風雅庵の日々

園芸、屋上、近所の散策を中心に記録します

元の舟地蔵

2013-03-17 09:35:28 | 湘南鎌倉
ツクシが出てるかなと思って舟地蔵あたりの河川敷へ行きました

交差点にある、舟地蔵の説明板によると、
北条早雲が大庭城を攻めたとき付近一帯は沼地で、なかなか攻め入ることができませんでした。
北条方は、沼近くに住む老婆から引地川の堤を切れば沼は干上がることを聞き出しましたが、
秘密漏れを防ぐため老婆を斬り殺してしまいました。
その結果、北条方は、ようやく城を攻め落とすことができたそうです。
舟地蔵は、殺された老婆を供養するために建てられたという言い伝えがあります
引地川の親水公園は遊水地でもあり、昔は沼地で住めなかったのでしょう


昔の人は近くの台地(岡)の上に住んでたようです
台谷とは、台地の上の谷戸という意味でしょうかね?


舟地蔵公園の奥の岡に登ると、
台谷戸稲荷、周りに小さな森が残ってます


里山の風景、癒されます


台谷戸稲荷の正面方向の道を行くと、道端に舟地蔵が祀られてます、
近所の方がお線香をあげていらっしゃいました

何の説明もありませんが、これが元の舟地蔵でしょう。
交差点の舟地蔵とは比べ物にならない、美しいお地蔵さまです


台谷戸稲荷から舟地蔵公園の方へもどると、大庭神社の旧跡があります。

階段の上の祠は、熊野社とのことで、新編相模国風土記稿に次の記述があります
大庭村 ○熊野社
成就院持、下同じ、里人此社をも大庭神社の旧跡なりと伝うれど、上世の事にて信じがたし
今按ずるに、【東鑑】建長六年四月十八日聖福寺上棟の條に、鎮守諸神は所謂
神験・武内以下の神名を列挙す、殊に神験宮に於ては同五月八日法楽の舞楽ありし由を記す、
又此造営の事は相模国大庭御厨の内に、其地を卜する由見えたれば、当社其古蹟にや、

聖福寺の鎮守諸神の神社を大庭御厨の内に建てたと吾妻鏡にあり、それがココらしいです


大庭神社は、引地川親水公園から天神橋を渡ったところにもあります

新編相模国風土記稿では次のの記述が相当します
大庭村 ○天神社
村の鎮守社頭古松多し、神名帳六座の一なりと云う、然ば大庭神社なるべし
祭神詳ならず、今菅神の木像を神体とす
大庭神社と呼ばれるのは明治になってからのようです


さて目的の土筆ですが、いい感じに出てました


とりあえず、ツクシの佃煮

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 庭の梅 | トップ | 桜の花見 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

湘南鎌倉」カテゴリの最新記事