koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

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今年も目出度くも無き日に・・・

2017年03月02日 00時01分29秒 | 音楽

今年も目出度くも無き日を迎えるに当たって,さてお気に入りの一曲を何にしようかと思って居たところ,例によって睡眠不足と倦怠感に苛まれての起床の際に,脳裏にがんがん鳴り響いていたのは,ブラームスの悲劇的序曲であった。
これは紛れもない名曲ではあるが,如何に自虐根多を好む私としても,どうも相応しくないと感じる。
しかも,演奏したこと無いので,スコアを開いたこともない。


因みに,これを始めたのは2005年と記憶しているが,今までのラインナップは以下の通りだ。

05年 バレエ「アパラチアの春」(コープランド)
07年 嬉遊曲(イベール)
08年 ジークフリードの牧歌(ワーグナー)
10年 交響曲第1番ホ短調(シベリウス)
11年 小組曲(ドビュッシー~ビュッセル編)
12年 ピアノ四重奏曲第1番ト短調(ブラームス~シェーンベルク編)
13年 歌劇「ローエングリン」~第3幕への序奏(ワーグナー)
14年 「坂の上の雲」サウンドトラック~少年の国(久石譲)
15年 序曲「謝肉祭」(ドヴォルザーク)
16年 ピアノソナタ第3番~第4楽章(ショパン)

去年のも明らかに自虐だし,シベリウスの第1とかローエングリンなんて縁起でもない。ブラームスのピアノ四重奏なんてのも完全に自虐というか自爆に近い。
ブラームスは,自称ゲルマンフリークである私のお気に入りの作曲家の一人であるが,どうもこうした選曲には相応しくないのかと思いきや,晴朗たる一曲を思い出した。


大学祝典序曲op.80(J.ブラームス 1833-97独)
1879年,ポーランドのブレスラウ大学から名誉博士号を授与されたブラームスが,その返礼としてかいたことで有名である。
・・・というより,その第3主題が,その昔ラジオ短波の「旺文社大学受験講座(通称ラ講)」のテーマに使われたり,さだまさしの「恋愛症候群」の導入部に使われたりした曲,と言った方が,私の世代には分かり易いかもしれない。


当初大学側は,荘厳な曲調の演奏会用序曲(既にこの様式からしてブラームスらしくない)や祝祭的なファンファーレを想定していたらしいのだが,そこは一筋縄ではいかない皮肉屋のブラームスである。
何と,学生たちが酒場で歌う学生歌をベースにした楽曲を作曲した。
つまり,大学当局を煙に巻いた,という訳である。
曲は,以下の4部から構成される。


1."Wir hatten gebauet ein stattliches Haus"(『僕らは立派な学び舎を建てた』-民謡より)
2."Landesvater"(『祖国の父』-"掛布のテーマ"に似たコラール)
3."Was kommt dort von der Höhe?"(『あそこの山から来るのは何』,狐乗り(Fuchsritt)の歌-上述)
4."Gaudeamus igitur"(ラテン語で「いざ楽しまん」)


・・・というわけだ。
生真面目な印象のブラームスとしては精一杯の皮肉と諧謔のつもりだったのだろうが,出来上がったこの曲は,紛れもなくブラームスの個性が十二分に発揮された傑作である。
だいたい,この時期のブラームスは,牧歌的で晴朗たる歓喜に満ちた第2交響曲や,イタリア旅行の所産でもあるパッショネートなヴァイオリン協奏曲,対を成す「悲劇的序曲」,そして,やはりイタリア旅行の影響が大きい大傑作の第2ピアノ協奏曲等々,傑作の森ともいうべき名曲を次々と作曲した脂ののりきった円熟期に入っている訳だから当然なのだろう・・・。
ブラームス自身,この曲を「笑う序曲」(対の「悲劇的序曲」に対しての呼称だろう)とか,「スッペ風ポプリ」とか呼んだらしい。
スッペは同時代にウィーンで人気のあった喜歌劇の作曲家(「軽騎兵」,「詩人と農夫」とか「ウィーンの朝昼晩」・・・)だし,ポプリとはフランス語で小さな花束のことだろうから,この場合はメドレーといったところだろう・・・。
遅筆の印象があるブラームスとしては,短期間で一気呵成にかきあげた印象が強いが,スコアを繙いてみると,ブラームスらしくぎっしりと凝縮度の高い網の目のような書法が顕著である。
二拍子の部分でもフレーズの頭をずらしたり,八分音符を刻む弦楽に対してホルンだけ八分三連で強奏させたり,わずか10分程度の曲なのに,その内容はさすがに大家の筆である。
本来ブラームスは,弟分とも言うべきトヴォルザーク(1841-1904)と違って,基本的にメロディメーカーではなく,気の利いたメロデイを作り出すのは苦手と思われ,それ故,ヘンデル,ハイドン,パガニーニ等の主題を生かした変奏曲に名曲を残したのだろうが,この曲のような主題の活用・変奏はお手の物である。
それでいて,格調高い弦楽の調べや明滅する木管のオブリガートにえもいえぬ魅力を感じさせる。
交響曲や器楽曲,或いは室内楽や声楽・歌劇に比して,管弦楽曲は内容的に一段も二段も低いと思われがちだが,大家の手になると,かくも魅力的な作品となるものなのである。


演奏は,往年の大家から現役まで名演が目白押しである。
私のCD棚には,モントゥ~ロンドン響,ワルター~コロンビア響,バルビローリ~ウィーンフィル,シュミット=イッセルシュテット~北ドイツ放送響,ヨッフム~ロンドンフィル,バーンスタイン~ウィーンフィル,サヴァリッシュ~ロンドンフィル,ハイティンク~アムステルダムコンセルトヘボウ管,プレヴィン~ロイヤルフィル,マゼール~クリーヴランド管,アバド~ベルリンフィル,ムーティ~フィラデルフィア管・・・と,山のように有った。
大家と呼ばれる人では,ベームにカラヤン,ケンペ,そしてヴァントはこの曲の録音を残さなかったようだ(フルトヴェングラーは有るのだろうか・・・??トスカニーニ,クナッパーツブッシュ,クレンペラー,セルは有る)。
交響曲全集にフィルアップされる例が多いため,私の手持ちも多いのだが,単品では意外や意外,最近のお気に入りは,メキシコのど派手指揮者という印象の強いエンリケ・バティス~ロイヤルフィルである。
存外に端正で,そして予想通り分熱いのである・・・。

・・・ということで,動画も貼っておく。
バーンスタインとウィーンフィルによる分熱い演奏。
かつてオケで2度演奏したが,実に楽しかったな・・・。
今日のような日に相応しいか否か分からないが,これで今年も齢を重ねよう・・・。


Bernstein - Academic Festival Overture (Brahms)

 

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ルドルフ・ケンペの忌日に11

2016年05月11日 21時32分07秒 | 音楽

Rudolf Kempe - Dvořák: Symphony No.9 in E Minor "From the New World"

最近は文章を書くのも億劫で,10年前はあれだけ気合いを入れて書いていたウェブログも,おざなりになっているのだが,今日は別だ。
何せ40年目の節目でもある訳だし・・・。
この日に亡くなった故人を偲び,その数々の遺産を紹介してきたのであるが,今回は最晩年の映像と共に紹介したいと思う。


ルドルフ・ケンペ(1910-1976.5.11)。
ドレスデン近郊ニーダーボイリッツに生まれ,チューリッヒで没したドイツの名指揮者である。
2歳年上にはヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)が居り,そのカラヤンより10年以上前に没したこともあって,ケンペの存在は極めて地味で,我が国でもその少なからぬ数の録音(といっても毎月のように新録音が発売されたカラヤンには遠く及ばなかったが・・・)が生前に話題となることはあまりなかった。
今考えると,ロンドンのロイヤルフィル,チューリッヒの音楽堂(トーンハレ)のオケ,そしてミュンヘンフィルといった割と地味めなオケの音楽監督や常任指揮者を務めたこともあり,決してスターダムに上ることの無かったあたりが,私の心の琴線に触れたことも大きいと思う・・・。
そして音楽を聴き始めた40年前のこの日,レコード店にてケンペの指揮したチャイコフスキーの第5交響曲(ベルリンフィル)のジャケットを見て,何となく心惹かれたのであった・・・。
東芝EMIから出ていたニューセラフィムベストシリーズなる緑色のジャケットで,荒涼たるロシアの雪原の画像が載っていたのであるが,私が惹かれたのは,寧ろベルリンフィルのレコードが1,300円で買えるという事実にであった筈だ・・・。
そして翌日,新聞でそのケンペの訃報を知るに及んで,虫の知らせとも言うべき,尋常ならざる因縁を感じたのであった・・・。


以来,彼の指揮する演奏に惹かれ続け,ベートーヴェンやブラームスの交響曲(後者は2種類の全集),ブルックナーの交響曲第4,5,8番, R・シュトラウスの管弦楽曲集と協奏的作品集といった独墺系の音楽を聴き込むに及んで,その高い格調と芸術性に今尚傾倒している。
ケンペのレパートリーの中心が独墺系の音楽であったことは間違いないが,レパートリーが広い指揮者であったことは,意外に知られていない。
私のCD棚には,ベルリオーズ,ビゼー,チャイコフスキー,R・コルサコフ,ドビュッシー,レスピーギ,プロコフィエフ,そしてショスタコーヴィチの交響曲までが並んでいる。
中でも4種類の演奏が残されており,ケンペが愛し得意としていたのが,ドヴォルザークの新世界交響曲であった。
その最後の録音,1975年のロンドンプロムス(サー・ヘンリー・ウッド・プロムナードコンサート)における録画が,辛うじてYouTubeに残されており,熱狂的な若い聴衆を前に,白熱の演奏を繰り広げるケンペの姿を見ることができる。
亡くなるほぼ1年前の演奏だが,気迫と推進力,そして力と覇気に満ちたパッショネートな演奏が心を捉えて離さない。
オケは,この年から常任指揮者に就任したロンドンのBBC交響楽団だが,白熱の演奏を繰り広げている。
19世紀後半,独墺音楽の書法を以て,それ以外の地域に根差したモチーフで音楽を書いたのが,所謂国民楽派と呼ばれる作曲家たちだが,ロシアのチャイコフスキーと,チェコのドヴォルザークは,その典型であろう。
そしてケンペの手に掛かると,この魅力的な交響曲が,当然のことながら独墺音楽の本流からの継承であることを,改めて感じるのである・・・。
そして,今後もこの希有な芸術家の残した少なからぬ遺産に,益々惹かれていくことになろう・・・。


「ミステリーのオーラが,高度に洗練されてエレガントなルドルフ・ケンペを取り巻いている。彼の丈高いスリムな姿は,いつもすっくと立ったままである。ケンペは,没頭するのを好んだディオニソス的で華麗な技巧の要る楽節で,限度を超えようとする場合に於いてすら,規律正しいジェスチャーを保っていた。オーケストラは彼の明確なサインの言語を即座に了解し尽くした。この点にケンペが忽ちにして世界くまなく成功した要因がある。リハーサルで彼はほとんどしゃべらず,彼の名人芸的な棒さばきと,彼の長い表情ゆたかな両手によって,彼そのものを理解させた。」

(尾埜善司著「指揮者ケンペ」芸術現代社刊より)

 

 

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目出度くもなき日に・・・

2016年03月01日 20時37分21秒 | 音楽

又今年もこの日が巡ってきた。
もはや10代後半から嬉しくない日の一つと化してはいるのであるが,多くの方々にお祝いの言葉をいただくと,やはり喜ばしい日であることを再認識したりもする・・・。


この日は,SNSをやり出した11年前からお気に入りの一曲を紹介してきたのであるが,毎年のラインナップを挙げると以下の通りとなる。


05年 バレエ「アパラチアの春」(コープランド)
07年 嬉遊曲(イベール)
08年 ジークフリードの牧歌(ワーグナー)
10年 交響曲第1番ホ短調(シベリウス)
11年 小組曲(ドビュッシー~ビュッセル編)
12年 ピアノ四重奏曲第1番ト短調(ブラームス~シェーンベルク編)
13年 歌劇「ローエングリン」~第3幕への序奏(ワーグナー)
14年 「坂の上の雲」サウンドトラック~少年の国(久石譲)
15年 序曲「謝肉祭」(ドヴォルザーク)


最初の年は,爛漫たる春を静かに祝う平穏な曲想の一曲で始まったのであるが,2010年
など自虐でしかない選曲だし,12年のピアノ四重奏もどす暗い情念が蠢くような曲想で,これまた自虐。
13年の「ローエングリン」に到っては,波乱の予兆でしかない・・・。
毎年,選曲には勝手ながら迷うのであるが,今年は迷わず決めた。


ピアノソナタ第3番ロ短調op.58~終曲(F.ショパン)。
本日3月1日は,ショパンの誕生日だそうだ(他に,芥川龍之介と加藤茶)。
私自身,決して熱心な聴き手ではなかったし,ピアノ協奏曲第1番の緩抒楽章ロマンツェやアンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ(但しオケ伴付)ぐらいしか自らの意志で好んで聴くことはなかったのだが,このソナタの終曲は例外だ。
先立つ第2ソナタが葬送行進曲付きで有名であるが,どうも割り切れ無さというか完成されぬもどかしさを感じさせるのに対し,この第3ソナタは違う。
何よりも第1楽章冒頭から,えも言えぬパッションの発露と,デモーニッシュな感性が聴き手の心を捉えて離さない。
この終曲は,強烈な和声の連打で始まる。
青白く燃えるパッションは,二度と帰ることの無かった祖国ポーランドへの思いなのか,恋仲にあったとされるジョルジュ・サンドへの思慕なのか,今となっては知る由も無い・・・。



この曲に関しては,絶対マウリツィオ・ポリーニの演奏に止めを刺す。
ファンには悪いが,ポリーニの後で聴くアシュケナージは腑抜けにしか聞こえない。
最後のBdurの和音まで,クリスタルガラスのような硬質なタッチと抜けるような高音域の冴えが見事で,一瞬たりとも弛緩する瞬間が無い・・・。


・・・ということで,本年も又齢を重ねた・・・。
またしても自虐とも言うべき波乱に満ちた曲を貼ってしまったが,充実した1年にするべく努力したいものだ・・・。

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真田丸-第3回「策略」

2016年01月24日 20時59分47秒 | TV&エンターティメント

あー,そう来たか・・・三谷脚本。
出浦がカウンタースパイとは気付きませんでした。
まんまとしてやられました。
脱帽です。
しかし,なんで上杉への密使に信幸使うかな・・・。
囮としては分かるけど,命落としたら身も蓋もない・・・。
でもって,将来親子の確執を描こうという見え見えの伏線・・・。
でもって,お前が家督だ・・・で,疑念が氷解する信幸・・・。
作為以前の問題でしょう・・・。
しかし,出浦盛清って,武田の忍者であることしか知りませんでしたが,信濃の国衆だったんでしょうか・・・。
村上義清の葛尾城のあった埴科郡坂城の出身だそうですが,井上氏や高梨氏のような信濃源氏の一族だったのかどうか・・・。
でも,真田に与力したのって翌年以降,つまり信長の本能寺横死を受けて,信濃衆は海津城にあった森長可に裏切ったのに対し,出浦のみ従ったので,徳川~羽柴と信州の支配が変わる時期を生き残ってからではないかと思われます。
そして,実際にこの時期の昌幸は,実際何処にいたのでしょうね・・・。
真田氏は真田の庄に居た方が分かりやすいのでしょうけど,多分この時期の昌幸の本城は,上州岩櫃城だったのではないでしょうか・・・。
ま,織田軍が信州に侵攻してくるということで・・・という設定でしょうけど・・・。
多分,武田家が在りし日は,岩櫃から上州吾妻郡と信州小県郡-つまり現在の菅平高原から浅間山の北麓,西上州を押さえる中信地方の一大勢力だったのでしょう。
現在の長野県の地勢同様,中世の信州は,木曽郡の木曽,諏訪郡の諏訪,埴科・更級郡の村上,筑摩郡の小笠原(守護),安曇郡の仁科,佐久郡の平賀・・・といったように,国衆が割拠していたのでしょう。
甲府盆地に地勢が集約する隣国甲斐のように強力な統一政権が出なかったのは,山国故に盆地が散在したから・・・ということと思われます。


武田勝頼・信勝父子が天目山に自害して,源平時代より続いた甲斐源氏の名門である武田氏は滅びますが(続いた系統については,いずれ述べてみたいものです),信長(と穴山梅雪)の命も,それから僅か三ヶ月なんですね。
所行無常というか盛者必衰というか・・・あまりに儚いとしか言いようがありません・・・。
その信長横死の後,信濃を押さえていた代官であったのが上記森長可でしたが(甲斐は河尻秀隆),所謂天正壬午の乱によって,上信甲三国は大混乱します。
その辺りがどう描かれるのか,気に掛かるところです。
考えてみたら,上州と小県郡に配されたのは,上記森長可ではなく,滝川一益なので,今後どう関わってくるかも見どころとなることでしょう。
昌幸と滝川一族の関わりは,この時期に始まるでしょうから・・・。


・・・ということで,長澤まさみ嬢のご登場と相成りました。
しかしまあ,「巧妙が辻」の小りんといい,「天地人」の幸村妹役といい,今回といい,何か大河では役に恵まれていないのでは・・・と思ってしまいました・・・。
家老の高梨内記の娘が,城主の若殿とため口・・・。
有り得ません・・・。
ま,大河に色恋沙汰は不要・・・と(石が飛んできそうですが),断じておきましょう。
・・・にしても,源二郎酷すぎ。
男として最低の部類では・・・と,思ってしまいます。
武士階級の自由恋愛など考えられない時代ですし,殿様のお手が付いて・・・という時代でしたから,やはりこうした色恋沙汰を挿入すると無理があるような気がします。
因みに,この時点(天正10年3月)で,信幸は数えで17歳,信繁は16歳という設定ですので,信幸に夫人が居てもおかしくはないのですが,こう・・・はて,清音院殿のことでしょうか・・・。
何か病弱という設定で,将来が無いような気がするのですが・・・。


・・・ということで,今日も書き殴ってしまいました。
面白いのですけど,何かやたら軽い気がするのは私だけでしょうか・・・。
子どもの頃,訳分からずに垣間見た「竜馬がゆく」や「天と地と」は,もっと重厚で,高尚な感じがしたと思うのは,今だからでしょうか・・・。
否,物心つきつつある時分に見た「花神」や「草燃える」,結構いい年になってから見た「翔ぶが如く」も,もっと緊張感があったような気がするのですけど・・・。
吉川英治や司馬遼太郎の歴史小説のページを繰る際に覚えたわくわく感は,過去のものなのでしょうか・・・。

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真田丸-第2回「決断」

2016年01月17日 22時17分08秒 | TV&エンターティメント

う~ん,期待してビデオを回したのですが,何か緊張感のない逃避行シーンと見え見えの小山田勢登場と,昌幸の救援・・・。
あのような逃避行が果たしてあったのかどうかも疑問ですし,おそらく新府城から信州佐久郡へは信玄が築いた棒道が有ったのでしょうし,佐久郡はまだ織田軍の支配下には無かったかと思われます(滝川一益が厩橋城に入るのは,甲州の仕置が済んでからでしょう)。佐久郡から岩櫃城のある上州吾妻郡に行くには,浅間山の東側-つまり現在の軽井沢から長野原・草津方面へ・・・というルートを取るでしょうし,吾妻郡の入り口たる羽根尾城は,前年に昌幸が城主の羽尾兄弟を謀殺して奪取していますから,あのような逃避行が有ったとも思われないのですが・・・。


信玄が2度も登場したのは,はっきり言ってぶっ飛びました。
ま,演出の1つではあるでしょうけど,どうかな・・と,思いました。
勝頼一行の終焉の地は,田野の景徳院の辺りだったと思われます。
日川を血で染める凄惨な戦いの果てに,勝頼一族は自害しますが,あれだけ立派な陣幕と,御旗(無かったな)楯無を持って歩いたのかどうか・・・。
介錯は土屋惣三だったと記憶していますが,同時に命を絶った嫡男の信勝や北条夫人は一切出てきませんでしたね・・・。
いずれにしても,髷と甲冑,騎上姿が一番似合っていたのは,平岳大演じる勝頼でした。大河の主役を務めた父の薫陶でしょうか・・・。


この頃の真田の立ち位置というのは,結構微妙であったのかも知れません・・・。
郡内(東甲州)を治める小山田信茂が,真田は後背定かでないと言い,岩殿城に勝頼を誘うと見せかけて裏切る・・・というのは,その通りとは思いますが,小山田とて武田家譜代の家臣・・・というより,緩い同盟関係にあったのが信玄の代に臣従した訳でしょうから,真田と極めて似た立場とも言えるのかも知れません・・・。
この辺りは,人物叢書等の参考文献や新田次郎の「武田信玄」,「武田勝頼」を読み返す必要に駆られます・・・。
真田が武田氏に仕えたのは,昌幸の先代である幸隆の時代です。
信州北部の豪族たち-例えば村上義清を筆頭に,井上某に高梨某,屋代某とかは,武田氏に南から圧迫され,越後の上杉を頼ります。
上州吾妻郡から信州小県郡を押さえた真田は,その中でも唯一武田に従った・・・というか,武田勢を手引きして砥石城や葛尾城といった村上氏の諸城を落とすのに大いに働きました。
その辺りが,山県,馬場,甘利・・・といった武田家譜代の家臣と共に真田幸隆が信玄二十四将に入ることになった由縁でしょう。
信玄麾下の秀才若手官僚として,昌幸はゆくゆく武田家を支える1人として,将来を期待されていたことと思われますが,信玄亡き後,勝頼の信頼を得たのは跡部勝資と長坂長閑斎でした(長坂は出てきませんけど・・・)。
そうした中にあって,昌幸は鬱々としていたことでしょうし,主家と運命を共にしなかった理由も,そのあたりに有ったのかも知れません・・・。
そうそう,昌幸はそもそも真田の家督ではありませんでした。
・・・というのは,先代幸隆の長子信綱(晴信の一字を貰ったのでしょう)と次子昌輝は,長篠の戦いで討ち死にしています。
そのような経緯で回ってきた家督を,昌幸はしっかりと引き継いで,強固な領国経営を行ってきたということになります。


それにしても,信幸・信繁兄弟の性格分けをくっきり出そうとしているのでしょうけど,何かそれがしっくりいっていないような気がしてなりません。
信幸-慎重,信繁-果断・・・という単純な分け方ではない筈ですし,それだけでは上手く描ききれないと思います・・・。
何かとにかくやたら軽くて,展開が見え見えだし,数々の歴史ドラマを見て感じてきた重厚さと緊張感が殆ど感じられないのが残念です・・・。
それに,あんなに打ち物を取って戦うのも??です。
どうも最近の大河の主人公は,かねたんにせよ龍馬にせよ,はたまた清盛と官兵衛にせよ,やたら初っ端からポテンシャルが高すぎるような気がします・・・。


最後に疑問を1つ。
「甲府が落城しました」
という台詞がありましたが,甲府という地名はいつから定着したのでしょう・・・。
駿府という呼称はありましたが,現在の甲府市は,当時新しく築城した新府に対して,古府中と呼ばれていたのではないかと想像されます。
多分甲府という名前が定着したのは,柳沢吉保の時代以降ではないのでしょうか・・・。だとしたら,
「甲府が落城・・・」
というのは,考証的にどうよ・・・と,なります・・・。
ま,信玄の父信虎が,現在の石和から躑躅ヶ崎城館に移った際に命名した・・・と言われているらしいですが・・・。 


またこういうことを書くと,今回の大河を楽しみにしておられる方々から,お叱りを受けるかもしれませんが,やはりしっかりした時代考証の下,私のような素人に突っ込まれないような良い作品を製作して貰いたいと思います。
どうも「坂の上の雲」に,エキスを吸い取られたのでは・・・という私の危惧が,これ以上現実にならないことを望みたいです・・・。

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真田丸-第1回「船出」

2016年01月10日 21時54分45秒 | TV&エンターティメント

18時から録画し,19時からビデオを回して見ました。
30年前の1986(昭和61)年1月は,まさにNHKの当時の水曜時代劇「真田太平記」が佳境を迎えていました。
そして,真田の由縁の地である上田や別所温泉,松代を訪れたのは,その翌月になります。その帰途,中央本線の急行アルプス車内から岩殿城跡がよく見えました(大月駅)。
当時の地名で言えば,甲州巨摩(こま)郡から信州諏訪郡・佐久郡,そして真田一族が蟠踞した小県(ちいさがた)郡の風物が好きで,若い頃は幾度となく上記中央線や信越線沿線を見て回ったことがあります。


そうした中で,「真田太平記」の原作(文庫本で全14巻)を読んだのは,昭和の終わりの頃でした。
脇の知識が極めて豊富で,独自の史観を以て語られる司馬遼太郎の歴史小説とは異なり,池波正太郎のライフワークとも言うべき「真田太平記」は,正統派の歴史小説とでも位置づけるべきでしょうか。
天正10(1582)年春の武田氏滅亡と,それから僅か三ヶ月後の本能寺の変に始まり,40年後の真田伊豆守信之の信州松代移封までの真田一族の激動の軌跡が,鮮やかに描かれており,一瞬たりとも弛緩する場面が無く,月2回新潮社から刊行される新刊が楽しみで,七ヶ月掛けて全14冊を読み切った記憶が有ります。
そのTV版で真田安房守昌幸を演じたのが,先年惜しくも亡くなられた丹波哲郎で,役作りのために,何十回も原作を読んだということでした。
重厚にして大胆な用兵をし,抜け目がないようでいて女に甘い・・・という原作通りの昌幸像を見事に作り上げていたと思います。
そして兄信之(初名信幸)役を演じていたのが渡瀬恒彦で,弟の幸村は何と,本日昌幸を演じていた草刈正雄でした。
水曜日に胸をときめかせて,夢中になって見たあの頃から30年もの年月が経ったことを痛感せざるを得ません・・・。
ですので,ぼそぼそとした喋りは,間違い無く丹波のおじさまを意識してのものでしょうし,丹波昌幸が作中で思案する際に胡桃を握ってごりごりさそせていたので,本日も草刈昌幸の傍に胡桃が置いてあったのを見て,思わずにんまりとしてしまいました。
三谷幸喜独自の遊び心だったのかも知れません・・・。


・・・ということで,私の目の前には「真田太平記」の文庫本と,DVDBoxが有りますので,如何に三谷幸喜が,30年に亘って続いている私の呪縛を解き放ってくれるかが,個人的には最大の課題となります。
しかも,大河ファンの方には,大変申し訳ないのですが,ここ数年大河ドラマは悉く外しておりまして,「江」は8月,「清盛」は3月,「八重の桜」は6月,「官兵衛」は3月,そして昨年の「花燃ゆ」に到っては2月に視聴を断念してきたという経緯があります。
その前の「天地人」と「龍馬伝」は,コンプリートしましたが,半分意地と惰性で見たきらいは否めず,どうも09~11年にかけてNHKが威信をかけて完成した「坂の上の雲」にすべてエキスを吸い取られたのではないか・・・とすら勘ぐってきました。
故に,毎年この時期は,どうか重厚にして史実に忠実な骨太な歴史ドラマを見せてくれ・・・という願いでいっぱいになります。
ですから,もしかすると今後この「真田丸」について書くとすれば,大河ドラマを毎週楽しみにしている方や,堺雅人や大泉洋のファンの方々にとっては,甚だ不愉快なものとなる可能性が大です。
ま,以前も,「天地人」や「龍馬伝」に対してぼろくそ書いたら,茶化した物言いは止めませんか,とか,あんな素晴らしい歴史考証(どこが素晴らしいのか聞きたいくらいですが)を誹謗するとは実に怪しからんとか,貴重な反論をいただいたことがあるのですが,
ま,素人の私が書くことですから,そのあたりは
「また書いてやがる。しょーもねーなー」
と,笑って看過していただけると幸いでございます・・・。


・・・ということで,本編について(前振り長すぎ)です。
風雲告げる天正10年2月,木曽谷を押さえる武田方の地方大名木曽義昌(自称木曾義仲子孫)が織田方に寝返ったところから始まります。
舞台は信州諏訪郡上原城(茅野市上原)。
織田・徳川連合軍による甲州侵攻作戦は,伊那口,木曽口,駿河口から始まったと考えられます。
真っ先に綻びたのは,上記木曽義昌の裏切りによる木曽口で,義昌の裏切りに怒った武田勝頼は1万の大軍(大将は勝頼従兄弟の信豊)を差し向けましたが,鳥居峠の戦いで惨敗。その辺りを,もう少しきちんと語って欲しかったですし,信濃の小笠原が裏切ったというのは,明らかに考証不足です。
信濃守護職の末裔である小笠原氏の当主長時は,天文17(1548)年の塩尻峠の戦いで勝頼の父武田晴信(信玄)に敗れて没落し,所領を失って上方の三好長慶や越後の上杉謙信を頼って亡命状態にあり,この時期は既に織田家に使えていた筈です(前年天正9年の京都御馬揃えにも出ています)。
或いは,客将として蘆名盛氏に仕えていたことも考えられますので,信濃にいて武田に反旗を翻したとは思われません。
あと,上原城に,果たして穴山梅雪(信君)は居たのでしょうか・・・。
梅雪は駿河江尻城主ですので,言わば対徳川,対北条の最前線です。
動ける筈もなく,また,裏切って徳川軍を駿河口から手引きした訳ですから,木曽義昌討伐には動員されていないと思われます。
梅雪にせよ,小山田信茂にせよ,後で裏切る訳ですから,出しておいた方がわかり易いということでしょうか・・・。
そして,「真田太平記」の序章の舞台となった伊那口の高遠城攻防について触れられていないのは,全くの片手落ちと言うべきでしょう。
武田勝頼の凋落に拍車を掛けた大きな原因となった訳ですから・・・。
信玄の末子,仁科五郎盛信の壮絶な戦いぶりと最期は,きちんと語られるべきと思いました。


信幸・信繁兄弟(と,姉の村松殿)を別にすれば,役者さんたちはさすがに上手かったと思います。
特に勝頼役の平岳大さんは,さすが大河で主役を張った父の薫陶宜しく,髷と甲冑姿が凄く似合いましたし,高嶋政伸の北条も,莫迦殿ぶりに期待が持てそうです。
内野聖陽の家康が爪を噛んだのは,「影武者徳川家康」の影響でしょうか(実際,そういう癖があったということらしいですが)。
う~ん,1回見ただけで評価をするのは,いささか早計に過ぎますし,まだまだ今後に期待すべきなのでしょうけど,どうかな・・・。
武田氏が滅亡した当時の,真田家の武田氏内部での立ち位置がどうであったか,果たして跡部勝資が言ったように,仕えて日が浅いのか,その辺りは,真田氏がどうして武田家に仕えるようになったのか,その経緯を語らなくてはなりません。
それこそ,9年前の「風林火山」の時代について述べなければなりませんので,次回語ることができれば・・・と思います。
ワープロ2ページ半程,キーを叩いてしまいましたので,今宵はこれまでにしたいと思います・・・。

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旧小田郡紀行-其乃参「奥州仕置」

2015年08月17日 22時42分06秒 | 旅行,および「鉄」

黄金山神社と天平ろまん館を後にして,R346(通称佐沼街道)を戻る。
そして,県道173号線を江合川沿いにほんの僅か北上すると,涌谷城跡だ。
県道からは城らしき建物がよく見えたが,勿論清洲城や伏見城同様,何の歴史的根拠もないRC造りの観光城である。

但し,ここに城があったことは事実だ。
室町幕府の奥州探題職として,東北一円に睨みを利かせた大崎氏の氏族にして家臣である涌谷氏の居城であったという。
やがて16世紀の伊達氏の勢力伸長により,形骸化していた大崎氏の支配は終わり,政宗の代に,亘理重宗が涌谷城に入り,この一体を支配していくことになる。
亘理氏は,保元の乱や源平合戦に功のあった千葉介常胤の三男武石胤盛を祖とする平姓であるが,伊達家お得意とも言える名跡乗っ取りによって,伊達一族の重宗が継いでいた。
重宗の子の代で伊達姓に復し,これを涌谷伊達氏と呼ぶ。
元禄年間に失火で天守が焼け,以降再建されなかったらしい。
城跡の南端に残る隅櫓は,小規模ながら唯一当時の遺構と言えよう。
涌谷城は,ざっとこのような歴史を辿ったのであるが,伊達氏は藤姓(北家魚名流),大崎氏は斯波氏の一族であるから源姓足利氏族である。
さっき述べたように,亘理氏は平姓千葉氏族だ。
つまり本来は,関東地方を本拠地としていた筈の一族である。
それが何故東北に進出するに到ったかは,大きな理由がある。


武士の起こりは,平安時代初期の9世紀ころだったとされる。
所謂平氏は桓武天皇の子孫,源氏は清和天皇(近年の研究では陽成天皇)の子孫と言われている(その他,平氏には仁明天皇系等,源氏には嵯峨天皇系,村上天皇系,宇多天皇系等があるが,桓武平氏と清和源氏をここでは狭義の平氏・源氏とする)。
つまり後続の子孫が姓を賜り臣下となり,中央政界での栄達の為にも(或いはそれを諦めて),地方での実利を取ったということだと思う。
平氏は伊勢や伊賀といった畿内から近いところに,源氏は摂津,大和,河内に起こり,中でも河内源氏は,摂関家に仕え頼信-頼義-義家と,前九年の役や後三年の役で東北の紛争に介入し,関東から東山道諸国に勢力を伸ばした。
特に,東北とも縁の深い八幡太郎義家の三弟,新羅三郎義光の子孫は各地に繁栄した。
有名なところを挙げると,常陸の佐竹氏,上野の新田氏,下野の足利氏,信濃の平賀氏,甲斐の武田氏等である。
いずれも源平合戦に於いて頼朝に従い(佐竹氏や新田氏のように当初は従わず,後に従い)鎌倉幕府の御家人となつた。


一方,平氏は伊勢・伊賀地方で勢力を扶植する一方で,源氏同様東国に基盤を求めた。
関東での独立を図った平将門や平忠常が有名であるが,それらの一族の系統も関東に多く根を張った。
伊豆(関東ではないが)の北条氏,相模の三浦氏に波多野氏,中村氏,土肥氏,鎌倉氏,上総の千葉氏,上総氏,下総の相馬氏,常陸の大掾(だいじょう)氏,武蔵の秩父氏等である。
坂東(関東)は源氏の国・・・という先入観があるが,坂東八平氏と言われるくらいであるから,むしろ平氏の国・・・と言った方が良いのかも知れない・・・。
それらの殆どは源平合戦の際に頼朝の麾下に参じ(波多野氏や鎌倉氏の一族の大庭氏のように従わずに滅ぼされたり,上総氏のように謀殺されたりした例もあるが),鎌倉御家人に名を連ねるに到った。


このように,武士はそもそも宮廷の番人であったのが地方に散じたのであるが,さらに大規模にそれを動かしたのが鎌倉幕府の進めた守護・地頭制である。
例えば,私の義理の母の実家は板橋姓であるが,これは現在の東京都の板橋区から起こった平姓秩父氏の一族であるが,おそらく鎌倉幕府草創期に陸奥国名取郡を領した裔であると考えられる。
おそらく名取郡某荘の地頭職だったのではないだろうか・・・。
平安京から各地に散った武士は,こうして鎌倉幕府によって更に遠方へ散り,それぞれの地を支配しながら勢力を伸ばしていった。
例えば,仙台藩主である伊達氏であるが,常陸国伊佐郡,或いは下野国中村荘を領していたが,頼朝による奥州征伐の際,石名坂の戦いにおいて常陸入道念西が功を上げ,奥州伊達郡を支配したことに始まると言われる。
また,上記奥州征伐後に,頼朝から奥州総奉行に任じられたのは,平姓秩父一族の葛西清重である。
清重は,石巻の日和山に館を築き,登米に移ったという。
その子孫は長く奥州の有力な守護として栄え,秀吉の小田原征伐によって改易されるまで続いた。
また,その葛西氏や伊達氏と境を接して争った大崎氏は源姓足利氏族の斯波氏より起こったことは,先に述べた。
そして,清重と共に奥州総奉行に任じられたのが伊沢家景である。
伊沢氏は,藤原北家道兼流であるが,陸奥国の留守職を務めたので代々留守氏を名乗り,現在の仙台市の岩切城を根拠地とした。
この留守氏も,やがて伊達氏に乗っ取られることになる。


・・・ということで,全くまとまらない内容となってしまったが,伊達氏や留守氏がこの地方に来た根源を辿ると,鎌倉幕府の守護・地頭に端を発しているのである。
それがなければ,歴史は大きく変わっていたに違いない。


城跡からは南側の眺望がよく利いた。

江合川と鳴瀬川に囲まれた低湿地は,長年の先人たちによる努力によって,美田へと変貌し,全国有数の穀倉地帯となった。
そしてその大崎平野の東端に位置する涌谷は,城山から俯瞰すると,山と川のある美しい町として今日も残った。
どうしても仙台市に一極集中になりがちな我が県ではあるが,こうした地方都市にも他にはない歴史や伝統が今も脈々と息づいているのである。
そうしたのも,私が声高に批判した地名の消滅同様に大切な文化遺産である。
それを守っていくのも,我々に課せられた使命であり,今回の仕事が微力ながらその一端を担うものとなれば嬉しい話だ・・・。
涌谷-美里-大郷-大和と,旧小田郡から黒川郡を経て,宮城郡へ帰る帰途,そんなことを思いつつ愛車を駆った・・・。


◎ようやく終了です。
たった4時間程度の行程を書き記すに,膨大な字数を要しました。
そして,余計なことばかり書いたという・・・。
ま,何時ものことではあるのですけど・・・。
また気が向いたら,書くかも知れません。
唯,出掛ける機会が無いのと,もう一つ,県北に残る旧奥州街道の本陣を訪れる仕事が有るのですが,なかなか機会を見付けられないで居ます。
JR駅から近いので,鉄道で出掛けるのも一興かも知れません・・・。

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旧小田郡紀行-其乃弐「くがねはなさく・・・」

2015年08月14日 22時04分54秒 | 旅行,および「鉄」

私が蛇蝎の如く忌み嫌う平成の大合併により,全国各地では郡や町が消滅して,新たに市や町が誕生した。
我が県も例外ではなく,市に編入されたり町村合併して別の名前になったところは数多くある。
隣県では,私の故地である山形県飽海郡平田町は,酒田市に併合された。
本当に由々しき事態である。
地名という文化遺産を,合理主義の謳い文句で簡単に消し去ったのだから・・・。
地域住民にとって,大きな恩恵がある筈も無く,住民税は上がる等,良いことなど何も無いのでは・・・とさえ思えてくる・・・。


・・・と,怒りを混ぜっ返すためにこの話題を出したわけではない。
律令時代の現宮城県は,多分以下の郡に分けられていたと思われる。
北から,栗原郡,本吉郡,登米郡,玉造郡,遠田郡,小田郡,加美郡,桃生郡,牡鹿郡,黒川郡,宮城郡,名取郡,柴田郡,亘理郡,刈田郡,伊具郡である。
そのうち栗原郡と登米郡,玉造郡,牡鹿郡,名取郡が消滅。
仙南の各市町村は,合併せず孤塁を守り抜いている。
かつて私が住んだ伊具郡丸森町は,隣接する角田市との合併を拒み,古代史に名を残す伊具十郎以来の歴史遺産を見事に守った。
そして,律令時代に小田郡という聞き慣れぬ郡が存在し,それはやがて多賀城を中心とした中央政権の東北支配に際して,遠田郡に併呑されていったことは,意外に知られていない。
私が小田郡なる名称を知ったのは,多分高校3年の時に,日本書紀の大仏建立の章を見た際に,陸奥国小田郡・・・というのを見た時が最初だったと思う。
そして,今回の踏査で,かつて旧遠田郡の南部を小田郡と呼び,古代政権下で遠田郡に併呑されたことを初めて知った。
この県に住む者として,迂闊以外の何者でもなく,平成の大合併に異を唱えるなら,これくらいのことはとっくに知っていなければならない・・・と,猛省しているところである。現在,村田,大河原,柴田の3つが合併して柴田市を形成する動きがあるそうだが,絶対止めて欲しいと思う。
既に新潟に新発田市があるので,語呂でも被ってしまう・・・。


涌谷の街は,県内の典型的な地方都市の様相で,栗駒山系に源を発する江合川沿いの段丘上に,駅を中心として石巻街道(R108)と佐沼街道(R346)の交差点付近に開けている。
北東は箟岳を中心とした丘陵が走り,三方には美田が広がる。
特に南は,江合川と鳴瀬川の間の低湿地が長い年月を掛けて開墾し,藩政時代は仙台藩主の肝入りで新田開発が行われ,仙台平野北部の所謂大崎平野は,全国有数の穀倉地帯となるに到った。
自然との共存・共生のため,多くの犠牲を払いながらも叡智を傾け,このような美田を公正の我々に残してくれた先人たちには,感謝以外の何も無い・・・。
藩政時代は支城が置かれたのは,やはり大崎と石巻を結ぶ要衝だったということだろうし,何よりも守護領国制の時代(鎌倉~室町)に築かれた城塞があったのだろう。
これについて述べてしまうと,またとんでもないことになりそうなので後に回すが,国内の大移動という点でも中世の開幕=武家政権の誕生は,日本史上の一大エポックであったことは疑いない。


そして,第一の目的である天平ろまん館は,街の北東の箟岳旧領の麓にあった。

朱塗りの太い柱が,平城宮の大極殿を想起させる。
砂金を産出したという黄金山神社の直ぐ隣に,20年程前に建てられたらしい。
今でも有料だが砂金採りが体験できるとのことで,建物の裏手でやっているらしい。
展示は,天井の高い贅沢な造りの展示室に分かれており,実に見やすい。
年代的に,多賀城市の東北歴史博物館と被るのは仕方がないであろう。
それにしても,例えば佐渡とか伊豆とか駿河梅ヶ島とか,江戸時代までの我が国は,世界有数の金の産出国であったことは疑いがない。
11世紀末から100年に亘って東北を支配し,完全な独立国であった平泉奥州藤原政権の背景にあったのが金と馬であり,それらによって中央政権が摂関家~院~平氏と替わっても,独立をうまく保つことが出来たのだろう・・・。
学芸員は丁度留守だったが(帰り際に会うことが出来た),窓口に書類を頼み,仕事は難なく終了。
隣の黄金山神社を訪れる。

延喜式かなんか分からんが,鬱蒼たる木立に囲まれた古社の雰囲気は格別であり,流れる小川で砂金が・・・というのも納得だった。

須賣呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知乃久夜麻尓 金花佐久
(すめろきの みよさかえんと あづまなる みちのくやまに くがねはなさく)
(天皇の 御代栄えんと 東なる 陸奥山に 黄金花咲く)

なる大伴家持の歌は有名であるが,涌谷で金が産出されたのが天平21(749)年であるから,多分家持は越中の国司だったと思われる。
陸奥按察使持節征東将軍として,任地である陸奥国府(多賀城)に赴いたのは,それから30年を経てからだったと思われる。
既に時は桓武帝の代となっていた。
でもって,さらに迂闊極まりないことに,私は家持が陸奥按察使持節征東将軍のまま,延暦4(785)年10月に多賀城で没したことを知らなかった・・・。
てっきり平城京で没したと思っていたが,任地の多賀城で・・・というのが定説らしい。尤も,在地に下る国司ではなく,都に在って代理人を地方に遣わす遙任であり,平城京で欲したのでは・・・とも言われているらしい。
没後すぐに造営中の長岡京にて,藤原種継暗殺事件が起こり,連座を疑われた家持は官籍からも除名され,埋葬も許されず,子の永主は隠岐へ配流となつたというから気の毒な話だ。
尤も,長岡京造営計画がぽしゃり,平安京への遷都後の延暦25(806)年に名誉が回復され,官位は戻ったというが,その時点で永主が存命であったかどうかは定かではない・・・。


・・・ということで,たかだか半日(というか4時間)のことを書くのに,既にワープロ4ページ以上を費やしてしまった・・・。
明日は実家泊まりだから書けないだろうが,記憶が鮮明なうちに書き留めておきたいものだ・・・。

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旧小田郡紀行-其乃壱「穀倉をゆく・・・」

2015年08月12日 22時15分52秒 | 旅行,および「鉄」

久々に東北道を北上。
・・・と言っても,家から5分の仙台宮城ICから2区間だけ乗って,大和ICで降りたのだが・・・。
途中,青葉区と泉区の境で豪雨に遭う。
数100m手前で,前線が通過して雨を降らせているのが見えた・・・。
ワイパーを最高速にしても,辛うじて前走車の尾灯が確認できる程度だったので,さすがに危険を感じて泉PA(ETC専用ICのところ)に非難。
二輪が続々と入ってきた。


10分程待ってリスタート。
避難の甲斐あって,前線は東に去り,雨はほぼ上がった。
大和ICで高速を降り,そのまま吉岡街道を東進する。
目的地は遠田郡涌谷町。
今まで通過はしたものの,下車して見たことは一切無いほぼ未知の地だ。
目的は2つ。
仕事絡みのフィールドワークと,天平ろまん館の学芸員に会って,仕事を依頼することだ。周知の通り,涌谷は古代の産金地として知られ,奈良の大仏の金が涌谷産であることは極めて有名である。
現地の者に頼んでも良い仕事ではあったのだが,責任者として一度も天平ろまん館や小金山神社を見たことがないというのも問題なので,ぜひこの目で・・・と思い立った。
だから,どうでも良いけど,今回は全くの奉仕である。


大郷の道の駅で土産の野菜を買い(トマト,茄子,胡瓜で320円),R346を鹿島台へ向かう。

周囲は一面の田んぼだ。
先週までの暑さのせいか,今年は稲穂の実りが良いのだろう。
既に黄金色に輝く田園風景が,遠く県境の船形連峰まで続く。
宮城県が全国有数の穀倉地帯であり,米の生産量で全国トップクラスなのも,この美田を見れば頷ける。
勿論,それは以前からそうであった訳ではなく,吉田川,鳴瀬川,江合川,迫川,そして北上川に挟まれた低湿地であった仙台平野北部は,古来幾度となく大きな洪水に悩まされてきた。
そして,それらの流れを変えるという大土木工事が藩政時代より幾度と為された。
近代では,品井沼の干拓に尽力した鹿島台の村長鎌田三之助の業績がよく知られている。
草鞋村長と呼ばれた三之助の銅像は,鹿島台の中心部に道路に面して立っていた。


鹿島台の中心部を抜けR346(通称佐沼街道)を北上して鳴瀬川を渡ったところが,旧南郷町である。
今は,南郷高校(かつては南郷農業)が辛うじてその名を留める。
平成の大合併により,県内北部は多くの市町村名が消滅したが,私に言わせるととんでもないことである。
地名の起源は,おそらく大和朝廷の時代に遡るだろうし(部,曲部とか),全国を五畿七道に分けて国名が付いたのは律令政権の時代だ。
つまり,地名とは1400年以上の歴史を有する文化遺産に匹敵する大事なものである筈だし,地形や氏姓等を伝承する往事を知る手掛かりともなる。
それを安直にも変えてしまうなどということが有って良いのだろうか・・・。
例えば,涌谷町に入る手前は美里町だが,これなど単なる語呂であり根拠のある地名ではない。
小牛田町と田尻町で何が悪いのか,行政上の理由など私には到底理解できん。
同様のことが,全国各地で行われているのが,実に堪えられない。
静岡県伊豆市と伊豆の国市だと・・・??
田方郡天城湯ヶ島町の方が,余程川端康成や井上靖の文学が香るではないか・・・。
山梨県南アルプス市だ?
愛知県に出来かけたという南セントレア市はぽしゃったのだろうか・・・。
とんでもない愚挙としか思われない。
勿論,上記のように私には理解の出来ない行政上の理由は大きいのだろう。
しかし,大多数の国民・市民がこれらに対して無関心であることの方が問題ではないだろうか・・・。
何の根拠もない地名を新しく付けて平気なのだから,信じられない。
その土地の方には申し訳ないが,山形県南陽市(赤湯で駄目なのか),東京都武蔵野市(吉祥寺の方が余程由緒がある)なんて地名は,必然性が何も無いとしか思われない(後者の場合は,武蔵野特有の雑木林が諸所に見られるから・・・という理由付けもあるかもしれないが・・・)


そんなことを憤りながら,出来川という小さな川を渡ると,涌谷の街に入る。
県内の未乗路線の1つである石巻線(小牛田-前谷地,石巻-女川間のみ乗車)の踏切を越えると,西側に涌谷駅の跨線橋が見えた。
如何にも良い意味での地方都市然とした駅を中心とする商店街を通り,江合川を渡るとかつて見た記憶のある城郭風の建物が目に入る。
涌谷城跡だが,鉄筋コンクリートの観光城だろう。
中は郷土館のようだが,帰途に寄ることにする。
涌谷城主について書き出すと,如何程の分量となるか全く見当が付かないので,次回に回そうと思うが,又してもほぼワープロ2ページを小一時間で書き殴ってしまった。
肝心要の天平ろまん館については,次回書けると良いのだが・・・。

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ルドルフ・ケンペの忌日に10

2015年05月11日 23時11分53秒 | 音楽

1982年9月,NHK.FMからライブでオンエアされたその演奏は,聴いていた人々の度肝を抜いた。
曲目は,ブルックナーの交響曲第8番ホ短調(ノヴァーク版)。
演奏は,オイゲン・ヨッフム(1902-87)の指揮するバンベルク交響楽団。
南独のバイエルン州に属する地方都市のオーケストラで,正直言ってあまり期待してはいなかった。
ところが,この地方オケが,ブルックナー演奏の第一人者であった名匠ヨッフムの下,ものの見事な演奏を聴かせたのだった。
冒頭の神秘的な所謂「ブルックナー開始」に始まり,第一楽章終盤大詰めに全オーケストラが全奏で鳴り渡る中,金管による叩きつけるような「死の動機」が闇を劈く電光のように響き渡った時,これは只事ではない・・・と誰もが思った筈だ・・・。
そして続く古代チュートン人の祭りに霊感を得たとも聞く快速にして重厚なスケルツォと,清澄な響きが夏のアルプスの山塊を思わせるようなアダージョ楽章を経て,騎兵の行軍の如き勇壮なコラールが響き渡る終曲においても,オーケストラに疲労や疲弊は全く見られず,明るく大きく全曲が結ばれるコーダで最後のCdurの和音が鳴り響いたとき,久々に感動に打ち震える自分を抑えきることが出来なかった・・・。
この時の演奏は,コンパクトカセット2巻に納め,それこそ擦りきれるくらい聴いたのだが,今はCDで聴くことが出来る・・・。


WWIIの終結というかドイツの敗戦によって,ドイツの占領下にあった東欧諸国では「ドイツ人追放」が各地で起こった。
我が国も,北満や朝鮮半島,台湾,南方諸島から,多くの人々が必死の思いで本土へ帰還し,或いは私の伯父のように中途で帰らぬ人となった例も少なくなかったが,ドイツも亦,同様だったのだろう。
そうした中で,チェコから移ってきた人々が集まったことが,このバンベルク交響楽団の始まりで,終戦直後に発足したようだ。
その後,上記ヨッフムやカイルベルト,シュタインといったドイツ系の指揮者によって鍛えられ現在に至る。


ルドルフ・ケンペ(1910.6.14-76.5.11)。
ドレスデン近郊ニーダーボイリッツに生まれ,スイスのチューリッヒに没したドイツの名指揮者である。
毎年この日は,彼の残した演奏を偲び,代表的な演奏を紹介してきたのであるが,そのバンベルク交響楽団を指揮した演奏を採り上げてみたい。


ケンペは実は,レパートリーの広い指揮者であり,残された音源リストには,ショスタコーヴィチの第5交響曲や,コープランドの「エル・サロン・メヒコ」まで存在する。
勿論,彼のレパートリーがモーツァルト~ベートーヴェン~シューベルト~シューマン~ブルックナー及びブラームスへ連なる独墺音楽の本流にあったことは間違い無く,特にブラームスには2種の交響曲全集(50年代のベルリンpoと晩年のミュンヘンpo)が存在するほか,ロイヤルpoとの第4交響曲,そしてバンベルク交響楽団との第2交響曲が今もCDで聴くことが出来る筈だ。


推敲に推敲を重ね,20余年の構想の後に完成した第1交響曲(1868)が,重厚にして悲劇的なパッションを内包し,苦悩から勝利に至るのに対し,その翌年に南オーストリアの景勝地ペルチャッハで書かれたこの第2交響曲は,一気呵成に仕上げられた。
多分,ペルチャッハの明るい風光のせいであろうが,伸びやかで明朗な感性が充溢したブラームスには珍しい陽性の作品となっているのも大きな特徴である。
第一楽章冒頭の上降する低弦に導入されるホルンの響きから,既にどっぷりと中欧の風物に浸るようだ。
ケンペの指揮するバンベルク響の演奏は,その辺りから徐々に聴き手を響きの渦の中に巻き込んでいく。
澄み切ったバイエルンの青い空のように明るい弦楽の響きと,点在して咲く花のように明滅する木管の響きも美しい。
特別な仕掛けがある訳でも無ければ,驚くようなテンポの急変もない。
楽譜に忠実かつ正確。端正に演奏しているだけなのだが,この滲み出るような味わいの深さは何なのだろう・・・。
愁いに満ちた第2楽章の終盤を聴くと,ロマン派の作曲家にして厳しいまでの自己抑制を強いたにも関わらず,情感が溢れ出るという不徹底ぶりがブラームスの最大の魅力と思うが,そうした感性に一番ぴったり寄り添うのがこのような演奏なのではないか・・・と思う。
第3楽章冒頭のオーボエの艶やかな独奏は,この指揮者が元々はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席オーボエ奏者であったことを思わせるし,ブラームスの喜びが率直に再現された終曲の歓喜も,やや速めのテンポで十二分に再現される・・・。


以前も述べたが,この曲のCDの中では,ブルーノ・ワルター(独 1876-1962)が50年代前半にニューヨークフィルを指揮したCBS盤と,ピエール・モントゥ(仏 1875-1964)が最晩年にロンドン響と残したフィリップス盤が双璧と思ってきたが,ケンペによる2種のステレオ録音も,それに勝るとも劣らぬ名盤と思う。
繰り返し聴きたくなる飽きの来ない演奏とは,こういうものを言うのであろう。

全くの偶然であるが,近年このコンビによる同曲の映像がリリースされた。
それをこの場で見ることができるというのだから,凄い時代になったものである・・・。
70年代初期の映像だろうか。
VTR撮影で,思ったより鮮明であるが,音声がステレオではないのが残念・・・。
勿論,名匠の至芸を偲ぶには十分である・・・。


「ミステリーのオーラが,高度に洗練されてエレガントなルドルフ・ケンペを取り巻いている。彼の丈高いスリムな姿は,いつもすっくと立ったままである。ケンペは,没頭するのを好んだディオニソス的で華麗な技巧の要る楽節で,限度を超えようとする場合に於いてすら,規律正しいジェスチャーを保っていた。オーケストラは彼の明確なサインの言語を即座に了解し尽くした。この点にケンペが忽ちにして世界くまなく成功した要因がある。リハーサルで彼はほとんどしゃべらず,彼の名人芸的な棒さばきと,彼の長い表情ゆたかな両手によって,彼そのものを理解させた。」
                                                   (尾埜善司著「指揮者ケンペ」芸術現代社刊より)


Brahms - Symphony No 2 in D major, Op 73 - Kempe
 

 

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若き日のこと・・・

2015年04月22日 22時10分02秒 | 音楽

ビゼー:「アルルの女」 第1組曲~No.2:メヌエット:前奏曲:クリュイタンス/パリ音楽院O
仕事の帰途,たまたま愛車のCDトレイに載せた音盤から流れてきた一曲。
弦楽合奏に始まる清冽なメヌエットだ・・・。
ラテンものに食指が動かない筈の私だが,突如これを聴いて若い頃に西新宿の東郷青児美術館で,有名なゴッホの「ひまわり」を見たときのことを思い出した。
あの時も脳裏にこの曲が明滅したものだった・・・。
未だに見たことのない南欧プロヴァンスの海と台地が想起され,その晩はワインを飲んだ筈だ・・・。
若き日への追想は,懐旧の念と焦燥が交錯する。
音楽というものは,その時代の風を纏っているものなのだろう・・・。
私が仕事帰りに聴いたのは,アバド指揮ロンドン交響楽団によるきりっと冴えた演奏だったが,これは名匠アンドレ・クリュイタンス(1908-67)が,今は亡きコンセルヴァトワールのオケを指揮した極めつけ・・・。
 

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感謝のバトン5

2015年04月20日 21時52分00秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

いよいよ最終回です。
間一日置きましたが,何とか続けることができました。
最終回だからと言って,特別なことを書くわけではないですし,何か仕掛けがあるわけでもありませんが,平常心で淡々と綴っていきたいと思っております・・・。

⑬東北楽天ゴールデンイーグルスに感謝
73~78年という短い期間でしたが,東京球場を失ったロッテオリオンズが,仙台を準フランチャイズにしていた時代(否,それ以降も),何度か試合を見に行きましたし,自然にロッテのファンとなりました。
以来幾星霜,川崎~千葉とロッテが去った後,ようやく地元球団が出来たという夢のようなことを味わうことが出来ました。
一体何がどうなったのか,一昨年は球団創設9年目にして遂にリーグ優勝+CS突破+日本一・・・を味わうことができました。
強くても弱くても・・・否,負けが込む程,ファンで有り続けたいと思います。
願わくは,長期展望に立ってチームを強化するとともに,地域に密着したファンのための球団となって欲しいものです。
これからの季節の楽しみは,左翼席上段の「聖地」にて,目一杯声を張り上げて歌って応援をすることです。
そうした機会を得ることができたのも,おらほの球団があってこそです。
唯々感謝です・・・。

⑭知り合えた皆様に感謝
現在複数のSNSを掛け持ちしていますが,多くの方々と出会い,喜びや楽しさを共有してきました。
私のような者のところに来てくださる皆さんには,感謝以外の何もございません。
本当にありがとうございます。
私自身は誠に微力ながら,これからも皆さんと仲良くできるよう努力をしていきたいと思います。
どうぞ,宜しくお願いします。

⑮生きていることに感謝
未曾有の国難とも言うべき大震災より4年。
私がこうしていられるのは唯の偶然であり,沿岸部ではなく内陸部にいたから・・・ということになります。
なればこそ生きなくては・・・と,当時強く思いました。
多くの方々が犠牲になったあの大災害を経て,自分のやるべきことを全うすることこそ重要であり,今なお心の傷が消えぬ方々の為にも,自分のできる何らかのことを模索して行かなくてはなりません・・・。
そのためにも生きていることに感謝・・・否,生かされていることに感謝しなくてはなりません・・・。


・・・ということで,本家に投稿して,別のSNSにはリンクを貼りましたが,読んでくださった方に最後の感謝を送って,5日に渉った駄文の山を閉じたいと思います・・・。ありがとうございました。

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感謝のバトン4

2015年04月19日 21時11分27秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

4日目。
ここまで来ると少し先が見えてきたかな・・・(と思いたい・・・)
さっそく書いてみませう・・・。


⑩文芸すべてに感謝
私に感銘を与えてくれた文学,音楽,映画,美術(これはそうでもないか・・・?)・・・といったものすべてに感謝したいです。
「信長の野望」や「実況パワフルベースボール」をプレイしてクリアしたとしても,感銘はありません。
所詮はゲームだからでしょう(勿論,それでも好きですが,そういうものを求めるものではないということでしょう)。
その点でも,文芸全般には人の心を動かす力があります。
本物だからに他なりません。
例えば,今まで心を揺さぶられたり,ガツンと頭を殴られたような衝撃を与えられた映画作品を挙げたら,枚挙に遑がありません・・・。
そうした作品は,やはり制作者の志が高いものばかりです。
感謝の言葉もありません・・・。

⑪愛車に感謝
5代目となる愛車に,丸9年間乗ってきましたが,故障もなく一応表面もてかてかのままです。
ま,たまに擦ったりしたこともありましたが・・・。
街乗りの四駆なので燃費は良くないですが,長距離クルージングでは一気にそれも解消。1時間運転すると飽きる私が,隣県から3時間のドライブで疲れを然程感じなかったのも愛車のおかげです。
9月の車検,どうするか迷いに迷っています・・・。

⑫野球に感謝
子どもの時から,するのも見るのも野球が一番・・・と思ってきました。
幾多の名勝負・名場面を見ることができたと共に,近年では地元球団を応援し,日本シリーズを観戦・・・という得難い体験もできました。
シューレス・ジョーが出て来る「フィールド・オブ・ドリームス」とか,ルー・ゲーリッグを扱った「打撃王」等,野球の映画が多いのは,やはりロマンをかき立てるスポーツだからであり,武道や格技の立ち会いにも似た絶妙の「間」があることが日本人に浸透した理由かと思います。
悪いけど,サッカーではそうはいきません・・・。


・・・ということで,極力悪い癖である大暴走しないように,極力シンプルに書いてきたつもりです(本当か?)。
これで4/5。
明日で終えることが出来るでしょうか・・・。

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感謝のバトン3

2015年04月18日 22時53分44秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

3日目です。
中1日置いたけど無効・・・ってのもありなんでしょうか・・・。


⑦食べ物に感謝
以前も震災関連で描きましたが,幾ら米飯を食しても空腹感が無くならないことをあのとき知りましたし,如何に贅沢をしていたか,食糧が無い辛さを今まで知らなかったか・・・を痛感しました、
あのまま交通インフラが復旧せず,物流が回復しなかったら,最悪栄養失調や餓死も有り得る・・・という暗澹たる予感を忘れてはならないと思います・・・。
なればこそ,食べ物に感謝です。
出されたものは,文句を言わず全部食べる。
勿論何でも食べるし,食べられることに唯々感謝しか有りません・・・。

⑧仕事に感謝
はっきり言って薄給だし(泣),ストレスも少なくないけど,こうして20数年定職に就いていることに感謝しなくてはなりません。
若い頃は,幾らで仕事したいと思ったし,平気で9時10時まで残っていましたが,家族のある今は,何としても子どもの起きている時間に帰宅して,出来れば食事も・・・と思っています。
それも仕事が有ればこそ・・・です。

⑨IT全般に感謝
ここ20年で最大の生活の変化が,IT関連でしょうね。
PCに関して言えば,四半世紀前のMS-Dosの時代,初めてPCいじったときは,私の手に負える代物ではない・・・と思いましたが,Windiwsの出現は大きかったです・・・(Macでは,それ以前から同様のことが出来た訳ですけど・・・)。
個人的には,PCの無い生活は考えられません。
携帯有ればPCは不要・・・という人を見ますが,私からすれば絶対にそんなことは有り得ません・・・。
カメラが,銀塩からディジタルに移行したことも,私にとっては大きなエポックでした・・・。


・・・ということで3/5まで来ました。
いよいよ根多が尽きてきたかな・・・。

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感謝のバトン2

2015年04月16日 21時18分24秒 | 日々のこと,その他・画像等・・・

1/5終了ということで,いよいよ第2弾です。


④この国に生まれたことに感謝
四季があり,水が綺麗で,山紫水明白砂青松。
世界に冠たる美しい国に生まれたことに感謝です。
自虐史観を教え込まれることもなく,周囲が反体制を唱えても,中韓に謝罪せよと言っても,結局耳を貸しませんでした。
勤勉で高潔な国民性を保持する国でもあるわけですから,これからも胸を張り,日本人であることに誇りを持って生きていきたいと思います。

⑤東北に生まれたことに感謝
何よりも海の幸が美味しいのが最高です。
肉を食べなくても良い・・・と言い切るくらい,魚好きになったのは,東北に生まれたからに他なりません。
体内に流れる猛き蝦夷の血に感謝です。

⑥アルコールに感謝
別に飲まなくても生きていくことができる訳ですけど,やはりあの美味しさを知らないのは不幸では・・・と,余計なことを思ってしまいます。
和洋中を問わず何でも好きですが,味わいも香りも最高なのは,やはり日本酒では・・・と思っています・・・。


よし,2日目完了。
明日は実家泊まりだから書けないでしょうけど,明後日気力が有れば続きを書きたいと思います。

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