詩集「夕焼け売り」思潮社より出版されました。
ぜひ手にとってください。 →item_2146.html
夕焼け売り
齋藤 貢
この町では
もう、夕焼けを
眺めるひとは、いなくなってしまった。
ひとが住めなくなって
既に、五年余り。
あの日。
突然の恐怖に襲われて
いのちの重さが、天秤にかけられた。
ひとは首をかしげている。
ここには
見えない恐怖が、いたるところにあって
それが
ひとに不幸をもたらすのだ、と。
ひとがひとの暮らしを奪う。
誰が信じるというのか、そんなばかげた話を。
だが、それからしばらくして
この町には
夕方になると、夕焼け売りが
奪われてしまった時間を行商して歩いている。
誰も住んでいない家々の軒先に立ち
「夕焼けは、いらんかねぇ」
「幾つ、欲しいかねぇ」
夕焼け売りの声がすると
誰もいないこの町の
瓦屋根の煙突からは
薪を燃やす、夕餉の煙も漂ってくる。
恐怖に身を委ねて
これから、ひとは
どれほど夕焼けを胸にしまい込むのだろうか。
夕焼け売りの声を聞きながら
ひとは、あの日の悲しみを食卓に並べ始める。
あの日、皆で囲むはずだった
賑やかな夕餉を、これから迎えるために。
2018年7月14日(土)14時〜16時30分
会場:国立コミニティスペース旭通り 国立市東1−47−7JR国立駅南口徒歩3分
参加費:1000円 予約不要 直接会場にお越しください。
問合せ:080−4351−1353(狩野)
記念講演会
齋藤 貢さん(詩人・元南相馬市小高商業高校校長)
「あの日から7年 いま、福島の言葉を聴く」
戦死することがほぼわかっていて出征する人との結婚を父が断ったらその人が涙したときいて、泣かせたまま死なせてはいけないと結婚し、数ヶ月でやはり戦士した夫。50年間その自分がしたことに答えをもてずにいて、やっとその戦地を訪ね、海の大きな夕陽に包まれて海に向かって、亡き夫に向かって自然に言えたという。「私は50年幸せでした。」という言葉。
お鍋の野菜をヘラでかき混ぜるとき、「母がお風呂で体を洗ってくれるとき、その手の運びはいつも決まった流れですすみ私は次はここだな、と安心して洗ってもらうことができた。母の手は他の人と違ってあちこちにいくことがない。お鍋の野菜も洗ってもらう人と同じ。かたよりなく、全部を丁寧に同じように混ぜてほしいと思っているはず」
<ひとを想う>辰巳さんのスープに込められた、自分のできることに一生懸命になるこが、ひとをも「しあわせにする」のだなあ、と思わせてもらいました。
よい時を過ごせました。
そしてGM(遺伝子組み換え食品)の怖い話。この現実と私たちは向き合っていかなくてはならないのですね!
新潟大学の、野中昌法先生が、3,11以降、福島現地に行って農家とともに行ってきた丁寧な調査を積み上げ、有機農業の危機を何とか脱すべく、渾身の力で活動してきた内容をもとに、その志を本になさいました。
どうぞご一読ください。
昨夜、黒田真美さんが出演している芝居を、
観てきました。私は正直なところ
ノックアウトされた感じです。
私たちが戦後に取ってきた“選択”と、その
結果である3.11に向き合わざるを得ない芝居
になっていた。。。
公演は、日曜日まで。
昼もあり。下のブログを、ぜひ開いてみてください。
中野駅南口から徒歩5分の劇場MOMO。
ぜひ、お薦めします!
我らが真美さんが、二役を演じています。
軽やかにも、しかし守るべきものには筋を通す
女を見せています。
(たねまきネット H・O)
■『海に降る雪を魚達は知らない』
作・演出 宇都宮裕三
ユニットtogether again ↓
http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_id=50801
【あらすじ】
物語の舞台は40年以上前。原発開発がすすめられる
浜辺の街で、百戦錬磨の電力会社にカネと雇用の
バラマキで引き裂かれいく家族、仲間たちの人間
群像。
「かつてその道を選択した、いや選択させられて
いった時の人間たち」が描かれている。
原発立地地域だけのことではなく、暴力的に
選択を迫っていった、これは、私たちの物語。
そのすべてを、タイムスリップした映像作家が、
記録として写し撮っているという枠組み。
お芝居
国立市被災者支援市民協働ネットワークのメンバーで、昨年の小高商業招聘の際にもお手伝いいただき、たねまきツアーにも参加、福島子どもキャンプ@恵泉や、くにたちマルシェでも大活躍してくださっている金子真美さんが出演される舞台です。
美術展
小高商業高校招聘や、福島子どもキャンプの際の、メニュー・レシピ作りでおせわになっている、恵泉大の教諭でもあり、国立市民としてくにたち公民館「男性の料理教室」の先生もしている、北川みどりさんの亡きお父様の遺作展です。
彫刻家 安藤栄作さんは、1989年に福島県いわき市に家族で移り住み、3・11の津波で家を失い、原発事故の後、いわき市を離れました。その後も各地で精力的に活動しています。
2ページ目の頭が切れていてごめんなさい。ここに記しますので、1ページ目をお読みになった後、以下の文章をお読みになって、2ページ目にいってください。
「ていた小さなワンボックスカーがモデルで、ミニカーでは売っていなかったものを手作りしたのだった。小さな車の玩具は私たちが帰る前に「そろそろ帰るのかい」と、ひょっこり挨拶しに出てきたように見えた。」