忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

はっきょいのこった!

2010年02月05日 | 過去記事


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朝青龍が引退を決めた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100204-00000096-mai-spo
<引退…暴行問題けじめ「自分にとっての運命」>

まあ、仕方がない話だ。もっと早くても良かったかもしれないが、まあ、一応、相撲界に対しては責任を果たした形であろう。まだ29歳らしいが、格闘技するもよし、実業家で金稼ぐのもよし、モンゴルで政治家になるのもよし、つまり、勝手にすればいい。

また、テレビを見ていると、コメンテーターが「強かったけれども品格に問題があった」とか「これからも外国人力士は増えるだろうから、親方がちゃんと品格を指導しないとダメだ」などという。サッカーの日本代表監督も「聖人君子にならないとダメなのか?」と呆けたような擁護をしているが、コーカシアン(白人崇拝)のような「金髪に染めて球を蹴る日本人選手の姿」を見過ぎて、スポーツと伝統芸能の区別もつかないらしい。

朝青龍に欠けていたモノとは品格ではなく常識だ。横綱であれIWGPヘビー級王者であれ、酒に酔って人を殴れば暴行罪だと言うだけだ。「横綱としての立ち振る舞い」のレベルではなく、モンゴル人であれモンゴルマンであれ、成人している男性として、日本という国で金を稼ぎ暮らすならば守らねばならないルールの話である。


そもそも「品格」というのは「精神の形」であり、いわば武士道に通ずる道徳観念である。相撲道という伝統芸能の世界においては最も大切とされる価値観ではなかったか。相撲だけではなく、空手道や柔道、華道や茶道などと同じく、およそ「道」のつく世界での修行における必須条件であるはずなのだ。そこに「できている・できていない」と評する余裕はなく、それが認められないならば、全てを否定されることも受け入れねばならぬ「条件」ですらある。いくら強くとも、いくら人気があろうとも、その素養の全ては無視して判断されねばならない。これは町の空手道場の子供でも知っていることだ。

礼に始まり礼に終わる――――私は空手も柔道もかじった程度だが、それでもそれくらいは知っている。とくに、その中でも相撲道はスポーツ的要素が希薄な伝統芸能のはずだった。オリンピックで金メダルを取るとガッツポーズしたり、メダルにキスしたりする「柔道の選手(柔道家とは呼びにくい)」は、これも時代と許されているが、これを相撲道でまで許容するに、これはもう、遠からず相撲道の瓦解を意味するだろう。

その理由は以前も書いたが、相撲など、そんな非効率的、且つ、不公正極まりないスポーツはあり得ないからだ。伝統でなければ存続させる意味などない。スポーツにするならば柔道のように「体重制」にせねばならないし、両国国技館の固定資産税は払わねばならない。「減量に苦しむ相撲選手」など、その日本語がもうおかしいのである。


しかも、私は知らなかったのだが、朝青龍は日本国籍を取得していなかった。ここは重要であろう。日本の伝統芸能を引き継ぐ者が日本人ではないということは異常だと思う。もちろん、趣味でやっているのならば問題はない。ドルジさん(29歳)が相撲好きのモンゴル人で、あだ名が「よこづな」でもいい。しかし、朝青龍は日本相撲協会が認めた力士であり、審議委員会でも認められた最高峰、横綱である。ここで「国籍」を問題にしなかったことも、伝統の破壊、すなわち「興行」としての相撲巡業しかみていない証左である。伝統を破壊しながら、モンゴル人に「品格が無い」などよく言えるもので、日本人力士が育たないとか、新弟子が来ない、などという理由から外国人力士を増やし、200キロを超える巨漢力士に人気を任せ、横綱昇進の挨拶では「カタコト」の日本語が通例となった。モンゴル人やロシア人の関脇が人気を博する相撲界に、ますます日本人力士は肩身を狭くしていることだろう。「伝統を守る」とは興行成績のことではあるまい。弱かろうが、少なかろうが、日本人力士だけで巡業すべきである。そのうち強い力士も出てくるだろう。



また、ちなみに武士道とは鎌倉武士が「戦いの掟」として用いた道徳観念である。その価値観が江戸時代のミラクルピース、260年の平和で庶民にも浸透していった。模範であり、規範であり、躾であった。それは日本という国の国柄というものになった。とくに「名誉」と「惻隠(敗者への情)」は武士道の特徴的な観念である。すなわち、相撲道における「品格」とは「名誉」に通ずる立ち振る舞いのことであり、無論、その「名誉」とは己の名誉ではなく、朝青龍の場合、過去の歴代横綱に対する名誉であり、相撲道という伝統に対する名誉のことである。品格なき横綱は相撲道を汚すわけだ。


マスコミやファンが騒ぐからという理由だけではなく、相撲協会も「厳重注意」という処分は何度も下している。もちろん、モンゴル人に効果はないが、本来、そのような伝統の世界で修錬した力士ならば、理解に浅くとも真摯な態度で聞き入れてくれるはずなのであり、低迷する相撲界を支える人気横綱であっても猛省するはずなのであった。身体だけではなく、精神レベルでの錬磨を要する横綱という自覚から、自ずから相撲道に恥じぬ、過去の偉大な横綱に恥じぬ、世話になった親方に恥じぬ行いというモノを進んで学ぶはずだった。連綿と続く伝統からなる「格式」というものの存在に、言葉はカタコトでもそれに気付き、その重さを感じ、その意味を考えることになる。それを畏怖という。


イギリスの「騎士道精神」は、馬から降りると「紳士」としての立ち振る舞いのことになった。それは「生き方」としての規範である。例えば、

「…………ディオ! ぼくの気持ちをきかせてやる…… 紳士として恥ずべきことだが 正直なところ今のジョナサン・ジョースターは………… 恨みをはらすために ディオ! きさまを殺すのだッ!」(ジョナサン・ジョースター1889年2月没)

というように、非常に厳しい枷を己にはめる。「名誉」や「恥」に重きを置く考え方は、日本の武士道にも通ずる部分があると思う。しかし、武士道は土着の精神論である。だから武士道は「生き方」という観点だけでなく、それら全てにおける究極の価値観、すなわち「死に方」にこそ問う道徳観念なのである。例えば、

「茶坊主であれば畳の上の作法で死ぬのもよろしかろうと存ずる。されど助右衛門はいくさ人でございます。戦さ場で槍働きの果て死ぬるのが務めでございます」(前田慶次 CR花の慶次~斬~絶賛稼働中)

というように、その死生観からなる精神論なのである。あの「葉隠」では「武士道というは死ぬことと見つけたり」と佐賀鍋島藩の山本常朝も言っている。すなわち、死んでいれば欲もない、生きていないのだから欲しがることが無い。欲しがることが無ければ汚れることはない、という美徳を極める心を説いている。「金に執着することは恥である」とし、平和になった時代に武士が貧乏していたのは周知のことである。



話を相撲に戻すと、朝青龍はモンゴルでは実業家として知られているという。グループ会社があり、「朝青龍ファミリー」はモンゴルでは有名な財閥であるという。もちろん、朝青龍が何をしようが、金を稼ごうがどうでもいい。しかし、マスコミや横綱審議委員会が「横綱の品格」などというなら、酒飲んで人を殴る前にいろいろあっただろうと言いたいだけだ。

ま、それでも、朝青龍ですら「大変ご迷惑をかけ、大変騒がせ、責任を取って引退しました。最後にけじめをつけるのは僕しかいない。(こういう引き際は)自分にとっての運命じゃないかと思う。相撲に対する悔いはありません」と殊勝なセリフを残して髷を切る。どっかの民主党の政治家のように「知りません、わかりません、やめません」ではない。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100205-00000115-jij-soci
<石川議員を保釈=大久保、池田被告も決定-小沢氏団体事件・東京地裁>

これも国会では「モラルの問題だ!」とかやっている。これも間違い。モラルとは道徳、倫理観のことである。この場合はコモンセンス、つまり常識、社会通念の問題だ。

母親から12億円もらって「全く知らなかった話でありまして♪」と国会の場でたれるのは道徳の問題ではなく、この男に常識が無いだけだ。つまりいま、日本の総理大臣は「非常識な人」なのである。無論、そんな非常識な総理大臣がいる政党の幹事長も飛びっきりの非常識だ。数億円の現金を持っていたのか、銀行から借りたのか、人から預かっていたのか、家族の名義にしていたのか、どれだかわからないそうだ。

こんなことが通じると思っている時点で非常識極まりない人間なのだが、これも朝青龍と同じく、要するに時間の問題だ。ボロボロに崩れたマニフェストとは異なり、これだけはブレないで推し進めようとする「日本解体」の企てが、多くの日本国民の目に見え始めたいま、いずれ、近いうちに「小沢民主党」は日本の良識に潰される。

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100203/plc1002032019014-n1.htm
<鳩山首相、人権侵害救済法案の早期提出表明 言論統制の危険性も>

外国人地方参政権、夫婦別姓法案、そして人権侵害救済法案。ごり押しで通そうとしているみたいだが、選挙のための「党益」とのバーターで「国益」を切り売りする政党が、いつまでも許されるはずもない。友愛総理に至っては「地球益」とまで言い出しながら、日本の国益を放り出そうとしている。頭がおかしいのは勝手だが、そろそろ「政権交代」の声も出てくるのではないか。いや、自民党に戻すかどうかは措いて、だ。

「党内での政権交代」こそが真の政権交代なのではないか。

これは民主党にいる「政治家」に向かって書いている。もう、自民党だけではなく、民主党内の「横綱」どもの「品格」も常識も限界ではないのか。ここらでもう、髷を切るのではなく、バッチを取らせることが必要なのではないか。明けても暮れても「政治とカネ」で国会を空転させながら、それで「日本のため」になっているわけもなかろう。日本と日本人のために政治家になったのならば「素行の悪い横綱」に引導を渡し、今こそ、政権交代を実現させる時ではないか。先に挙げた悪法だけではなく、この政権は日本をダメにすると知れている。結果が出てからでは遅きに失する。国会議員という同じ土俵にいるのは、あなたたちではないか。稽古をさぼって惰眠を貪る偉そうなデブなど投げ飛ばしてしまえ。

もはや、日本国は「待ったなし」である。制限時間いっぱいだ。



いま、日本国民の声は、おそらく、「はっきょい、のこった」である。


2 コメント

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Unknown (鷹侍)
2010-02-06 12:29:22
八卦良し、のこつた
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Unknown (久代千代太郎)
2010-02-07 13:49:49
>ひろっちゃん


そういう意味だったんだ。しらなかつた。
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