koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

龍馬伝-第31回「西郷はまだか」

2010年08月02日 21時40分10秒 | 龍馬伝

長崎を初めて訪れたのは,もう20年近く前になります。
正月明け,東京を夕刻発する寝台列車に乗り,目が覚めたときそこは初めて訪れる九国の地でした。


長崎の近世初頭の歴史は,言わば殉教の歴史でした。
今も長崎駅頭に碑が残る二十六聖人殉教に始まる切支丹の苦難は,島原の乱(今は天草・島原一揆というらしい)でピークに達します。
その後,新教国であるオランダと清のみが幕府に交易を許可されていたことは周知の通りです。
そして,維新後というかつい最近も原爆の被害に遭うという(余談ですが当初の投下目標は九州工業地帯の中核都市である小倉だったそうで,8/9当日朝の雲の状況から長崎に変更になったということだそうで・・・)負の歴史を引き摺る街ということになります・・・。


しかし,私が目にした長崎の風物は,いずれも明るい雰囲気に包まれたものばかりでした。折からの好天と冬ならではの乾燥した空気もあったのでしょうが,大浦天主堂から坂を登ったグラバー園も野球で有名な海星高校の近くのオランダ坂も,そして寺町の一郭にあるこれまた坂の途中の亀山社中跡(昭和30年代に司馬遼太郎氏が取材の為に訪れたときは,人が住んでいたそうです)もすべて明るい陽光の中に有りました。
この底抜けに明るい風気は,きっとこの街が東シナ海を控えて,さらにその先の海外と結びついていたからではないのか・・・などと思いました。
番組終わりに紹介のあった亀山社中の坂を登り切ったところにある風頭公園には龍馬像があります。
その茫洋たる眼差しは,きっと海の向こうに向けられていたに違い有りません・・・。


・・・ということで,一日遅れでビデオ回しましたが,相変わらずよう分からんことをやっておりました。
そう言えば,今まで中岡慎太郎は出ていなかったんですね。
池内蔵太同様,唐突すぎないでしょうか・・・。
で,この頃の龍馬ですが,一体いつ長崎にいたのか調べてもよく分かりません。
今回の放送では,いつの出来事なのか分かりませんでしたので,一応慶応元年5月周辺の出来事を追ってみます。


  5/ 1  薩摩船にて鹿児島へ到着。西郷邸・小松帯刀邸に逗留。
  5/19  熊本沼山津に横井小楠を訪ねる
  5/24  大宰府で三条実美に謁見
  5/27 大宰府で三条実美をはじめ五卿に謁見し薩長連合を進言。
閏5/ 1  下関到着。白石正一郎邸に逗留。
閏5/ 5  長州下関白石正一郎邸で土方久元と会談。中岡の薩長和解周旋に協賛
閏5/ 6  桂小五郎と会見、西郷の到着を待つ
        中岡慎太郎,鹿児島に到着。
閏5/11  武市瑞山、獄中死
閏5/16   中岡慎太郎,西郷吉之助と薩船「胡蝶丸」で下関に向かう。
閏5/20  中岡慎太郎 佐賀関を出港。下関に向かう。
閏5/21  中岡慎太郎,下関上陸。坂本・桂に不首尾を告げる。
     西郷,下関に上陸せず。両藩和解せず。
閏5/29  西郷説得のため下関出発。京へ向かう。


中岡が五卿と会ったのが4/20で龍馬が5/27ですから,この2人が太宰府で遭う筈がありません。
また,この時期の中岡も龍馬に劣らず獅子奮迅・八面六臂の活躍だったことが伺えます。で,社中結社は5月と推定されます。
龍馬の活動基盤はいよいよ鹿児島から長崎に移ったのもこの時期で,いよいよ長崎で本格的な活躍が始まります。
因みに桂が下関に帰ったのは同年4月末ですから,幾らも時間はたっていません。
先週述べたように,大田・絵堂の戦いに桂は居ません。
ですから,長州藩尊皇派のクーデターの中心となったのは高杉であり,山県狂助(有朋)と村田蔵六(大村益次郎)が直接の戦闘指揮を行ったと言うべきかも知れません・・・。


来週も何かよう分からんことになりそうな・・・。
突っ込みどころ満載で面白いのですが,何か見るのがかったるくなってきた・・・。
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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
暑中お見舞い (tomo)
2010-08-03 18:12:03
不覚にも熱中症になりました。8月23日はこちらでの合同会議があります。ぜひ、お越しください。スーパーの練習日は21、22日です。
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それは大変 (koshi)
2010-08-04 10:52:59
熱中症・・・,人ごとじゃないですね・・・。
大丈夫でしょうか・・・。
8/23は担当の者が行くと思われます。
21,22は調整してみます。
日曜は子どもの都合で無理かも知れません・・・。
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