日本語のために

2005-07-05 08:23:33 | Weblog
先日親戚の家で小学校3年の孫が使っている国語の教科書を見せてもらった。どうもいけませんね。教科書に品格がない。やたらに懇切丁寧でサービス精神には溢れているけれども、一番重要な品格が薄い。そう、「薄い
」というのが全体の印象だった。まるで実用書のようだ。下の小学校2年生の弟は一生懸命に朗読している。これも無残な感じだった。読むのはいいけれども風格のない文で、韻律も何も無い。
3年用の教科書の方には子供の作った詩が相変わらず載っていた。

古い本だが、丸谷才一の「日本語のために」という著作がある。この本の冒頭に痛烈な「教科書批判」が載っている。いわく、「子供に詩を作らせるな」、とあり、いきなり実際教科書に載っている子供の作った詩を挙げている。

<例1>
牛が水を飲んでいる。
大きな顔を
バケツの中につっこんで、
ごくごくごく、
がぶがぶ、
でっかいはらを波打たせて、
ひと息に飲んでしまった。

なるほど、ひどい「詩」だ。何よりもこの「詩」は音が汚い。よほど濁音が好きな子が書いたものだろうか。gokugoku, gabugabu・・・これはたまらない

<例2>
港には、きょうも、
魚群探知機のついた
新造船が一せき
うかび始めた。

島を空でつなぐ、美しい鉄の橋。
その下をかけ回る、高速モーターボート。
港は、日に日に、
新しいよそおいをまとっていく。

けれども、波だけは、むかしのままの子もり歌を、
きょうも、歌いつづけている。
ザブラン、ザブラン。
ザブラン、ザブラン。

ああ、
かもめが、ほら、
ゆりかごをゆすっている。

なるほど、これはひどい「詩」だ。これもまた音が汚い。これに関する丸谷の評はこうだ。
「構成は弱くて脆く、イメージはぼやけて濁っている。音の響きは不快だし、言葉づかひはいちいち適切を欠く。まったく箸にも棒にもかからぬ駄作で、こんな代物にこれ以上つきあってゐる暇はない」と切り捨てている。笑うしかない。同感だ。詩でも何でもない。

そして丸谷は次の山乃口獏の「天」を載せている。

草にねころんでいると
眼下に天が深い


太陽
有名なものたちの住んでいる世界

天は青く深いのだ
見おろしていると
からだが落っこちそうになってこわいのだ
ぼくは草木の根のように
土の中へもぐりこみたくなってしまうのだ。

私の好きなイメージを持つ詩ではないけれども、たしかに詩である。丸谷はさらに都築益世の「絶唱」がどの教科書にも見えないことを惜しんでいる。

草の 一本橋
あお空 高い
太鼓 たたいて
てんとうむし 渡れ

宇宙をただの4行に畳んだようなすさまじさ、名人の剣の一閃、というようなものを想起させる。

私個人的には、詩で最も大事なものの一つは韻律だろうと考える。親戚の子供の3年用の国語教科書に載っていた子供の詩にもこの韻律がなかった。いや、その教科書では韻律は軽視されていた。小学校で愛唱に堪える詩を読まないで終る、というのはいったいどういうことなのだろうと思う。日本語の大事な部分を切り捨てているのではないか。
そこで、これからの国語教科書には、明治から昭和までの朗々と読むに堪える文語詩を載せることを提案する。これによって、これを読ませることによって、少しでも日本語への感性を磨かせたいと思うのだが。今ちょっと思いついたところでは島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」である。なるほど意味は難し過ぎる。しかし音は美しい。

千曲川旅情の歌

  一

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なす(はこべ)は萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねの衾の岡邊
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に滿つる香も知らず
淺くのみ春は霞みて
麥の色わづかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮れ行けば淺間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飮みて
草枕しばし慰む

*だめですね。けっきょくは酒飲みの歌だ。「濁り酒」を「カンコーヒー」にでも替えたら使えるだろうか。冗談はさておき、朗々たる世界です。こういう「音」を子供に与えたいものだ。

国語教科書がダメなら別枠の時間をとって古典を読ませることを提案したい。意味に深入りする必要はない。音に酔えばいいのだ。愚にもつかぬ英語を小学校でやる余裕があるのなら、ぜひその時間を日本の古典に回すべきだ。(それが長い目で見れば英語の実力養成にもなるのではないか)