いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

8月2日 日々の聖言

2014年08月02日 | 日々の聖言

「主よ、あなたはわたしを知り、わたしを見、

わたしの心があなたに対していかにあるかを試みられます。」エレミヤ12:3

 

人の真価が問われるのは、試練や逆境にあるときです。一方、平穏無事なときには、本音がでません。

仮面をつけ、メッキに覆われてしまうからです。神様はあなたを苦しみや困難の中に置いて、あなたの心

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聖書からのメッセージ(278)「実り豊かな生き方」

2014年08月02日 | 聖書からのメッセージ
 「ヨハネによる福音書」12章20節から28節までを朗読。

 24節「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。

 今年も間もなくイースター、主の十字架の死と復活を記念するときが近づいております。イースター前の今の時期は教会暦で言いますと、「レント」と言われる受難節です。教会暦では「悔い改めの時」と位置づけられています。自分を日々省みて、主の十字架を深く思う時でもあります。

 この記事もイエス様が十字架におかかりになるすぐ前のことです。20節に「祭で礼拝するために」と語られていますが、この祭とは、12章1節にあるように「過越の祭」のことです。この過越の祭のためにイエス様がエルサレムに来られたのです。20節の前にイエス様がろばの子に乗ってエルサレムに来られたことが語られています。その祭のために多くの人々が集まって来ました。その当時、ユダヤ人にとって年に一度の大切なお祭で、しかもエルサレムに来て神殿で礼拝するのは大きな恵み、祝福だったのです。ユダヤの各地から集まるばかりでなく、海外からも巡礼と言いますか、その時を定めて多くの人々がエルサレムに集まりました。

ですから、20節に「数人のギリシヤ人がいた」とあります。ギリシヤ人といってもギリシヤに長く住んでいる、移住していたユダヤ人たちであろうと思いますが、その人たちがイエス様の所へ「お会いしたい」、「お目にかかりたい」と言ってきた。その仲介役がピリポとアンデレでした。イエス様の所へ行ってそのように伝えましたが、その時、イエス様は23節「イエスは答えて言われた、『人の子が栄光を受ける時がきた』」とあります。イエス様の答えは相手に理解できないだろうと思います。また、私たちもいったいどうしてこんなことを言われるのだろうかと分かりません。私は、イエス様とこの世の人々との事柄に対する対処の仕方、受け止め方が違っていることを明らかにしていると思います。ピリポやアンデレたちもイエス様がこれからどのような事態に置かれるかを理解していません。例年のごとく、過越の祭、年に一度の大切なお祭で礼拝して、一緒に食事をする習慣ですから、今年も同じようにするものだと思っておった。そこへイエス様のうわさを聞いてと言いますか、イエス様は国中でうわさの種、有名人になっていますから、ギリシヤから来た人たちは「有名人にお会いしたい」と思った。紹介してくれる人がいないと会えませんから、たまたまピリポを知っていたので口ぞえを頼んだ。ピリポも先生には恐れ多いし、言えないから、アンデレに相談する。そして、二人でイエス様の所へ来た。

 この世の中で言うならば、そうやって人から賞賛されること、人から慕われること、これは名誉なことです。見も知らない遠くの人が来て、イエス様にお会いしたいと求められて、「これは名誉なことやな」と喜ぶはずです。その当時、既にユダヤの各地で、殊に指導者の間にはイエス様に対する反感が根強くありました。だから、風向きが悪い。その中でイエス様を訪ねてくる人がいた。だから、弟子たちも喜んだのです。「イエス様をこんなに慕ってくれる人がいるじゃないか。イエス様に紹介しよう」と。ところが、23節に「人の子が栄光を受ける時がきた」と言われました。「人の子」、これはイエス様ご自身のことですが、この世の名誉や賞賛や誉を受けるのではなくて、わたしには神様の栄光を受けるべき時がきているのだ。そして、それはどういうことかというのが、この24節につながるのです。「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである」。それをもう一度言い換えて、25節「自分の命を愛する者は」と言われます。いまイエス様を慕って、素晴らしい人だと思って、お会いしたいと、多くの人々がやって来る。恐らく、彼らばかりでなく、その当時はほかにもいろいろな関係で、イエス様に近づく人が多かったと思います。

今でもそうですね。何か有名人になって、勲章なり、ノーベル賞などをもらうと、思いもかけないところから「お会いしたい」とか、少しでも寄付をもらおうとか、そのような話もあるでしょうし、有象無象いろいろな人々が声を掛けてくる。だから、イエス様の所へもいろいろな人がやって来たでしょう。あるときは遺産の分配まで頼みに来たという話もありますから、とんでもないことです。この時も、聖書には数人のギリシヤ人という形でしか書いていませんが、恐らくそのほかにもいろいろと面会を求める人たちが来ていた。でも、イエス様はそれを全部断っておられたに違いない。だからピリポも最初に頼まれたときにすぐには行けないのです。「これはイエス様は断られるに違いない」と分かっていましたが、ピリポにはその人たちと抜き差しならない何かがあったのでしょう。「どうしてもお目に掛かりたい」と言う以上、何とかしてやらなければいけないと思った。そこで、アンデレに聞いてみた。するとアンデレは事情を知ったのか、二人してイエス様の所へ来た。「イエス様、あなたのことを本当に慕って遠くからやって来たのですから、一目会ってください」というようなことを言ったのです。ところが、大切なのは自分が褒められ、賞賛を受けることではないと、イエス様は言われました。25節に「自分の命を愛する者」、自分の思いを優先すること、自分が褒められること、自分が認められることを求めること、これは自分を愛すること、自分の命を愛することです。ピリポとアンデレがイエス様に外国人ですけれどもギリシヤ人を紹介しようとしたことは、イエス様にとって大きな誘惑です。「自分をそんなにまで慕ってくれる人がいるなら」という思い。しかし、イエス様はそうではなく、いま自分が何をすべきなのか、神様の大切な使命に立つべき時が来ていることをピリポとアンデレに伝えようとしたのです。だから、24節に「よくよくあなたがたに言っておく」と前置きしています。大切なことですよと。イエス様は時々このような言い方をなさいます。ニコデモ先生に対しても「よくよくあなたに言っておく」。これは忘れてはならない大切なことだということを強調した言葉だと思いますが、その時に一粒の麦のたとえを語っています。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである」。確かにどんな種であっても、それをそのまま大切にとっておけば、それはいつまでも腐ることもなく、変化しません。乾燥した種ですから、何年たってもそのままです。増えません。昔の遺跡を発掘したら、はすの種でしたか、そのような物が出てきた。それを土に埋めてやると芽が出たというような話があります。そのように、種をズッとそのまま持ち続けたら、そのままでいつまでも変わりませんし、増えもしなければ、もちろん減ることもないが、とにかく増えない。ところが、「しかし」と、「もし死んだなら」と。「死ぬ」とは、種にとって、種が種であることをやめてしまうことです。種は土の中に埋められます。そうすると、乾燥した器の中に保管されていた物が、地面に捨てられた状態、しかも、土をかぶせられて、全く見えない存在になります。しばらくしますと、周囲の湿気やある程度の温度が加わって分解する。外側の殻が破れて中から芽が出てきます。小さな細い根が生えてきます。その段階になると本来の種としての形はありません。種がどのようになったかと、種の姿を求めてもそれはありません。それとは全く違ったものへと変わっていく。そして、そこから芽が出てきます。その芽はやがて伸びて、大きく枝になり、木になり、茂ってきます。その後実を実らせます。稲などもそうですが、一粒の米から何百というお米ができるのです。「もし死んだなら」とあるように、「死ぬ」ことが、すべての命につながる大切なことだと、イエス様は言われます。

「マタイによる福音書」16章24,25節を朗読。

ここにも、24節に「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて」とイエス様はお語りになりました。これはその前から話が続いているのですが、ピリポ・カイザリヤにいたとき、イエス様が弟子たちに「世間の人はわたしのことをだれと言うか」と尋ねました。それに対してペテロや弟子たちはいろいろなうわさを語りましたが、その後、イエス様は「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われた。ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えた。イエス様は大変喜んで、そのことを褒めてくださった。ところが、その後イエス様が十字架におかかりになることを話したとき、ペテロが「主よ、とんでもないことです。そんなことを言わないでください」と言ってイエス様をとがめたという記事があります。そのときに「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ」とペテロをしかりつけました。その原因は、この23節「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われました。神様のことではなくて人のことを考える。人と言うのは、他人のことではなく、この時の自分のことであり、あるいはイエス様のことであったと思います。イエス様はやがて捕らえられて十字架に死ぬことになると言われるから、弟子たちとしては、これはとんでもない話。自分たちはいったいどうなる。ガリラヤの漁師で、船も網も捨てて、イエス様、あなたについてきたのに、途中ではしごを外さないでくれという気持ちがある。自分たちの生活はどうなるという心配もあったに違いない。とにかく人のことを考える、あるいはイエス様の立場も考えたかもしれません。しかしイエス様は24節に「自分を捨て」、「自分の十字架を負うて」とおっしゃいました。「自分を捨てなければ」、これが先ほどのイエス様がおっしゃる「死ななければ」と「自分の命を憎む者」ということです。自分を捨てるということ、これがいちばん大切なことだというのです。その後、25節に「自分の命を救おうと思う者は」とあります。言うならば、自分の命を愛する者、あるいは自分を捨てようとしない、死ななければ決して命を得ることができない。新しい神様のいのちをもらわなければ、私たちは実を結ぶ生涯を生きることができない。神様に造られて、この地上に人として生きるべき本来の使命を果たし得ないということです。「実を結ぶ」とは、何か特別なことをするのではない。私たちが人間でない別なものに変わるのではなくて、そもそもいま私たちは神様に造られた人としての生き方を失っているから、もう一度神様のご目的にかなう、造られた者、本来の真(まこと)の人として生きる生き方を取りもどす。そのためにはまず自分を捨てなければいけない。そのことをここでイエス様は言われる。25節に「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだす」と。新しいいのちに生きるのでなくては実を結ぶ生涯とならない、あるいは私たちが結ぶ実が神様に喜ばれるものにならないのです。

だから、「ヨハネによる福音書」12章24節に「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。私たちが死んでしまうという、「死ぬ」ということはどういうことなのか。

先だってもある一人の姉妹が、このことがよく分からなかった。「自分の命を憎む」、あるいは「死ぬ」ということはどういうことなのか? 命を失う、飛び込み自殺でもしなければいけないような、そのような感覚。ここでいう「命」とは、私たちの生物的な命、呼吸しているとか、血液が循環して心臓が鼓動している、私たちが生きているという、そういう意味の「命」ではなくて、私たちの「思い」、自分の内にある「こうでなければ嫌だ」とか、「こうありたい」とか、人の思い、自分の思い、それが命になっていると証詞しておられましたが、そのとおりです。「命」という言葉からすると、私たちの生命、いわゆる健康であるとか五体満足であるというような、そのような肉体的な命を連想しますが、私たちの内にはそういうものとは違う命がある。それは、「これは私がどうしても譲れない」という、メンツであるとか、「これは、私の命よりも大切」という、その人にとってはそれがなくてはならないものと思い込んでいるその心。自分にあるその思いを捨てることなのだと気がついて、その姉妹は大変喜んでおられました。日々の生活の中で「こうあるべきだ」とか、「こうでなければ嫌だ」と感じる。これが私たちをいちばん苦しめている事です。25節に「自分の命を愛する者はそれを失い」とある。「命を愛する」とは、自分の思いを譲れないものとして、絶対大切なものだとして、それだけを固守する、しがみつくことです。「それを失う」、本当の意味で、人が人として生きる力を失った状態です。神様に造られながら、神様の御思いに沿うことができないから、どうしても人は自分の思いに生きる。そのとき、神様の御思いとは正反対の方向になってしまう。これが先ほどのペテロに対してイエス様がおっしゃった「神のことを思わないで、人のことを思っている」ということなのです。「人のこと」というのは、他人ではなくて自分を愛する心、自分の価値観であるとか、自分の考えていることであるとか、自分が心に思っていることが、唯一絶対的なことだと思うこと、これを私たちは命だと思っている。それを捨てること、これが、一粒の麦が死ぬとことなのだと、イエス様はおっしゃいます。

何か一つをしようとすると、私たちは「こうした方がいい」、「これがいい」、「こうでなければ」というように、自分の思いが決まるのです。それを土台にして、それに頼って「こうであるべきだ」と、人の行動を見たり、「こうあるべきだ」と思い込んでしまうから、そう思ったとおりにいかないと、失望したり、落胆したり、不安になったり、苛立ったりする。しかし、そこで自分を捨てて掛かる、これがいのちにつながる。といって、そうやすやすと自分を捨てられたらいともたやすいことですが、それをどうやったら捨てることができるか? ここが大切です。私たちは、「自分のこういう思いにしがみついていてはいけないのだな」と思いながら、それを捨てられないで苦しんでいます。どうしたら自分を捨てることができるか? ここ26節に「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい」。イエス様に従うことを努めることです。これが自分を捨てていく大切な生き方。自分を捨てようと決めてもできません。「二度とそんなことは思うまい」とか「これからもう少しへりくだって相手のいうとおりに従ってやりましょう」とか思いますが、いくら思ってみても続かない。三日坊主です。しかし、イエス様に従うのです。イエス様はどういう御方だったでしょうか。イエス様は私たちの罪のために十字架に死んでくださった。私たちの罪のあがないとなって、ご自分を十字架に捨ててくださった御方です。その主に倣(なら)う者となることです。

「ペテロの第一の手紙」2章21節から23節までを朗読。

21節に「あなたがたは、実に、そうするようにと召された」とあります。それは18節から20節までに書かれていることですが、それを言い換えて22節以下に「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」。「正しいさばきをする」父なる神様に一切を委ねて、そして父なる神様に従われた。そのように、私たちもその模範に倣うように招かれたのです。「御足の跡を踏み従うようにと、模範を残された」。イエス様は私たちがどのように死ぬべきか、ご自分が実地で体験してくださった。十字架におかかりになったイエス様に倣う者となるとき、私たちは自分に死ぬことができるのです。自分の命を捨てることができる。ここが救いなのです。実は素晴らしい恵みなのです。私たちがイエス様に倣う者となることを努めていくこと。イエス様が常に私たちの前に先立ってくださっている。その主を見て、主の歩みに倣うことです。イエス様は父なる神様と共にいて、神の位にいた方が、あえて人となってこの世に降ってくださった。「ピリピ人への手紙」に語られているように「死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(2:8)。この世に降ってくださった主は、ご自分が神の子であることを「固守すべき事とは思わず」とあります。それにしがみつくことをしないで、それを捨てて、人の世に降って、人と同じかたちをとってくださった。ののしられ、また苦しめられ、おびやかされながらも、すべてを知っていらっしゃる神様にご自分を委ねきっていく。これが「死ぬ」ということです。だから、イエス様がそうされたように、父なる神様がすべての事を報いなさる御方、裁きをなし給う御方であることを信じ、また父なる神様は私たちのためにすべての事を備えて導いてくださる御方であることを信じて、自分の思いではなくて、主がそのようにしているのだと、一切を父なる神様に委ねきっていく。このことを努めていくのです。イエス様はゲツセマネの園で祈られたときもそうでありました。ご自身が父なる神様の使命を受けて、人の罪のあがないとなるためこの世に来られたことを重々ご承知でした。しかし、それでもなお十字架の死を目前にしたとき、イエス様も大変な闘いの中に置かれたのです。だから、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました(マタイ 26:39)。しかし、最後は「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と、一切をお委ねになりました。自分の思い、これを捨てる。これが命を捨てることです。朝起きてすぐに「今日はこうして、ああして、ああなって、こうなって、一日こういう一日を……」と自分で思う。まず、その思いを捨てる。主が今日私を導いてくださる、主の導かれるところに従う。これはイエス様の生き方に倣うことにほかなりません。イエス様が、「父よ」、「父よ」と父なる神様を求めつつ、その御心にご自分を委ねることを努めてこられた。だから、私たちにも、今「もし、死んだなら」とおっしゃいます。イエス様の歩み、模範に倣って、私たちも自分の思いではなく「神様の御心に」と常に思いを向けていく。これがまず実を結ぶ生涯の秘けつです。

「ヨハネによる福音書」12章24節に「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。イエス様がそうだったのです。イエス様は神の位にいた神の御子ですが、人となってこの世に降ってくださった。全く違ったものに成り代わってくださった。そして、十字架にご自分が文字どおり死んだことによって、その後、多くの人々がこの救いにあずかり、豊かな実を結ぶことになりました。誠にイエス様のご生涯は二千年たってなお私たちに命を与えてくださる。私たちもイエス様によって結ばれた実の一つです。だから、私たちもまたイエス様に倣って一粒の麦となって地に落ちて死ぬことが幸いな生涯であり、神様が私たちに求めておられることです。

何が私にとって命なのか、私の命はどこにあるか、イエス様について行くこと、イエス様に倣うこと、自分の思いを捨てて行くことなのだと、しっかり心にとどめておきたい。そして、常に主の御思いに自分を添わせる。「父なる神様の御心のままに」とイエス様がご自分を捨てたように、私たちも常に主の御旨を求める、御心を求めていくことです。

先だっても、ある姉妹とお話をしておりましたら、その方が、救いにあずかって本当に素晴らしい恵みを自分は頂いている。それは、「イエス様を知らなかったときは、自分の考えていること、あるいは世間でこうだと言われていること、そういう思いが常に自分の心に隙間なく入っていた。だから、ちょっとでもそれと違うことが起こると驚いたり、慌てたり、うろたえたり、不安になったり、思い煩ったりしていた」と言うのです。ところが、イエス様の救いにあずかって、「自分の思いがないわけではないが、もっと違うもの……、心にゆとりができた」と言うのです。「自分の思いはこうなってほしいが、いや、これもまた神様がしていらっしゃるのだから、委ねて行こうじゃないか。神様が『よし』と言われるのなら、それでいいではないか」と。神様の思いに自分の心が向くと、今まではもう隙間なしで1ミリでもずれたら「もう許せん」と思っていた心に、空白ができて、神様が働いてくださると認めることができるようになった。「これは本当に大きな自分にとって幸いな恵みです」と言われた。確かにそのとおりで、私自身もそういうことを感じることが多々あります。恐らく皆さんもそうだと思うのです。イエス様を知らないときは少しでも方向が違ったら、ちょっとでもずれたら、世界が今にも終わらんかのごとく、終末が来るがごとく、失望、絶望しておった。ところが、そんなことではない。神様が私に求めていることがある。私を導いてくださることがあるのだから、私はこう思ってはいるが、それをいつでも変えるゆとりがある。思いを変えていくことができる。「これは本当に素晴らしい恵みです」と言われました。そうだと思います。イエス様を知らないときは、一分一厘自分の思いどおりに行かないと、グシャッとなって、それを我慢するからストレスが掛かっておかしくなりますが、そんな必要はない。何があっても、それは主がなしてくださる、神様がそのことを起しているのだったら、私がカリカリする必要はない。でしょう?「自分が悪かった、私の責任です」と言うこともあり得ない。「神様が今このことをこのように導いてくださっているのです」と、そこで自分を捨てることができるのです。

24節に「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである」。「いや、どうしても私はこうでなければ嫌です」とか、「これは私がこうしたいのです」とか、隙間なく、ゆとりなく自分の生活の隅から隅まで全部自分が握っているかぎり、それ以外にありようがない。それは一粒のままです。いつまでも変わりようがない。しかし、そこで一歩も二歩も自分を引いて、自分の空間の中に神様がより広く、より多く働いていただけるように委ねることです。そうすると、自分では計画しなかった、思いもしなかった素晴らしいことを神様は私たちを通して起して、豊かな実を結ばせてくださるのです。何といっても私たちの心が休まる。焦ることがいらない、苛立つことがいらない。いつも主がそこにいるのですから、この主の御心のままにと、委ねていくとき、私たちの思いを超えたことを神様のほうがしてくださる。

ここにありますように、「しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶ」、「死ぬ」ということ、それは神様に私たちの心を支配していただくこと、思いを握っていただくこと。神様の御思いに自分を委ねることを努めるのです。そうすると、思わないこと、考えもしないことを神様は私たちを通してやってくださる。

だから、イエス様は「 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ 11:28)と言われた。その後に続いて「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」とおっしゃる。「わたしと一緒にくびきを負うてわたしに従ってきなさい」とおっしゃるでしょう。休ませてくださるから、何もしなくていいのかというと、そうではなくて、イエス様と共に、主の僕になるところに私たちの平安があり、安きがあるのです。だから、自分を捨てて、キリストの思いに自分を委ねること。神様の御旨に自分を埋め込んでしまうこと。そうすると、私たちは心が広やかになり、またゆとりを持つことができ、喜び感謝することができるように変わっていく。

 どうぞ、イエス様はいまよみがえって、「わたしと共に行きなさい。わたしがあなたを休ませてあげよう」、「わたしのくびきを負うて私に従って来なさい」とおっしゃる。だから26節に「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい」と「イエス様に従って来なさい」と言われる。私どもはイエス様を従わせようとするから、苦しいし、きついのです。イエス様に私たちがついて行かなければいけない。イエス様が行く所に「はい、私もそこへ行きます」。私が行きたいのではない、私がしたいのではなくて、主が「せよ」と言われる。主が「わたしは行くよ」と言われる所へ、私たちも喜んで「主よ、お従いしてまいります」と、自分を捨てる、死んだ者となるとき、私たちを通して神様のほうが豊かに実を実らせてくださいます。本当にイエス様のご生涯に倣う者となっていきたい。そして、新しい主のいのちに生きることができるように努めていきたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。