いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

8月17日教会学校聖言葉

2014年08月18日 | 教会学校聖言葉
「神には、なんでもできないことはありません」
ルカによる福音書1.37

「なんでも」とか「すべて」とか「全能」などという言葉は、非常に便利な言葉です。
いちいち具体的に事を取り上げなくても、ひとくくりで全部を指し示すことができます。

しかし、殊に信仰のこととなると、これほどやっかいな言葉はありません。
「なんでも」神様はお出来になる、と信じているつもりでも、
案外、自分の今直面している問題を、神様が解決する力があると信じ切れていないものです。

マリヤさんがこの言葉を語ったのは、現実に自分に課せられた1つの重荷を通して、神様の御旨を悟ったときでした。
そのときに初めて、神にはなんでもできないことはないと、証しすることができたのです。

私たちも同様です。

「なんでも」神様はお出来になると包括的に信じることも必要かもしれません。
ですが、何よりも現実に直面している「この事」を神様は解決する力をお持ちであると信じること、これが真に生きた信仰です。

私たちの人生の目的は、ある面では、
抽象的に見える信仰を具体的な事実に当てはめ、
神様の1つ1つの聖言葉は真実であると、実際に体験し、
そのことを証しするためではないでしょうか?

そして、人生の過程でも御国に帰った後もこう言って神様を賛美するようになるのです。
「ハレルヤ、この聖言葉は真実であった。」と。

(正野)

8月18日 日々の聖言

2014年08月18日 | 日々の聖言

「しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、

『しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない』と言われた。」マタイ14:27 

 

夜明け頃、ガリラヤ湖で難儀していた弟子達の舟に、イエス様が波の上を歩いて近づいてくださいました。

船上の弟子達は幽霊かと怖じ恐れましたが、主が声を掛けてくださいました。弟子達の窮状をよく知ってお

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聖書からのメッセージ(294)「信仰による勝利」

2014年08月18日 | 聖書からのメッセージ
 「テモテへの第一の手紙」6章11節から16節までを朗読。

 12節「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである」。

 私どもはイエス様の救いにあずかって、この地上の生活を安らかに送らせていただいていますが、信仰の目的、なぜ信仰を持つべきなのでしょうか。言い換えますと、神様がどうして私たちを救ってくださったかということでもあります。その目的は、私たちをキリストに似るものと造り替えるためです。キリストに似るとは、私たちの内なる人、魂が変わることです。外側に現れた肉体的な事情や境遇、事柄が問題ではなく、私たちが求むべきことは主イエス・キリストにかたどられたものに変えられることです。キリストの形を私たちに神様が造り出そうとしてくださるのです。そのための信仰ですから、日常生活が事も無く、何事も順調にいき、心配も無くなったから、これで良かったという話にはなりません。

 よく教会にそのようなことを求めて来られる方がいます。もちろんそれは間違いではありませんが、肝心なものはそこではなくて、もうひとつ、目に見えない性状性格を通して、神様のすがたかたち、キリストの栄光の姿へ私たちを造り替えてくださることにあります。ですから、信仰生活とはそうたやすいものではない。そう言われると「えらいことになってしまったなぁ、難しいことを言われても私はできん」と思いますが、私たちが自分でするのではなく、神様がそのように私たちを造り替えてくださるのです。だから「 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(ローマ13:14)と言われるのです。キリストの姿、形に私たちを造り替えてくださる。これが神様の救いの目的であります。また、そのために私たちは今この地上に命を受けているのです。

だから、この地上の生活には常に悩みが伴います。問題や事柄が次から次へと押し寄せてきます。これはある意味で当然のことだと思います。私の父はよく「苦しい、つらい、悲しい、痛いということは、これは生きている証拠だ」と言っていました。誠に生きてこの地上にあるかぎり、殊に信仰生活を続けようとすると、悩みに遭うのは、やむを得ない。いや、むしろ、そのために私たちは生きていると言ったらいいと思います。しかし、世間の多くの宗教は「家内安全」「無病息災」「商売繁盛」「学業優秀」と、そのような生活の悩み事を取り除くことが主眼になります。確かに、目の前にある具体的な病気であるとか、金銭的な問題であるとか、人間関係であるとか、そのようなことが重大なことに思われます。しかし、そのようなものは時がたてばそれなりに変わっていきます。気が付いてみたら、「悩んでいたあれは何だっただろうか?」と思うぐらいにケロッと変わってしまい、「良かった、良かった。これで大安心だ」と言いますが、では、その安心はいつまで続くかというと、また次なる新しい問題が出てくるので、これは底なしです。

私は献身して遣(つか)わされ、今年で25年ぐらいなりますが、次から次へと、その間、一時として悩みが無かったときが無い。もちろん、自分の問題もあります。私は自分自身を考えてみたら、病気でなかった時期よりも、病気だといわれた時期の方が長いような気がしています。だから、自分の悩みももちろんありますが、そればかりではありません。教会員の方々のそれぞれの問題が起こってきます。これが終わったらまた次、次が終わったら……、しかもどれ一つとして同じものがない。同じ悩み事であれば、『解決方法』のようなマニュアル、手引書を作って、「あなたの悩みは何?」「それは何ページを見て」とか、「手始めにこれをやってみて、それが駄目だったら次はこれをやって、これが駄目ならこうしてみたら……、それで解決してみたら」と言えますが、一人一人違います。死の問題もそうですが、老後の問題でもそうですし、あるいは、結婚問題などもそうです。若い人がお互い好きになって、「結婚します」と言って来ます。結婚そのものも大枠のあり方としては同じですが、その中身たるや千差万別で一人一人違います。どういういきさつで知り合ったか。またどういうご家庭であるか、どういう両親なのか、両親がいるのかどうか、あるいは本人たちがどういう関係なのか、その組み合わせたるや多岐にわたります。だから一筋縄ではいかない。こういう方法でパッと解決するだろうとはいかない。また「死」についてもそうです。何回告別式をしたか分かりませんが、その度ごとに違います。それぞれの人の生きてきた人生が違うからです。やり方も、どういうことをするか全部違います。だから、前もって予想がつかない。それぞれに違う。その度ごとに悩むのです。「どうしようか」「ああしようか」「こうしようか」、次から次へとそのような問題が起こってきます。うれしいことではないから、時には眠れなくなったり、そのことに心が奪われて一緒になって落ち込んだり、泣いたりします。しかし、そこを通して私自身がいろんな神様の恵みを頂くのです。恵みというのは、何かプレゼントのような形ある物を頂くばかりではなく、そのような苦しいことも恵み、悲しい事態も恵みなのです。なぜならば、そこを通ることによって、神様のご愛と力、神様の御思いを知る。私たち一人一人に抱いてくださっている神様の限りないご愛の深さ、長さ、高さを知ることができ、私自身の内なるもの、心といいますか、魂、そういうものを清めてくださる。思いを整えてくださる。だから「いろいろなことに遭うのは実に幸いなことだな」と、私はいま思います。「雅歌」に「北風よ起これ、南風よ来たれ、わが園を吹きてその香気(かをり)を揚げよ」(雅歌4:16文語訳)とありますが、北風であろうと、南風であろうと何でも来い。その代わり、そこで主に信頼することを通して、キリストの香を放つ者とされたい。キリストのすがた形が造られるのです。これが私たちの求めるべき事であります。だから、今いろいろな悩みの中に置かれ、問題や事柄の中に置かれているならば、それは感謝すべき事です。そう言われて、「そうか。では感謝します」と言えるぐらいなら、それは問題とは言えないかもしれません。「そんなもの、感謝なんかできるものか!」と、腹の中で思われるでしょうが、しかし、そう思ってもなお他には道が無いのです。

 だから、この人生を生きるのに毎日嘆きながら、悲しみながら「どうして嫌な目に遭うのだろう」と、つぶやきながら過ごすのと、「感謝、感謝!」と、感謝して喜んで一生を生きるのと、二つに一つです。だから、たとえ苦しくてもつらくても「感謝しよう」、「感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」(1テモテ 4:4)と聖書に約束されているから、「万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ 8:28)、神様が共に働いてくださってすべてのものを善きにしてくださると言われるのですから、そこで神様を信頼して生きる道と、自分の思いどおりにいかない、自分の願いどおりでないと常に苛立ち憤ってつぶやきながら、「何でだろうか」「どうしてだろうか」「私はこんなだから」と、言わなければおられないことは分かりますから、言っていただいて結構ですが、そればかりで生きる道があります。どうしますか。私たちは二度と返ってこない時間の中を生きているのですよ。「今日の明日、また明日がある」と言っても、今日と明日は大違いです。そうであるなら、神様に信頼して、喜び感謝して、楽しく輝いて生きてほしい。それは神様の願いでもあります。だから、私たちに絶えず問題や事柄の中で喜ぶことを味あわせてくださる。「何にも無かったら感謝できる」、あるいは「悩みがなかったら」「心配事がなかったら、苦しいこと、痛いことがなかったら私は喜べるんだ。感謝できるんだ」と、時に言われますが、それは無理です。事もなく、思い煩いもなく、「私は今日は何にもないな」となったら、余程感謝するかと言うと、案外しないのであります。「当たり前じゃない」と思ってしまう。ところが、悩みの中にあると、ちょっとした小さなことが感謝に変わるのです。苦しい目に遭っていると小さな人の親切を喜ぶことができるようになるのです。

 一人の姉妹がすい臓がんで手術をして、生きるか死ぬかの中を通られ、3ヶ月ぐらい入院をしておられましたが、やがてお医者さんから「病院の周囲を少し歩いてよろしい」と言われた。その方は三ヶ月ぶりに桜のころでしたが、6時ぐらいに起きて、一歩病院の外に出て大気を吸った。そして、空を見上げたときに「生きるということはこんなに素晴らしいことか」と、感謝で涙が出た。それでふと足元を見たら、小さな名も知れない雑草が一輪可憐な花を咲かせていた。彼女はそれを見て涙があふれ出てきた。このいとしい命がここでけなげに、人に顧みられない多くの人が行きかう路地の端っこに咲いている。そのことに大層感動した。私は彼女の元気なときを知っていますが、そんなことに目を留める人ではなかったのです。その辺をけ散らし、風を切って行くような元気な人だった。そんな可憐な花なんかは、踏みつぶして行くような人でした。その人がそんなことを言い出したから、私はびっくりして、「これはもう間近かな」と思った。苦しみに遭うことによって、そのような自分では体験しなかった新しい世界に入って行くのです。確かに病気になるのはつらいことかもしれない、苦しいことかもしれないし、不安と恐れがあります。しかし、同時にそこに隠された大きな喜び、そうでなければ味わえない素晴らしい恵みがある。だから、ただ目の前の問題にだけ「早く何とかこれが解決してほしい」「これが何とか取り除かれたい」と、その気持ちはよく分かりますが、もう一度じっくり、いま神様がこの中に置いてくださって、このことを通してどのように私を造り替えようとしてくださるのだろうか、自分に思いを向けていただきたいのです。そのように外にある状況や事柄を嫌って、それを嫌なこと、不幸な出来事として遠ざけたい、それから離れたいともがきます。けれども、そうではなくて、いや、むしろ神様が私たちに恵みの時として、救いの日として、今この瞬間、この時を与えてくださる。「それではこのことを通して私はどうあるべきなのか。私の内なる人、私自身がこの事柄をどのように受け入れ、そのことについてどのように神様の前に自分が整えられるべきなのか」、ここが信仰の戦いなのです。だから、戦うべきは事情や境遇、事柄ではない。「あの人がこんなことを言ったから」「この人がいたから、こんなひどい目に遭った。この人を早く遠ざけたい。私の世界からあの人を無きにしたい」とか、あるいは「この病気さえなくなれば……」と、病気を取り除こうとそのことばかりには思いを向けますが、大切なのはそのような条件や事柄、境遇を変えるのではなくて、私たち自身に神様が求めておられることがある。殊に信仰によって私たちがどのように神様との関係を築いているか。「本当に私は神様を信頼しているだろうか?」また「神様のご愛と恵みをどれほど自分のものとしてきただろうか?」「私の性状性格が主のいのちにみたされているだろうか?」。そのようにいろいろな角度から自分をもう一度見直す、自分自身が新しく造り替えられる時なのです。

 ですから、この11節に「これらの事を避けなさい」とありますが、何を避けよとおっしゃるか? それは、そのすぐ前のところ、ちょっとそこを読んでおきたいと思います。

 「テモテへの第一の手紙」6章2節の終わり(あなたは……)から10節までを朗読。

 「これらの事を避けなさい」とは「この世の様々な事情や境遇を求めること」です。金銭であるとか、富むことを求めたり、情欲に走ったりという、そのような肉の、生まれながらの人間の性質に引き回されている姿。私たちはどちらかというと、日々そのような生活をしている。「あの人がいけない」とか「この人がああだ」とか「こうなったのはこの事がどうであって、こんなことがあったから私はこうで仕方がない。私だけが……」と、自分だけが悲劇のヒロインになりたがる。私一人が被害者になって「私を憐れんでください」と言いたくなるのは分かりますが、そこからは何も良いものは出てこない。それでは、私たちの人生はむなしい。そうやって生きた時間は、言うならば、ゼロです。神様はそのような生き方を求めておられるのではない。そのことも、このことも、確かに必要ではありますが、私たちに神様が求めておられるのは、私たちの内にキリストの形を造りたい。世の中の、世間一般のいがみ合いとか争い事とか、あるいは悩み事とか、困難とか、家庭内のグチャグチャしたこととか、親子関係の何とかというような、あるいは嫁姑(しゅうと)のどうのこうのというようなことが重大なのではない。それは確かに苦しいことではありますが、しかし、神様は私たちにその中を通してでなければなりえない自分に、皆さんを造り替える。キリストを着る者にしようと、内なる人を清めてキリストの形が造り出されるようにと、新創造、神様の新しい創造、創世記に記された神のかたちにかたどられた私たちを、キリストのかたちに似る者としてくださる。神の子供として、神の性質にあずかるものと造り替えてくださる。これが私たちの求めるべき事であり、信仰の目的なのです。だから、日々の生活でいろいろなことの中に置かれますが、そこで「神様が私をどのように造り替えようとしてくださるのか」と、真剣に求めていただきたい。

 11節に「しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい」。そして何をするのか。「義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい」。そのように言われると「これはえらい抽象的で何のことかな? 」と思われますが、これは私たちの内に無いものです。「義」はありません。
また「信心」といっても、神様を信じるのではなくて自分を信じているのです。自分が考えて、これが良いに違いない、これは絶対はずせない、これは絶対大切なものと、自分を信じる心はあるが、信心はない。「信仰」もなければ「愛」たるや一かけらもない。「忍耐」なんてできません。1分も待てませんから。「柔和」どころか、角を幾つも隠し持って、いつでも人をつつこうとしているから、柔和どころではない。では「どうしてこんなことを書いている?」これは御霊です。聖霊を追い求めていくこと。御霊が私たちの内に作り出してくださる御霊の実です。ガラテヤ人への手紙(5:23)にそのことが書かれていますが、それと同じものです。私たちに御霊が宿ってくださる。だから、いろいろな問題に遭うときに何を求めるか? 神の御霊を求めていく。神様の霊に満たされること。そうしますと、愛のない者に愛を与えてくださる。何が正しく、何が間違いか、はっきりと心の目を開いて物の真相を見せてくださる。また、神様に信頼する大きな安心を、御霊は、聖霊は与えてくださる。だから、いろいろな悩みに遭うとき、求めるべきものは、人でもなければ、事が早く解決することでもなく、御霊に満たされて、神様の霊によって内なる人を造り替えていただくこと。力のない私に、いつもおびえている私に、神様が力を与えてくださる。大胆に揺るがない者としてくださる。

 12節「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい」。私たちの戦いがある。それは外側の事情や境遇や、あの人やこの人と戦うのではない!

 「エペソ人への手紙」6章10節から13節までを朗読。

 12節に「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく」とあります。人との戦いではないのです。あるいは事情や境遇、事柄、病気との戦いでもない。戦うべきものは、「もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊」とあります。これはサタンの力です。私たちを神様から引き離そうとする勢力です。それは私たちの内にいるのです。私たちの中に住んでいる。そして、時あらば、私たちを何とかして失望落胆させ、神を呪う者にさせようとする。サタンが神様の許しを受けてヨブの健康を取りました。持ち物から何から全部取りました。最後に奥さんが愛想をつかして出て行く。そのときの奥さんの言葉はまさにサタンの言葉を代表しています。「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」(ヨブ2:9)。「神をのろえ」と言わせているのですが、これはサタンの力です。私たちの内にも「こんなつらい思いをなんで神様がさせるのかしら」「私はこんなにお祈りしているのに、こんなに熱心に教会に通っているのに、こんなに一生懸命に聖書も読んでいるのに、どうして次から次へとこんな悩みがあるのでしょうか。こんな苦しみがあるのでしょうか」。そういう思いは他の人から、外側からではなく、内側からわいてくるのです。それがサタンの働きです。私たちに「神をのろえ」と働きかけてくる力が、ここにある「もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊」なのです。それと戦う力はどこにあるかというと、10節「その偉大な力によって」とあるように、神様の力によってそれに立ち向かっていく。神様の力は御霊によることです。御霊に満たされること、「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受ける」(使徒 1:8)と約束されている。絶えず御霊に満たされて、内なる敵であるサタンの力に打ち勝っていく。私たちの性質、心、思いをキリストのすがた形にまで造り替えて……。

 先ほどの「テモテへの第一の手紙」6章11節の後半に「義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい」とあります。「義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和」、こういう性状性格が私たちの内に造り出されていく、このことを追い求めていく。そのために「信仰の戦いをりっぱに戦え」とおっしゃいます。この戦いは地上の命が終わるその瞬間まで続きますから、いつ終わるというわけにはいかない。生涯を賭けて、この信仰を守り通していくこと、これに命懸けで従っていくとき、そこにありますように、「永遠のいのちを獲得し」、私たちの内にキリストのすがた形が形作られ、やがての時、パウロがそうであったように、永遠のいのちの冠を受けることができる。そこまでなお地上にある生涯、私たちは神様に大いに期待されているのです。もっと私たちが清く、キリストのすがたにまで、キリストを着る者となっていく。キリストを全く自分のものとすること。パウロが「キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」(ピリピ3:9)と語っていますが、キリストを見るならばそこに自分が見えるようになるまで、私たちを清め整え、神様の作品にふさわしいものに変えてくださる。だから、いろいろな問題があればその中でこそ大いに信仰を働かせようではありませんか。信仰がないと分かるならば、それを求めようではありませんか。また自分に力がない、知恵がないのであったら、神様の霊に満たされて、いよいよ深く主を信頼していこうではありませんか。その信仰を持ち続けていくときに、やがて神様は私たちを永遠の御国にふさわしい者に造り替えて、時を定めて私たちをご自身のところへ召してくださる、招いてくださいます。

どうぞ、その時まで、この12節にありますように「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて」、「りっぱに」であります。勇気を持って大胆に、今受けている問題や事柄を逃げないで、それに圧倒されないで、いや、むしろ、それを乗り越えていく神様の力を受けていきたいと思います。旧約聖書を読みますと、いろいろな戦いの記事がたくさん語られています。イスラエルの民もカナンの地に入って戦いの連続であります。カナンに入る前から戦いでした。カナンの地を探ってきた人たちの報告を聞いたために、彼らは意気消沈した。「エジプトに帰ろう」とまで言いました。そのときにヨシュアとカレブは「主にそむいてはなりません。これは主の戦い、彼らは私たちの餌食(えじき)にすぎません。食い物にすぎません」と言ったのです。 

私たちもいま皆さんが受けている何か大きな、到底越えようがない壁のような大きな問題であろうと、実はそれは小さなものなのです。サタンが私たちの目をくらませて、「もう駄目だ」と言わせようとしている。だから、大胆に神様に信頼して、主の霊に満たされて、エリコの城、堅固な城を打ち破る神様のみわざを体験していきたいと思う。だから「信仰の戦いをりっぱに戦いぬけ」とおっしゃいます。そして「永遠のいのちを獲得しなさい」。その後に「あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである」。「そのために召された」、私たちは信仰の戦いを戦う者として神様が選び、この救いにあずからせてくださったのです。神様の御思いをしっかりと心に抱いて、永遠のいのちに至るまで戦うべき道のりをしっかりと戦い抜いて勝利を得させていただきたいと思う。イエス様は「あなたがたは、この世ではなやみがある」とおっしゃいます。「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)とおっしゃる。イエス様が先に勝利してくださって、神様はこの模範でいらっしゃるイエス様のあとに従うようにと、私たちのためにイエス様を遣わしてくださったのですから、このような懇(ねんご)ろな神様の導きを失うことのないように、常に先立って歩んでくださるイエス様を見上げつつ、信仰の戦いを戦い抜いて勝利を得させていただきましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。