命の価値の軽重

2009-06-29 14:16:28 | Weblog
杜甫に次のような面白い詩がある。

小奴縛鶏向市売
鶏被縛急相喧争
家中厭鶏食中蟻
不知鶏売遷遭*煮
虫鶏於人何厚薄
我叱奴人解其縛
鶏虫得失無了時
注目寒河*寄山閣

*どうしても出ない字が2つあり、
仕方なく適当な字を当てておいた。
4行目の「煮」と8行目の「寄」である
ご了解願いたい。

ほぼ次のような意味のようだ。

使用人が鶏を縛って市場に売りに行こうとしていた。
鶏はキツク縛られたのでギャーギャー喚いて騒ぐ。
家人は鶏が虫などを食べるのを嫌がったのだが、
(家人は)売られた鶏は結局は煮て食べられる運命で
あることに思いが至らない。
虫と鶏とどちらが人間との関係が深いのかは分らない
私は使用人を叱って鶏の縄を解かせた。
鶏と虫との得失については分らない。
冬の長江を見ながら、ぼんやりと高楼によりかかる。

注によれば、杜甫の家族は仏教に深く帰依していて鶏が虫を食べるのを好まなかったらしい。それがいやで鶏を売ることにしたようだ。杜甫は虫の命も鶏の命も軽重はないのではないか、と考えたわけである。とはいっても、杜甫が別にベジテリアンだったわけではなさそうだ。インドなどには地面を這う虫を踏み殺すことを戒める宗教があるようだ。したがって、その宗教の信者は地面をよく見て、そっと足を踏み出すのだ、と聞く。ひょとしたら杜甫の家人の帰依していた「仏教」でも虫の殺傷を禁じていたのかもしれない。つまり、その宗教では虫の命が鶏の命よりも価値が重いものとされていたのではないか、と想像する。

話はがらりと変わるが、最近たとえば牛や馬、それにイヌやネコなどの目が哀しそうに見える。理不尽な扱いを受けていることを哀しむ目である。もちろんこれは、動物を見る私の方の思い入れであって、人間が動物に理不尽な扱いを強いていることを知っているからだろう。

私は動物の命に軽重があるはずはない、と思っている。人間がイヌネコよりも偉い、などというのは実に人間の勝手な思い込みである。西欧人は、神は人間を動物を支配するように創造したのだから、生殺与奪の権利は人間の側にある、と考えるようだが、これは嫌悪すべき思想だ。それは、ある人種は別の人種よりも優れている、したがって生殺与奪の権利は優れた人種のほうにある、という思想に発展する。
人間どうしのケースは別にしても、我々は平気で畜類を「工業製品」として扱う。余れば捨てる。ひどい話ではないか。人間だけが繁栄すればいいのか?



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