いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

8月12日 日々の聖言

2014年08月12日 | 日々の聖言

「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、

よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。」第一ヨハネ3:1a 

 

神様が与えてくださる救いは、私達を「神の子」としてくださることです。私達は悪魔の子、

罪の子でありました。神様はあなたを愛するゆえに、御子イエス様を十字架に断罪して、

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聖書からのメッセージ(288)「神の暦に生きる」

2014年08月12日 | 聖書からのメッセージ
 「ローマ人への手紙」13章11節から14節までを朗読。

 14節「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」

 11節「なお、あなたがたは時を知っているのだから」と言われていますが、「時を知る」という、この「時」には二つ意味があります。一つには毎日繰り返される「時」。これは24時間のサイクルで、朝の7時とか8時、これは昨日もあったし今日もあるし、明日もあるに違いない。繰り返されていく「時」です。だから、今日は失敗したからまた明日にしようと、繰り返されている「時」があって、そこに私たちは生きています。今日一日を何とかして、また明日一日……という具合に、朝起きるとリセットされ、もう一度始めに戻って24時間が始まる。また夜休むとき、これで今日は一日終わった、また明日の朝、そうやって常に新しく繰り返していく日々を送っています。そうすると、気がつかないうちに「いつまでもそういう繰り返していく時が続いていくのだ」と思ってしまう。油断してしまいます。時々、フッと家族の人から「お母さん、だいぶふけたね」とか、「白髪が増えたね」なんて言われると、「え!」と思う。自分としては毎日繰り返して「一向に変わらない」と思っているけれども、そうではない。もう一つの「時」があるのです。繰り返されない「時」によって運ばれている。それは始まってズーッと流れて、二度と繰り返しが利かない「時」です。例えば、生まれた「時」はもう二度と返ってきません。あるいは、○○年の5月21日、この日はもう二度とありません。もちろん来年になれば5月21日は来ますが、しかし、それは次の年の5月21日であります。「エーと、あれは何年だったかな?」と分からなくなるときがあります。カレンダーを見ていても、繰り返されますから、年号を見ないことには一年過ぎたことが分からない。だから、気がつかないうちに古いカレンダーを見ながら、「あ、今日は火曜日だ、曜日が違うぞ」、ふと表を見ると年号が違っていたりしますが、そのように二度と帰ってこない時の中に私たちは生きている。それをあまり自覚しない。二度と帰ってこない時は直線的なのです。言うならば、いったん始まったら、巻き戻しができない、元へ戻れない。進んでいくしかない。このような「時」を語っているのが聖書です。

 まず神様が始めに天と地を造られた。そこから始まってズーッと今どのくらいの時がきたか分かりませんけれども、時が進んできている。やがて必ず終わる時が来る。これは直線的な時間の流れです。ところが、日本にはもう一つ別な考え方がある。それは循環という考え方です。あるいは輪廻転生と言いますが、終わりの無い循環を続けているのだというのです。人は生まれて、幼児、青年、壮年、老年と時期を経て死んでしまう。しかし、死んでおしまいではなく、それはまた別のものに生まれ変わるのだ。いったい次は何に生まれ変わるのか。豚に生まれ変わって豚インフルエンザの原因になるのかと思うと、ちょっとそれは嫌ですけれどね。直線的に始まりがあって終わりに向かうのか、あるいは終わりがなくて、常に循環していく。だから、日本人はどちらかというと直線的な考え方よりもそのような円環的な考え方が好きです。相撲の土俵は丸くなっています。土俵のふちに沿ってさえ行けばいつまでも負けないわけです。土俵の外に出てしまったらおしまいですが、「円」は、ある意味で永遠の象徴でもあります。

聖書にはそのような考え方はありません。聖書では神様がすべてのものの根源で、全ては神様から始まって直線的に経過して元へ戻らない。戻るという意味では確かに「霊はこれを授けた神に帰る」(伝道 12:7)とありますが、神様には帰っていきますが、しかし、そのときは始まりとは違う別のものになっている。これは聖書が語っている事柄です。そして、地上の生涯も含めて、すべてのものに始まりがあれば、必ず終わる時が来る。その時がいつであるか、これは私たちに分かりません。事実、身近な自分の人生、短い生涯を考えてみましても、生まれてから50年、70年、80年、この年月を生きてきました。やがてその終わりのときが来ます。これが自分にとって身近な時の流れ、直線的な流れです。そればかりでなくて、私たちの周りの天地万物、すべての森羅万象が終わる終末の時が来るということも覚えておかなければならない事です。神様が造られたものはすべて消え去る時がやがてくる。そのように二度と戻ってくることがない時のことが11節に語られています。

 「なお、あなたがたは時を知っているのだから」、二度と戻ることのない時のなかでいまどのあたりに来ているのか。始まりにあるのか中ほどにあるのか、もう終わりがけに近づいているのか。時の流れの中で「もう自分は70、80、老齢期であと残りわずかだ」とは自覚します。それも大切なことでありますが、ここで語られているのはもっと根本的なこの世の終わりの時、神様がすべてのものをお造りになってから、終末の時、終わりの時が間近に迫ってきている。今は終わりの時が間近になった時代。だから、11節に「特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている」と勧められています。「眠りから覚めなさい」と。終わりの時を忘れて、自分の好き勝手といいますか、自分の思うように勝手な生き方をしていると、とんでもないことになる。

 「マタイによる福音書」24章32節から36節までを朗読。

 これは、24章1節以下に語られているイエス様のお言葉ですが、弟子たちがイエス様に「世の終わりの時にはどのような前兆(ぜんちょう)、しるしがあるか」と尋ねたのです。イエス様は地震があるとか、戦争のうわさを聞くとか、人と人、民族と民族が相争うことになると言われました。人々の愛が冷えて様々な悩みや困難がわいてくると語っている。また地震や大災害、自然災害が頻繁(ひんぱん)に起こるようになるとも語っています。これを読んでいると、今の時代はまさにそのとおりだなと思います。だから、確かに今は終末、世の終わりに近づいた時であると思います。しかし、だからといって、イエス様は34節に「よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない」。そのようなことは時のしるしであって、予兆と言いますか、イエス様がおっしゃるいちじくの木のたとえのように、木々が芽吹いて来ると、夏の近いことがわかるように、来るべきものの印だと言われます。寒い冬が過ぎて、梅の花が咲いたり、桃の花が咲いたり、桜の花が咲き、だんだんと「もう春だ」とか、あるいはチューリップや菜の花を見、また木々の新緑が日に日に変わっていく様子を見て、「初夏が来た」ことを感じます。そのように常に予兆と言いますか、そういうしるしを見て知ることは確かです。だから、世の終わりの時のしるしは確かにあるけれども、だからといってそれで慌てふためいたり、恐れたり、恐怖を覚えたり、おじ気づいたりすることはいらないと、イエス様は言われます。イエス様は「こんなことがあるから、お前たち早く何とかしなければ駄目だぞ」と、そのように恐怖心を植えつけるのではありません。

今ご存じのようにインフルエンザがはやっています。新型インフルエンザといわれて、皆あちこちで警戒しています。先だっても大阪に行ってきましたが、行きましたら皆さんが心配して、「先生、大丈夫でしょうか」と、皆マスクをしています。それでマスクが手に入らないそうです。うがい薬も手に入らない。だから、関西に行かれる方はお土産にマスクを持って行くと喜ばれる。そのうち外出禁止令になるかもしれないから、食料を買いだめするという状況が起こってきている。パニックですね。私はこの聖書の御言葉を思い出すのです。でも、イエス様はそのようなしるしを見ても慌てては駄目だとおっしゃっている。だから、聞いても慌てないようにと。

イエス様は34節に「よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない」。今はそういう終わりの時のしるしが見えてはいるけれども、それはまだ終わりではないのだからと。では今はどういう時か?「今は恵みの時、救いの日」なのだと、ここでイエス様はおっしゃいます。しかも35節に「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」。やがて、その終わりの時は間近に迫っているから、様々な心備えをする必要があるけれども、しかし、私たちの救いになるのは「変わることのないわたしの言葉」。神様の言葉、イエス様の言葉、聖書の言葉が、これは滅びることがないのだから、御言葉にしっかりと結びつくこと、これが私たちに求められていることです。

37節以下にノアの記事を語っています。ノアはどうしたかというと、あとでお読みいただいたら分かりますけれども、ノアの時代、悪がはびこって、人々の暴虐(ぼうぎゃく)に満ちた世の中になってしまった。そのために神様は人を造ったことを悔やんだのです。ただ一人ノアだけが神様の恵みを受けました。彼は「人々の中で正しく、かつ全き人であった」(創世 6:9)。だから、神様はノアを大変愛して、目をとめてくださった。ノアに箱舟を造ることをお命じになりました。その記事を読みますと「ノアはすべて主が命じられたようにした」(創世 7:5)と一言あります。彼は神様の約束の御言葉を信じたがゆえに、ご存じのように後にあの大洪水から救われるのです。彼が救われたのは、占いに凝(こ)っていて船を造るのがいいだろうと思ったわけではない。神様が「こうしなさい」とおっしゃることを忠実に守ったのです。その時代、ノアの時代も多くの人々は「すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた」(38節)のです。ノアが大工だったとは聞いていませんし、山から木を切り出して製材して、全て彼がやらなければならない。家族、息子や娘が手伝ったという話も書いていません。恐らく、彼が自分の生活の合間、合間、仕事の合間に、何年掛かったか知りませんが、10年であるか15年であるか、とにかく神様から命じられたとおりの大きな船を造ったのです。その時代の人はノアのことを非難したでしょう、あざ笑ったでしょう。「何て馬鹿なことをするんだ。あんなことをして何になる」と言われたに違いない。しかし、彼は神様のお言葉を信じて、それに従って生きたのです。そのとき、彼はあの大洪水の滅びから救われるのです。他の人たちはみな滅んでしまった。今、ノアの時代のように多くの人は、めとり、とつぎ、様々なこの世の快楽のために、あるいは自分の情欲のために生きている時代かもしれません。しかし、その時代にあって、私たちが神様のお言葉にだけしっかりと結びついて、人が馬鹿だとかアホだとか、間抜けだと言おうと、何と非難されようと「私はキリストのお言葉、神様の聖書のお言葉を忠実に心に抱いてこれに従っていく」。これがノアの生き方です。「じゃ、私は箱舟を造らなければいけない」と思いますが、箱舟を造るとは、十字架のしるしです。言うならば、イエス・キリストの十字架を、私たちの生活の真っ只中にはっきりと鮮やかに確立していく。具体化していくことです。だから箱舟を造るとは、私たちの日々の生活のすべてに十字架のあがないのいのちを具体化していくことです。その道筋は、十字架のあがないを成し遂げてくださったイエス様の御心に、私たちが従うこと。生涯を懸けて、キリストの十字架を自分のものとして生きる。確かに、私たちはいま信じていますが、それが具体的に日々の生活の隅から隅にまで主の十字架のいさおし、恵みに応答していく生活に変わっていくこと。これが私たちの箱舟を造る生涯、歩みです。イエス様が35節に「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」と言われたのはそのことなのです。だから、いつもイエス様のお言葉を堅く信じて、十字架にキリストと共に死んだ者となりきって、今はキリストが、よみがえった主が、私と共に生きてくださっている。現実を見ると、主に従っていると言いつつも抜けているところばかりです。しかし、それを少しでも、昨日よりも、今日よりも明日、なお多く主のものとなりきっていきたい。それを努めていくことがいま残された私たちのなすべき事柄です。それが私たちをやがて滅びから救い出してくださるいのちに変わる。

 「ローマ人への手紙」13章11節に「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は初め信じた時よりも、もっと近づいているからである」。「わたしたちの救が近づいている」という言い方をしています。「救いが近づく」とは、「じゃ、私は救われていないのかな」と思いますが、そうではありません。私たちは信仰によって救いにあずかった者であります。しかし、その救いが完成するのは箱舟に入って、洪水からあがなわれ、新天新地、ノアとその家族が乾いた新しい地に漂着したときに初めて、ノアが信じた神様のお言葉が成就する。そのように、この地上にあって救いにあずかった私たちの信仰が、やがて世の終わり、終末の時に新しいエルサレム・神の都に私たちが入ったとき、永遠のいのちの生涯に移されたとき、これが救いの完成なのです。だから、いま私たちは信仰によってあがなわれ、救われた者ではありますが、それが文字どおり具体化するのは、この肉体を脱ぎ捨てて神様の御許(みもと)に帰っていくときです。そのときが「初め信じた時よりも、もっと近づいている」。そうですね。皆さんが10年前、20年前、50年前に信じたその時よりも、近づいている。確かにそのとおり、確実に時は進んできている。だから、12節に「夜はふけ、日が近づいている」。朝が明けようとしているではないか。世の救いの完成が間近に迫っているとき、そのとき私たちは何をすべきか?「やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。13 そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか」。この世のものに心を奪われ、思いを囚われて生きるのではなくて、そのようなことは離れて、私たちはひたすらに主の約束のお言葉にいよいよ熱心に結びついていくことを努めていく。これは私たちが今与えられた恵みの時になすべき事柄です。14節に「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」と勧められているのです。「キリストを着る」とは、私たちの内にキリストを具体化させていく。

 「ペテロの第二の手紙」3章8、9節を朗読。

 ペテロの時代も、終わりの時は間近に迫った終末の時だと言われたのです。ところが、一向に世の終わりが来ないではないか。あなたたちはそのようなことを言って人を驚かせて……、というような非難があった。だから、3節以下に「まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、4 『主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない』と言うであろう」。これは世は滅びるから、神様がすべてのものを地の表からぬぐい去ってしまわれるから、ノアが一生懸命に箱舟を造っているのに、多くの人々はめとったり嫁いだり様々な、ここにあるような欲情のままに生活をしていた。そうすると「いつまで経ってもまだ終わらんじゃないか。雨がいつ降り出す? 洪水がいつ起こるんだ」と、彼はあざけられたに違いない。それと同じように、ペテロたちに対しても「お前たちはそんなことを言うけれども、まだ主の来臨、『終わりのときキリストは再びさばき主として来られる』なんて、脅かしやがって!」と文句を言う人たちがいた。それに対して8節に「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」。すべての事に神様の時がある。人の時ではなく、人が長いとか短いとか、もうすぐだとか、いやもう少し先だとか、そんなことにかかわらず神様は「一日は千年のようであり、千年は一日のごとく」、人々は遅いと思っているけれども、それは神様にとっては「あっ」という間の事柄にすぎない。だから9節に「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない」と。神様は決して終わりの時を「それじゃ、もうやめておこうか」と言われる御方ではなくて、今なお時が残されているのは、「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」。今の時は神様の恵みの時、救いの日であって、神様が寛容をもって耐え忍んでくださっている。ここで「ただ、ひとりも滅びることがなく」と読みますと、「家のあの人がまだ救われん、この人が救われん」と思いやすいのですが、問題は「あなたです」。一人も滅びないようにと、神様が待っているのは誰のためか? と。「あの息子のためか、あるいは嫁さんのためか」じゃないのです。あなたのために主がいま猶予しておられると語っている。「え!私は救われているはずなのに」と思われるでしょう。その救いを達成しなければ滅びです。それで、救われたと信じるなら、そのように真剣に生きているか?と問われる。だから、今猶予されているとき、「自分の救の達成に努めなさい」(ピリピ 2:12)とパウロは勧めています。私たちは日々真剣にキリストを着る者となっていくこと。先ほど申し上げましたように、私たちが十字架を、箱舟を完全に完成するまで、なおこの地上にあってなすべきことがある。キリストを全く着る者となること。

10節以下に「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる」。これは素晴らしいですね。主の日は盗人のように突如としてやって来ると。だから、恐れないでいつどのようなことがあっても揺るがないように備えていなさい。それにはどうするかと?この11節以下に「神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない」。「行い」というのは、生活することです。だから「極力」、できるかぎり、力を尽くして「信心深い生活」、言うならば、主の御旨が何であるかを悟る。御言葉にしっかりと結びついていくことを努める。日々の生活の朝から晩まですべての事の中にキリストを着る者となること。このことは黙っていてできるわけではない。ジッとしていてできるわけではない。私たちが自ら敬虔を修行していかなければ、努めて努力しなければ、これは成り得ないことです。絶えず主を前に置いて、主のみ声に従うことを徹底させていくこと。12節に「極力、きよく信心深い行いをしていなければならない」。これは別の言い方をすると「主イエス・キリストを着る」ことです。キリストを私のものとして、キリストに合わせられていくこと。だから、私たちがすることなすこと「言葉とわざとによらずすべてのものをキリストの名によってなす」と「コロサイ人への手紙」(3:17)にあるように、どんなことも「いま私は主の御心に従っています」と本当に喜べる生き方を選び取っていく。これが「きよく信心深い行い」です。そしてさらに14節に「愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい」。ここに「しみもなくきずもなく、安らかな心で神のみまえに立つことができるように」、いつ何時どのようなことがあっても喜んで主の前に立つことができるように、自分の生活の隅から隅まで、できるかぎりキリストの思いにぴったりと合わせられていく。これを求めていくこと、努めていくこと、これが私たちの今なすべきすべてであります。そのとき私たちはキリストを着るものと変えられていく。

「エペソ人への手紙」4章22節から24節までを朗読。

ここにもはっきりとそのことが語られています。22節に「以前の生活に属する」、「以前」とは、キリストを知らなかったとき、神様に縁がなかった時代、その当時の生活に属する「情欲に迷って滅び行く古き人」、かつてのこの世につける、肉につける生活、思いを「脱ぎ捨てて」、それを捨て去って「心の深みまで新たにされて」、心の底からキリストと共に死んだ者で、いまキリストによって生かされている自分であることをしっかり信じて、遣わされ置かれているそれぞれの所でキリストのものとなりきっていくことを励む。そして、何とありますか? 24節に「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人」、「これはややこしい、何のことかな」と思いますけれども、これはキリストのことです。主イエス・キリストを着るべきである。イエス様の御心にしっかりと従うこと。それにできるかぎり近づいていくこと。そのことを日々に励んでいこうではないか。それが私たちの目指すべき永遠の御国へ入る備えであります。だから、目を覚ましていなさい。

もう一度初めに戻り、「ローマ人への手紙」13章14節に「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」。いろいろな日常の肉体的な問題や事柄がありますが、その中にいつもキリストに従うことを、全力を尽くして選び取っていきたい。少しでも……。それは私たちが生きているかぎり続きます。やがて来るべき永遠の御国、新しい天と地が備えられたその所へ移されるその日まで私たちは、絶えずキリストを求めて、十字架を文字どおり自分のものとする、してしまうこと。はっきりと主のあがないと主の救いを確信して、ノアが箱舟によって洪水から、滅びから免れたように、私たちもこの永遠の滅びから救いにあずかることができる。その道筋を歩んでいきたい。それがこの24節にある「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。この世のこと、私たちの生活のことや、あるいは自分の情欲に従わない。

だから、「ローマ人への手紙」12章には「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」(2節)と勧められています。自分を主にささげきって、キリストの者となりきっていくこと。これが私たちに求められている今残された時を生きる生き方ではないでしょうか。いよいよ真剣に主イエス・キリストを着る者となって、主の御心に従っていく日々でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。