いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

8月7日 日々の聖言

2014年08月07日 | 日々の聖言

「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、

不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。」第一コリント13:4-5 

この言葉に、そうだ、そのとおりだと思う人が多いでしょう。それでは「愛」という言葉に替えて、

あなたの名前を入れて読んで下さい。きっと、実際の自分とあまりに違っていて、恥ずかしくな

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聖書からのメッセージ(283)「もぎたての恵みを」

2014年08月07日 | 聖書からのメッセージ

 哀歌」3章21節から33節までを朗読。

 

 22,23節に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」とあります。

 この御言葉は欠くことのできない恵みの御言葉ではないかと思います。これによってどれ程慰められ、力づけられ、望みを与えられたか分かりません。哀歌を歌ったのは預言者エレミヤとも言われていますが、彼自身がまさにその中を通ったのです。3章1節から20節までには大変な苦しみに遭った様子が語られています。これでもか、これでもかと言わんばかりに、次から次へと悩みと苦しみが押し寄せてきます。20節には「わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる」と語っています。失望落胆、絶望の中にありました。

 

望みや希望が持てないと、私どもも「いったい、これはどうなっているのだろうか」と不安になります。次から次へと嫌なことや願わないこと、思い掛けない不幸や災難が押し寄せてくる。「いったい、神様はどこにいるのか」と。詩篇にも歌われていますが、そういう思いに駆(か)られるとき、エレミヤは21節に「しかし、わたしはこの事を心に思い起す」と語っています。しかもそれによって「わたしは望みをいだく」と。そこから望みが与えられるのだと。その一つの事が、22節「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」。まさにこれです。神様のいつくしみ、ご慈愛、そのあわれみは絶えることがなく、尽きることがない。神様は変わらない愛なる御方でいらっしゃる。「神は愛である」(4:8)と「ヨハネの第一の手紙」にありますが、神様は徹底して愛なる御方であること、そこに目をとめるのです。これが唯一の私たちの望みです。私どもは、そのような悩み、苦しみに遭うとき、それを取り除く方策、具体的な方法、あるいは人、手段、そういうものを求めます。「もう少しこうなったら望みがある」とか、「こうなったら私は安心するんだけれども……」「もうちょっと、こうであれば……」「もう少しこうであれば……」と、目の前の状況や事柄が少しでも思うように願うように変わること、これが自分の望みだと思いやすいのです。しかし、ここにはそのようには語られていません。私にとっての望みは、主のいつくしみ、あわれみは尽きない、絶えることがなく、絶えず注がれていることに目をとめていく。これは今私たちにも求められる事柄であり、またそれ以外に私たちの望みはありません。今私たちが「これで私は安心だ」「こういう状態だから、こういうことがあるから、家族がこうだし、あるいは自分の健康状態がこうだし、これでもう安心だ」と言っていますが、そんなものはすぐに壊れます。気がつかないうちにとんでもないことに出会います。

 

 私はこの度のことを思うと、そう思うのです。自分が願ったものでもありません。今年は春先忙しいから、時には病気でもしてみたいと願ったわけではない。時にはそのような方がいます。健康そのもので「ちょっと風邪でもひいて2,3日休みたい」と。「私も狭心症のひとつぐらいなってみようかしら」と、そんなことは思ったことはない。むしろ、周囲の方々の様子を見ると、健康であることは「主の憐れみだ」と思っておりました。ところがそういう病気を与えられると、「何だ、神様は!」「何てことをするんだ」と思います。しかしそのような状態や事柄だけに希望をつないでいくならば、これは必ず失望する。落胆します。そうではなくて、どんな境遇や事柄に置かれても、絶えず私たちが目をとめていくべき事柄は「神は愛である」、この22節「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」。自分の願わないことであろうと、自分の嫌なことであろうと、計画になかったことであろうと、この事をしておられるのはあの人でもこの人でもない。実は、神様が今この事を起し、この事を導かれる。「事を行うエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)」(エレミヤ33:2文語訳)とおっしゃいます。神様が主であるということです。この事を徹底して味わい知ることです。これは体験しなければ分からない。話に聞いて、「神様は主でいらっしゃる。私の生活も、私の健康も、私の財布の中も、何もかも神様が主であって、その神様が『よし』と思われることをしてくださる」と頭では分かっているが、実際そうなってご覧なさい。自分の身にそういう問題が降りかかってくる、自分がそういう境遇に出会うと、「主よ、有難うございます。あなたは主です。この事をしているのはあなたです」と言えるでしょうか。なかなか言えない。言えないけれども、そういう中を通ってみて初めて「あなたは主です」と知るのです。体験するのです。これは幸いです。確かに与えられた問題や事柄は嫌ですから、できれば何とか避けたいことではありますが、しかし、そこを通ることによって初めて、神が神でいらっしゃること、主でいらっしゃること、すべての事を統べ治め給う御方でいらっしゃることを、実体験する、実感する。そのためには自分がへりくだらなければならないことももちろんあります。自分がいつまでも主人公の顔をしていたら不満で仕方がない。「どうしてこんなことになった。私の許しもなく、こんなことになってしまって」と思ってしまいます。そうではなくて、「神様がそうしているのだ」と、へりくだる。そうなると、苦しみや悩みは恵みの場所となります。

 

 私はこの度のことを通してもう一度そのことを深く教えられました。病気になると、初めはやはりすんなりとはいきません。こういう病気であるということが分かった瞬間に「神様、感謝します。あなたが主ですから……」と言えれば良かったのですが、やはりそれは言えませんでした。「何でだろう」「どうしてだろう」と。しかし、繰り返してこういう病気をもらいますと、最初は動揺しますが、主に心を向けるのが早くなります。「あなたはがんです」と言われたときは3,4日掛かりましたが、今回は1日半か2日ぐらいで収まりました。次はもう少し早いかなと思います。天国に行く時には十分訓練されていることだと思います。それは経験を積み重ねていかなければなりません。「私は何の心配もない」と思って、事もなく生きている人は、最後までそれで行くかと言うと、必ずしもそうは行きません。神様は公平な御方ですから、やがてドーンと大きなものが来るに違いありません。脅かすわけではないけれども、必ずそういう中を通ります。そうであれば、できるだけ早く降参して「主よ、あなたは主、私の神です」と、神様の前にへりくだることが大切です。神様以外に頼るものがないのです。そうなると幸いです。そこで心が落ち着くのです。魂が神様に結びつくとき、力が与えられる。ですから、いろいろなことに遭ったとき、「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と、ホセアが語っているように、「主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」と(ホセア6:1)。神様は癒し、強め、包んでくださる、愛なる御方だから神に帰ろうと。

 

 22節に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」。この苦しい中、つらい中に、この先どういう事態になるのか、その先行きが分からない不透明な中に置かれるとき、私たちが絶えず心を向けるべき事柄は「神は愛である」です。神様のいつくしみ、神様のあわれみは、今日もこの所に注がれているのだと、認めることなのです。これには自分が全く無にならなければ、むなしい者とならなければ、できません。幸いに自分ではどうにもならない、私の手ではどうにも、何とも仕様のない事態に神様はあえて置いてくださるから、これは幸いです。だから、お手上げになって、神様のご愛に目をとめることです。

 

そして、23節に「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」と。神様のご愛、神様の恵み、いつくしみ、あわれみは、「これは朝ごとに」というのです。毎日、毎日新しく、新しく、私たちに注がれているのだと。何年前とか、あるいは数日前一回それがあったきりで、後は音さた無し、そんなものではありません。そうではなくて、それは朝ごとに、毎朝、毎朝、神様は私たちに命を与え、主のご愛の中に取り込んで、置いてくださって、今日を生きる者としてくださる。生かされる者としてくださっている。これは私たちが絶えず目にとめる事柄です。ですから、昔こうだったからとか、神様のご愛を何年か前あのことがあってよく分かったとか、そういう過去の経験はあまり役に立ちません。「朝ごとに」とあるように、私たちが生きている瞬間は「今」以外にありません。今神様のいつくしみとあわれみが私に注がれて、ここにある。今どのような状態であろうと、自分の好きとか嫌いとか、幸福であるとか不幸であるとか、それぞれ違う状況の中に置かれてはいますが、しかし、どんなことの中にもあっても、今日ここに私がこうしてあること、存在していること自体が、主のあわれみであり、いつくしみのゆえなのです。「主のご愛が注がれて私を愛するがゆえに、主がここに置いてくださっている」と信じる。神様のご愛は朝ごとに、毎朝、毎朝です。「昨日あんなに恵まれたから、今日もひとつ……」と、そうはならない。だから私達は、毎日新しく、新しく神様の恵みを体験する者なのです。

 

23節以下にあるように「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。24 わが魂は言う、『主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む』と。25 主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい」。25節に「主はおのれを待ち望む者」とあります。神様に期待して神様に呼び求める者、尋ね求める者、神様を求めていく者に向かって、神様は恵み深い御方、必ず答えてくださる御方です。だから、私たちは絶えず前に向かって、神様の新しい、朝ごとに備えられるフレッシュな、もぎたての愛を絶えず感じていきたいと思う。何年前の愛か分からない、もうだいぶしわが入ってきて、水分も抜けた神様の愛を握っていても、いざとなったら何の役にも立たない。そうではなくて、神様のご愛は朝ごとに新しく、神様はフレッシュな生き生きとして命にあふれた愛を私たちに注いでくださる。だから、私たちがそれを得るには、へりくだって主を求めることです。だから、いろいろな悩みに遭い、困難に遭って、そこでへりくだって、「神様、あなたのご愛を知らせてください。あなたは私にどんな御思いを持っているのか教えてください」と、主を求める。主を求めるとは、神様が私に対してどのような心を持っているかを知りたい。私に対して神様はどういう御思いをなそうとしているのかと求めることにほかなりません。他人のことはどうであれ、私に対して神様、あなたはどういうように扱ってくださいますか、あなたは私にとってどういう御方なのでしょうか、そういうことを求めていくこと。これが「主を待ち望む」、あるいは「おのれを尋ね求める」ということです。神様を求めると言っても漠然として何のことか分からないが、これをもっと分かりやすく言うと、私に対する神様の御思い、私にとって神様はどういう御方なのか、そのことを真剣に求めていく。そして、主のご愛に触れること。これが私たちのなすべき最善の事です。そして、過去にどんなであったかは関係がない。「今」なのです。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(6:2)とコリント人への第二の手紙に語られていますが、私たちが今どういう状態の中に置かれているか、今神様のご愛に生きているか、つながっているか、満たされているか、神様のご愛に触れているかなど、絶えず問われている。ですから、私たちは常にそのことをまず求めていきたいと思います。神様のご愛に自分は今感じている心があるだろうか、神様のご愛を喜び感謝している思いが私の内にあるだろうか。事情、境遇事柄を感謝するのではなくて、神様が愛でいらっしゃって、自分のような者を今日もあわれみをもって満たしてくださっていることを味わい知る。これは幸いな恵みです。

 

 一人の姉妹は血圧が高い方なので、冬場になると寒いから出歩かない。ちょうど12月のクリスマスの頃、その方が「先生、これを最後に私は冬ごもりをします」と言われた。「どういうことですか」と言ったら「私は血圧が高いからしばらく教会には来ません。また暖かくなったらお目に掛かりましょう」と言われる。「冬ごもりか」と思って、「それじゃ、その時までお元気で」と。そうしましたら1月の末ぐらいでしたか、風のうわさに聞こえてきた。「あの方はちょっと病気で入院をしているようですよ」と。「先生、ご存じですか」と。「いや、冬ごもりでしょう」と言ったのです。「それもあるでしょうが、入院して手術を受けたという話ですよ」と。「それは誰からの話ですか」「いや、私もはっきりとは知らないのですけれども……」「でも、うちには何の連絡もないので」「いや、先生には遠慮して連絡をしないのではないでしょうか」「でもね、『冬ごもりだから放っておいてくれ』と言われたから、言うに言われないし……、でもお祈りをしておきましょう」と祈っていたのです。そうしたら、2月ぐらいに、「先生、どうも大変な病気のようですよ」と言われて、「どこに入院しているのですか?」と。「国立病院に入っているようです」とのこと。だんだんと詳しい情報が入ってきます。一度励ましに行かなければいけないと思う。でも、願わない客ほど嫌なものはないから、行っていいものやらどうやら気になって、その方と親しい方に探(さぐ)りを入れました。「どんなものでしょうか、行った方がいいでしょうか?」その方も「さぁ、どうでしょう。あの方は気難しい方だし、へそを曲げることもあるし、どうでしょうね。でも、今こういう事態だったら、そんなことは言ってはおられないのではないですか」と。私も10日ぐらい悩みまして、「これはやはり何を言われても行こう」と思って、訪ねたのです。3月の初めだったのですが、やっと少し暖かくなり始めた頃行きました。こちらもどきどきしまして、「帰れ!」と怒鳴られやしないかと思って、ヒヤヒヤでソッと病室の扉を開けました。今でも忘れもしませんが、入って左側の入り口に近いベッドにその方は寝ていました。私はベッドのそばに行って名前を呼びかけて、ハッと目を覚まされた。私を見るなり、「あ、先生!」と言って、そこでワーッと泣かれたのです。悪いことをしたな、泣くほど嫌なのかと思ったのですが、そうではなかったのです。待っていてくれたのです。「先生がいつ来てくださるかと思って待っていました」と。待っているなら、早く電話でもしてくれれば、家族の人にでも言ってくれれば分かったのですが、いろんな管をつながれていました。聞くと、1月の末に集団検診を受けたら、ちょっと心配なことがあるから精密検査を受けてくれと言われて、精密検査を受けたらすい臓がんだった。本人にはあと半年ぐらいかもしれないと言われたのです。彼女は全部知っていたのです。でも手術を受けて、今ここまで回復した。これから自分はどうなるか分からない。それから、私は北九州に来た帰りには必ずその方の所へ寄りました。3月頃、日に日に健康が回復してきまして、大変喜んでいました。病気を通して柔らかくなられました。それまでは元気のいい人で、誰にでも突っ掛かっていくような元気があった。ところが本当に柔らかくなって、どんなことも喜べる、感謝ができるのです。私はその姿を見て、「病気をすると、こういう風になるのかな」と思って、人ごとながら神様はすごいことをなさると思う。そして、だんだんと暖かくなるにつれて、彼女も回復して、外を歩けるぐらいにまでなって、初めて「病院の外へ出てよろしい」と言われて、朝6時に起きて、数ヶ月の病院生活の後、初めて外へ出た。まだ朝はひんやりとして冷たい風が入ったけれども、ものすごくさわやかで気持ちがいい。ふと足元を見たら雑草が小さな花を咲かせていた。それを見ただけで彼女は大変感動したのです。「こんな小さな花が、この寒い冬空を堪えてここに花を咲かせている。誰も見る人もいないのに咲いているではないか。それに対して自分はいったい何というごう慢な者であったか」と、その小さな花の前で動けなくなった。そこで自分に対する神様の深い御思い、ご愛にあらためて感謝したのです。その日の午後、ちょうど私がまいりましたとき、彼女がそのことを喜んで話してくれました。彼女のその感動、小さな名もない花すらも喜びをもって受けることができる心、これはそういう病を通して得られた宝です。

 

 私自身も小さな経験でありますが、やはり神様のご愛を知る心は、謙そんにへりくだらなければ得られません。その恵みにあずからせるために、神様は私たちをいろいろな所、失望落胆の中を通されるのです。失望するとか、落胆するとか、絶望するのは、自分が頼みとする何かを持っているからです。自分は無に等しい者であると思ったとき、そこに咲いている小さな花すらも神様の御手のわざ、神様の大きなご愛と恵みを受けて、そこに咲いている花を見て喜んだのです。私たちにそのような思いがどれ程あるでしょうか。

 

やがて彼女は元気になり、いったん退院をしました。4月の末から5月に掛けて一月ほど自宅で療養しましたが、再発して入院、やがて、9月のはじめ6日だったと思いますが、安らかに神様の所へ帰って行かれました。手術を受けてから8ヶ月近くの短い期間でしたが、彼女にとっては、それまで生きた人生以上に神様との密接な、恵みの期間であったことを今でも忘れることができません。

 

 22節「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない23 これは朝ごとに新しく」、「朝ごとに新しく」とあります。私たちは陳腐な、手あかのついた、何の感動もないただ口先だけの神様の愛を握っているだけならば、そこからいのちはわいてきません。私たちはいつも自らへりくだった者、心砕けた者となって、神様がどんなに大きなご愛を注いでくださっているか、常に新しく新鮮に感じる者となりたい。2千年前のあの十字架の出来事ばかりでなくて、今、今日も十字架を通して注がれるご愛に目をとめていく。

 

 「詩篇」30篇5節を朗読。

 

 ここに「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」とあります。必ず朝が来るのだ。神様は毎朝新しい恵みを注いで、私たちを生かしてくださる、顧みてくださる。しかも、その前半に「その怒りはただつかのま」とあります。神様の怒りはほんのわずかな期間です。しかし「その恵みはいのちのかぎり長い」。モーセに対して神様はご自分をあらわしてくださったとき、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」(出エジプト 34:6)とご自分を語っています。「怒ることおそく」、神様は決して私たちを懲(こ)らしめ、苦しめ、滅ぼそうとなさるのではなくて、私たちを愛し、顧み、恵もうとしてくださる。その恵みは一回だけでなく、「朝ごとに」です。毎日、毎日新しく、私たちに注いでくださる。5節に「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る」。

 

 「詩篇」5篇3節を朗読。

 

 ここにも「朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます」とあります。神様は毎朝私たちの求めることを繰り返し新鮮な思いをもって受け止めてくださる。何度でも同じことを祈る祈りにも、神様は一回一回朝ごとに祈りを聞いてくださる。決して「お前、何十回言ったのだから、いい加減聞き飽きた」と言われません。しかも「わたしは朝ごとにあなたのためにいけにえを備えて待ち望みます」。ここにも繰り返して「朝ごとに」とあります。昨日ではない、明日に向かって絶えず新しい思いをもって神様のご愛に触れる。これが私たちのいのちです。私たちが絶えず求めていく事でもあります。ともすると昔のことや過去のことばかりに思いが行きます。殊に年を取ってくると、昔のことを思い出して懐かしんだり、それに引き換え、今の自分を嘆いたり、悲しんだりしやすいのです。そうではなくて、朝ごとに、毎朝新しく、神様が注いでくださるご愛の中に生きていることを覚えておきたい。そのことを新鮮に感じる心を持ち続けていきたい。

 

 哀歌3章22節「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」と、またその先の32節以下には「彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。33 彼は心から人の子を苦しめ悩ますことをされないからである」。神様は決して「心から人の子を苦しめ悩ますことをされない」。神様は私たちを苦しめて喜ばれる方ではなく、また悲しんでいる私たちを喜ぶ方でもない。それどころかいつくしみ豊かなので、あわれんでくださる方です。どうぞ、絶えず私たちの思いを神様のご愛にむけていきたいと思うのです。

 

 先だってもある方が「先生、お祈りしてください」「どうしたのですか?」と。その方はもう80代の半ばでしょうか。ご主人が亡くなられて13年ぐらいです。ご主人は兄弟がたくさんいて、田舎の出でありますから大変苦労をなさって、長男として実家の面倒を見ておられた。奥さんも妹や弟など小じゅうとにいじめられて耐えて来られた。ご主人が天に帰ったのち、神様と共に喜んで生活をしておられる。すると、主人の兄弟たちが「13回忌はどうするんだ?あんたは兄さんのことを粗末にしているのではないか」、粗末になんかしているつもりはないのだが、電話が掛かってきて、もっとこうせよ、ああせよといろいろ言ってくる。相手は仏教の根強い地域の方ですから、ほとほと困っていました。今度は姉妹の心が騒ぐ。昔、結婚してから長い生涯、どれほど小じゅうとたちからいじめられたか。その思いがわきあがって、お祈りしようにも心が静まらない。それで「先生、どうぞ、お祈りしてください」と。そんなことは忘れていたはずなのに、まるで昨日あったかのように心に浮かんでくる。「私ってこんな人間だったのですね」と。じっとしておられない。いくら聖書を読もうと思っても心はそこに無く、頭の中は過去のことが大嵐になっている。その方もそういう自分であることに初めて気がついた。「とにかく、お祈りしておきますから、あなたも絶えず賛美して、絶えず神様に心を向けることを努めていく以外にありませんよ」と勧めました。一つのことを思い出すと芋づる式に「あれもあった」「これもあった」と、忘れていたことまでも思い出す。皆さん、そうでしょう。多かれ少なかれ、そういう経験がありますが、そのような過去に縛られるのです。「せっかく感謝していた自分の心はどこへ行ったのだろう」。その姉妹のために祈っておりましたら、電話があり、「感謝です。先生、分かりました。私の目のつけるところが間違っておりました。自分があんなに努力して耐え忍んできたと思ったから、腹が立った。そうではなくて、神様は愛なる御方ですよね」と。彼女が神様の愛に目をとめることに気がついて大嵐が過ぎ去り、それが消えてしまいました。お証を聞いて、私は勝利だと思いました。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)。イエス様に目をとめること、神様のご愛、「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」ことに目をとめる。「神様がご愛をもって私をひとり子を賜うほどの大きな愛をもって愛してくださるがゆえに、その恵みによって今、今日がある。私はそのことを忘れていました。もう大丈夫、今は感謝でなりません」と言っておられました。

 

 過去のことで心を騒がせますが、私たちの目をとめるべき場所はそこではない。「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」、「今日も主よ、あなたのあわれみのゆえに、恵みのゆえにこうして生かされて、神様、あなたの御手の中にあることを感謝します」と、朝ごとに新しい神様の真実のご愛を絶えず味わっていきたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。