「・・・です」か「・・・だ」か、どちらだ?

2004-12-03 20:13:01 | Weblog
文を書き出す前に最も気を遣うのは、「・・・です」調で切りだすか、「・・・だ」調で切り出すか、ということだ。文の最初の数語で文全体の調子がガラッと変わる言語、というのは日本語の他にあるのだろうか?「です」で通せば丁寧で温和であるか、というと必ずしもそんなことはないから始末が悪い。慇懃無礼、ということである。ムチャクチャに丁寧な書き方でもって、相手をとことん辱める、という質の悪い芸当も日本語ならではだ。では「だ」調で通せば「です」よりは乱暴で断定的に聞こえるか、というと、これもそんなことはなさそうだ。自己主張の強さに関して言えば、「です」も「だ」もほぼ同じか、私の独断では「です」の方が若干上、というところではなかろうか?どちらを用いても、要は主張する内容次第なのだ、と考えればいいのかもしれないが、内容は全く同じことを言っても、「です」と「だ」では微妙な違いがあることは否定できない。かのユーモラスな文体の日本国憲法だって、あれを「~です」と書き直したらものすごく威圧的になるでしょう?笑うどころではありません。

最初の一文で全部が決まる、というこのユニークな性格を悪用して徹底的に「です」で通すサムライもいる。読むと何だか背筋が寒くなるような奇妙な感覚に襲われる。両方ある、とはいっても、日本語は基本的には「だ」言語だからだろう。ところがホームページというものは奇妙な存在で、「です」と「だ」の間で揺れ動いている。つまり、自分がいったい誰に向かって言葉を書き発しているか、が自分自身の中でよく分ってないからではないだろうか?私などはひどいもので、「です」で始まって途中で「だ」に変わり、さらにエンディング近くで再び「です」に戻る、という体たらくだ。これは日本語じゃない、と思うのだけれども、他人様には何とか分ってもらっているらしい。
こういう苦労のない印欧語圏の人々は羨ましい。けれども、たとえば英語ならば、文全体をどういう文体で組み立てるか、でもって大変な修行をするらしい。自分の文体を鍛える厳しさでは、日本人もはるかに及ばないのではなかろうか?高名な英米人の論文を読むと、その文の緻密さにはもう圧倒されるからね。文章上の変な装置が無い分、文全体で勝負しなくてはならない英米人の方がずっと書くことで苦しまざるをえないようだ。そうすると、「です」と「だ」に我々は感謝しなければならないのだろうか?


古いものと新しいものはどちらがいいか?

2004-12-03 18:18:51 | Weblog
年をとると新しいものよりも古いものにより魅力を感じるのは自然なことではなかろうか?最近のジイサン、バアサンは、若者に媚びる傾向が強く、最新式の携帯電話でヨン様を写したりしているけれども、魅力的ならざること甚だしい。自分が古くなったのだから「基本的な好み」は古い物に偏るべきだ、というのが私の「偏見」だ。携帯なんか電話機能だけの古代のタイプで充分だ。写真を撮るのは写真機にまかせろ、と言ったら怒られるだろうか?

年をとると古いものを目にしたくなる。古いもの、とはどんなものだろうか?地球の創生と共にあるもの、たとえば空とか土とか岩石などはたしかに古い。月も古い。星は古いのもあれば新しいものもあるけれども、古いものは恐ろしく古い。太陽系よりも古い星が空には充満している。月から持ち込まれたある岩が "genesis rock"と呼ばれて最高級の宝石以上の扱いを受けているけれども、宇宙規模では genesis rock の古さなんて知れたものだ。
では、そういう古い星々を見ると心が和むだろうか?

日本の文化財の中では、古いものといえば法隆寺、という答えが返ってくる。事実日本最古の仏教構築物の一つではある。唐招提寺も古い。 そういうものを見ると心が和むだろうか?

古い星にしろ、法隆寺にしろ、見たらたしかに心は和むけれども、真に心を和ませるには古すぎる。良いけれども、最高に良いものではない、というのが私の偏見だ。ではどういうものが、心を和ませるに適度な古いものなのだろうか?心を和ませるには僅かでもいいから自分の体験に触れる点があるものだ。できれば赤ん坊の時、幼児の時に触れたもの、であることが望ましい。私の場合は、たとえば、わらぶきの家とか倒れかかった木造の小屋であるとか、馬車が通る砂利道であるとか、馬糞であるとか、そういうものである。それ以前のもの、たとえば行灯などは博物館的な興味は抱いても懐かしくはない。自分の生活との接点がなかったからだ。馬車はかつては日常生活でありふれたものだった。荷馬車に飛び乗って怒られたことも何度かある。これは文句なく懐かしい。懐かしいものは心を和ませる。亡き母も懐かしいものの最たるものである。もし母を思って懐かしくもなんともない、としたら、その「母」はその人にとっては「母」ではなかったのだろう。「母」の方でも「子育て」などという意識で固まっていて、「子」そのものは目に入らなかったのに違いない。そういう親子が、少なからず最近居るようだ。

ここは福島市の西部である。僅かながら田園が残っている。日々のたった3kmの散策の途中にも、私の幼時に接点のあった風物をいくつか目にすることができるのは本当に幸いである。たとえば、錆びた手動式のポンプとか、こわれかかった木造の小屋とか、荒削りの木の杭とか、そういうものだ。そういうものは、懐かしいし、心を和ませてくれる。

今幼児である人がオトナになった時、いったい何を懐かしむべきものとして思い出すのだろうか?そもそもそういうものがあるのだろうか?幼時に生活上で接点があったものといえば、かつての文化住宅より多少まし、というような郊外型住宅とコンクリートの道路くらいしかないのではないか?郊外型住宅は美しくないことよりもその閉鎖性が気になる。つまり、自分の家族以外の人はオフリミット、という造りだからだ。どうも、高度成長期以後に生まれた人には心を和ませるものがかなり少ないのではなかろうか?住むならどこでもいい、という感覚を皆さんお持ちではないだろうか?それはそれでけっこうなことではあるが、土地への愛着、ということを考えるとこれは少々寂しいことではある。ひょっとしたら、日本のどこに住んでも、そこはしょせん「他所」なのかもしれない。他所であるならば、「旅の恥は掻き捨て」みたいな無責任感覚が全く無い、とも言いきれないのかもしれない。いや、そうではないことを信じるけれども。

これと関連する話だけれども、日本の住環境や住風景の変化の激しさは度を越えている。数年経つと、自分が今どこに居るのか分らない、ということがよくある。異常だ。どっしり落ち着いた心など、これでは育つわけがない。自冶体側に住環境の美しさという感覚がすっぽり抜け落ちていて、不動産の回転の速さだけを優先する卑しい感覚が世を動かしている。
家電製品については、メーカーが修理用の部品を何年かの間保存しておくことが義務づけられている。それと似た理論で、ある住環境や住風景を何年かの間動かさない、という義務付けはできないものだろうか? 石の文化と木の文化との違いだ、と言って片付けるのなら口をつぐむしかないけれども。

散策とドライブと

2004-12-03 12:12:41 | Weblog
最近、だんだんと散策の距離が短くなってきた。前は1日に8kmは欠かさなかったのが今では3kmくらいになってしまった。しかも前はいろいろなバリエーションルートを通っていたものが、今では毎日同じ道を通る。だから単調か、というと必ずしもそうではない。何よりも日々光が違う。今日のように爽快な光の日もあれば少し曇って沈んだ日もある。同じ晴天の日でも微妙に違うのだ。突き当たりの古い農家の柿が熟しきって、今にも落ちそうだ。左手の小路に入る。そこでは菊が未だずらりと咲いている。その先には頑固そうな爺さんが石に腰掛けてこちらを見ている。当然挨拶の必要な状況だ。どういう挨拶が返ってくるか、これはスリリングである。最悪の場合、返ってこないかもしれないのだから。幸いにも、良い挨拶が返ってきた。有難う。

若い頃は、休みというとロングドライブに出かけたののだった。1日200kmくらいは普通で、時には600kmもこなしたことがある。牡鹿半島の突端まで往復したのだった。そこまで行って何か見たか?何も見なかった。車を運転しているのでは何も見ることは出来ない。たとえ3kmでも足で散策すれば、光も木々も鳥も猫もすべて見える。見えるし、ゆっくりと見ることができる。
かつて、何というガソリンと時間の無駄遣いしたものかとため息が出る。