いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(281)「主の復活に生きる」

2014年08月04日 | 聖書からのメッセージ

 「ヨハネによる福音書」20章19節から23節までを朗読。

 

 21節に「イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』」。

 

 毎年、クリスマスやイースターは繰り返されます。クリスマスは12月25日となっていますが、イースターはどういうわけか移動祭日と言われ、年ごとに日取りが変わります。去年と今年では違います。それはイースターの決め方がクリスマスとは違っているからです。イースターは春分の日を過ぎて最初に来る満月のいちばん近い聖日に決められているからです。そのような決め方でありますから、年によって月の満月になる日が変わりますから、イースターも決められません。

 

イエス様が十字架におかかりになってくださったご目的は何であったか。それは私たちの罪のあがないのためであります。私たちが神様を知らずに、自分を神として、己の欲望に従って生きていた。その終わりは永遠の滅びです。そういう滅びの道から、天地創造のわざの中へ私たちをもう一度取り返してくださるためです。ですから、この十字架は罪の赦しであると同時に、神様が私たちをあがなってくださった、神様のものとしてくださった事であります。もし、十字架がなかったら、私たちは神様の救いにあずかることができません。十字架は、イエス様が二千年以上前にあのゴルゴタの上に命を捨ててくださったただ一回限りのことです。しかし、時代や地域を越え、年齢を超え、男女の別を越え、人種を越えて、すべての人が十字架の死とよみがえりを日々覚えていかなければ、意味がありません。イエス様はすべての人のために、過去現在未来、これから生まれてくる人のためにも十字架にご自分の命を捨てくださって、私たちのすべての罪を徹底して、完全に赦して「事畢(をは)りぬ」(ヨハネ19:30文語訳)と宣言してくださった。神様の側のなすべき事は尽した。これ以上方法がないというところまでしてくださったのです。

 

では、今度はどうするか。私たちに投げられたボールを今度は受け止めなければならない。私たちはイエス様の十字架の死を、そのよみがえりをどのように生きるかということです。どのようにそれを自分の日々の生活の中に、あるいは人生の様々な現実の生活の中で、イエス様の死とよみがえりを体験すると言いますか、味わっていかなければ、絵に描いたもち、何の役にも立たない、むなしいものであります。ですから、このイースターが毎年いつになるか分からないのは、実に理にかなったことだと思います。なぜならば、いつでもそれに備えていなければならない。日々にイエス様の十字架の死にあがなわれ、清められ、神様のものとされた者として生きる。パウロがそう言うように「わたしはキリストと共に十字架につけられた。20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:19~)。このことを信じて日々を生きること。それによって初めてイースター、よみがえりのいのち、力、その出来事を、きわめて現実的で、リアルな体験として味わうことができるのです。

 

 この記事もその一つでありますが、この19節に「その日」とあります。「その日」とはイエス様がよみがえられた日であります。イエス様は金曜日の朝から夕方に至るまで十字架の苦しみをお受けになった。今週は受難週となり、今日から始まります。受難週は広い意味ではもう少し前からですが、今日は教会暦で言うならば、「棕櫚(しゅろ)の聖日」、イエス様がエルサレムに来られた日です。それから宮清めを行われた後に、木曜日が最後の晩餐(ばんさん)の日に当ります。そして、金曜日に十字架の刑を受け、その夕方には息絶えて葬られました。そして、次の日の土曜日、今の土曜日はかつては安息日でしたから、その日は何もできないので、イエス様を急いで墓に葬る。その次の日、週の初めの日、早朝、女の人たちがイエス様をもう一度ちゃんと、その当時のユダヤの習慣に従った埋葬をしようとして、朝出掛けて行ったのです。

 

 ですから、同じ章の1節から10節までを朗読。

 

 これは、その週の初めの日、よみがえられたときでありますが、朝早く女の人たちが墓へ行きました。すると、墓の石が転がされて、見るとそこにはイエス様の遺体がなかった。遺体をくるんでいた布だけがそこに置かれていました。それで女の人たちはお弟子さんの所へ、ペテロやヨハネの所へ伝えに行きました。ヨハネとペテロが大急ぎで墓へやって来た記事が、今読んだところです。中へ入ってみると、なるほどそこには遺体がなかった。ところが9節に「彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった」とあります。ここでペテロもヨハネも、遺体がそこにはないことを見たのですが、まさかよみがえったとは思わなかった。きっと何か事件でもあったか、あるいは誰かが盗み出したかもしれない。あるいは何か事情があって取りあえずどこかへ移されているのかもしれないぐらいに、彼らは思っていたのです。しかし、イエス様はそれまで彼らと生活を共にしている間、繰り返し、やがて律法学者や長老たちから迫害を受け、十字架に死んで、三日目によみがえるべきことを話しておられました。彼らは聞いていたはずです。しかし、いくら聞いても死んだ人がよみがえるなど、そんなことはないと思いこんでいた。だから、そのことを考慮していない、気に留めなかった。イエス様が死んだ後、現実に目の前に現れてくださった事を見ても、それがよみがえったという確信が持てなかった。それを悟ることができなかった。

 11節から16節までを朗読。

 

 これは実に麗しい、美しい光景ですが、弟子たちは「イエス様が居ないのなら、帰ろう、帰ろう」と、帰ってしまった。ところが、マリヤはどうしても去り難いのです。イエス様の遺体がないことを大変悲しく思いました。ですから「マリヤは墓の外に立って泣いていた」のです。その時、もう一度墓の中をのぞくと、白い衣を着た御使がそこにいました。彼らが「女よ、なぜ泣いているのか」と、マリヤに言いました。そのときマリヤが「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのかわからないのです」と言っていると、目の前の御使は消えてしまった。すると後ろに、人の気配を感じてフッと振り向いた。そこにイエス様が立っておられた。14節に「そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった」。マリヤもまさかイエス様が生きていらっしゃるとは思いません。誰かがどこかに取り去ったに違いないと思っていたのです。これが、私たちの思いの限界です。限られたことしか分からない。しかし、神様は人の思いを越える御方、人の計画や人の考えを越えた御方であります。イエス様はよみがえってマリヤの後ろに立っている。フッと振り返るとイエス様がいらっしゃる。しかし、そのときマリヤは、15節「その人が園の番人だと思った」と。霊園の管理者、墓地の管理者だと思って「どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい」と言ったのです。そのとき、16節に「イエスは彼女に『マリヤよ』と言われた」。このときイエス様が「マリヤよ」と声を掛けてくださった。自分の名を呼ばれて、かつて一緒に生活していたときのイエス様の思いが一瞬にして広がった。「これは主だ」と。だからここで「イエスにむかってヘブル語で『ラボニ』と言った。それは、先生という意味である」と。このときのマリヤの喜びはどんなであったかと思います。でも、イエス様は「まだわたしは父のみもとに上っていないから、まずあなたがわたしのよみがえったことを知らせなさい」と言い置いて、イエス様はそこを去って行かれた。

 

そして、その日の夕方、19節に「弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていた」。イエス様の事件はまだ三日前のことです。十字架の狂乱状態になった町ですから、彼らはとにかく息を潜(ひそ)めて隠れていました。戸を閉ざしているところに、イエス様が入って来られたのです。そして「彼らの中に立ち、『安かれ』と」言われた。彼らはびっくりした。「心配するな」とイエス様はおっしゃって、20節に「そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった」と。かつて湖の上を歩いて来られたイエス様を見て、弟子たちは「幽霊だ」と言っておじ惑った記事がありますから、このときも恐らく彼らはすぐに信じられません。目の前にたとえ見たとしても。そのときイエス様はちゃんと両手を広げて釘の傷跡を見せ、胸のやりの跡を見せて、「わたしは紛れもなくあの十字架に死んだわたしであるよ」と、ここで証ししてくださったのです。そのとき、20節に「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。そのとき、イエス様を見て、彼らは大変うれしくなって、喜びにあふれたのです。つえとも頼み、自分の命のように慕っていたイエス様が突然いなくなった。何の前触れもなく一瞬にして取り去られてしまったのですから。

 

よくありますね。身近な人が不幸な事故などで一瞬にして亡くなったときの悲しみは大きい。ある程度年を取って、といっても人それぞれですから、あまり言えませんが、ある程度年を重ねてだんだんと衰えて、看病も1年も2年もして、いい加減疲れて「早く死んでくれんかな」と思うようになったときに亡くなってくれると、「やれやれ、良かったね。本人にも良かったし、私たちも良かったね」と言えますが、元気だった、つい何時間か前まで元気だった人が突然、一瞬にして取り去られたら、これはたまらない。だから、弟子たちも失望落胆したのです。そこにイエス様が、よみがえった主が現れてくださったのです。そのとき、21節に「イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』」と。イエス様がよみがえられていちばん最初に言われたのがこの言葉です。もちろん、先ほど「マリヤよ」と声を掛けたり、「安かれ」と入って来た、それが最初の言葉だと言えばそうかもしれませんが、まずイエス様が言われたのはこのことです。これはイエス様がよみがえったことを私たちが信じる、言うならば新しいいのちに生きるとは、どういう生き方をすることなのか?イエス様は私たちの罪のゆえに十字架に贖いの供え物となって死んでくださいました。それで、どうして終わらないのか?死んでくださったのだから、私たちは清められたのだから、それでいいのではないかと。ところが、それだけでは私たちがまた罪の生活へ戻ってしまう。イエス様のよみがえりは私たちが新しいいのちに生きる者となることです。それまで私たちが生きてきたのは何のためであったか。それは自分のためであった。ことごとくがそうです。生まれたときから「私が……」「私が……」「私が……」と、自分のことだけです。そういう生活をズーッとしてきた。自分の願望、願いや欲望、そういうものが満たされることがいのちであり、力であると思っていた。だから、今の世の中でもそうですが、人の思いがいちばん大切なもので命のようなものであります。そういう生き方は滅びに定められている者です。私たちが新しいいのちに生かされる、キリストに私の命となっていただくことです。よみがえったとは、イエス様が私たちの罪のために死んで、私たちを清め、清められた私たちがその清きに従って神様の御旨にかなう、御心にかなう生き方ができるように、新しいエネルギー、新しい力として、イエス様をよみがえらせてくださった。そして、すべての人々にその力を与えてくださっている。

 

私たちがイエス・キリストを信じるとは、イエス様がよみがえって私の命であることを信じる。命であることを信じるとは、どうすることか?それをはっきり語ったのがこのイエス様のお言葉です。私たちがイエス様からつかわされた者としてこの世に生きることです。言い換えると、私たちの生きる目的が変わるのです。これまでは自分のために生きていた人生ですが、今度はよみがえった主が私達をそれぞれの家庭に、職場に、それぞれの地域に、今置かれた所へイエス様によってつかわされた者となっていくこと。これがよみがえったイエス様によって生きる、新しいいのちに生きる具体的な生き方です。だからパウロが「わたしはキリストと共に十字架につけられた。20 生きているのは、もはや、わたしではない」と告白しました。私たちもまたそうです。十字架にかかるべき私たち、本来永遠の滅びに定められていた私たちに代わってイエス様が十字架に死んで、私たちの罪を赦してくださった。そして、今度は私たちを今までとは違った新しいいのちである、よみがえったイエス様が私たちを生きる者としてくださる。具体的な日々の生活にイエス様をどのようにいのちとして生きていくか、その具体的な姿が「わたしもまたあなたがたをつかわす」との言葉です。常に、イエス様によって、主によって、私はこの家庭に、この所につかわされている、派遣されているのだ。これを自覚していくことです。どんなことの中でも、このことを主のためにしているのだと覚えていく。私のためにしているのではなくて、主が私をつかわしてくださって、今この家庭で、今与えられたこのことを、イエス様のためにする。主のために生きるのです。人のためでもなければ、会社のためでもない。あるいは自分の家族のために生きるのでもない。ご主人のためにでもなければ、妻のためでもなければ、孫のためでもない。私たち一人一人はだれのために生きるか?よみがえった主のために生きるのです。これが、よみがえったイエス様のいのちによって生きることの具体的な生き方です。だから、与えられた一日の一つ一つのわざを「これは主が私に求められること。私はここで主に仕えていくのだ。イエス様のためにこのことをさせていただきましょう」と、そういう自覚を絶えず持っていただきたい。昨日の今日、今日の明日とダラダラと途切れなく、自分のことばかり考えて生きていては駄目です、それは滅びですから。ご復活、主のよみがえりを、ただに記念して、「今日がイースター、復活節だ。その礼拝だった。イエス様はよみがえったそうだ」と言って、スーッと家に帰ったら忘れてしまったでは、よみがえりの尊い主の御わざを捨ててしまうようなものです。主が私の命となってよみがえってくださった。そして私を生きる者としてくださった。教会の玄関を出て行くとき、主によってつかわされて行くのだ。「わたしもまたあなたがたをつかわす」と。私たちが主のために生きる者となること。それは私たちが思いを変えなければ駄目です。自覚しなければいけません。ただ黙っていて、イエス様と共に生きることはできないし、イエス様のために生きることができません。聖書には「自ら敬虔(けいけん)を修行せよ」(Ⅰテモテ 4:7文語訳)、訓練しなさいとあります。だから、常にいま私は誰のために生きているのだろうか?人のためだろうか?誰のためなのか。「私はキリストのためです」と、言い得る生き方をしていきたい。

 

「では、主のために生きる生き方は、どんな生き方ですか」と尋ねられる。「イエス様のために生きるにはどうしたらいいのでしょうか?」と。「伝道したり、何か教会のわざをすることでしょうか」とか、「何か慈善事業でもすることでしょうか」と。これは決められません。どれがキリストのわざというものはありません。そう言ったら何か突き放されたようで、「どうすればいいんだ」と思われるに違いないが、大切なのは信じることです。どんなことでも、どんなわざであっても、「これはいま、私は主のためにさせていただいているのです」と、確信を持って言えること。ここが大切です。何をしてもいいです。洗濯をしようと、掃除をしようと、どこか旅行をして楽しんでも、別にそれも悪くはない。「いや、主のために生きるので、私はこれから一切自分の楽しみを捨てます」と言われるなら、それが主のためだと確信を持っているならそのようになさったらいい。ところが、「私は主のために楽しみを捨てました」と言いつつ、人が楽しんでいるのを見たら「あいつはいかん!」とか、「あんなことをしている、クリスチャンのくせに!」と、人を非難するぐらいだったら自分もすればいいのです。問題は、大切なことは、「誰が何と言おうと、誰がどうあろうと、私はいまこのことを通して、イエス様のために生かされているのです」と、心から感謝し、喜んで生きることです。それこそがイエス様が私たちを遣わした目的です。

 

イエス様が私たちをつかわすとは、どのようにつかわすかと。「父がわたしをおつかわしになったように」とおっしゃっています。言い換えると、イエス様によってつかわされた日々の生活モデルとしてイエス様をよく見なさい、ということです。「父がわたしをおつかわしになったようにあなたがたをつかわすのだから」と。だから、「ペテロの第一の手紙」に「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである」(2:21)とあります。私たちの模範となったキリストに倣(なら)う者となること。「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。ここで「わたしも……」と、今度はイエス様によって私たちがつかわされていること、ここによみがえったイエス様のいのちに生きる自分であることを知っておいていただきたい。そうでないかぎり、私たちがいくら「イエス様がご復活されたそうだ。よみがえられたそうだ」と頭で知っていても、生活の中でしていることが、自分のためばかりであったり、家族のため、この人のため、あの人のためばかりでは、いや、それはしていいのですが、その動機、その心が「これは主のためにさせていただいている」という確信を持って歩まなければ、むなしいのです。そこにはいのちがない。だから、主が私たちのために命を捨ててくださった。私たちもキリストと共に死んだ者となって、よみがえったイエス様が私たち一人一人に、家庭で、仕事で、それぞれ重荷を与えられています。その中でよくよく祈ってください。そして、決断をつけて「主よ、これはあなたが負わせてくださったことです」、「これはあなたから出たことですから、私はあなたに従います」と、はっきりと信仰を持って、そのことに踏み出していただきたい。そうしますならば、結果が良くても悪くても、人から褒められようとくさされようと、もはやそれは意味がない。私たちはそれを気にすることがいらなくなる。ただ、主が喜ばれること、主が私たちに報いてくださることを信じていくこと、これがよみがえってくださったイエス様と共に生きることであり、私たちが新しいいのちに生きることです。

 

 21節に「イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』」。どうぞ、このお言葉をしっかりと心の中心に置いてください。会社にいるから上司のために、この会社のために、そんなものじゃない。そこに主が私をつかわして、この仕事をさせてくださるのだから、そこで主に仕える。この自覚を持ってご覧なさい。日々の生活が感謝に変わります。喜びに変わります。今まで同じようにしてきて「どうして私ばかりがこんなことをしなければいけない!」とか、「どうして家族のためにこんなに犠牲にならなければならない!」、「私はどうしてこんなに体が弱いのだろうか。次から次へと病気ばかりして、私の人生はいったい何なんだろうか」と、不平不満、つぶやくことになる。それはイエス様のいのちに生きていないからです。「これもイエス様、あなたが私に与えてくださったことと信じますから、主よ、従います」と、心から「あなたがつかわしてくださった。私をここに置いてくださった。この問題の中に私を入れてくださったのですから感謝します」と。問題を見て「こんなになってしまった。これから大変だぞ、どうする?」そんなことよりも、よみがえったイエス様が私をここに置いてくださった以上、派遣した以上、つかわしなさった御方が責任者ですから、知恵も力も必要なものはどんなものでも与えて、その事を完成に至らせてくださる。ただ、私たちは主からつかわされたことを確信して、何か事があればつかわした御方へ求めればいい。そうしますならば、神様は私たちを慰め、力づけ、新しいいのちを与えてくださる。喜びと感謝をもって、この地上の旅路を生きることができる。 

 

そればかりでなく、私たちの地上の使命が終わりますならば、神様は、つかわした御方は、「帰ってきなさい。もうお前の使命は終わったのだから、用事はないから早くこちらにいらっしゃい」と、天にあるふるさとへ、国籍を天に移した者として迎えてくださる。それを確信するためには、今という時を常に神様によって、イエス様によってつかわされていると信じ、告白して生きるのです。私が好きで生きているのではない、私がしたいからしているのでもない。私が得をするから、このことをしているのではない。主が「せよ」とおっしゃっている。主が派遣された私ですと認めて、日々を生きていなければ、終わりの時に「私の国籍は天にある」とは言えない。いや、私の国籍はまだこの世にありそうに思う。そうならないために今日という日、よみがえったイエス様が私をつかわし、主が私と共にそこに歩んでくださっていることを、確かなものとして、主のよみがえりを日々体験していきたいと思う。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


8月3日教会学校聖言葉

2014年08月04日 | 教会学校聖言葉

「わが義人は、信仰によって生きる。」
 ヘブル人への手紙10.38
 
義人とは、神様の前に正しい人、
神様に喜ばれる人のことを言います。
 
あなたは義人ですか?と問われたときに、自信を持って
そのとおりですと答えられる人は何人いるでしょう。
自分を振り返ると途端に自信がなくなって、
自分は悪人ではないが義人でもないなどと強引に結論づけてしまっているのではないでしょうか?
 
しかし、私たちはイエスキリストの十字架のあがないによって、
すでに義人として神様に取り扱われています。
ですから、確信を持って私はイエスキリストによって義人とされましたと素直に信じればよいのです。
 
確かに、自分の行動は変わっていないかもしれない、
自分の中にうごめく汚れた思いは未だぬぐえないままかもしれない、
そして、それを自分自身で赦すことができずに自分自身を責める思いがあるかもしれない。

それでも、イエスキリストの十字架の血潮は、確かにあなたの罪をあがない、あなたを神様の前に正しい者としているのです。
 
イエス様の救いになりふり構わずしがみついて、確信を持って生きること、これが信仰によって生きるということです。
 
(正野)


聖書からのメッセージ(280)「扉を開けて」

2014年08月04日 | 聖書からのメッセージ

 ヨハネの黙示録」3章14節から22節までを朗読。

 

 20節「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。

 

14節には「ラオデキヤにある教会」とあります。これはラオデキヤという町にある教会の人々に対して神様が語った忠告です。しかし、それはまた同時にいまイエス様の救いにあずかっている私たちに対する神様の警告、アドバイスでもあります。ですから、他人事ではありません。「昔の人にこういうことを神様は言ったのか、おれとは違うな」というのではなく、これは自分のこと、「ラオデキヤ」というのは、ほかならない私たちのことでもあります。ラオデキヤの教会は神様の前にそつのない生き方をしていると言うか、可もなく不可もなくということです。だから、14節の中ほどに「アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる」とあります。「アァメンたる者、忠実な、まことの証人」とは主イエス・キリストであります。それは取りも直さず御霊、聖霊なる神、三位一体なる神様が「次のように言われる」と。15節に「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない」と。「冷たくもなく、熱くもない」と、「ちょうどいいころ加減で良かった」という話になりそうですが、ここで神様は「そうであっては困る」とおっしゃっている。「良くもなく、悪くもない、だったらいいんじゃないか」と。そうではなく、「良いか悪いか」、「熱いか冷たいか、はっきりしなさい。あなた方の態度を!」ということです。「じゃ、冷たくなろうか」とへそ曲がりなことを言いますが、神様は「熱くなってほしい」と願っているのです。主の御思いはもっと、もっと熱く、熱烈に主を求め、主のご愛に応答する者となってほしいと、切に願っている。私たちに対してもそうではないかと思います。取りあえず可もなく不可もなく、生活も、言えば幾つも不満はあるけれども、といって取り立てて感謝、感謝というほどでもないし、探せば何とか感謝の「か」の字も出るけれども、「まぁ、いいか。こんなもんやろう」という状態である。これは幸いなようですが、神様の目からご覧になったら誠に物足りない。もっと熱心になって主を求め、主のご愛を感じてほしいのです。だんだん鈍感になって、感じ方が鈍くなってしまいます。ですから、常に心を新しく、リフレッシュさせていくことです。手の皮でも年を取るとだんだん厚くなり、感覚も鈍くなります。やけどをしても気がつかないとなりますが、もっと敏感に神様の愛を知ってほしいというのが、このラオデキヤに対する神様の切なる御思いです。

 

16節に「このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」とあります。“小成に安んずる”と言いますか、小さなところで「これでいいか」と思ってしまう。言うならば、渇きがなくなるのです。求める思いが乏しくなることは、私たちにとって一つの大きな病の兆候ですから、余程気をつけておきたいと思います。主を求める祈りが欠けてくる、聖書を読むには読むけれども、お勤めで心ここにあらず、読みながらもほかの事を考えていて、「あら、今日は何章を読んだのかしら」というようになる。そういういい加減なものになってしまうのです。

 

だから、神様は「そうじゃないよ」と、17節「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが」とあります。人生もここまで生きてきた。やるべきことはやったし、私はもう現役を退いたし、後は楽隠居、「さて、今日は何をするかな」と刺激もなければ感動もない、深い絶望感もない。人の不幸を聞いても「人生はそんなものよ」と言うぐらい、感じることが鈍くなってしまう。誠に惨めなものです。17節「実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者」、実に私たちはこのとおりであります。「みじめな、あわれむべき、貧しい、目の見えない、裸な者」です。自分がいったいどういう状況に今置かれているか?イエス様は「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」(マタイ 25:13)とおっしゃいます。「目をさます」とは、絶えず警戒する、敏感に、常に緊張を持ち続けていくことです。私たちの信仰生活、この地上での生活もそうですが、殊に信仰に関して、生ぬるくなったら命を失います。干からびてしまいます。だから絶えず自分自身の思いを変えて、新しくなることです。そのために神様は、19節にあるように「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい」と勧めています。神様はしかったり、懲らしめたり、いろいろな問題や事柄を起こされるのです。そこは私たちが自分の信仰が今どういう状態にあるかを知るための試金石です。私たちの生活にいろいろなことが起こってくるのは、神様が私たちの間近に、まさにその所に立っていてくださる瞬間なのです。日々の生活に神様が事を起こされるのは、ここにあるように「熱心になって悔い改める」、自分の生き方、あり方を再点検するように求めておられるのです。

 

では、何を悔い改めるべきか?です。20節「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」。言うならば、懲らしめたり、しかったり、いろいろな思いがけない不幸と言われる出来事や、悲しい事に出会うこと、それは神様が私たちの外に立って、心の戸をたたいておられるのです。そして、その後に「だれでもわたしの声を聞いて」とあります。「声を聞く」、そして「戸を開く」。言うならば、私たちのいちばんの悔い改めるべき事はかたくなであることです。聖書を通して、神様は繰り返し人のいちばんの問題点は神様の声を聞こうとしないことであると言われます。自分の考えや自分の計画や自分の思いに凝(こ)り固まる。そのために神様のせっかくの恵みを取り逃がしてしまう。「いや、私はそのようにかたくなではない。年の割には柔軟で、若い人の言うことでも何でも私は聞きますよ」と言う人でも、何か事があって「あなたはこうしたほうがいいんじゃないですか」「これはこうではないですか」と言われると、「いいえ、そんなことはありません」「いいえ、それは違います」「いや、私はこうです」とかたくなに反論する。

 

先だっても、家内の一人暮らしをしているおばが「長年使い慣れている洗濯機が古くなって使えないから買いたい」と言う。おばは「二槽式」と言われるタイプのものを使っていました。洗濯槽と脱水機とがワンセットになって、左右に分かれている。おばは「私はもう古い人間やから、今までどおりのことしかしきらんから、新しいものは勧めないで」と。家内はいろいろなものを見て、「全自動が便利よ。ボタン一つで全部できるよ」と勧めましたが、「そんなのは分からん」と言われる。ところが、洗濯機売り場を見ると二槽式はほとんど無いのです。「ここにある現物以外に他にありません」と。それよりももっと安くて全自動の最新の製品があるのです。売り場の人は「ボタンも大きくて年を取った人でも分かるように非常に使いやすくなっている。たった一つボタンを押せば……」と説得する。でもなかなか人は難しいですね。殊に身内の言う事は絶対聞かない。ところが店員さんがそばで言うと、「まあ、仕方がない。そう言われるし」と、とうとう全自動の洗濯機を買ったのです。家内が「どんな具合?」と聞いたら、「良かったよ。こんな便利なものはなかった!」と手放しで大喜びです。後になって「そら、見たことか」と思うわけです。「初めから言っているのだから人の言うとおりにすればいいのに、どうして聞かないのだ」と。そういうことってたくさんありますよ。

 

そのように、私どもは良いことを聞きながらもできない。神様は私たちにそのことを教えてくださる。19節に「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい」。私たちはいつも神様のみ声を聞いて従いましょう。

 

「マタイによる福音書」13章10節から15節までを朗読。

 

イエス様はここで「種まきが種をまきに出て行った。道ばたに落ちた種、石地に落ちた種、いばらの中に落ちた種、良い地に落ちた種」という4種類の種の落ちた様子を語っています。8節でその話は終わっているのです。弟子達はイエス様に「そんなたとえを話されても、分からない。もっとストレートにちゃんと話してくれ。そんな回りくどい言い方をしなくてもいいではないか」と思い、イエス様の所へ来た。それに対してイエス様は「そうではない」、「実は彼らはどんなことを言っても聞こうとしなければ分からないんだよ」とおっしゃっている。「たとえ話で語ろうとストレートに語ろうと、聞く耳を持つものは聞け」とおっしゃるのです。聞こうという思いがあれば、それを理解することはできる。だから13節にイエス様が「だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである」と。「見ても見ず、聞いても聞かず」、言うならば、心をかたくなにするとは、そういうことです。私たちが聞いていながら聞こうとしない。見ていながら見ようとしなければ、私たちは見えません。

 

私たちの耳はよくしたもので、聞こうと思う音はどんなに小さくても聞こえる。よく地獄耳と言うでしょう。百歳近くになる方がいまして、彼女は耳が遠いのです。でも、小声で何かちょっとその方のことを言っていると「え!なんです?」と問い直す。聞きたくないときは聞こえない。人の耳は実に精巧に出来ている。どんなうるさい中でも自分の聞きたいものは聞けます。母親が自分の子供の泣き声なんて聞き分けて、サッと動きます。周囲がどんなにうるさくても聞こうとすると、聞こえます。補聴器を使われる方がいますが、人間の造った機械はそれができない。聞きたくない音も何もかも同じ音量で全部耳に入ってきます。その中から自分の聞きたいものを選び取ろうとするので大変疲れる。ところが、神様の造られた耳は不思議にどんなにうるさくても自分の手で耳をふさがなくても聞こえなくなる。耳と心というのは連動しています。

 

だから、私たちが聞こうという思いをもって神様に耳を傾けていくならば、たとえどんなに難しいたとえ話であろうと、それを悟ることができる。見れば見ることができるのです。確かにそうだと思います。「そんな難しい話、訳が分からん」と言いますが、聖霊が私たちに臨んでくださると、聞いたことをしっかりと理解し、納得する、心に受け入れることができるように、神様が力を与えてくださる。そのために耳を傾けること、また目で見る、しっかりと見ようとしないと、そこに神様を見ることができません。「神様は見えるの?」と思いますが、自分の過去を振り返ってご覧なさい。そこにはっきりと神様の手があり、神様のわざが見えているではありませんか。これは神様からのものだとはっきり見えるのは、私たちがそこに見ようとする意思と言いますか、思いを向けなければ見えません。人を見るときでもそうですが、目の前にどんな人が立っていても、その人を見ようとしなければ見えない。「見て見ず」です。

 

だから、物を探すとき、「どこへやったか」と、よく探します。あちらやないか、こちらやないか探し回ります。自分の心にきっとあれはここにあるに違いないとか、ひょっとしたらあそこにあるかもしれないと、固定観念ができて、目の前が見えない。「ひょっとしたらあの棚かな、こっちの棚かな」と思いながらやっていますから、仕方なしに「もういいわ、そのうちに出てくるわ」と、あきらめてフッと目の前を見ると、「何だ、ここにあるじゃないの」と見つけ出す。実は「見る」というのは心と深くかかわっている。“虚心坦懐(たんかい)”という言葉がありますが、白紙の状態になって見ようとしないのです。人の心には常に何か先入観があります。鍵はいつもあそこに置いている。あそこにないときは大抵ここだろう。そこにないときはあそこに違いないという具合に、前提が自分の心にあるから、目の前を見ながらも通り過ごして行くのです。そういうときはまず自分の心を落ち着けて、神様の前に祈る。よく言われますよ。「先生、あの大切な物を探していたら、どこにしまったか分からなくて、とうとうお祈りしました。そしたら、何とすぐ目の前にあった。神様が教えてくださいました」と。その通りです。お祈りするということは、自分の心をリセットするのです。ゼロにするのです。「ああじゃないだろうか」「ここにあるんじゃないだろうか」「あそこにあるに違いない」という、そういう思いを神様の前にゼロにする働きが祈りです。そうすると、今まで覆いが掛かっていた目がパッと開けて「こんな所にあるじゃないか」と、すぐに見えるのです。いつも神様の御思いに心を向けること、思いを向けて行くことです。

 

「イザヤ書」55章1節から5節までを朗読。

 

2節に「なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え」とあります。神様のみ声に聞けとおっしゃいます。ただ聞こえているじゃなくて、聞こうという意思を持って、「神様、あなたは何を語ってくださいますか。あなたのみ声を聞きたい」と、そういう心を主に向けることです。そうすると「そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる」。その通りです。人の話でもそうですが、人の勧めることでもやはりそれを聞いて受け入れてみると、自分が想像しなかった楽しい思いになり、楽な思いをすることができ、思いがけない新しい喜びにあずかることができるのです。ところが、それを拒んでしまうと、聞こうとしないと、それら一切のものはその人と縁のないものになってしまいます。惜しいことだと思いますよ。だから、家族の者であろうと、あるいは娘、息子が言うことでも、奥さんやご主人が言うことでも、できるだけ素直に聞くことです。それだけでも恵みであります。良い物を食べることができ、自分を楽しませることができるのですが、聞かないで拒んで「いや、私はこんなのだから駄目。私にはそんなことを勧めんどいてくれ、私はそんなことを言われたら頭が混乱する」と、そうやって自分をガードして、聞こうとしなくなってしまったら、せっかく楽しめるはずのものが楽しめない。人のわざですらもそうですから、ましてや神様が私たちにしてくださる恵みを受けそこないます。惜しいことです。だから、いつも神様のみ声に心を開いていく。3節に「耳を傾け、わたしにきて聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる」。「耳を傾け」とあります。「傾ける」というのは、そちらに心と思いを向ける、集中することです。私どもは神様に向かって心を向けること、これが「戸を開く」ことです。神様に向かって心の扉を開いて、主の語るみ声に応えていくこと。そうすると「生きることができる。わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える」と。私たちが想像のつかない思いもしなかった神様の祝福と恵みにあずかることができるのです。

 

「ヨハネの黙示録」3章19節に「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい」。「熱心になって悔い改める」、それは神様の前に砕けた思いになること、へりくだった心になること。「悔い改める」とはそういうことです。「あんなことをして悪かった」とか、「こんなことをしてごめんなさい」というのも、もちろんそれも悔い改めではありますが、真の悔い改めは私たちの心を神様に向けて、謙そんになって聞く者となることです。だから、「悔い改めなさい」と。20節に「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」。主は絶えず私たちの外に立って戸をたたいていらっしゃる。主がたたいてくださる音はどこから聞こえてくるか。いろいろな事柄の中で聞こえてくるのです。問題や心配や不安やいろいろな事件や事柄が日々起こってきますが、その中で主が絶えず私たちの扉をたたいてくださる。ところが、私たちは目の前の事情や境遇や事柄にばかり心を囚われて、「あれを早く何とかしなければいけない」「これを早く解決しなければ……」「あの人はあんなだから、私は嫌いだ」とか「好きだ」とか、そんな感情に心と思いが閉ざされてしまう。そしてかたくなになる。聞くことができなくなる。神様に心が向かなくなる。実はこれがいちばん不幸です。だから「熱心になって悔い改め」、いろいろな問題が起こったとき、まず私たちがすることは「心を神様に向ける」ことです。思いを向けることです。20節に「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら」、「声を聞いて戸をあける」とは、これはたとえて言っていることですが、「耳を傾け、わたしにきて聞け」という、先ほどのイザヤ書のお言葉です。「戸を開く」とは、神様の御思いに私たちの心と思いを向けること、聞こうとすることです。そうしますと「わたしはその中にはいって彼と食を共にし」、とあるように、イエス様が私たちの内に宿ってくださる、来てくださって、共に食事をする。主との交わりを与えられるのです。「良い物を食べることができ」と、先ほどのイザヤ書にありました。主と共に幸いな恵みの食事を楽しませていただける。「わたしは命のパンである」(ヨハネ 6:35)主を私たちが頂くことができる。神様の大きな恵みの良きものをもって私たちを飽き足らせてくださる。これがこの20節に語られているお言葉であります。「わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。

 

「マタイによる福音書」26章20節から25節までを朗読。

 

これは最後の晩餐(ばんさん)の席で、弟子たちと共に食事をしていました時、イエス様を裏切ろうとしているユダがいることを警告されたのです。食事をしているとき、21節に「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。ここでイエス様は「特にあなたがたに言っておく」と注意を促(うなが)して、「今から言うことは大切ですよ、聞きなさいよ」と、戸をたたいてくださったのです。「わたしを裏切ろうとしている者がいるよ」と。弟子たちはびっくりしまして「大切な先生を裏切るはずがないじゃないか」と。だから「まさか、わたしではないでしょう」と次々と弟子たちが言いだしたのです。それを聞いたイエス様が、23節に「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている」。「わたしと一緒に同じ鉢に」と、パンか何かを取ろうとでもしたのでしょうか、「同じ鉢からお互いに手を伸ばして取ろうとしたその相手が、わたしを裏切るのだよ」とおっしゃる。これは疑いようがないですよ。「まさか、わたしではないでしょう」、自分を見れば分かるでしょう。それでも彼らは気がつかない。

 

その後24節に「たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。確かに、イエス様は神様が定められたように、旧約時代からの預言に従って、救い主として自分の生涯が終わることは、神様の定められたことですから、自分は父なる神様に従う。しかし、「裏切るその人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」と。これは大変なことです。「だったら、この時ユダが裏切らなかったら、イエス様の十字架は無かったじゃないか」と言われるかもしれませんが、そんなことはありません。もしここでユダが悔い改めていたら、神様はどのような方法でもってしても私たちの救いのために道を開くことがおできになる御方です。「やっぱり、ユダがいてよかったんじゃないか」というようなことを言う人がいますが、そんなことではありません。神様はここでユダに対して悔い改めるべき時を与えられているのです。ただ、彼が戸を開かなかった。そればかりでなく、25節に「イエスを裏切ったユダが答えて言った、『先生、まさか、わたしではないでしょう』」。厚かましいと言いますか、イエス様に向かって「まさか、わたしではないでしょう」と、私たちも案外このユダのように思っている。「いや、イエス様はそうおっしゃるけれど、私はそんなんじゃありません。そんなに私はユダほどひどくありません。イエス様を裏切るなんてありません」。ペテロがそうです。確かに彼はユダのように実際にお金をもらってイエス様を裏切ったことはありませんが、しかし、根っこは同じです、ユダもペテロも。ペテロもあの時「私は主を知らない」と、三度も拒んだのです。それと同じように私たちも拒む。戸の外に立ってたたいてくださっているのに、聞いても聞かず、見ても見ず、癒されることがない、悟ることがないためである。私たちは実に際どい状況の中に絶えず立たせられています。この時のユダは「先生、まさか、わたしではないでしょう」と言った。その時、イエス様は実に明快に「いや、あなただ」と言われた。ここまで言われてまだ気がつかない。彼は自分のしていることが分からないのです。私たちもこのユダと同じように、自分がしていることが分からない。いま私がイエス様を裏切っていることに気がつかないでいるとしたら、とんでもない大きな罪を犯すことになりますから、神様は「しかったり、懲らしめたりする」とおっしゃる。「だから、熱心になって悔い改めなさい」と。

 

「ヨハネの黙示録」へ戻りましょう。3章の20節に「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」。いま私たちに求められていることは、耳を傾けて主に心を向け、聞くことです。主を受け入れることです。私たちの内に主を認めることです。そうするならば「わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。共に神様の恵みにあずかり、良きものをもって飽き足らせてくださる。その後21節に「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である」と。そうですね。私たちが心の扉を開いて主のみ声を聞き、それに従って行きますならば、私たちを勝利者として、イエス様が天に引き上げられ、すべての名に勝る名を賜ったごとく、私たちも永遠の御国の御座に着かせてくださる。その後に「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。ここにも「耳のある者は」と言われます。皆さん、二つも耳を持っている。だから、しっかりと私どもは「耳を傾け、わたしにきて聞け」と。いろいろなことの中で「主は何とおっしゃるか」、「神様は私に何と語ってくださっているか」と、主が求め給うところにへりくだって従って行きたい。そうするとき、主が私たちの内に入って、共に主の交わり、食して交わる恵みに私たちは過ごすことができ、永遠のいのちの生涯、御国の御座に私たちを招いてくださるのです。

 

どうぞ、この主のみ声を聞く者となって、あのユダの失敗に倣(なら)うことのないように。ユダは永遠の滅びの道を行ってしまいました。幸いにペテロは悔い改めて主のみ声を聞く者と変わりました。この二人の生き方は正反対です。私たちも失敗だらけであっても絶えず悔い改めて主のみ声を聞き、主の交わりの中に日々を過ごす者となりたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。