庄内弁の「がんぽ」とは「耳がよく聞こえない」という意味である。「おらいのだだがんぽでこまった」などと使う。「うちの父さんは耳が遠くて困る」ということだ。
70歳に近くなって、最近他人の言う言葉を即座に正確に把握できないことがよくあるようになった。それについて、家内(山形県庄内出身)が、「それだばがんぽだのお」と慨嘆したのである。昔はだれでも知っており誰でも使っていた方言であるが、ここ数十年聞いたことがない。それでも直ちに意味を理解できるのだから方言の威力はたいしたものだ、と感心した次第である。
今では若い世代の間では消滅した言葉だ。残念ではあるけれども・・・・。
鶴岡市は方言の保存には熱心で、庄内弁の単語をリストにしたものや、その単語を使った例文や、さらにその例文をお年寄りに読んでもらったものをアップしたサイトをいくつか作っている。
しかし、私個人の考えでは、そういう努力をしても庄内弁が生きた形で保存されることはあるまいと思う。
どんな言語であれ、それが生きた形で存在するためにはそれを話すコミュニティが必要である。だから、そのコミュニティの中である単語が消滅すれば、その単語は死語となるばかりだ。たとえ書きとめて、それを発音した録音材を残したとしても生き返ることはまずないだろう。
消滅した方言をこのように考えるのは寂しいことではあるが、事実は直視した方がいい。
なお、「がんぽ」という言葉は「つんぼ」と違ってそう呼ばれる人に関する共感と軽い諧謔が感じられる。「耳の不自由な人」などという切れ味の悪い表現よりどれほどましか知れない。方言を失う、ということは文化の一部を失うことで、言語表現がそれだけ不自由になる、ということでもある。惜しい言葉だ。
70歳に近くなって、最近他人の言う言葉を即座に正確に把握できないことがよくあるようになった。それについて、家内(山形県庄内出身)が、「それだばがんぽだのお」と慨嘆したのである。昔はだれでも知っており誰でも使っていた方言であるが、ここ数十年聞いたことがない。それでも直ちに意味を理解できるのだから方言の威力はたいしたものだ、と感心した次第である。
今では若い世代の間では消滅した言葉だ。残念ではあるけれども・・・・。
鶴岡市は方言の保存には熱心で、庄内弁の単語をリストにしたものや、その単語を使った例文や、さらにその例文をお年寄りに読んでもらったものをアップしたサイトをいくつか作っている。
しかし、私個人の考えでは、そういう努力をしても庄内弁が生きた形で保存されることはあるまいと思う。
どんな言語であれ、それが生きた形で存在するためにはそれを話すコミュニティが必要である。だから、そのコミュニティの中である単語が消滅すれば、その単語は死語となるばかりだ。たとえ書きとめて、それを発音した録音材を残したとしても生き返ることはまずないだろう。
消滅した方言をこのように考えるのは寂しいことではあるが、事実は直視した方がいい。
なお、「がんぽ」という言葉は「つんぼ」と違ってそう呼ばれる人に関する共感と軽い諧謔が感じられる。「耳の不自由な人」などという切れ味の悪い表現よりどれほどましか知れない。方言を失う、ということは文化の一部を失うことで、言語表現がそれだけ不自由になる、ということでもある。惜しい言葉だ。