『名も無く豊かに元気で面白く』

読んだ本、ニュース、新聞、雑誌の論点整理、備忘録として始めました。浅学非才の身ながら、お役に立てれば幸いです。

『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』を読んで・・

2015-10-10 09:47:22 | 日記

日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』(集英社)を読みました。こんなことがあったなんて世の中分かっているようで分かっていないものです。深谷氏はスパイ容疑で厳しい取り調べを受け拘置所では犬のような扱かわれよくぞ生き抜けたものです。読む人に生き抜けば未来があると勇気を与える本です。
深谷さんの人生を変えたのは「戦後も中国内から日本人が無事帰還できるように任務を続行せよ」との命令だった。戦後スパイは国際法違反。逮捕後、戦時中のスパイは認めたが、戦後のことは「国に汚名を着せてしまう」と否認した。獄中の苛酷な生活で背骨が折れ、身長は十センチ縮んだ。左目も失明したが、罪は認めなかった。最後まで日本の名誉を守り抜いた最後の帰還兵です。筆者はみていませんがテレビでも放映され今年の4月にお亡くなりになったそうです。合掌



 


以下コピー 深谷義治氏は、昭和12(1937)年、22歳の時、招集令状を受け入隊し、その後憲兵となり、昭和15年、極秘の特殊任務を受け、中国大陸で地下工作に従事する。中国人に成りすますため、軍から謀略の一環として中国人女性と結婚することを求められ、11歳年下の貧しい15歳の中国人娘と結婚する。昭和19年に一時帰国を許され、両親弟妹に、これからは潜伏するため一切の連絡はできないと告げ、生き別れる覚悟で故郷を後にした。
終戦後も「任務続行」の命を受け、上海で潜伏生活を続けたので、日本の親族に手紙一本送ることもできず、十数年の間、知人を通して三度贈り物をして生存を伝えるのがやっとだった。一度伯父から知人を通して1行だけの手紙を受け取り、父が死んだことを知る。

反革命分子に対する弾圧が厳しくなり、妻の親族が通報したのか、昭和33(1958)年6月、ついに深谷義治氏は中国当局に逮捕され、それからが地獄の始まりだった。世界で最も処遇が厳しいといわれる上海市第一看守所(拘置所)で激しい拷問を受ける。戦後の日本のスパイ容疑を認めれば釈放されることが分かっていながら、義治氏は日本の名誉を守るため、あえて苦難の道を選ぶ。敗戦国である日本が終戦後、中国にスパイを潜入させたことは国際法に違反する行為だからである。
拘置所での虐待は続き、栄養失調から結核になるが、治療もされず、死の寸前でやっと病院で治療を受けさせてもらえ、一命を取りとめる。病気が治らないうちに重労働をさせられ、脊椎骨が折れても、治療も薬も介護もなく、一年あまり激痛に苦しめられ、腰を曲げたまま地面を這いずり回る生活だった。一年以上たってようやく歩けるようになった時、義治氏の身長は10cmも縮んでいた。
家族にとっても地獄が続く。義治氏が逮捕された時、長男は12歳、次男が10歳、三男が6歳、末娘は生後58日だった。極貧に加え、反革命分子の家族ということで、苛めにあう。逮捕前、義治氏は間もなく逮捕されることが分かっていたので、妻に日本の実家の住所を知らせていた。昭和36(1961)年、妻は生活の困窮のため、初めて日本の実家に手紙を送る。親族や義治氏の友人は一家に経済援助をしようとしたが、日本側から送金されると、スパイ活動に対する報酬ではないかと中国政府に疑われ、義治氏の立場が不利になるので、親族らは経済援助を諦めざるを得なかった。日本政府は家族に入国許可証を送ったが、もちろん使えなかった。
逮捕されてから16年間、義治氏の生死は家族にさえ知らされなかったが、妻は毎月差し入れの日に、拘置所を訪れ、差し入れを続けた。上海の拘置所は冬は氷点下6,7度の寒さで凍死の可能性もあったが、義治氏は家族の困窮を考えて、最低限の衣服だけ受け取ってあとは家族に返した。

昭和41(1966)年、文化大革命が始まり、一家は一段と差別されることとなる。そして昭和44(1969)年、長男が反革命の罪で逮捕される。日本からの手紙を翻訳してもらうために、上海在住の日本人と会っていたため、スパイ活動をしていると疑われたためだった。長男の恋人は彼の逮捕後も家を訪れ、彼の母(義治氏の妻)を慰め続けたが、妻はこのままでは彼女の身が危ないと感じて彼女に別れを告げる。
長男も拘置所で虐待を受け、結核になり、家族は栄養剤であるブドウ糖を差し入れるため、ギリギリの生活をさらに切り詰める。電気代節約のため、電気を停めたところ、地区幹部に怪しまれ、問い合わせを受けた。過酷な労働で、妻の右手の人差し指と中指は曲がり、戻らなくなった。妻は職場でいつも非難とさげすみを受け、ついに自殺を図るが、一命を取りとめる。

昭和47(1972)年に日中間の国交が樹立し、翌年、公安は虐待の証拠を隠蔽するため、義治氏に十分な食事を与えるようになった。だが、傷んだ歯は治療するより抜いたほうが手っ取り早いと、短期間に全て抜き取られた。
昭和49(1974)年、義治氏は無期懲役の判決を受け、拘置所から上海市監獄(刑務所)に移され、ようやく16年ぶりに家族に手紙を書くことを許され、面会も許された。また日記を書くことも許されるようになった。16年ぶりの対面の時、あまりに容貌が変わっていたため、家族はなかなか理解できなかったという。月に一度、面会ができるようになり、父の記憶がない末娘は四度目の面会で初めて「お父さん」と呼んだ。次男の敏雄氏は、文革時には諦めていた日本の叔父叔母との手紙を再開した。
その後、日本の親族の働きかけで日本大使館が動き出し、大使館の代表や総領事館の領事、島根県の県知事、弟妹たちとも面会でき、差し入れもあり、長い間口にできなかった日本の食べ物を口にすることもできた。監視があるので本音を言うことはできなかったが、それとなく虐待を告げた。義治氏は日本語を忘れないよう、拘置所で絶えず、母校の校歌と故郷の民謡を口ずさみ続けたという。
釈放が近いと思われた昭和52年、義治氏は危険な状態になるが、二度目の入院でなんとか回復する。長年の虐待で左目は見えず、右目も弱り、肺は3分の2しか機能せず、心臓病や高血圧もあり、いつ死んでもおかしくない状況だった。

昭和53(1978)年8月、日中平和友好条約が締結され、釈放されるべき状況になった。長男は9年ぶりに釈放されるが、彼も虐待によってやせ細っており、家族と対面してもすぐには分からない状態だった。実は長男は拘置所の病院で義治氏を目撃していたが、あまりに容貌が変わっていたため、分からなかったという。
昭和53年10月に義治氏は20年4カ月ぶりに釈放された。その時、危険を冒して、20年間身にまとってきたボロボロのズボンを持ち出す。そのボロ服は悲惨さを証明するもので、敏雄氏は父の苦痛を痛感して涙を流す。そうまでして持ち出したズボンだが、出国時に見つかれば足止めされる恐れがあるので、断腸の思いで処分した。そして、11月12日、帰国を果たし、翌日、故郷に帰還する。義治氏の母はそのわずか10か月前に他界していた。

帰国後、義治氏は、中国当局が昭和49(1974)年に無期懲役の判決を下したことに根拠があったことを知る。中国政府が義治氏に16年間も判決を下すことができなかったのは、確たる証拠がなかったからである。それが昭和46年に、身内の誰かが母親の名で書類を偽造して軍人恩給を申請し、恩給が支給されたため、中国政府はこれを「スパイ機密費」と憶測したのである。更に昭和48年に日本の大手新聞が、「義治氏は日本陸軍中野学校(スパイ養成のための学校)で訓練を受けた」という誤報をしたため、無期懲役の判決が下されたと思われる。これらがなければ、義治氏は母親の存命中に会えたはずだった。
また偽りの恩給申請が認められてしまったため、正当な額が支給されず、義治氏に支給される軍人恩給はわずか年額30万円未満だった。偽造の書類をずさんな審査で簡単に通してしまった島根県庁や厚生省、総務省といった関係官庁の罪は重い。元上司らの協力もあって、義治氏は戦後補償と恩給申請を何度も国に陳情するが、30年以上たった今も認められないという。
敏雄氏ら4人の子供たちは、日本語を学ぶ間もなく、生活のため、すぐに働かねばならなかった。一家の帰国前は、色々手を尽くしてくれた日本政府だったが、帰国後の待遇は冷たく、一家は様々な試練を受ける。市長の尽力により、敏雄氏らが帰国後わずか半年で日本国籍を取得できるという幸運もあったが。兄妹4人は日本語が不自由なため、いずれも中国人と結婚したという。

義治氏は拘留中の迫害で身体はボロボロで、帰国後すぐ障害者と認定されたが、奇跡的に長生きし、27年間両親の墓に花を手向けてきた。が、平成17(2005)年、重度身体障害者となり、寝たきりの生活となる。敏雄氏は母の負担を考えて、兄弟3人が住む広島の病院に転院させた。敏雄氏は、父を故郷から離したことを申し訳なく思う。最近、母が脳の検査をしたところ、脳梗塞を起こした跡が無数にあったという。病気を抱えながらも、90歳近くになる現在もほぼ毎日、介護のため病院に通っている。義治氏は今年(2015年)6月、100歳を迎える。

義治氏は潜伏中、家に日本刀を1本所有していた。その刀によって身分がばれる恐れがあるので、妻は処分してほしいと何度も話したが、断った。おそらく命と同然である刀を捨ててはならぬという武士魂の表れだったのだろう。そんな義治氏を孫娘(敏雄氏の長女)は「日本兵の精神を貫いた祖父の生き方は、確かに一家の不幸を招いてしまったのかもしれない。しかし、祖父が自身の信念を最後の最後まで貫徹したからこそ、父が生まれ育ち、私が生まれ、今こうして生きている。私にとって、彼は祖父である以上に、誇り高き『さむらい』である」と評している。

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