「こだわり」について考える

2004-11-23 20:53:39 | Weblog
昨日は、「かなり怪しげな」日本語と感じられる「1000円からお預かりします」について考えるところを書いた。
そこで今日は、もう一つ「少々怪しげな」日本語と感じられる「こだわり」について考えてみようと思った。
「思った」というのには訳がある。「1000円からお預かりします」については、たとえばGoogleにこの文をそっくり入れて検索すると、多種多様な議論や説がぞろぞろ出てくる。これには正直言って驚いた。
ところが、「こだわり」については、これを国語言語学の面から扱うサイトが見当たらないのである。これはかつて「変な日本語だ」としてだいぶ問題になった表現だったはずだ。それが、言語的考察の対象からは消えている。出てくるのはいきなり「こだわりの***」などの商品のCMなのだ。もう決着が着いた、ということなのだろうか?

「こだわり」の元の言葉である動詞「こだわる」を「辞林」(三省堂)で引いてみると
(1)ささいなことを気にして、そのことに心がとらわれる。拘泥する。
(2)細かいことにやかましくする。
とある。
電子辞書を引いても大同小異で、ある辞書には(2)の意味として「なんくせをつける」と出ていた。
いずれにせよ、プラス価値を持つ語ではなさそうだ。
この怪しげな日本語が現在では大手を振ってプラス価値をたっぷりと与えられてマスメディアでは使われている。「こだわりの博多ラーメン」「こだわりのケーキ」など食べ物に使われることが多いが、「こだわりの木工細工」など、食べ物以外の物事にも使うようになっている。
「こだわる」「こだわり」の特徴は、マスメディア以外では使われることが少ない、ということである。「おい、君、これは我が家のこだわりのラーメンだから食ってくれや」と頻繁に使うだろうか?微妙なところではあるが、それほどは使わないような気がする。これを最初に使ったのは誰なのか、どういう意図で使ったのか、資料が無いのでわからない。
ただ、感じることは、これはいかにも日本語的発想の表現だ、ということと、もう一つはこれは元々企業サイドの用語だったのだろう、ということである。
細かいことまでトコトン追求して職人技の域に達することを良しとする風土が生んだ表現、という感じである。また、マスメディアが扱う「こだわり」という表現には権威主義的な匂いがする。「こだわり」があればそれは万人にとって良い食事なのだ、というように感じられるのだ。「1000円からお預かりします」に比べれば抵抗度はかなり少ないけれども、よく考えると「こだわり」にやたらにプラス価値を与えるのはどうなんだろうか?プラス価値はどんどん増えているようだ。何でも「こだわり」を付ければそれは「良いもの」なのだ。明らかに何かがおかしい。マスメディアとそれに乗った企業が何かを煽っている。もう今では煽る必要もなくなった。だれも疑問を持たなくなったから。
なお、「こだわり」を英辞朗で引いてみると、なんと31もの項目が出てきた。(英辞朗はすごいです!)その大半はマイナス価値を持った表現だった。プラス価値を持つものもあるが、ほんのわずかである。プラス価値を持つものとしては、たとえば “loyalty to a topic” というような場合である。これにしても、英語の loyalty がプラス価値を持つのであって、日本語は別に「こだわり」である必要はない。「執念」でもあるいは「持続する心」でもいいではないか?

「こだわり」がこれほどしっかり日本語に食い込んでしまった今では、私はある程度まではこの表現を支持する。しかしこの表現がどんどん増殖する傾向には、「待った」をかけたいのだ。微妙なゾーンで、どこか日本語としておかしい表現だから。


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