憐な花にきゅんとなり、さあ、今日も誰かのために頑張ることが自分の幸せ、嗚呼ぁ、友愛ってなんて素敵な言葉なのかしら、嗚呼ぁ、今日も明日も人のために損をしたい!誰か困っている人はいませんか?という人ばかりなら、それはそれでいい。

しかし、ちょっと立ち止まって考えると、すぐに気付く。不特定多数の人間がいる世の中で、絶対にそんなことにはならないのである。ならば、豊かになればどうなのか、国が強くなればそうなるのかと思えば、日本の同盟国は世界一位の経済大国であるも、その犯罪発生件数はどうかとみれば、これまた、すぐ「こりゃ違う」と気付く。私が小学校の頃「ソ連には泥棒がいないんですよ!」と言っていたアカ教師がいたが、それを今でも信じているなら、頭の中が小学生なだけだとなる。つまり、そんなことにはならない。

「交通事故は悲惨」と「戦争は悲惨」は同じこと。「交通事故大好き!」がいないなら「戦争大好き!」も変態である。「最近、仕事減ったよな、もっと体の悪い老人が増えればいいのに」がいないなら「健康ブーム反対!我々の仕事を奪うな!」というお医者さんもいない。「強盗か殺人じゃなきゃ、気合入らないじゃん!」という警察は怖い。

すなわち、少しだけ立ち止って考えると、ちゃんとわかるようになっている。憲法9条信者や唱えるだけの平和主義者は「火事はこれを禁ずる」と言って安心し「戦いません!抵抗しません!」と宣言すれば強盗のほうが「あ、そういうことだったんですか、これは失礼しました、それではそういうことで」と言って去ってくれると思っている。これを「脳内お花畑」という。左耳からちょっと花が見えるかもしれない。

だから、この朝日新聞の数字は正しい。

<朝日新聞社が「日本のいまとこれから」をテーマに郵送方式による全国世論調査を実施したところ、「いまの日本は自信を失っている」とみる人が74%に達し、9割以上の人がこれからの日本に不安を感じていることがわかった>

入口は同じだ。保守であれ革新であれ「現在の日本は自信を失っているか、いないか」と問われれば、このくらいの数字にはなろう。私も「失っている」に1票だ。9割以上の人が「日本に不安」も同じこと、今から車を運転する人に「交通事故の不安はありますか?」と同じ、9割のマトモな人は不安だと答えるはずだ。しかし、この先から少し違う。

<一方で、回復する底力があるとみる人が半数以上おり、日本の将来のあり方としては、経済的豊かさよりも「格差が小さい国」を求める意見が7割を占めた。>

先ずは最初の「回復する底力がある」と答えた半数だ。これはつまり「交通事故の不安はある。だからこそ、安全に配慮し、無茶な運転を避け、平常心をもってハンドルを握る」と半数が答えていることになる。事故は怖い、でも、事故を起こさない努力をする、ということだ。残りの半数は「それでも事故は起こすかもしれないから不安」だと言っているに過ぎない。もちろん、これもおかしくない。合わせて9割が不安、そういうことだ。

矛盾しているのは次だ。「経済的豊かさよりも格差が小さい国がいい」の7割だ。こういう連中が民主党に政権を獲らせた。責任をとって税金を3倍払って欲しい。

すぐに気付くのは「経済的に豊かだから格差が少なくなる」という常識だ。いま、ワールドカップに湧いている南アフリカに格差がないだろうか、北朝鮮という国を知っているのだろうか。将軍様や労働党の幹部の生活と、北朝鮮人民の生活の格差を知っているのだろうか。それはもう、格差というよりも「落差」ではなかろうか。しかし、この7割のうちの半数ほどは知っているはずだ。だからこそ最悪、こう答える者の半数は「自分ベース」なのである。他の人は知らぬが「自分の生活だけにおいて」こう答えているのである。

すなわち、自分ベースで考えて「努力して豊かになるよりも、遊んでいても貧乏しない国が良い」と言っているに過ぎない。この7割は「カスとアホ」の割合である。世の中の仕組み、あるいは社会の仕組みというものを理解していない餓鬼と、携帯電話とコンビニがあれば、あとはなんでもいいという「自分くん」である。こういう奴は北朝鮮に行って「凍った白菜の欠片」を命懸けで奪い合ったほうがいい。「仕事のない国」に行けば仕事も探さないで済む。携帯もコンビニもないけれど、収容所に入ればトウモロコシのカスくらいは喰わせてくれる。そこで主体思想でも学んで来ればいいのである。



しかし、まあ、それでも、民主党議員は安心しない方がいい。

ネット世論も「世論」である。そして、ネット世論とは能動的に情報を得る層のことだ。繰り返すが、能動的になればすぐに気付くレベルのプロパガンダ、テレビマスコミが報じないことも「情報の海」の網にかかる。インターネットの規制は遅すぎた。

<自信を回復する底力があるとみる人は56%。また、全体で75%が「日本に誇りをもっている」と答えた>


戦後一貫して反日マスメディアが頑張って来たのはなんだったのか。朝日新聞はこの75%をどう考えるのか。25%の「誇りを持てない」が成果なのかもしれんが、それでも非効率的なことをやったもんだ。それでも「誇りが持てる」が75%という数字ならば、まだまだ友愛が足らんのと違いますか。

そして、おそらく、この数字は増えている。確認はしていないが、昨年なら75%もなかったのではなかろうか。しかも、朝日新聞の数字である。この日本という国は、学校でぼろくそに教えられ、マスコミから極悪非道に言われ、特定亜細亜からは鬼畜生のようにこきおろされている。それでも朝日新聞の調査、ランダムに選ばれたとされる3千名の7割を超える人が「日本に誇りを持っている」と答えるのは「能動的に情報を得た」からに決まっている。この日本という国は、ちゃんと調べて考えると、そうなるようになっている。

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