いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

8月26日 日々の聖言

2014年08月26日 | 日々の聖言

「主を恐れることによって人は安心を得、その子らはのがれ場を得る。」箴言14:26 


「恐れる」とは怖がるばかりではありません。かしこみ、敬い、尊ぶことです。まず、人が

自分自身を神様から造られた被造物であると認めて謙遜になることです。また、主の御

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聖書からのメッセージ(302)「“平和”の作り方」

2014年08月26日 | 聖書からのメッセージ
 「マタイによる福音書」5章1節から10節までを朗読。

 9節「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」。

 8月になると風物詩といいますか、この季節の特徴として、かつての半世紀以上前に日本が戦って負けた戦争を語らないわけにいきません。終戦を迎えたのが8月であり、また長崎、広島、それぞれに原爆が投下されて、多くの死傷者を出した悲劇的な月でもあります。それだけに世間でも、新聞紙上や様々なマスコミに「平和」という言葉があふれかえる、非常に用いられやすい季節であります。

 ここで、世間で言う「平和」とはいったい何なのだろうか?またイエス様がおっしゃる「平和をつくり出す人たち」というのは、どういう人であるか?聖書のお言葉を通して教えられたいと思うのです。というのも、「平和」、「平和」と言いながら、なかなかそれが実現しない。世間でいう「平和」は、戦争がないとか、あるいは様々な争い事がないことを言います。確かに国と国、民族と民族、人と人など、様々な対立、軋轢(あつれき)が絶え間なく起こっていることも事実であります。だから、それに対して何とかしなければいけないと、いわゆる政治家、志のある多くの人々は願います。そのために運動をする、あるいは様々な組織を作って平和活動を行う、あるいは学校などで平和教育をする。いろいろな手段を用いて「平和を」「平和を」と声高く、口が酸っぱくなるぐらいに言います。これが世間での「平和」です。しかし、いつまでたっても平和が実現しない。どうしてなのだろうか。一方、聖書が語っている「平和」とはどんなことでしょうか。

 9節に「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」とあります。「平和をつくり出す人たち」と言われると、「自分は平和運動に参加していないし、何か平和に貢献するようなことを一つもしていないから、何かしなければならない。ボランティアでも何でもいいから社会貢献をして、少しでも平和に役立つことをする人のこと、そういう平和を作り出す人が神の子であろう」と理解するのは、ちょっと浅はかであります。平和とは何か?このことを考える時、視点を変えまして、平和でないとはどういう状態か?平和でないとはどういうことか。そのことが「ローマ人への手紙」に語られています。

 「ローマ人への手紙」3章9節から18節を朗読。

 17節に「彼らは平和の道を知らない」とあります。いうならば「平和を知らない」、平和でない状態、それは今読みました10節以下、10節には「義人はいない、ひとりもいない」と語られています。正しい人、もっと言うならば神様の御心にかなう人は一人もいないということです。11節には、「悟りのある人はいない、神を求める人はいない」。そして12節には、「すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている」とあります。これが平和でない者の姿です。「すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている」、いうならば「迷い出る」とは、そもそも本来あるべき場所、それが所属する所、そのものが当然そこになければならない所からいなくなってしまう。そこから失われてしまうことです。これが「迷い出る」ことです。そして「無益なものに」、役立たないのです。何かが失われて、それが作動しない、動かなくなると壊れるのです。

 先だっても、使っていたノートブック型のパソコンが不具合を起こして、「いったいどうしたのかな」と、いろいろやってみるけれども修復できない。「これは駄目だ」と思って、修理センターに電話をしました。状況を考えると、「これは随分修理代が高くなる」と言われました。動かなくなったのです。迷い出てしまったのです。本来機能すべき仕組みがどこかでストップした。外見上は昨日までと今日も全然違いはありません。ただ動かない。これでは、どうにも使いようがない。まさに迷い出て無益です。無用の長物です。何かが不具合を起こす。これが「迷いでる」「無益なものになる」ことです。

私たち人間が迷い出るとは、いったいどういうことなのでしょうか?故障するとか、役立たなくなるということを英語では out of order と言います。この機械は故障してしまって動かない。out of order という。 orderとは「秩序」です。きちんとあるべき秩序が壊れてしまう。パソコンや電気製品にしろ、いろいろなパーツ、部品が組み合わさって一つの動作をする。その一つ一つのパーツ、部品がそれぞれの与えられた役割を果たす。そして相互に一つのシステムと言いますか、組織が出来上がっておればスムーズに事が進む。ところが、一箇所、二箇所、それが外れると、その組織が壊れてしまいます。組織とはピラミッド型ですね。頂点があって、その下に階層的に一番上があり、次があり、二番、三番、四番と、序列になっていく。パソコンなどもそうです。いちばん大切な部分、次に、それを周辺的にサポートしている部品がいくつかある。小さいから役立たない。「この部品はなくてもいいよ」というものはありません。そのうちのどれか一つでも壊れてしまったら、全体が動かなくなるのです。中心にある大切な部分、パソコンにはCPUという中心的な電子回路がありますが、こればかり大切にしていればいいか言うと、そうじゃない。やはりその中心にあるものを全部サポートして動かしていく全体的な組織、秩序というものがきちんと成り立って、初めてスムーズに動いていく。私たちの「平和」とはまさにそこです。平和でない状態とはout of order、いうならば、秩序が壊れている状態であります。

ですから、12節に「すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない」とあり、16節以下には「彼らの道には、破壊と悲惨とがある。17 そして、彼らは平和の道を知らない」、18節には「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」と言われます。これはとどめの一発ですね。本来人としてあるべき立場、身分、それはいったいどういうものでしょうか。まず造り主でいらっしゃる全能の神、創造者なる神様がおられて、私たちは神様に造られた被造物である。絶対者でいらっしゃる神様、相対的な存在である私たち、被造物たる者という関係、これが秩序です。そして、その序列が壊れてしまう。その壊れた状態、これがまさに平和が失われた状態です。神様は私たちにその平和を取り戻し、私たちの内に平和を作り出すために、ひとり子イエス様をこの地上に送ってくださったのです。神様は初めから私たちを平和なものとして、秩序の中にきちんと納まって、一人一人が与えられた使命と目的にかなう生き方をするようにしてくださった。ですから、自分が創造された状態にきちっと当てはまっていくことが平和を作り出していくことです。それぞれの人々が神様から造られ、神様によって与えられた使命、また神様が願っておられる道をきちんと歩むこと。これが平和を作り出すことにほかなりません。秩序がなくなると混沌(こんとん)であり、混乱であります。

生活でもそうです。家の中にいろいろな物があります。掃除をする時、これはここに置きましょう、これはあそこに置きましょうと、それぞれの置き場に置きます。時計はここだとか、はさみはここに置いておこうとか、のりはこっちに置いておこうとか、それぞれの場所があります。主婦の方は台所全体に、ここはおなべ、ここはほかの物で、ここは調味料で、ここは何と、ある全体像があって、その結果、個々の物が置かれる。自分の使いやすいような場所場所に、きちっと物を並べて置きます。これが秩序です。ところが、他人(ひと)の台所に入ると戸惑いますね。「砂糖はどこにあるの?」「塩はどこにあるの?」「しょう油は?」と、いちいち聞かなければならない。ところが、そこの主婦の方は目をつぶっていても場所はすぐ分かる。というのは、きちんと秩序だっているからです。時に家族がちょっと使った拍子に、どこかほかへ置いてしまう。お母さんがせっかく作ろうとしていた料理。「お砂糖、え!どこへ行ったの!」、いつも置いている所にない。そうするとパニックになります。「誰が使ったの!お父さん、あなたでしょう!」「いや、わしゃ、知らん。息子がさっき、コーヒーを飲んでいたから入れたんじゃないの」「どこに持って行ったの!」「自分の部屋だ」と、大慌てで取りに行く。そこで親子げんかになる。平和が崩れるというのは、まさにこれです。秩序が壊れるとは、平和が失われていくのです。

それは神様と人との関係でもそうなのです。私たちが本来おるべき場所、砂糖は砂糖、しょう油はしょう油、あるべき場所に、神様がちゃんと配置している場所から、人が抜け出してしまった時、混沌といいますか、混乱、無秩序が生まれてきます。それが平和でないことです。

12節に、「すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない」と。そうやって人が勝手な振る舞いを始める。18節に、神様を第一にする、神様を中心にする思いがなくて、神を恐れなくなった時、人は無秩序になって、混乱します。そして争いが生まれてくる。13節に、「彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり」、15節以下には「彼らの足は、血を流すのに速く、16 彼らの道には、破壊と悲惨とがある」。そのいちばんの見本が「創世記」に語られているカインとアベルの物語であります。

「創世記」4章1節から5節まで、また8節を朗読。

これは殺人事件、人類最初の事例であります。この時、アダムとエバはエデンの園を追われて、その東ノドの地に住むようになりました。後にエバはみごもってカインを産み、もう一人アベルという弟も生まれました。カインは成長して農夫になります。アベルは牧羊者、羊を飼う者となります。日がたってある時、神様に供え物をすることにした。カインは自分で得た地の産物をもって神様のささげ物とした。アベルは羊のういごをほふって、神様に燔祭としてささげました。その時、神様はアベルの供え物をよしとして、喜んでくださった。カインの供え物を拒まれると言いますか、無視されてしまった。気に入らないのはカインです。「どうしてだ!」と。「どうして自分のささげ物を神様は拒まれる」。彼は「顔を伏せた」。顔を伏せるとは、神様に対して憤ったのです。8節に、お兄さんのカインは弟アベルを誘って野原に行き、アベルを殺したとあります。考えると、いったいアベルはカインに何をしたのか?何にもしていないのです。ただ自分たちそれぞれが供え物をささげた。神様が片方を選んで、片方を疎(うとん)じられた。悪いのは神様です。アベルはカインに何もしていないのです。いちゃもんを付けたわけでも、何か言い掛かりを付けたわけでもない。ただ、神様に従った。ところが、納まらなかったのはカインです。カインがアベルを殺すのです。何の罪もないアベルを殺す。これが無秩序です。というのは、神様を恐れる思いがそこにないからです。どちらを選ぼうと、あるいは両方を選ぼうと、地の産物であろうと羊であろうと、それは神様のご自由です。そうでしょう。神様がどちらを選ぼうと、それは文句の言いようがない。本来、秩序はいちばん大切な主になる御方、神なる御方がおられて、そこから派生的に秩序が生まれる。神を恐れるとはまさにそうです。人は造られたもの、カインはその分を忘れたのです。カインは自分が被造物であり、神を恐れるべき者であることを忘れて、神様がなさったことについて憤りを覚えた。これはまさに秩序を外れるというか、秩序が壊れるのです。自分が神様の支配の下から飛び出して行く。失われたもの、迷い出てしまうのです。そして無益なものになるどころか、害悪を及ぼす原因に変わっていく。神様がなぜアベルの供え物を選んだのか、理由は語られていません。聖書全体から照らして読みますならば、このカインとアベルの記事は、後の主イエス・キリストの十字架の予形であることは確かですが、ここで是非、心にとめておいていただきたいのは、神様のなさりように人は指一本触れることができない。神様のなさることに良し悪しを言うことができない。これが神様を恐れる者となることです。私たちは本来、神様に従うべき者として造られて、神様を恐れて、共に生きるところに、初めて平和な関係が成り立つのです。ところが、それが壊れてしまって、失われて、人が無秩序な者となる。恐るべきものを失ってしまう。大切にすべきものがなくなる。 

現在の私たちの社会がそうでしょう。神様を、絶対的な力ある御方を認めることをしなくなる。それと同時に、家庭においても、国家においても、社会においても、いろいろなところにその弊害(へいがい)が次々と生まれてきているのが現状です。だから、世間でやるように、いくら「平和を」「平和を」と口先でとなえたところで来るわけがない。なぜなら「平和とは何か?」がしっかりととらえられていないからです。神様と私たちとの間にきちんとした秩序が成り立っていくこと、それを回復していくこと、これが平和を作り出していく道です。そして、私たちと神様との間の秩序を回復してくださる御方としてイエス様が来られた。「イザヤ書」を開いておきたいと思います。

「イザヤ書」9章6,7節を朗読。

6節に「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた」。誰のことでしょうか? これはイエス様ご自身のことです。イエス様が私たちのために生まれてくださった。それは何のためにか?もちろん、私たちの罪のあがないとして、神の子羊として来てくださった御方ですが、それと同時に、もう一つここにありますように、王としてです。「その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』」。イエス様は私たち人の罪を負う御方となって、十字架に命を捨ててくださるために来てくださった。そればかりでなく、もう一つ大切なことは、その主は私たちの王となる。私たちの父となり、君となって、「『平和の君』ととなえられる」のです。イエス様がすべての平和の根源となってくださる。壊れた秩序を立て直してくださって、平和を打ち建ててくださる御方。これはイエス様以外にない。だから、私たちの内にイエス様を迎えることが、実は平和を作り出す、ただ一つの道です。7節に「そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる」。主が、イエス様が、今度は私たちの王となり、主となって、新しい神様との関係、秩序の中に取り込んでくださる。これがイエス様の救いであり、私たちに与えてくださる「平和」です。私どもがイエス様を心に迎え入れることです。主が心の平和となってくださる。そして、安心を与え、平和の道に生きることができるように導いてくださる。

「ローマ人への手紙」12章18節から21節までを朗読。

18節に「できる限りすべての人と平和に過ごしなさい」と。平和に過ごすためにはどうするのか?「自分で復讐(ふくしゅう)をしないで」と語られています。「神の怒りに任せなさい」。これはイエス様のご生涯がそうだったからです。イエス様は十字架の苦しみをお受けになりましたが、決してイエス様の罪ではない。彼にはどこにも罪を認めることができなかったと語られています。ピラトやカヤパの屋敷においても、あるいはヘロデの所にあっても、イエス様は何一つ罪を犯したことのない御方でした。しかし、イエス様に対する憎しみ、多くの人々の激しい憤りが注がれました。それは彼らの心に平和がなかったからです。言うならば、秩序が失われていたのです。神様を恐れる思いがなくて、イエス・キリストを十字架へと追いやりました。しかし、イエス様はその時どうしたか?もちろん多くの人たちが望んだように、この時とばかり天から神の軍隊を送って、イエス様に敵対するものを全部やっつけてくれということもできたでしょう。それでは神様の秩序は回復できません。神が神でいらっしゃることを、イエス様はご自分の身をもって証詞するのが使命でありました。だから、「ペテロの第一の手紙」に語られているように、「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず」と。何をなさったか。「正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」(2:23)とあります。イエス様は徹頭徹尾、父なる神様がすべてをご存じでいらっしゃる。このことに対して必ず報いてくださる。今読みました19節に「復讐(ふくしゅう)はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と、神様が神でいらっしゃることを認めていく。そこに人が平和を作り出していく、ただ一つの道がある。イエス様はそのようにして、自分に向かって激しい言葉をもって責めてくる人々のその一切を甘んじて黙って受けていく。これが、あのカインとの大きな違いです。カインは神様から受けた自分の処遇について、何の罪もないアベルを呪いました。アベルを打ち殺しました。まさにイエス様がアベルであり、イエス様をあの十字架に追いやった者たちはカインであり、その末えいです。私たちが罪のゆえにイエス様を十字架につけるのはいったい誰かと? 私であり、皆さん、あなたでしょう。私たちがカインのように憤りがあり、納得できない思いがあり、苛立つ思いがあって、罪なき御方を罪人としていくのです。カインとアベルの記事はまさにこのことを証詞しているのです。やがて来るべきイエス様がアベルとなって、ご自分の肉体を子羊として神様の前にささげる。しかし、そこに追いやってイエス様の命を奪う者は誰か?カインです、私たちです。
ここにありますように「むしろ、神の怒りに任せなさい」。神様は決して不公平な御方ではない。不義なる御方ではありません。公平をもって裁きをなし給う御方であります。その神様を私たちの王とし、主として、私たち自身を神様の秩序の中に正しくおくこと、そこに初めて平和が作り出されていく。

「コロサイ人への手紙」3章12,13節を朗読。

13節に「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい」とあります。この御言葉の背後に、先ほどの「ローマ人への手紙」の言葉を裏側に置いていただきたい。復讐(ふくしゅう)する御方がいらっしゃるから、報復なさるのは神ですから、神様に委ねて、あなたは一切のものを許しなさいと求められているのです。更に続いて「主もあなたがたをゆるして下さったのだから」と。既に主が私たちの罪を、十字架にまでご自身の命を捨てて赦してくださったのだから。これは大きいですね。私たちは自分の罪が赦されたものであることを忘れてはならない。赦された者だから「そのように、あなたがたもゆるし合いなさい」。この神様のお言葉を私たちが守り従うところに、神を神として恐れる生き方があり、そこに初めて人としての秩序が作り出され、回復されていきます。平和が作られるのです。

「コロサイ人への手紙」3章14,15節を朗読。

15節に「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」。非常に文学的な表現できれいですが、分かりやすくいうと、キリストをあなたの心の内に迎えなさいということです。なぜならば、キリストご自身が「平和」だからです。「平和の君ととなえられる」とイザヤ書に歌われました。イエス様を私たちの心の中心に据えて、キリストを王としていく時に、神様との正しい関係の中に回復される。更に私たちはキリストの平和によって心を支配していただく。その時、一人一人、小さな、小さな取るに足らない、有るか無いか分からない私たちでありますが、その小さな一つ一つの平和の粒が集まっていく時、そこにまた大きく平和が作り出されていきます。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」。誠にそのとおりであります。キリストが私たちの内に住んでくださる。ここにキリストの平和があり、その平和こそが実は、私たちが作り出すべき事であります。そして、もう一つ積極的に、今度は「わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである」と「コリント人への第二の手紙」にあります(5:19)。私たちが神様と和らいで、神様との間に平和を得る時、新しい秩序の中に組み立てられる時、私たちは同時に和解を伝えていく。キリストの平和を作り出していく新しい使命を与えられているのです。

このことはまた機会を改めてお話しますが、「マタイによる福音書」5章9節に「平和をつくり出す人たち」とあるように、作り出さなければならないのです。平和はただ黙ってジッとしていればなるわけではありません。自分自身をキリストのものとしてささげていくことを努めていかなければ、平和をもたらすことはできません。

この時期に平和とは何か?私にとっての平和はキリスト以外にあり得ない。キリストこそが平和そのものです。それを一人一人が心の内に迎え入れて、キリストの姿かたちが、私たちの内に作り出されていく。その形に似る者とせられていくところに平和が作り出されるのです。その者が「神の子と呼ばれる」と、誠にそのとおりであります。私たちはキリストと兄弟、神の子としていただくのです。

この大きな神様の期待を私たちは受けているのですから、そのために選ばれ、召された者でありますから、日々平和を、キリストの平和を私たちの内に追い求めて、それを作り出していこうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。