いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

8月9日 日々の聖言

2014年08月09日 | 日々の聖言

「イエスはこれを聞いて言われた、

『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。』」マタイ9:12 

 

客観的にみて、明らかに病気だと思える人でも、本人は「自分は病人だ」と自覚して

いないことがあります。そのような人は決して医者に診てもらおうと思いません。同様

もっと見る


聖書からのメッセージ(285)「栄光在主」

2014年08月09日 | 聖書からのメッセージ
 詩篇115篇1節から18節までを朗読。

 1節「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください」。
 この詩篇115篇はどのような状況の中で歌われたかよく分かりませんが、イスラエルの民が何かの大きな戦い、困難の中から神様によって救い出された恵みを歌った詩篇であることは確かであります。2節に「なにゆえ、もろもろの国民は言うのでしょう、『彼らの神はどこにいるのか』と」、イスラエルの民が信頼する真(まこと)の神様、天地創造の神は見ることができない、声を聞くことができません。手で触るわけにはいかない。そうなると、いったい神様はどこにいるのかと、多くの人々からあざけられるような状況の中に置かれました。また、彼らに敵対してくる者たちは、4節に「彼らの偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである」とありますように、偶像を拝む、いわゆる、人の力を頼みとする人たちです。彼らとの戦いの中にあって、イスラエルの民が神様だけを信頼するようにと勧められます。9節以下にありますように「イスラエルよ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である」と、10節、11節にも繰り返して語られています。イスラエルの民がただ神のみを頼みとするとき、神様が彼らの盾となり、助けとなってくださる。そのような体験をしました。その結果、18節に「しかし、われらは今より、とこしえに至るまで、主をほめまつるであろう。主をほめたたえよ」と。

私たちにとってもこのとおりであります。1節に「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください」と歌われています。イスラエルの民が戦いに勝利して、自分たちの手柄である、何か自分たちが誇りとする、そのような思いを一切取り除いて、ひたすらに神様を褒めたたえること。これは私たちに求められていることの一つであります。人はなぜこの世に生きているかと、人生は何のためにあるかと、よく問いますが、はっきりしていることは、私たちが神様を褒めたたえるためです。栄光を神様に帰することです。イザヤ書にも、真(まこと)の神様、天地万物の創造者でいらっしゃる御方が、私たちを造り生かし、恵んでくださっているのだと証詞する、神様を賛美し褒めたたえることだと語られています。神の栄光のために創造し、仕立てたと、イザヤ書43章に語られています。神様の栄光、神様の誉れのために、神様のみわざを私たちが褒めたたえ、感謝、賛美する。そのような栄光をあらわす者として私たちは造られているのです。パウロは私たちが神様の栄光をあらわすのは私たちに喜びがあふれ、感謝があふれて神の栄光となると、「コリント人への第二の手紙」に語っています(4:15)。感謝があふれることで神様の栄光をあらわす。私たちが感謝する。何に感謝するか?神様を褒めたたえることが感謝なのです。私たちはいろいろな恵みを神様から受けます。神様は今日も私たちに命を与え、食べる糧を与え、着るものを与え、住むべき場所を備えてくださる。すべてのことは神様がくださった恵みである。そのことを心から100パーセント、「これは神様、あなたの恵みです」と言うこと。これを褒めたたえ、感謝することです。これが私たちの生かされている、この地上に造られた目的です。私たちはいつもどんな境遇でも、そこで神様を賛美し、褒めたたえ、証詞していく。といって、「神様」「神様!」と四六時中言い回るわけではありません。しかし、心の中に神様を感謝し、喜び、褒めたたえる思いが満ちあふれていることです。常に、私たちの思いが神様に結びついていること。しかし、生活の中で、よかったり悪かったり、願ったり願わなかったり、いろいろなことがあって、「これは嫌だ」とか「これは嫌いだ」とか言いながら喜べない、感謝できないでいます。これは私たちの本来あるべき姿ではありません。良いとか悪いとかを越えて、そういうものを離れて、「神様が私に与えてくださったこの恵みです」と言いきってしまう。それを言いあらわすことが私たちの使命、生かされている目的です。だから、泣き言をいったり、つぶやいたり、憤ったり、不平不満の毎日を送っているならば、それは神様のご目的にかなっていません。そればかりでなく、自分の力を誇りとする。あるいは自分の知恵やわざで何かを成し遂げたと思うことも、神様をないがしろにすることです。

ですから、1節に「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください」。と「栄光をわれらにではなく」と繰り返して語られています。「われらにではなく、われらにではなく」と。そのくらい重ねて繰り返し言わなければならない。ともすると、私たちは神様の栄光を盗み取ってしまう。自分の手柄にしようとするのです。何か事がうまくいったり、自分の願いがかない、事が順調にいくと、自分が頑張ったから、自分の努力の結果だと。だからよくスポーツ選手など、素晴らしい成績を残したり、新記録を出すと、「努力の結果、こういう栄誉を頂いた。自分を褒めてやりたい」と言いますが、私はそれを聞くと、ちょっと違和感を覚えます。「自分を褒めてやりたい」とは「何様だ!お前は!」と言いたくなる。そうではなく、これは神様の憐れみであって、1節にあるように、「あなたのいつくしみと、まこととのゆえ」に、こういう結果が与えられ、素晴らしい恵みにあずかった。「神様、あなたのおかげです」と言うべき事です。「自分を褒めてやりたい」なんて、自分に余程知恵と力があって、努力したと思い上がっている。そもそも、努力自体、神様が許してさせてくださったのです。これを決して忘れてはならない。

だから「われらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに」と。神様は真実をもって私たちを愛し、ご自分のかたちにかたどって私たちを尊いもの、大切なものとして造ってくださった。だから、一人一人を大切な掛け替えのないものとして、真実をもって私たちに接してくださる。私たちを持ち運んでくださっているのですが、それを私たちは忘れる。これは神様に申し訳ないことです。私たちが今あるは何によってか。「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく」と、徹底して神様の前に自分を無にしていくこと。私には力も、知恵も、努力も何一つ無い。あるのはただ神様のご愛と真実です。そして、一切の栄光をみ名に帰する。神様のものとしていくことです。ところが、どこかで自分を誇りたい、自分が認められたい。何とかして自分に栄光を帰すると言いますか、自分の誉れにしたい、栄誉にしたいという思いが消えません。これはいちばん離れがたいものです。だから、余計に「われらにではなく、われらにではなく」。

先だっても、この連休に金生先生の子供たちがうちへ遊びに来てくれていました。楽しかったのですが、子供達がゲームをします。テレビを使って遊ぶゲームがあります。「先生、一緒にしよう、一緒にしよう」と言うから、させてくれるかと思うと、そうではない。自分一人がやって、「ね、見てて、できるでしょう。できるでしょう。こんなに点数が取れた」と。何のことはない、自分を誇りたいため、見物人として私を引っ張ってきただけです。「一緒にしよう」と言って、させてくれないのです。私がしようとしたら、「先生、それは違う。ちょっと貸して」と、自分だけがチャチャ、チャッチャとコントローラを使う。私は反応がだいぶ鈍くなっていますから、もたもたしていると、「違う!先生。こうよ」と、チャチャ、チャッチャとしてしまう。その結果、「ね、できるでしょう。僕は」と。それを見ていて、私たちは神様の前にそういうところがある。「神様、あれをしてください」「これをしてください」と言いながら、自分でやって、「ね、神様、私はこんなにできるじゃない。見てよ!私はこんなに苦労をしているのよ、神様、分かっている?」と。私は子供たちの姿を見ながら、「これが人の姿なのだな」と思います。自分がどんなに優秀であり、どんなに巧みであり、上手であるか。ちょっとできないゲームあったら、「いや、これはもうやめた」と。「どうしてしないの」「いや、今はしたくない」と、うまいこと逃げるのです。自分は出来ないと言えない。私たちは「主よ、栄光をわれらにではなく」と、生活のどんなことにも「あなたのいつくしみと、まこととのゆえに」と、神様の恵みを感謝し、褒め称えましょう。ひとり子を賜うほどの大きなご愛を持って私たちを顧み、あわれんでくださるから、今ここにあるのです。それを認めることです。

コリント人への第一の手紙15章8節から11節までを朗読。

これは聖徒パウロが自分の生涯、自分の生き方を短くまとめた言葉の一節であります。8節「月足らずに生れたようなわたし」と彼は語っています。イエス様の直接の弟子たち、ペテロやヨハネやそういう人たちに比べると、彼はイエス様と直接一緒に活動した時期はありません。直参(じきさん)と言いますか、直弟子とそうでない彼との間には溝があったのです。しかも、彼はそもそもがクリスチャンを迫害する張本人でありました。その人が一夜にして手のひらを返すようにイエス様の事を言い出したら、まゆつばもので信用しない。そのことを「月足らずに生れたようなわたし」と語っています。しかも、自分は教会を迫害したような者であるから、9節に「使徒と呼ばれる値うちのない者である」と。自分は何の値打ちもなければ資格もない。10節に「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである」。いま、今日ここにあるのは、ただ一重に神様の恵みによるのであると彼は語っています。そして、その恵みは無駄にならずと、その後にあります。「むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた」と語っています。イエス様の直接の弟子であったペテロやヨハネ、そういう人たちに比べたら、「私のほうがはるかに働いてきた。だから、おれはできるんだ」と言ったのではない。働いてきたけれども、「それは、わたし自身ではなく」とあります。自分がしたのではない。「わたしと共にあった神の恵みである」。神様の恵みによってさせていただいたのであって、私がしたのではありません。栄光を全面的に神様にお返ししている。ほかの弟子たちよりも多く働くことができたのも、これは私ではなく、神様の恵みによるのであると彼は語っている。これは彼の生涯を貫く生き方であり、また同時に私たちの神様に対する姿勢であります。人が良いとか悪いとか決めるだけで、神様は私たちに善にして善をなし給う御方、私たち一人一人にいちばんよいことを備えてくださっているのです。だから、どんなことでも、良いことも悪いことも、神様の恵みによって、神様の憐(あわ)れみによって、また神様のご真実のゆえに、今もなお滅びることなく、命を与えられ、今日の一日を生かされている。それをどれほど感謝しているか。もう一度そのことに心を向けていきたいと思います。

ですから、詩篇115篇1節に「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください」。ところが、ともするとどこかで自分が認められたい。自分の努力を、自分のしていることを人に何とか褒められたいという思いが常に働きます。そのとき、「こんなにしているのに」「あんなにしているのに」と、自分のしていることが認められない悔しさ、そういうことに対しての不平不満が積もっていきやすい。そのとき、私たちの心から、神様の恵みを感謝する思いが消えてしまう。私たちをいつも見ていて、私たちに報いてくださる方がおられる。神様が私を見ておられることを忘れてはならない。人が感謝してくれる、人が有難がってくれる、人が褒めてくれる、賞賛してくれる。そこでとどまってしまったら、私たちは神様の報いを受けることができません。イエス様はそう言われました。右の手のすることを左の手に知らせるな(マタイ 6:3)。あるいは町角でラッパを吹き鳴らすな(マタイ 6:2)と、そのようなことを言われました。人に知られて、人から賞賛を受け、人から褒められたら、もうあなたはそれで報われてしまって、神様の報いはないと。だから、いつも隠れたことを見ておられる、隠れたことに報いてくださる神様を私たちは絶えず心に置いておくこと、信じていくこと。これが神様から恵まれる秘けつです。人というのはどんなことをしても「私がこんなにしたのだから、私はこんなにできるじゃないですか」「私はこんなに……」と、つい思いやすい。子供のときから、そのように自分を認めさせたくて仕方がないのですから。また、子供のように素直に「見て、見て」と言えればいいのですが、言いたいくせに言えなくて、グジュグジュと何かわからない不機嫌な様子が大人にはあります。大人は扱いにくい。ですから、そのような自分を早く捨てて、「栄光をわれらにではなく、われらにではなく」、自分にではなくて、「み名にのみ帰してください」。「神様、あなたのみわざです」「あなたの恵みです」ということを、はっきりと言い表していきたい。それを信じる者でありたいと思います。そうしますと、すべてのことに感謝ができる、うれしくなるのです。人が見ているとか見ていないとか、褒めてくれるとか褒めてくれない、感謝してくれるとか何とか、そんなこと一切かかわりのない世界に生きることができる。これほど楽なことはない。いつもそのように人とのかかわりばかりを求めようとするから、息苦しい。息が詰る思いがします。そうではなくて、神様と私、私のすることはすべて神様の恵みにより、神様の憐れみ、ご愛のゆえに、このことをしているんだと感謝してご覧なさい。うれしくて仕方がない、楽しくなってきます。ところが、どうしても人の誉れをもらいたいと思いやすい。

使徒行伝12章20節から23節までを朗読。

これはヘロデ王様が死んだときの様子です。実に惨めで、哀れな死であります。「ツロとシドンとの人々」とありますが、これはユダヤの属領のような形になっていた地方です。そこはユダヤの国ヘロデ王様から食料を買わなければ足らなかった、やっていけないのです。だから毎年一定の量の食料を王様から買う。ところが、どういう訳か、何かの原因でヘロデ王様はツロとシドンの人々に対して怒ってしまった。それで彼らは困ってしまい、食料を買うにも買えなくなりますから、何とかご機嫌を直していただこうと、「一同うちそろって王をおとずれ」とありますが、恐らく指導者たち、ツロとシドンの主(おも)立った人たちがうちそろって王様のご機嫌伺いにやって来たのです。そして、定められた日に、ヘロデは王服をまとって、権威ある王様のごとく王座に座っている。偉そうに「彼らにむかって演説をした」と書いてあります。ところが、集まった人たちが「これは神の声だ、人間の声ではない」と絶賛した。何とか機嫌を直して食糧を買いたいのだから、それはそうです。おべんちゃらも言いますよ。彼らはヘロデ王様を褒めたわけです。一生懸命に持ち上げたのです。
いい気になってヘロデ王は、「おれは神様に取って代わる」くらいに思ったのでしょう。そのとき23節に「するとたちまち、主の使が彼を打った。神に栄光を帰することをしなかったからである」。神様に栄光を帰さない、自分の誉れにしたのです。自分のわざ、自分の何かを認められたい。そのために神様から打たれてしまった。「虫にかまれて息が絶えてしまった」と。余程猛毒の蛇か何か、毒のある虫だったかな、と思いますが、神様が打たれたのだと思います。「虫にかまれた」とは、一つの口実で、アリにかまれたって神様から打たれたら死にますから。だから「虫にかまれた」というのは、あくまでも表面的な理由であり、その事を起されたのは神様なのです。神様は即座に彼を打った。これがヘロデ王様の最後の姿です。自分の誉れ、自分の栄誉、自分の力を誇るとき、心が死んでしまいます、魂が死ぬ。喜びを失い、冷ややかな冬の氷に閉ざされた世界に人の心が変わってしまう。喜び、感謝、輝いた望みにあふれた心に成り得ません。まさに死んだ姿です。だから、いま私は何に感謝しているだろうか。何が私の今をあらしめているか、そのことを絶えず覚えて、「神様の恵みです」と感謝していきたいと思います。

申命記8章11節から20節までを朗読。

これは厳粛な言葉であります。申命記はモーセがイスラエルの民に語った神様の戒めです。ヨルダン川を渡って、カナンに入る直前でありました。神様はモーセに「もうお前の使命は終わったから、わたしの許(もと)に帰ってきなさい」と命じられました。その時に、神様からの最後の言葉を民に語ったのがこの申命記です。これから渡っていく地でどういう生活を送るべきか、これまで神様はどんなに恵んでくださったか。神様はどのような御思いでいらっしゃったか、それに対して神の民としてどのように仕えるべきかなど、事細かく申命記に語られています。これはイエス様の救いにあずかった私たちの生き方でもあります。だから申命記はしっかり繰り返し読んでいただきたいと思います。今読みましたところにも、12節以下に「あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、13 また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、14 おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう」とあります。これまでは荒野の旅路、水なき所、食料の不足している所、困難な中で、常に神様は共にいてくださった。「あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」(申命記 8:4)と、食べることにも事欠くことなく、神様は養ってくださった。しかし、これから入って行くカナンの地は乳と蜜の流れる豊かな所、そこに定住して、そこに家を建て、家族を養い、生活が始まる。そうすると13節にありますように、「牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わる」、生活が豊かになり、いろいろな事柄が恵まれてくる。問題がなくなってくる。悩みや苦しみがだんだん少なくなってくる。そのとき、14節に「おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう」。これが人のいちばん大きな問題です。私たちがいつも警戒しなければならないことです。心に高ぶって神を忘れる。言い換えると、神様の恵みを忘れる。更に言うならば、神様に栄光を帰さない。神様の恵みであることを認めようとしない。その先17節に「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない」。「やっぱり私が努力した結果」「私がこんなに頑張ったから、こうなった」と言ってはならない。

今の日本の社会はそういう考え方です。戦後の廃墟の中から多くの人たちが勤勉に働いて勝ち取ってきた豊かさだと誇る。最近のように年金すらも満足にもらえない時代になって、「そんなに昔働いた人を粗末にするか」というような話にもなりますが、しかし、そうではない。神様が私たちを憐れんでくださって、今ここにある。すべてが主の恵みによる。神様に栄光を帰することをしないのが、この国であります。詩篇115篇にあるように「偶像の神」です。人の力、人の手のわざを誇りとする。そこに私たちの滅びが待ち受けているのです。17節以下に「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。18 あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである」。あなた方が豊かになったのは、神様の御心をあなた方の内に行うためなのだというのです。だから、恵まれたら、いよいよ生活が豊かになり、いろいろな事柄や問題が消え、いよいよ幸いだと思えるようになったら、それは私たちがますます神様の御心に従うことができるようにと、神様が力を与え、恵んでくださったのだとここにあります。ところが、私どもは恵まれたら神様を忘れてしまう。19節に「もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、――わたしは、きょう、あなたがたに警告する。――あなたがたはきっと滅びるであろう」。いまでもこのお言葉は変わりません。「いや、それは昔の話だろう。あのモーセの時代のイスラエルに対しての言葉だ」。そうではなくて、今も私どもが他の神々に心を移すならば、といって、何か偶像を拝む、あるいは仏像を拝む、形あるものを拝むわけではないが、私たちの心が真(まこと)の神様から離れて、人の力を誇りとし、自分の持っているものを頼りとする。見えないものを偶像にしている。私たちの周囲の生活の何かを頼りとしていく。「これがあるから大丈夫」と思い始めたとき、私たちはきっと滅びるのです。そのようにならないために、いま猶予(ゆうよ)されている恵みの時にこそ、私たちは栄光を主に帰する者となることが求められています。

詩篇115篇1節に「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください」。ただ神様、あなたのみわざであり、あなたの恵みによるのであることを感謝していく。主を褒めたたえることです。18節に「しかし、われらは今より、とこしえに至るまで、主をほめまつるであろう」。神様を喜び、賛美し、褒めたたえて行こうではありませんか。イスラエルの民が捕囚から戻ったとき、ネヘミヤ記にありますように「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(8:10)と。主を褒めたたえること、感謝、賛美をもって、どんなことの中にあっても、自分にとって都合が良いとか悪いとかにかかわらず「今日も神様、あなたの憐れみにあずかり、神様、あなたの恵みにあずかって生かされてきました。これはただあなたのみわざです」と、感謝して主を褒めたたえて、一日一日を主にささげていきたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。