「ローマ人への手紙」13章11節から14節までを朗読。
14節「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。
11節には「なお、あなたがたは時を知っているのだから」と語られています。私たちは「時」という言葉を使います。朝の何時であるとか、夕食時だとか、一年365日、時間が刻まれています。「時」という言葉によって、それが繰り返されていくように思うのです。昨日があって、今日もまた朝の時を迎える。明日も恐らくあるに違いない。だから、今日できなかったら明日すればいいと思います。また明日があるから今日はこうしとこうというように、絶えず一日一日が繰り返されて生きているように思う。日常生活の中で「時」とは、そのようなとらえ方で不自由はないし、また便利であります。昨日したことを今日続けてやろうと繰り返されていく。常に繰り返されている時間の中に生きていますが、もうひとつ違う時間があります。それは二度と戻ってこない時間です。生まれてから死ぬまで、生かされている時間は、もちろん、日を刻んできて繰り返し生きているのですが、しかし、それは必ず過ぎ去っていきます。二度と再び戻ってくることがありません。○○年○月○日は今日で終わりです。これで終わりですが、あまりそのような自覚はありません。むしろ、今日できなかったらまた明日があると思う。ところが、ある特定の決まった日、あるいはそのような時間は二度と帰ってきませんし、そのような時間の中に私たちは生きている。後戻りできない、繰り返すことのできない時間の流れの中にありながら、同時に繰り返されている時間を、毎日を生きているのです。
昨日ある一人の方が訪ねて来られて、いろいろと話をしました。その方は70代になっていますが、ご両親の面倒を見ておられる。百歳に近いお父さんと、認知症になって施設に入っているお母さんの世話をしている。それに自分の家庭があります。ご主人もいますし、そして子供たちの家庭がそれぞれあって、孫たちのこともあります。何もかもがその方の両肩に懸かっているのです。私もお話を伺いながら「大変ですね」と同情しました。家内もそのような中にいますが、義父がなくなりましたから、半分重荷が取り去られたようですが、よく分かる。その方が「わたしの人生って何なのでしょうかね」と言われた。「自分の人生でないのではないか。主人のために尽くし、子や孫のためにいろいろなことを思い煩い、心配し、そして手を掛け、そして今は年老いた両親の世話をやむなくさせられている」と思う。しかも、ご両親がお元気で、「これがいつまで続くのでしょうか?」と嘆かれます。言われても分からない。「大丈夫、後三ヶ月で……」と言ってあげられればいいのですが、「いや、そうですね。いつまででしょうかね?」と言うほかない。しかもそれぞれに費用も掛かる。両親が残しているものがあるから、それを預かっているけれども、毎月、毎月、出て行くものが多いだけに、残されたものを見ると、「これで足りるだろうか。いつまでだろうか」と不安もあるし、それにまして「どうして私がこんなことをしなければならない。私の人生って何だったのだろうか?主人のために、また主人の仕事のために、また家族のために、またその子供たちのためにも、また孫たちのためにもあれも心配し、これも心配し、そしてやがては老いてきた両親のことは……」。その方のご姉妹はいらっしゃるのですが、長女ですから親はその方に頼りきっている。そんなことこんなことで、ここしばらくは自分の時間らしい時間がない。それで一生懸命にご両親のためにと思ってやろうとすると、年配のご主人は「自分のほうを振り向いてくれない」とか「放ったらかしにされる」と言ってご機嫌が悪いから、そちらのご機嫌もとらなければならない。「右に左にと振り回されてばかりで、私の人生はいったい何なんだろう、このまま私は死ぬだけなんでしょうか」と、聴いていると、だんだんこちらも落ち込みます。
その方は教会には来ているのですが、まだ信仰がはっきりとしませんから、苦しんでいるのです。人生は一回限りのものですから、その方も悩むのです。70代になって残り少ない自分の人生、「いったいこれからどのように生きたらいいんだろうか?」「もう一度やり返すことができるなら、もう一度時間を取り戻すことができたなら、別の生き方があるかもしれない」と言えますが、それが言えません。「いや、大丈夫ですよ。しばらくしたらあなたも新しく生まれ変わるのですから、今の時は我慢しときなさい」と言えない。どんどん時間は過ぎていきます。今日、この時、この瞬間はもうなくなるのです。「いや、明日があるさ」というのは、大きな間違いです。掛替えのない、取り返しのつかない時間の中に自分が生きているのだけれども、どうにも仕様がない。周囲の者からそのようにやむなく負わせられた重荷の中にもだえているのです。私は話を聴きながら、その方の思いがよく分かります。しかし、同情をしてみたって解決にはなりません。では、それをどのように受け止めるべきなのでしょうか。
11節に「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている」とあります。「目覚める」というのは、本心に生きることです。はっきりと自覚して生きること。眠っているとき、何も分かりません。ぐっすり眠り込んでいたら、何をされようと気がつきません。そのような無意識の生き方ではなくて、はっきりと、今という時を自覚して生きる。自分がどのような者として生かされているかをはっきりと自覚しなさいというのです。その方に話したことですが、「確かに、私たちの人生は、生まれて死ぬまでの間、自分のしたいこと、夢を実現したり、望みをかなえたり、いろいろな計画をして実現していくものと多くの人は考えるかもしれません。しかし、今あなたが受けている、思いもかけない、願いもしない、そのような重荷、苦しみ、あるいは様々な問題や事柄の中に置かれているのは、神様が私たちに与えてくださる人生なのであって、これを負わなくては、私たちは本当の意味で生きることができませんよ」と話しました。この地上に生かされている生涯は、ただに自分の欲望を満たし、自分のしたいことを遂げ、思い通りの人生を生きることが、本当にその人にとって幸いなのかというと、そうはいえない。では、いったいどのように生きるか?「それはまず私たちを造って、この世に置いてくださった神様の御心に従うこと、神様が備えられたことの中に生きるのですよ」「でも、私にはこの人生しかありませんし、ここまで来てしまって、後残り少なくなったし、何かむなしい思いがします」と。しかし、「だからこそ、この一回限りの人生に、今掛替えのないときでありながら、なおかつそこにあなたでしかできないことを神様が求めておられることがある。それを受け止めることができるかどうか、これがあなたの掛替えのない人生を生きる道ですよ」。言うならば「そのような願わないこと、思いもかけないこと、思い煩いを一切取り除いて、自分の好き放題に生きた人生が本当に幸せなのか?というと、そうではない。それよりも私たちを生かして、二度と取り返しのつかない時間の中で、なおかつ、自分の思わない、願わないことへ神様が導き入れてくださったと信じなければ、私たちの生きるいのち、値打ちが出てきません。だから、今、不平不満や苛立ちがあるかもしれないけれども、『どうしてこんなむなしい私の人生なのだ』と思って生きるかぎり、それはそのとおりむなしいですよ。そのむなしい人生を本当に意味ある人生に作り変える秘けつは、神様に自分を委ねること、ささげきっていくこと以外にありません」。どこまでお分かりになったか分かりませんけれども、しばらくそのようなお話をして、やっとその方は心を整えたのでしょうか、明るい顔になって帰って行かれましたが、私はそのときしみじみと、人は何のために生きているのか?しかも、神様が二度とない時間の中に私たちを置いている意味はなんだろうか。その中で私たちがすべきことは何なのか?11節に「あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている」。自分の欲望や自分の楽しみや自分の利益のために生きているのではなくて、地上に私たちを生かしてくださった神様のご目的をはっきりと自覚すること、これが「目を覚ます」ことです。
そして「なぜなら」と、11節の後半に「今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである」。いよいよ私たちの人生の終わりが近づいてきている。どんどんと残り少なくなっている。だから12節に「夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか」。私たちは神様の恵みに生きる者となろうではないか。神様は私たちを「やみ」の中から救い出してくださった。眠りこけて永遠の滅びに定められていた私たちを憐(あわ)れんでくださって、ご愛をもって主イエス・キリストの救いにあずかる者に造り替えてくださった。この結果、「やみのわざを捨て光の武具」をつけ、光の子として、神の子として私たちをあがなってくださった。あがなわれた時を今生きているのです。だから13節に「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように」、「昼歩くように」とは、光の中をという意味です。「ヨハネの第一の手紙」に「神は光であって、神には少しの暗いところもない」(1:5)と語られているように、光なる主と共に生きること、神と共に生きることを努めていく。これが私たちに残された今の時の生き方であります。
そして、最後の14節に、「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」。私たちを救いにあずからせてくださったご目的は何か?私たちをして神の子供にするためでしょう。神の子供とは、おのずから父なる神様の性質に似る者とならなければなりません。本来エデンの園に私たちを置いてくださった。人が造られたときに、神に似る者、神に似た者として人を造られた。言うならば、神様はご自分のかたちにかたどって、造ってくださった。言い換えると、私たちを神の家族として、神様の子供として造られた。その神のすがた、神の像、私たちに与えられた「神のかたち」が失われてしまった。それが消えてしまっていたのが、かつて、イエス様の救いにあずかる以前の私たちです。ところが、そのような私たちを取り返して、神のかたちを私たちの内に造り出してくださった。神の子供ですから、父なる神様に私たちが似る者となる。そのモデルとして、その模範としてひとり子イエス様をこの地上に送ってくださったのです。イエス様が、神の子が人となって来てくださったというのは、人となり、弱い肉体をもって、この世に住んでくださったということ。そして、私たちの罪のあがないの供え物となられた。確かにそのとおりであります。そればかりでなくて、あえて神様がご自分のひとり子をこの世に遣(つか)わされたのは、私たちのモデルとしてくださるためです。模範となって、キリストに似る者と私たちを造り替えてくださる。だから、イエス様が私たちの内に宿ってくださったのは、私たちがイエス様に似る者と変えられるためです。
「ヨハネの第一の手紙」3章1節から3節までを朗読。
2節に「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている」とあります。ことに後半に「彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている」。私たちがキリストに似る者と造り替えられていくこと。これが神の子になるということです。いや、神様は私たちをすでに神の子にしたとおっしゃいます。それは取りも直さず、今この地上に生かされている私たちは、この世にありながらキリストに似る者と造り替えられていく。そのためにこの地上の命が与えられている。この地上の生涯はそのためなのです。私たちは日常生活の中で、常にどれほどキリストに似る者に変えられるのだと自覚しているでしょうか。毎日の生活は、見えるところの物質的な事柄の中で生きています。何を食べ、何を着、何を飲もうかと、生活のことです。そのことが常にあります。聖書にはそれは「肉」であると言われています。それは消え行く物にすぎない、一時的なものだとも語られている。ところが、生活をしていると、ついついそればかりになる。朝起きてから夜まで、「何を食べようか」「あれをしよう」「次は何をしよう」「あの人に会いましょう」「この人にこうしましょう」「あれはどうなっただろうか」「これはどうなっただろうか」。事情境遇、そのような事柄ばかりが常に去来して、心の中を大嵐のごとく過ぎて行きます。それが実は「眠っている状態」なのです。ではどうするか?何をするか?確かにそれから逃げるわけにはいきません。そのような生活から離れるわけにはいかないけれども、その中で常にまず第一にすべきことは、今このことを通して、どれほどキリストに近づいているか。神に似る者と造り替えられつつある自分だと、自覚して生きているかなのです。これは私たちが救いにあずかった目的であり、なおこの地上に命を与えられて生きている人生です。私たちの人生は次から次へと移り変わり、一つとして同じことはありません。年齢を重ねるにつれて、若いときには若いときなりの問題、中年のときは中年、それぞれの生活史と言いますか、歴史がありますが、その時々に出会う問題や事柄は全部違います。その出会う問題や事柄をとにかく乗り越えていく、それを解決して、やり過ごしていくことばかりに、私たちはもっぱら精力を使います。ところが、イエス様の救いにあずかった私たちは、そのことよりも、一つ一つの問題を解決していくプロセスの中で、その過程にあって主イエス・キリストをモデルとして、神様が求めている神の子にふさわしい者に内実共に造り替えられているか?あるいはそのことを切に願って生きているか?ということが大切な課題なのです。それを抜きにして生きるのだったら、いくら事情境遇がよくても、思いどおりに世の中の事が進んでいこうと、それはむなしいのです。そうじゃなくて、常に私たちは「自分たちが彼に似るものとなること」、キリストの姿かたちに造り替えられていくことです。これが私たちに求められている、神様が願っていらっしゃる大切な事柄です。
「ガラテヤ人への手紙」4章19,20節を朗読。
パウロはガラテヤの人々の魂の状態、信仰の姿を見て非常にがっかりしたのです。「途方にくれている」というのですから、余程情けないと思ったのです。というのは、ガラテヤの町でパウロが伝道した結果、多くのクリスチャンがそこに与えられました。教会ができたのです。救いにあずかった彼らは、もちろんユダヤ教からの改宗者が多かったのですが、そのためにユダヤ教時代の仕来りや習慣がどうしても抜きがたいものとしてありました。イエス・キリストの救いにあずかって、そのような世のしがらみ、古い習慣や因習から解放されて、大変喜んで、聖霊に満たされ、御霊によって生きる新しい生活が始まった。ところが、それは初めのうちだけで、日がたつにつれて昔に戻って、かつてユダヤ教であった時代の仕来りや習慣、宗教的な取り決めや戒律、あるいは何か戒めを守らなければいけない、あれはしなければならない、こういう祭り事もしなければいけないと、だんだんと彼らの生活を窮屈にしていったのです。また、周囲の者が「あの人はあれをしていないから駄目だ」とか「この人はこうすべきだ」とか「ここはこうあるべきだ」と、お互いが批判をする。そのような雰囲気に教会が変わってしまった。それを聞いたとき、パウロが大変心を痛めて書いたのが、このガラテヤの手紙です。この中で彼は大変厳しい言葉遣いをしています。「そもそも、いったいあなた方が救われたのは、自分の努力やわざやそのような因習によってなのか、それともただ主イエス・キリストを信じたことであったか」「御霊によってあなた方がこの救いにあずかったのであるならば、御霊によって歩くべきではないか。それなのに今になって、またあの肉の力によって、この世の様々なわざによって自分たちを義としようとするのか」と。そして、19節に「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまで」と嘆いています。ここに「キリストの形」とありますが、私たちの魂がキリストに似るものへと変えられていく。「キリストに似るもの」とは何か?それは神様の御思いに自分を全く添わせていくことです。神様の御心に徹底して従う者と変わる。それはキリストご自身がそうであったからです。イエス様がこの地上に在りし日、あの十字架の死に至るまで従順に父なる神様の御心に全くご自分を捨てて従いなさいました。そのキリストの姿かたちに、変えられていく。私たちが徹底して父なる神様の御思いに従い続けていくとき、おのずから聖霊が働いて、私たちの心に思う事柄、頭で考えること、語る言葉も手のわざも日々の生活も、ことごとく頭の先から足の先まですべて神様の御心にかなう者と造り替えてくださる。そのとき、私たちの内にキリストの姿が作り出されていくのです。それは黙って、じっとしていてなるわけではない。私たちが自覚して常に「私はこの問題の中で、このことの中で神様に従っているだろうか?神様の御思いを自分は求めているだろうか? 神様の御心であることをはっきりと自覚しているだろうか」と意識して、努めて自覚して、そのことを求めていきますならば変わってきます。ところが、ただ漫然と「救われたのだから、後は神様がやってくださるから、私は信じていればいいのだ」と言うだけでは変わりません。信じたならば、おのずからそこに具体的な歩みが伴ってきます。私たちは「お祈りしているから」とよく言います。「お祈りしているから」……と。
ある方が何かのことで父のところへ「お祈りしてください」と依頼してきました。しばらくして、その方に「あの問題はどうなりましたか?」「あ、お祈りしていますから……」、またしばらくして、その方にもう一度、「以前お話していたあのことはどうだったですか」「まだお祈りしていますが……」と。そのとき、父が「お祈りしていたら、ちゃんと神様の声が聞こえるでしょう」と言った。人は自分の願いどおりになるまでお祈りしている。自分の気に入る答えが出るまでお祈りして待つ。私たちはどこかそのようなところがあります。「お祈りしているから、お祈りしているから」「お祈りしているのに、何でこうなったでしょうか」と言われる。「お祈りする」とは、神様の声を聴くことです。もちろん、神様の前に私たちの思いをすべて打ち明けて、心を空っぽにします。しかし、同時にそのとき神様が私たちに語ってくださる、私たちに思いを与えてくださる。「主が私にこのことを通して、こうすべきなのだ。私の思いが間違っていた。私はやはりこの道を選ぶべきだった」と、悔い改めを起こしてくださるでしょうし、また私たちに新しい生き方を求められることがあります。その一つ一つに私たちが従うことを努めなければ、ただ自己本位に、自分中心に自分の思いだけ、願いを実現しようとそれにしがみ付いて、手放そうとしなければ、神様のみ声を聞くことができません。そうなると、いつまでも生まれながらの自分が変わらない。私たちの中にキリストのかたちが形作られていくのです。
「ローマ人への手紙」13章14節に「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」。「キリストを着る」こと。これは洋服を着るように、一気にポッと着てしまってすぐにとはなりません。もちろんそうなれば幸いなことですが、キリストを着るために私たちはこの地上の命を生きているのです。地上にあって、負わせられた重荷をただひたすらに我慢、我慢で、「いったい私の人生は、何のためにあるのだろうか、こんなことをさせられて」とつぶやきながら、嘆きながら生きるためではない。与えられた問題、事柄を通して、キリストを着ることに努めるのです。問題を早く解決しようとか、うまい具合にやってやろうとか、何とか楽をして逃れる道はないだろうかと、悪戦苦闘するのではなく、その事柄の中で主に従って、私の内にキリストのかたちが形作られる、キリストに似る者と造り替えられるべきことがある。14節に「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。「肉の欲を満たす」とは、今申し上げたように「どうして私がこんなことをいけないのだ。早くこれを何とか解決しよう。ここから逃げ出して、早く自分の思いどおりのことをしたい、願いどおりの生き方をしたい。あるいは楽しみをしたい」という、そのことばかりに人生の時間を費やしている。それでは間に合わなくなりますよ。やがて主の御前に立つ時がきます。その時にキリストのかたちが形作られているように、努めていきたいと思うのです。世の中の多くの人々はそれが分かりませんから、ただ目の前の問題や事柄、楽しいこと、うれしいこと、悲しいこと、そのことばかりに心を費やしていますが、私たちの救いにあずかった生涯はそうではない。キリストを着ようと努めていくこと。どうですか?もう半分ぐらい着ていますか?まだ片袖入ったばかり?いや、着ようと手に持ってながめてばかりですね。着ようとしない。私たちはキリストを着て、父なる神様を信頼して揺るがない、神様のみ声に、御旨にのみ全く従いなさったイエス様のご生涯に私たちも重なっていきたい。
「ピリピ人への手紙」3章7節から9節までを朗読。
パウロが救いにあずかった後、彼の人生は180度変わりました。そのとき、彼は7節に「益であったこれらのもの」、かつては自分にとって誇りであり自慢すべきものだったすべてのものが「キリストのゆえに損と思うようになった」。今度はそれらを捨ててキリストを得たいと願うようになった。8節に「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」。この世につける、肉につける一切のもの、地位であるとか、名誉、学歴、家柄、自分の才能であるとか能力であるとか、そういう一切のものはどうでもいい。むしろ「キリストに似るものとされたい」。そこにありますように、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている」。その後に「それは、わたしがキリストを得るため」、キリストをわたしのものとするということ、言い換えると「キリストを着る」者となるのです。
9節に「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基(もとづ)く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになる」。「キリストのうちに自分を見る」という、これはすごいことです。イエス様を見ると、イエス様のことを思うと取りも直さず、自分だ、私だと言えるほどになりたい。どうでしょうか?私たちは鏡の中の自分を見て「ここにキリストがいる」という、そのくらいの思いを持ちたい。これは大切です。そのために私たちは生きているのです。「キリストを着る」とはまさにそのことです。パウロはそのことを願った。「キリストのうちに自分を見いだすようになる」。
そして、10節に「すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり」、言うならば、イエス様の十字架の死とよみがえり、イエス様がこの地上に下って受けたご生涯の様々な苦難の中にあって、徹底して父なる神様の御心に従いなさった。そのように自分もこの地上にあって、キリストの従順と死に倣(なら)っていく。これが10節の御言葉です。「キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり」と。キリストが十字架の死を受けたぐらいの、キリストと共に死ぬ覚悟で自分を捨てて、キリストに結びついていく。これがパウロの命です。彼の生涯を賭けて生きるエネルギーがそこにあった。何としてもキリストに似る者となりたい。一歩でも半歩でも、少しでも主の十字架の苦しみとそのよみがえりの喜びを自分も味わいたい。その場所としてこの地上に命が与えられ、生きているのです。だから、地上にある日々の生活はキリストを着るための毎日なのです。ところが、すぐそれを忘れる。キリストを洋服掛けに入れてしまって、自分の洋服を着て、自分の着たいものを着て、町をひょろひょろ歩くから、いろいろな誘惑に遭うわけでしょう。そして、神様の御思いから遠く隔たってしまう。私たちはいつもキリストを着る者であること、キリストに似る者と造り替えられるために与えられた困難や試練があり、その中でキリストに結びつくためです。だから、11節に「なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである」。言い換えると、よみがえりの主と一つと合わせられたい。イエス様のご生涯、イエス様ご自身とぴったり合わさった者、一つ体となって、キリストが私であり、「私を見てください。キリストがいるでしょう」と、言えるぐらいはっきりとした確信を持つ生涯でありたい。
「ローマ人への手紙」13章14節に「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」。自分の願わないこと、嫌なこと、「こんなものは避けて通りたい。こんなものはやめたい。知るものか」と、けとばしたいことがあるかもしれない。しかし、そこでもう一度、「いま私はキリストを着ようとしているのか?このことの中で、この問題……」で、具体的にそのような事がなければ、キリストを着ることができないのです。ただ雲か、かすみかを食べて、仙人のごとく深山幽谷の中に遁世(とんせい)して、世を避けて逃げて、庵でもくんで、独りめい想にふけっておったらキリストと一つになるかと言うと、ならない。まさに生き馬の目を抜くような、血の滴(したた)る世の中にあって、キリストを着る者となるのです。その中でこそ「肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。肉につける思いが力をもって私たちをキリストから引き離そうとしてくる。そこに私たちの戦うべき信仰の戦いがある。
神様が私たちに求め給うキリストに似る者、神の子と名実共にそのように造り替えてくださる主の救いの中に私たちがあることを信じていきたい。ただ目の前の問題や事柄にとらわれないで、ここでどのように私を変えてくださるのか、「神様はここでキリストを更に深く知る者と、またキリストに結びつく者としてください」と、主を求めてはっきりと目を覚まして、二度と返ることのない今の時を生きていきたいと思う。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。