「正しい者」とは神様を畏れ、敬い、その御心に従うものです。この世では神様を畏れることもなく、人が神となったところですから、
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「ヨハネによる福音書」4章1節から18節までを朗読。
14節「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
イエス様がサマリヤの町スカルを通っておられたときであります。サマリヤはユダヤといささか趣(おもむき)が違う場所で、民族的にはサマリヤに住む人もユダヤ人と同系列です。イスラエルの人々がバビロンに捕囚として連れて行かれました。その地に残っていた人たちもいましたが、イスラエル以外の人たちと婚姻関係を結んで混血という形になったのです。このことはネヘミヤ記やエズラ記にも記されていますが、神様はそれを大変厳しくとがめられ、その者たちをイスラエルという身分から除籍してしまう、切り離してしまったのです。そのような形でサマリヤを都としてイスラエルの人々が別の群れを築いていたと考えたらいいと思います。ですから、サマリヤ人とユダヤ人とは、言うならばあまり親しい関係になかった。9節にも「ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかった」と記されています。
ですから、サマリヤを通過するときのイエス様は、よその国に来ているような感じで、何か居心地が悪かっただろうと思います。ちょうどお昼時でした。それで暑い日盛りだったと思いますが、イエス様は休憩をしておられた。弟子たちは8節にあるように「食物を買いに町に行っていたのである」と。イエス様だけがスカルの町で、しかも井戸のそばに休んでおられた。当時はご存じのように、各家々に水道などありませんから、共同の井戸を利用します。ですから、井戸のある場所は、言うならば町の中心地でもあります。朝起きるなり、一日に必要な水をくみに来る。恐らく、このときも午前中は大にぎわいだったと思いますが、ひとしきり水くみが終わって、お昼時は閑散として、ほとんど人がいなかった。イエス様は旅の途中ですから、井戸のそばで休憩をとるのは非常に合理的です。恐らくオアシスのように木陰もあるでしょうし、気持ちのいい場所でもあったと思います。弟子たちは「それじゃ、先生、何かお昼を調達してきましょう」と、食べるものを探しに出て行って、イエス様お一人がそこに残っておられた。そのとき一人の女の人がやって来ました。この女の人は水をくみに来ていたのです。イエス様は暑かったのでしょう。女の人に声を掛けました。「水を飲ませて下さい」と。イエス様は井戸のそばですが、水をくむ道具を持っていません。「くむ物をお持ちにならず」とあるように、明らかに手ぶらです。女の人は水をくむための道具を持っていたと思います。だから、イエス様が女の人に「水を飲ませてくれ」と言われた。
そのとき、10節「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」と、イエス様は訳の分からないことをおっしゃる。「水を飲ませてくれ」と言ったときに、サマリヤの女の人は「あなたはユダヤ人でありながら、どうして私のようなサマリヤ人にそんなことを頼むのですか。大体私たちとあなたたちとは関係がないじゃありませんか」という意味のことを言っています。氏素性が分かりませんから、変なかかわり合いになりたくない。この女の人はそのような気持ちで断るつもりだった。ユダヤ人とサマリヤ人は交際していないのだから、私に頼まれても要求に応えるわけにはいきませんと感じ取ることができます。イエス様はそのことを知っていたのです。恐らくそう言われるに違いないこともご存じであったと思います。
ここでイエス様が「水を飲ませてくれ」と言ったのは、水が飲みたかったとも言えますし、あえてそうでもなかったかもしれません。いずれにしてもその女の人とかかわりを持つ、話しをする切っ掛けを作ろうと思ったのです。イエス様はその女の人を何とか救ってあげたいと思った。この記事を見て分かりますが、13節以下にも「かわく」という言葉が語られています。真夏の日照りの中で歩いたり、作業をして汗をかいたりしますと、必ずのどが渇きます。あるいはスポーツをして汗をかいたりしますと、のどが渇きますから水を飲みます。それは私たちの肉体を養うため、体のためには大切なことです。年を取ってきますと、比較的水分が不足するから、「できるだけ水を飲むように」とよく言われます。そうしないと血液がドロドロになってしまうと。水は私たちの命に直結しています。だから「かわく」ということは、命に危険が及ぶ状況です。極端なことをいうと危ない。だから、早く水を飲みたいと体が求める。だから、「かわく」ことは私たちに必要なことであり、それは命につながることです。女の人がここに水をくみに来たのは生活上で必要な水を汲むためです。この女の人には、朝早く皆が水をくむときには来られない何か事情があった。当時の女性の生き方として、彼女は大変ふしだらな、不品行な女性、罪なる女と称されるべき生活ぶりであった。イエス様はそのこともよく知っていた。だから、昼時に水をくみに来たこの女の人に、人に言えない悩みがあることも知っていました。
13節「イエスは女に答えて言われた、『この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう』」。「この水」、言い換えると、今、目の前にある井戸水のことです。一般的な意味での水を飲んだら、もう飲まないでいいというわけにはいかない。またしばらくすると、のどが渇きます。だから、これを繰り返し飲まなければ、私たちの命は乏しくなると言いますか、危うくなってきます。このときもイエス様が「イエスは女に答えて言われた、『この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう』」と言われる。そのとおりです。その後に「しかし」と、14節「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」と。「一度飲んだらもう大丈夫、かわかない」。これを聞いた女の人は、15節「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」と言う。これはうれしい話ですよ。こんないい話はない。一度イエス様の水をもらえば、それからズーッといらないというのですから。この女の人は毎日水をくむのに苦労していたと思います。できるだけ、村のほかの人たちに見られないように、非難されないように、あるいは冷たい視線であしらわれないように、できるだけ人のいないときを見計らってくみに来る。それが一日だけではない、毎日毎日です。うんざりしておったと思います。「こんなことをして……、早くこんなことから解放されたい」と思ったに違いない。
私たちもそうでしょう。皆さん、食べることを考えてご覧なさい。三度三度食事をするだけでも、一回ぐらいにできないものかと思います。ところが、時間が来るとやはりおなかがすいてきます。私も以前独身で自炊をしていたとき、しみじみと思いました。親掛かりの頃は三食テーブルにつけば食べる物がありましたが、一人暮らしでは毎食毎食自分で用意する。朝起きると食べる。8時かそのくらいに食べて、3,4時間したら12時くらいにまたお昼を食べる。そして、しばらくしたら夕食でしょう。用意して食べて、後片付けをして、「ああ、やっと……」と思ったら、また用意して食べて後片付け。一日こんなことをしていていいのかしら、何とか「一粒で一日」とか「これを食べたらもういい」というようなものがないかしらと、思ったものです。飲むにしてもそうです。いまは蛇口ひとつひねればいくらでも、いつでも水が出ますから、どこででも飲むことができます。あまり不自由は感じません。昔、井戸から水をくんでため置きにして使った生活だった時代は、水くみは大変でした。私の子供時代、お隣さんと共用の井戸があり、朝起きると必ずバケツに水をくむ。朝の用意のための水くみです。夕方になるとお風呂です。お風呂に入れる水をバケツに入れて、運んで風呂に入れる。これの繰り返しです。これは大変苦労でした。父も大変だっただろうと思うのです。水の問題では本当に苦労しました。
だから、このときの女の人の気持ちはよく分かります。毎日毎日、しかもポンプがあるわけではない、恐らく手でくむのでしょう。そしてバケツやポリタンクがあるわけではない。羊の皮か何かの入れ物に担(かつ)いでいくのです。それが毎日ですから、「これはもうたまらん」というのはよく分かります。だから、イエス様が「私の水を飲むものは、もう二度とかわくことがない」と言われたら「いや、是非それを欲しい」と言ってこの女の人は求めました。ところが、ここでイエス様はこの女の人の最も核心的なことを突いているのです。16節「イエスは女に言われた、『あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい』」。水をくむのに何で夫が必要なのか?イエス様は理不尽な要求をなさっているのです。女の人が「その水をください」と言ったら、「だったら、夫を連れて来い」とおっしゃる。何の関係があるのか。イエス様が触れたい問題はこの事だったのです。いちばん肝心なのがこのことだった。と言うのは、女の人がその後にこう言っています。「わたしには夫はありません」。そしてイエス様は「夫がないと言ったのは、もっともだ」。そして18節に「あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない」。イエス様は分かっていました。そして、この女の人が知ってほしくない、言われたくないことをズバッとおっしゃった。
なぜか? この女の人が五人も夫を変えたのは、なぜだったのか?娼婦であるとか、仕事上というわけではないと思います。と言うのは、ここで「夫」と言っていますから。この女の人は五人の夫に仕えてきた。その理由は何であったのか。これは愛だと思う。この女の人が何か心に満たされないものがあった。渇いていたのです。それを求めて彼女はあの人、この人と、五人も夫を取り替えてきた。けれども、その当時の人にとってその生活ぶりは、外目には、あまりにもふしだらでいい加減だったのです。見えるところから言うならば、「そんなふらちなことをして、許しておけない」というのが、世の中の生き方であったかもしれない。道徳と言いますか、その当時の評価であったでしょう。しかし、この女の人はそんなことにはお構いなく、自分の心を満たしてくれるもの、自分が本当に満足いくものはないかと求めていた。イエス様はこの女の人が何を求めているのかよく知っていた。
これはこの女の人だけではなく、私たちの問題でもあります。私たちは安心を得たいとか、幸いでありたい、満足を得たい、あるいは望みを得たいという願望がありますが、それらのもっと奥深い所で、人として生まれたこと、人であることそのものを感謝し、喜び、生きていくエネルギーを求めているのです。自分が自分であること、私が大切な存在であることを認められたい。別の言い方をすれば、自分が愛されることを求めていると言ってもいいかもしれません。なぜならば、愛されていることは、その人にとって心の平安であります。愛のうちにとどまっていますならば、どんな事情や境遇、問題の中に置かれても、決して失望をすることがない、喜びを失うことがない。闇の中に落ち込むことがいらない。そのいちばんの魂の渇き、事情や境遇や物事で満足できないものが私たちの内にあるじゃありませんか。そうでしょう?お金もある、家族も立派、生活にも不自由はない。また自分の健康上のことも、将来のことも心配がない。そのような外側の条件を全部整えたら人は満足できて、晴れ晴れと日々にこやかに輝いておられるかというと、そうはいかないですね。そうではないものを求めているはずです。そうではないでしょうか。それを満たそうとしてお金があれば安心する、親孝行の息子や娘がいてくれたら安心する。あるいは自分の健康が五体満足で、検査した結果、どこにも悪い所がない。脳の写真を撮ってもらったら、20代も30代も若かったということを自慢し、それで安心になるかというと、ならないのが現実です。では、私たちに何が必要か?それは聖書に語られているように、私たちが造られて生きる者となったのは、何故か? 創世記の最初に、神様は土のちりを集めて人をご自分に似たものとして形作ってくださった。そればかりか鼻から命の息を吹きいれられて、人は生きる者となった。造り主でいらっしゃる神様との関係がきちっと整うこと、正しい関係になること、神様のご愛に触れること、いや、愛に生きること、これが私たちの求めている切なる渇きであります。誰もそのことに気づかない。実はそれが私たちのいのちであり、それを求めればいちばん幸いなのです。
けれども、今この女の人のように水をくむ、いろいろな夫、あの人でもない、この人でもない、この人ではない、この人ならと思った。そして、これまで何人もの夫と称する人たちとの生活を続けてきたけれども、そこで喜べない、満足がない、感謝できる心にならない。それでも彼女は、なおかつその生活を続けている。そこへイエス様が来てくださった。イエス様は彼女の求めているものが何であるかをよく知っていた。身上調査をしたわけではないと思いますが、その方のことをよく知っていた。それと同時に私たちのこともイエス様は知っていらっしゃる。私たちがいちばん求めているものは何なのか?それは私たちの造り主、天地万物の創造者、全能の神でいらっしゃる御方と私とが密接につながって、私たちの内にある魂、人の感情やあるいは損得利害、人が考えるいろいろな目に見える世界ではない、奥底にある魂にいのちが、力が満ちあふれることを求めているのです。ところが、そのような根源的な渇きを求めようとしないで、その渇きを別の物で満たそうとする。「ヨブ記」にあるように、「神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」(22:21)。「神と和らぐ」ことです。神様に私たちの心と思いが一つに結びついていくこと、これが大切なことです。
「コリント人への第二の手紙」4章16節から18節までを朗読。
16節に「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」。ここに「外なる人」「内なる人」という言葉がありますが、これは私たちの外側、外なる人、言い換えると、肉体であり、また健康であり、家庭であり、仕事であり、家族であり、あるいはそういう生活全般が外なる人です。それに対して「内なる人」とは、私たちと神様を結びつけ、神様を知ることのできる機能、働きです。それは本来私たちの内にあるものであって、これが私たちに神様を求めさせるのです。だから、「伝道の書」に「永遠を思う思いを授けられた」(3:11)と語られています。私たちのうちに永遠を思う思いとは内なる人のことです。「永遠」とは神様ご自身、人の中に神様を求めていくもの、言うなら私たちの造り主でいらっしゃる方に出会いたい。
よく世間でも、幼くして親から離れて里親に出されたり、養い親に育てられたりする場合がありますが、どんなにいい養父母であっても、やはり自分の産みの親はどんな人だったかと常に渇く。それが満たされると、その人の心は平安となるのです。私の知っている一人の少年、もう青年ですけれども、その子は三歳のころにお父さんが事故死をし、お母さんに育てられたのですけれども、お母さんが非常に生活能力のない人で、とうとう祖母が引き取ったのです。母親はその子を捨てたかたちで出てしまいました。とても性質のいい子で、おばあさんは教会に来ていましたから、私どもはその子と親しくしていますが、なかなか信仰にはいかない。私どもを大変信頼してくれまして、ことがあると相談に来たり、電話をしてきたりします。「礼拝に来なさい」と言うと、「いや、またそのうち、そのうち」と言ってきません。教会学校のころは励んでいい子だったのです。中学生ぐらいになったとき、それまで一言も言わなかったのですが、遊びにきたときに、「先生は自分のお母さんを知っているか」と言う。私どもは、直接は知りません。おばあさんにあたる方からいろいろな話を聞いてはいる。「一度会ってみたい」と言うのです。お母さんはどこにいるか分からないのです。子供を捨てたようなところがあった。いろいろな手を尽くして、初めて連絡がついたのです。それで何とかその子を会わせてやりたいと思って、問い合わせをして、お母さんの所へ連れて行ったのです。ところが、思い描いていたお母さんのイメージとは違っていた。お母さんは我が子だからどれほど喜んでくれるかと思ったら、案外そっけない。すぐに帰って来ました。あまり詳しいことは言わなかったが、失望したのです。でも母親であることを確認して、ひとつ落ち着いてくれましたが、その後もその子の心の一つの大きな傷になっていました。自分がどういう氏素性であるか、何者であるかが親に会わないと分からない。
それは、私たちの造り主でいらっしゃる神様と自分との関係をはっきりと知ることが、私たちの心の喜びです。16節「たといわたしたちの外なる人は滅びても」、この「内なる人が」いのちにあふれて、力に満ちあふれているならば、「たとい外なる人」が失われても大丈夫です。年と共に目も見えなくなる、耳も遠くなる。足腰も立たなくなる、体力もなくなります。それに応じて収入も減りますし、家族も減りますし、ついには一人きりになります。そのように外なるものは滅びていきます。たとえそうであっても「内なるもの」、確かな神様との信頼関係、これがきっちりとつながっているならば、決して滅びることはない。失われることはありません。永遠のいのちの生涯に生きることができる。
「ヨハネによる福音書」4章14節に、「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。イエス様が与えてくださる水とは何なのか?「ヨハネによる福音書」7章にも語られていますが、これは聖霊、神様の力のことです。神様の御霊、神様の霊は私たちの内にイエス様を通して注がれてくるものです。イエス・キリストを信じるとき、私たちの内に神様の霊、神様の力が宿ってくださる。そして、その神様の力は私たちに何を教えてくださるか?それは神様が私たちを限りないご愛をもって愛していることを確信させてくださる。その力なのです。聖霊が私たちの内に宿ってくださるとき、神様が私たちを愛してやまない御方でいらっしゃることを信じさせてくださいます。日本の社会では“触れぬ神に祟(たた)りなし”“山の神”だと言って、神様は怖いもの、罰を与える、そういう神様だと思っていますから、神様に対して何か警戒するものがあります。でも、求めるものもある。それは神様の愛です。私たちが造られてここに生かされている。いったい私はどういう目的で、何故に神様は私を造ったのでしょうか?人の根本的な憤りはそこにあるのです。自分が自分であることを受け入れられないのは、「神様、いったいどういうつもりで私をこういう風に造ったのでしょうか」という、怒りが心の底に常にある。その怒りが神様は怖い御方だと、神様に対してネガティブ、否定的なとらえ方しかできなくなってしまった。これが人の今置かれている現実です。神様は、私たちを、ご愛をもってこの世に送り出してくださった御方だよと証しするために、主イエス・キリストを送ってくださった。これが実に大きな私たちの心の平安です。また、私たちがいちばん必要としているものです。
このサマリヤの女の人はいちばん根源のいのちを求めて、それを得たいと思って、あの男性、この男性と、5人もの男性を……、でもまだ満たされない渇きを持っている。その渇きをもって水をくみに来たところにイエス様に出会ったのです。このイエス様こそが神様は愛であることを証詞する方です。私たちをこの世に送り出して、この世に置いてくださったのは、私たちを愛するがゆえに、私たちを大切なものとして神様の喜びの対象として、神様の愛の対象として造ってくださった。だから、この地上にあって、喜び、感謝し、常に、太陽のように輝いていることを神様は願っておられる。そのような神様との交わりを回復させるため、イエス様はこの世に来てくださったのです。そして、私たちのために十字架に命を捨ててくださった。いまイエス様を通して父なる神様のご愛に触れることができる。では、イエス様はどこにいらっしゃるか。イエス様はまさにこの聖書のお言葉であります。御言葉を通して、私たちはイエス様に触れることができ、更にイエス様を送ってくださった神様につながることができる。
忘れられない一人の姉妹、S姉妹のことを思い出します。この方が晩年ある老人病院に入院しておられました。90歳前後であったと思いますが、体も小さくなって、目も白内障で全く見えなくなり、耳も遠くなって聞こえにくく、入れ歯も外されて、しわくちゃの小さな体と小さな顔になってベッドの上に横たわっている。しかし、頭ははっきりしていました。私は何度かお見舞いにお伺いしました。そのとき大変喜んでくださって、そこで聖書を読みましょうと、詩篇の23篇を読みました。聞こえませんから大きな声で読みました。そうしますと、覚えているのです。聞こえてくるわずかな音を頼りに、ご自分の唇が動くのです。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」。そして、見ていると、聖書を読んでいる間に、だんだんと、今まで白かった顔が桜色に輝くのです。そして、讃美歌を歌いましょうと、彼女の愛唱歌は513番で、「あめにたからつめるものは げにもさちなるかな」と、耳元で大きな声で賛美したのです。彼女も覚えていますから、唇で歌っている。3番まで歌い終えて、「アーメン」と言って、彼女をちょっと見ていた。すると、彼女の唇がまだ動いているのです。「Sさん、讃美歌が聞こえますか」。うなずくのです、聞こえる。彼女の頭の中は讃美歌の合唱なのです。それで顔が輝いて、そして寝ている自分の上で、手で十字架を書くのです。「十字架ですね」と言うと、深くうなずいている。もうその光景は……、何て言いますか、家族も別に付き添っているわけではないし、目も見えない、耳も聞こえない、歯も外され、体も動かない、寝たきりの状態でおしめをされて、その中でも生きることができる。しかも喜ぶことができる。彼女にとって何がいのちだったか?健康だったらもっと喜んでおられる、元気で歩けたらもっといい、そんなのではない。彼女が神様の愛につながっている。彼女はまだ元気であったころ、一生懸命に聖書を読まれる方でした。その御言葉をしっかりと心に握っていたのです。神様との交わりを持っていた。神様のご愛を信じていたのです。
イエス様はこうおっしゃるでしょう。14節「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがない」。どうぞ、私たちもこの水を飲もうではありませんか。イエス様の御言葉から注がれてくるいのちを絶えずくみ取って行きたいと思います。これが私たちの渇きを癒すもの、もう二度とくむことがいらない。先ほどの「コリント人への第二の手紙」にありますように、「外なる人は」どんどん滅び衰えて行きます。それと共に「内なる人」も衰えて、「もう私は死んだほうがましです」としおれる。
先だってもある姉妹がとんでもない事態に陥(おちい)って、90歳近いのですが、失望落胆して、怒りから「なんですか!神様は、こんなに私はお祈りをしておったのに、こんなことになって!」と言って来られましたが、憤られる気持ちは分かるのですが、お気の毒ですね。とうとうその姉妹は「もう私は絶望して死のうと思って、自分の首を一生懸命に抑えました」。私はびっくりして、「で、死にましたか」と言ったら、生きていたのです。死ねない。「死ねません」と。
私たちのいのちはどこにあるのでしょうか。事情境遇、地上の生活がどうあろうと、どんなに衰え、ガタガタになっても、なお私たちはいのちに輝くことができる、このイエス様が与えてくださる水を絶えず飲み続けていきたい。ここに「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。イエス様の御言葉を私たちは絶えず心に喜び感謝して、その言葉にしっかりと信頼して、神様のご愛の中に、主は私を限りなき愛をもって愛してくださっているのですと、信頼しきって喜び感謝する日々でありたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。