koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

龍馬伝-第24回「愛の蛍」

2010年06月16日 20時31分45秒 | 龍馬伝

3日遅れでビデオ回しました。
いきなり池田屋のシーンに始まり,何と桂が激高した龍馬を止めていました・・・。
お龍の居る旅籠で歯噛みする龍馬。
・・・でお龍の家に匿われる・・・??
子どもと月琴弾いて遊んでる場合か・・・。
神戸海軍塾には行かなくていいんか・・・。
遂にお登世は出ないようで・・・と思わせ,・・・ということは,第二次寺田屋の変はどうなるんだ・・・とも・・・。。


土佐では,しわよせ,もとい仕合わせ絶頂の弥太郎くんが不幸のお富さんに惚気まくっておりました・・・。
しかし,奥貫薫嬢良いですねぇ・・・。
貞淑な武市夫人を見事に演じております。
ダークサイドに陥った大森半平太には勿体ない良妻ぶりでございます・・・。
で,弥太郎くんは今も下横目だったんですね・・・。
後藤の命で武市を吐かせる幼稚な方便を駆使する弥太郎は,完全に俗物と化しました。
当然突っぱねる武市。
龍馬と弥太郎の接点は2度(脱藩直後の大坂と海援隊時代の長崎)しか無いのではと思われますが,弥太郎と武市に如何ほどの接点が有ったのか,今となっては想像するしか有りませんが,こちらは龍馬以上に接点が無かったように思われてなりません・・・。


お富さんに比べて,龍馬が本気で惚れた女であるお龍の方はどうも気が強くて暗い女・・・という雰囲気でいまいち魅力が伝わりません・・・。
ま,そう思うのは私だけかもしれませんけど・・・。
・・・で,遂にお登世登場。
母上・・・って龍馬が言ったけど二役かよ・・・。
そりゃ似てるわな・・・。
龍馬とお登世の出会いは実際いつだったんでしょうね・・・。
この年(元治元年)か翌年にお龍が養女になったと考えると,もっと以前からの知己だったような気もします・・・。


でもって,恒例の突っ込みを・・・。
寺田屋に龍馬が・・・というのは先週述べたとおりあり得ません。
また,桂と龍馬が出会うことも当然無かったでしょう。
桂が池田屋に行かなかったのか危険を察して逃げたのか,今となっては分かりませんが,沈着冷静な彼のことですから,孝明帝奪取のような暴挙に賛同するとは考えられず,端からメンバーに入っていなかったとするのが正鵠のような気もします。
「逃げの小五郎」の真骨頂とも言うべきでしょう・・・。


さて,次回は蛤御門とお登世のようです・・・。
何か見るのがかったるくなってきた・・・。
池田屋についてはいずれ述べてみたいと思います。
斬り込んだ新撰組は当初4人とか,山崎蒸大刀押し入れは本当かとか・・・。
そう言えば,何で池田屋を新撰組が嗅ぎつけたか何一つ語られなかったのは困ったものです・・・。
以前から攘夷志士のたまり場だったから・・・では動機が弱すぎます・・・(会津・桑名両藩が出兵しているのに・・・)。
あ,蛍について何も書かなかった・・・。


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2 コメント

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お疲れさまです。 (桔梗)
2010-06-17 14:00:29
サッカー観戦もありお忙しいようですね。

今回のお龍像、私も今までのイメージと違い暗いな~と・・。
今は苦労して頑なな気持ちでいるのを全面に出し、これから龍馬と係わっていくうち明るく大らかに変わっていくように描くのでしょうか・・。
4月に京都に行った折、木屋町通りに「お龍が独身の時に住んでいた場所」の碑があったので、ドラマを見ながらあのあたりだったんだと納得。 

このところ土佐の大殿さんの様子もおかしいですね。
あの人が四賢候といわれた人?
私にはそう思えないのですが・・。
大酒飲みでその時によって考えや態度が変わる・・。
土佐勤王党を弾圧した人・・。

でも昔は人権なんてなかっただろうけど、あんなひどい下士に対して差別発言をして、今存在している子孫達はどう思って見てるんだろかと・・。
高知城に行った時、案内の女性の方が現在でも土佐では「あなた、山内? それとも長宗我部?」って聞くことがあると言っていました。

蛍・・、
久しく見てなかったので見たくなりました。
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いつもありがとうございます (koshi)
2010-06-20 20:30:24
桔梗さん,今晩は。
飲んで帰ったりF1やサッカーや野球を見ていたりしていたので,エントリ+お返事が大幅に遅れてしまい大変失礼しました・・・。

お龍は木屋町あたりに住んでいたのですね。
高瀬川沿いの柳と街の明かりが何とも言えない風情を醸し出している街なので,東山の八坂の塔~円山公園~維新の道~産寧坂~清水坂というルートとともに,私が最も京都らしい風景と思う界隈です・・・。

山内容堂は,罪深いですね。
教養人を自認し,他人が莫迦に見えたということですから,郷士の尊皇攘夷など片腹痛しといったところだったのでしょう・・・。
土佐藩の悲劇は,こうした殿様を戴いていたことでしょう。
毛利敬親も島津久光もさほどの人物ではなかったでしょうが,自藩の人材を殺したりはしなかったでしょう(禁門の政変後過激派を守りきれなかったのと,西郷を嫌ったことはありましたが・・・)。
おかげで維新政府で薩長に対抗できる人材が土佐には居ず(板垣,後藤,田中,中島・・・),容堂は武市を殺したことを悔やんだという話もありますが・・・。

>「あなた、山内? それとも長宗我部?」

土佐では,未だにあるんですね・・・(感服)。
しかし,藩祖一豊候が高知出身と思っている人は居ないでしょうね・・・。
我が町は,藩祖候が地元出身と思われているんだな,これが・・・。
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