「神には、なんでもできないことはありません」
ルカによる福音書1.37
「なんでも」とか「すべて」とか「全能」などという言葉は、非常に便利な言葉です。
いちいち具体的に事を取り上げなくても、ひとくくりで全部を指し示すことができます。
しかし、殊に信仰のこととなると、これほどやっかいな言葉はありません。
「なんでも」神様はお出来になる、と信じているつもりでも、
案外、自分の今直面している問題を、神様が解決する力があると信じ切れていないものです。
マリヤさんがこの言葉を語ったのは、現実に自分に課せられた1つの重荷を通して、神様の御旨を悟ったときでした。
そのときに初めて、神にはなんでもできないことはないと、証しすることができたのです。
私たちも同様です。
「なんでも」神様はお出来になると包括的に信じることも必要かもしれません。
ですが、何よりも現実に直面している「この事」を神様は解決する力をお持ちであると信じること、これが真に生きた信仰です。
私たちの人生の目的は、ある面では、
抽象的に見える信仰を具体的な事実に当てはめ、
神様の1つ1つの聖言葉は真実であると、実際に体験し、
そのことを証しするためではないでしょうか?
そして、人生の過程でも御国に帰った後もこう言って神様を賛美するようになるのです。
「ハレルヤ、この聖言葉は真実であった。」と。
(正野)
ルカによる福音書1.37
「なんでも」とか「すべて」とか「全能」などという言葉は、非常に便利な言葉です。
いちいち具体的に事を取り上げなくても、ひとくくりで全部を指し示すことができます。
しかし、殊に信仰のこととなると、これほどやっかいな言葉はありません。
「なんでも」神様はお出来になる、と信じているつもりでも、
案外、自分の今直面している問題を、神様が解決する力があると信じ切れていないものです。
マリヤさんがこの言葉を語ったのは、現実に自分に課せられた1つの重荷を通して、神様の御旨を悟ったときでした。
そのときに初めて、神にはなんでもできないことはないと、証しすることができたのです。
私たちも同様です。
「なんでも」神様はお出来になると包括的に信じることも必要かもしれません。
ですが、何よりも現実に直面している「この事」を神様は解決する力をお持ちであると信じること、これが真に生きた信仰です。
私たちの人生の目的は、ある面では、
抽象的に見える信仰を具体的な事実に当てはめ、
神様の1つ1つの聖言葉は真実であると、実際に体験し、
そのことを証しするためではないでしょうか?
そして、人生の過程でも御国に帰った後もこう言って神様を賛美するようになるのです。
「ハレルヤ、この聖言葉は真実であった。」と。
(正野)