いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(291)「御霊に導かれる生活」

2014年08月15日 | 聖書からのメッセージ

ガラテヤ人への手紙」5章16節から26節までを朗読。

 

 16節「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」。

 

 私たちの生活を振り返ってみますと、自分を中心にした世界です。自分がすべてのことの真ん中にあって、周囲を取り巻くいろいろな事柄、生活の中で生きています。私たちが絶えず目にし、また感じているのは、手で触ることができる現実、あるいは目で見る出来事、耳に聞こえてくる様々な人の言葉や自分の心に去来(きょらい)する様々な思いです。そして、その思いをよくよく探ってみると、自分の利益であったり、自分のメンツであったり、自分の名誉であったり、自分の何かのために生まれてくる思い、心の様々な動きです。そのような日常生活を振り返ってみると、私たちの思いは地上のことに集中しています。「何を食べ、何を着、何を飲もうかと自分のからだのこと、いのちのことで思い煩うな」(マタイ 6:25)とイエス様はおっしゃいましたが、「何を食べ、何を着、何を飲もうか」、これは生活の基本的なことですが、その言葉をもって代表されているのは、この世の生活です。私どもは案外とそれがすべてだと思っています。生活のすべては、この世にあって生きることなのだと思っていますが、聖書はそのように語っていません。

 

創世記を読みますと、人間は本来神様によって造られたものであるとあります。大自然だとか、私たちの身体はすべて神様の創造のわざであります。しかし、人を造られたとき、ほかのものと違うかたちで造っていらっしゃるのです。土のちりを集めて人をかたち造ったと語られているから、人はそのようにちりで造られたものかと思いますが、それが人のすべてではなかったのです。神様はご自分のかたちにかたどって私たちを造られたと語られています。「かたどる」とは、私たちの目に見える、鏡に映る自分の姿かたちが神様に似ているという意味ではありません。神様が命の息を鼻から吹きいれて人は生きる者となったとあります。人が人として生きることは、神様の命の息を受けること、ここに命がある。これではじめて人は生きる。だから、人の本質と言いますか、本来の人が人たる部分、領域は神様の命の息、言い換えると、これは霊です。神様の霊を頂いて世に造り出された者となったのです。言うならば、本来人が人たる者として存在するのは、霊的なものとして生きるのです。神様の元で霊的な私たち、人が造られて、目に見える形として世に送られてきました。神様はそれぞれ時と場所と人を備えて、一人一人をそれぞれの両親の元へ、地上に送り出してくださった。そのとき初めて人が人として存在したかというと、そうではありません。親の元に生まれる前に神様が創造なさったその人がいて、その後、肉体をもって生まれたのです。イエス様が生まれたときのことをご存じだと思いますが、おとめマリヤが聖霊によってみごもり、男の子が生まれた。言うならば、霊が肉体に宿る。これはイエス様だけではありません。イエス様だけが特殊ではなくて、私たちも同じように、本来霊的な私たち、見えない霊的な存在であった私たちが、人のかたち、肉体をとってこの世という所に送り出された。

 

ダンテはそのことを「煉獄」と称しましたが、人の地上における生活は神様の前に罪を犯した人間が自らを清める場所として、肉体をとってこの地上に造り出されたと考えましたが、聖書の根本的な人間観はそこにあるのです。ですから、「エペソ人への手紙」を開いておきたいと思います。

 

「エペソ人への手紙」1章3節から5節までを朗読。

 

3節以下に「神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び」と語られています。言うならば、私たちはこの地上がかたち造られる以前から既に霊的なものとして造り出されていた。そして、アダムとエバの罪の結果、神様の祝福を受けることができなくなった私たちの救いを実現するために、人の姿、肉体をとった者としてこの地上に送り出して、4節「みまえにきよく傷のない者となるようにと」、私たちをこの地上にあって清めて、新しく、造り替えて、その後肉体を脱ぎ捨てて天に引き上げてくださる。主の御許(みもと)に帰って行く。だから「伝道の書」に「霊はこれを授けた神に帰る」(12:7)とあります。すべての人たちはまずは霊的な存在として造られ、ある時、ある人の元に神様が定められた時がきて、生を受け、地上に肉体をもって生きる者とされました。しかし、この肉体は、地上にあって罪を清められてキリストに似る者、神の栄光のすがたに造り替えられて神様の御許に帰って行くためのものです。この地上の生涯はそのような道場と言いますか、誤解を招くかもしれませんが、そのように自分を清くして神様の前に罪を悔い改め、新しい霊に生きる者と変えられていくための恵みの場所です。これが聖書が人について語っている事です。私たちはこの地上のこと、この部分だけに信仰があるかのように思いますが、そうではない。私たちは神様の元に霊的な者として造られながら、神様に背いて汚れた者となった。神様は憐(あわ)れんで私たちに、この地上に生きることをお許しくださった。世に送り出して、ここで主イエス・キリストの救いに出会い、イエス様の罪の赦しにあずかって、霊を清めて神様の前に立ち返ることができるように整えるための備えの時なのです。だから、ただ私が幸せになりたい、この世の人と同じよりももっとハッピーな生活がしたいために生きているのではないのです。御国に帰るために生きるのです。そのことをある方は「死を生きる」と言いました。私たちは死ぬために生きる。「死」とは、肉体を脱ぎ捨てて神様の前に立つ。神様の御許に喜び勇んで帰って行く。そのときにふさわしいように整えられるべき猶予(ゆうよ)された期間が、この地上での生活です。「何とか生活が成り立つように、あるいは事がないように、悩み事がないように、思い煩いのない生活を送りさえすれば、ハッピーなのだ」と、そこばかりに思いが集中しているとすれば、それは大きな間違いです。そうではなくて、私の魂は今の状態で主のみ前に帰られるかどうか、私たちに求められているのはまさにそこなのです。私たちはこの地上の生活をしていますが、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと、そういうことはもう思い煩うな」と神様はおっしゃる。では、何を心配すべきか。あなたは神様が願ったように清められたものとなって御前に立つ備えがあるか?ということです。これが絶えず私たちに求められることです。若い人は「私はこれから青春もある、また結婚もしたい、家族を養って将来がある。周囲にいる頭の白い人と比べたら、死ぬことなど考えられん」と言われるに違いない。しかし、どんなに若くても、年を取っていても、私たちが霊的な存在であることについては違いがない。霊的な存在である私たちがどれだけ神様の前に喜ばれる者となっているか、これは年齢にかかわりません。若い人は若い人なりに、その魂、霊が神様の前にどのように生きているか、絶えず問われています。もちろん、年齢を重ねて年を取った私たちも、残り時間が少ないですから、何とか早く合格点に達したい。パウロは「何とか神様に喜ばれる自分になりたい」と願っています。だから「後のものを忘れ、前のものに向かってキリストのうちに自分を見出すようになりたい」と彼は切に願っている。「エペソ人への手紙」にありますように、3節「みまえにきよく傷のない者となる」、これが私たちの求めている事柄です。また神様が私たちを地上に送り出してくださったご目的は、ここにあるのです。私たちが清い者とされること。私たちが神様に喜ばれる者と造り替えられること。生活が変わるとか、立ち居振舞い、言葉遣いがそうなるとか、そのような次元の話ではありません。私たちの霊、内なる魂が神様の霊に結びつかなければそれが達成できない。「みまえにきよく傷のない者となるように」、これは素晴らしいスローガンと言いますか、目標であります。だからといって、自分の力で達成できるか?これは達成できません。肉体をもって生きている私たちは、そもそも肉につける者、神様を離れて神なき世界に生きようとする思いのほうが先立ってきます。霊と肉という二つのものを私たちは絶えず持っている。それは神様が私たちを霊の清めにあずかるためにあえて肉の中に置いているからです。私たちが、本当に何がいのちであり、平安であり、恵みであるかを、はっきりとわきまえ知るための試金石なのです。「神様はそんなややこしいことをせんでも、サッサと私を清めてくれたらよさそうなものだ」と言いますが、清められるためには、肉との戦いを戦わなければ清くならないのです。

 

 「ガラテヤ人への手紙」5章16節に「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」。生まれながらにそのような肉の束縛と言いますか、肉の限りある世界に置かれて、神様を認めることができない。自分の情欲に従って生きようとする私たちです。そこから私たちを神の霊が生きる世界へ、霊の世界へ私たちを引き戻すために主イエス・キリストがこの世に来てくださったのです。私たちの罪のあがないとしてイエス様が十字架にかかって死んでくださいました。それによってイエス・キリストの十字架を信じる私たちの罪を神様は赦し清めてくださった。では、清められたから、いつでも神様の前に帰ることができるではないかと思いやすいのですが、確かに清めて罪なき者、義なる者としてくださいましたが、そこに正しい霊がとどまらなければ、またサタンの住みかに変わります。罪が喜んで入ってきます。イエス様がそのようなことをたとえで語っています。掃除がされてきれいになったところに、サタンの親玉が入ってきて前よりももっとひどいことになってしまうと語っています。私たちの罪を清めた主は、それで終わらないで、そこに新しい霊を置いてくださって、神の霊と私たちの霊が一つなることを許してくださった。これがペンテコステという出来事です。神様の霊が私たちの内に宿って、私たちの霊的な部分が新しいいのちにあふれてくる。それによって初めて主に喜ばれる生き方を選び取る力が与えられる。これがペンテコステ・聖霊降臨の出来事だったのです。ちょっとそのところを読んでおきたいと思います。

 

 「使徒行伝」2章1節から4節までを朗読。

 

 聖霊が注がれたときの事態であります。イエス様は40日にわたってよみがえったことを多くの人々に証しなさいました。その後、弟子たちの見ている所から天にたずさえあげられて行く。その前に、イエス様は弟子たちに「エルサレムから離れないで、父の約束を待っているがよい。あなた方は聖霊によってバブテスマを受けるであろう」と約束してくださいました。イエス様が天にお帰りになったのち、弟子たちには指導者がいない。頼りとしていたイエス様がいません。でも、彼らは一つの家に集まって熱心にお祈りしていたのです。待っていた。「神様、どうぞ、約束のものを私にください」と祈って待っていた。「いつまで待て」という約束はありません。これは忍耐がいることだと思います。彼らは、よく待ったものだと思います。私だったら一日待って「もうやめようか」となる。いつまでという期限があればカウントダウンできますが、期限はありません。「与えられるまで待ちなさい」と。でも彼らはその言われたとおりに待った。そうしましたら、1節「五旬節の日」、これは過越の祭が終わってから50日目ということです。50日目になって、言い換えると、イエス様が天にお帰りになった後10日目です。10日間祈り続けていた。結果として、「10日目か、10日ぐらい待つならよかった」と思いますが、そのときは分からないのです。でも彼らはイエス様のお言葉を信じて待ちました。そうしましたら、五旬節の日に皆が同じように集まって祈っていたとき「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて」とあります。ここを読むと私はいつも「何のことかな?」と思います。激しい風が吹いたわけではない。「…きたような」と、ですから風ではない。それから3節に「舌のようなものが」と。「…ような」ですから「舌」ではない。それから「炎のように分れて」と、「炎」ですからろうそくの火を見てこんなのかなと、「…のような」のですから違うのです。ここに書いていることは「…ような」「…ような」「…ような」で、「じゃ、いったい何だ?」という気がします。何も分からないのです。とにかく、何か知らないが、普段と違う事態が起こったことは分かります。その後、4節に「すると、一同は聖霊に満たされ」とあります。そこにいた人たちが何か体に異変を感じる。「何かちょっとおかしいぞ」と、「何か違うぞ」と。その後に「御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」とあります。いろいろな外国の言葉を語るようになった。子供のとき、この話を聞いて私はうれしかったですね。「御霊に満たされたら英語の勉強をしなくてもいいのだ。100点取れるぞ」と思いました。ところが、ここで言っているのはそのような意味ではありません。皆さんも「聖霊に満たされたら私は何語をしゃべろうかしら」と、そんな話ではなくて、言葉をしゃべるとは、聖霊の働きの中心を語っている。言葉とは力です。

 

 小さな子供でもそうですが、成長していくときに言葉を獲得します。「あ」とか「う」とか言っているうちに、「パパ」「ママ」が始まり、単語が出てきて、それがつながってセンテンスになってくる。短いながら文章になってくると、だんだんと力がわいてくる。子供の表情が変わります。知恵に満ちてきます。そして、新しい力を獲得する。だから、言語能力というのは、ある意味で人を支配する力が備わるのです。だから、言葉で人を動かします。人に「お前は馬鹿だ!」と怒鳴ってご覧なさい。ポカッとなぐられるでしょう。その言葉が一つの結果、力をあらわすのです。生み出してくる。難しいことはわかりませんが、何かの拍子で脳がやられて失語症になります。そうすると力を失います。途端に表情が消えます、変わります。言葉は、人を動かす力なのです。だから、「いろいろの他国の言葉で語り出した」というのは、事実その当時、いろいろな国から来た人たちがいましたから、ギリシャ語、イタリア語、いろいろな言語を語ったと思いますが、ここで言っているのは、そのような言葉、外国語をしゃべったということ以上に、御霊によって新しい力を得ること。御霊とは、そういう意味では力です。私たちを悪いほうに動かす力ではなく、神様を知る力、神様に従う力、神様を喜ぶ力です。これが御霊の力なのです。

 

だから、1章8節に「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。ここに「聖霊が私たちの内に宿ってくださるとき、力を受ける」とあります。力です。そして、この力は経済力であるとか、政治力であるとか、あるいは学力であるとか、体力であるとか、そのような力とは全く異質の力、霊の力です。神様の力が私たちの内に宿ってくださる。御霊が私たちの内に住んでくださるとき、今まで自分ではできなかった神様の御心に従うことができるように変わる。私たちを清い者と造り替えてくださる。愛のない者に神様の愛を満たしてくださる。喜べないことを喜ぶことができる、恐れないでいいことは恐れない者となっていく。これが御霊の大きな力です。

 

だから、旧約聖書にもそのような実例が幾つも出ています。士師記には霊の働きについて語られていますが、それと同じことであります。旧約時代はまだすべての人には注がれていませんでしたが、ある特定の人には神様がその力を与えて神様のわざをさせます。ギデオンもそうですね。彼は力のない弱い者でした。しかし、聖霊が彼に臨んだときに彼は力を受けてペリシテ人との戦いに勝利します。また怪力サムソンと言われる人もそうですが、彼は生まれながらに相撲取りのような、レスラーのような力持ちだったわけではありません。ただ彼はナジル人、神にささげられた人でありました。だから神様は彼に霊を注いでくださった。神の霊が臨んだとき、彼は大力を発揮するのです。ところが、神様の霊が彼から抜け、去ってしまうと無力になる。本来彼は無力なのです。しかし、神様がご自分の御心をさせようとするとき、神の霊が注がれる。そうすると、弱かったサムソンが大力を発揮する。しかし、彼は失敗しました。彼は女の人に誘惑されて、とうとう自分の力を失いました。捕らえられて目をえぐられて、ガザという町へ引かれて行って、うすを引く仕事をやらされた。ところが、悔い改めた彼はだんだんと髪の毛が伸びていく。これは象徴的な事ですが、彼の心に新しい神の霊が注がれてきた。やがて彼はダゴンという偶像の祭りのとき見世物に引き出された。そして、大きな神殿の真ん中の柱に縛られた。多くの人が笑い者にしようと見世物にしたのです。そのとき彼は神様の力に満たされて一気にその柱を押し倒したときに、2千人以上の人が建物の下敷きになり死んでしまった。もちろん、サムソンも死にました。

 

いま、私たちにもそうです。こうして神様の御言葉を聞いていると、内なるものが力付いてくる。励まされる。そのような経験を度々していらっしゃるでしょう。御言葉を聞いて、何とも言いようのない喜びと力が内側からわいてくる。なえていた心が希望に満ちてくる体験をするじゃありませんか。これはまさに御霊が私たちの内に働いている。「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう」(使徒 2:17)と神様は約束してくださいました。その約束がペンテコステの日に実現して、それから以来ズーッとその御霊は絶えず働き続けて今に至っている。このアジアの小国である日本の、しかも九州という小さな島に生きた私たちにすらも、神様の霊が注がれたからこそ、今こうして神様を求めてここに集まっているではありませんか。ここに私たちが集まったその力はどこから来たか。それは皆さんに神の御霊が働いてくださった。神様の御心に従う者としてくださっている。「私には舌のようなものが来ないし、炎のようなものが私にはとどまらないし、何も大風のような音を聞いたこともないし、私は御霊と縁がないのかしら」と思うのは間違いです。

 

 「ガラテヤ人への手紙」5章16節に「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」。聖書によく語られている「歩きなさい」というのは、「生活をしなさい」ということです。御霊によって生活していく。「それはどうすることかいな?」と思いますが、それはどんなことの中にもいま私は御霊によって生かされていると信じる。主の霊が私と共にあるのだと信じて、絶えず御霊のみ声に従う。「御霊のみ声って、どうやって聞くことができるかいな」と思いますが、お祈りするのです。常に祈って「神様の御旨はいかに?」と、神様を求めていくと、御霊は私たちの心に語ってくださる。語るという言い方は比ゆ的な言い方で、私たちの心に思いもかけない願いを起こしてくださる。自分では到底思わなかった思いに引き入れてくださる。これは確かです。私たちが自分では到底するはずがないことを、気がつかないうちに神様がさせてくださる。愛せなかった者を愛することができ、許すことができない相手を許すことができる者と変えられていく。かたくなで、頑固で人から嫌われていた自分が御霊に従って生きるとき、気がつかないうちに自分が変えられていく。その変える力はどこから来るか?御霊が私たちの内に宿ってくださっているからです。御霊が私たちの内にあって、私を生かしてくださっていることを信じて、御霊の導きに従う、御霊によって歩く。このことを日々、毎日の生活の隅から隅にまで求めていきたい。そうするとき、「決して肉の欲を満たすことはない」。私たちの我利我欲、自我性といいますか、私たちの生まれながらの、神様を離れた肉につける思い、神様を拒む思いから解放されます。主を喜ぶ者と変えられていく。かつては、神様のことなんか関心なかった私たちの心を変えさせて、神様を喜び、神様によって安心を得る者としてくださる。これが御霊によって生きる生き方です。   

 

17節に「なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである」。自己中心のわがままな肉の思いに従っていくとき、御霊は私たちから遠ざかっていきます。しかし、私たちが心を御霊、聖霊に向けて主を求めるとき、御霊は私たちに近づいてくださる。いや、満ちあふれてくださる。私たちの心を支配してくださる。そして、新しい力に満たしてくださる。これは確かです。この御霊の力を絶えず求めて、その力に自分を委ねていきたい。そうしますとき、私たちは変わるのです。

 22節以下に「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」。何と素晴らしい性状性格じゃないですか。「愛、喜び、平和、寛容」、この一つ一つを具体的にお話しする時間がありませんが、これらの言葉を聞いて、気分が悪くなる人はいません。自分にはこんなのはないが、あこがれます。そうでしょう。それを与えてくれるのは御霊です。どんなに愛の人になろうと思ってもなれませんが、御霊によって歩くならば、私たちの内に愛が満ちてきます。私たちはいつも喜んでいたいのですが、いろいろなものが私たちから喜びを奪っていきます。その喜びを満たしてくれるのは御霊によって歩くときなのです。ところが、肉によって歩くときどうなるかというと、19節以下に「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである」。これも代表的な言葉をまとめたものであって、「偶像礼拝?私は偶像礼拝などしていない」と思いますが、神様に従わないことは偶像礼拝、かたくなになることは偶像礼拝だという。頑固になって「神様?そんなものは知らん」と言ってかたくなになったら、それは偶像礼拝だという。「まじないなど、私はしない」と言いながら、人が語る運勢を聞いたら「え!そんなことがあるの、じゃ……」と、恐れがわいてくる。自分の心にこれをあてはめてご覧なさい。「あら、これもそうだ」と、みなあてはまっている。「御霊の実?一つもないな」と。どうぞ、そうならないために「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」。

 

毎日、一日一日、朝から晩まで主の霊に導かれる者となって、御霊の導きに従って「主よ、あなたは私に何をさせて、何を語りましょうか、何をしましょうか」と、一つ一つ御霊の導きに全く完全に従う者とせられていきたい。そうやって御霊に従っていきますと、私たちの性状性格が変わります。私が変われば、家族も変わります。世の中も変わる。変わらなければならないのは他人ではない、あなたなのです。「では、私はどうやって変わるか」。自分の力で変われたら、もうとっくに聖人君子です。ところが、変われないのです。ただ御霊による以外にない。どうぞ、「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」。どうぞ、いつも御霊の導きを求めて、主の霊に生きる者となりたいと思う。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


8月15日 日々の聖言

2014年08月15日 | 日々の聖言

「この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。

もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。」ハバクク2:3 



「この幻」とは聖書に書かれた神様の約束です。神様は真実な方、その言葉には実行が

伴います。混沌と無秩序に見える世間の現象も、神様の預言が着実に実現されている事

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