風雅庵の日々

園芸、屋上、近所の散策を中心に記録します

国府祭の座問答

2012-05-05 12:14:10 | 古代史
5月5日は国府祭(こうのまち)、大磯の六所神社のあたりに行きました。
大化の改新の頃、相武(さがむ)国と師長(しなが)国を合併して
相模国ができた時、相武国の寒川神社と師長国の川匂(かわわ)神社が、
合併後の相模国一宮を争った様子だという伝承があります


神揃山(かみそろいやま)に、寒川神社、川匂神社、比々多神社、
前鳥(さきとり)神社、平塚八幡宮の5社がそれぞれのルートで集結しました。
しめ縄を張った祭場の正面には、神の依り代として5本の鉾を立てます


小箱を開けて散華、場を清めます


まず、一宮・寒川神社が虎の皮を敷いて自分が一宮であることを示しますと、
二宮・川匂神社は虎の皮を同列に並べ、一宮の座を主張します。


寒川神社が虎の皮を上座にズズッと進めますと、川匂神社が再び並びます。
さらに、寒川神社が進め、川匂神社が三度並びます。終始、無言。
両者一歩も引かず、このままでは埒が明かず、祭典ができません。


そこで、三宮・比々多神社の宮司さんが進み出て「いづれ明年まで」の一言、
現状維持でとりあえず先延ばし解決、その場を収めます。
「それだけ?」って感じですが、この神事が千年以上続いて来たとはすごい。
神揃山での五社の神事は終了し、馬場公園での六社の神事に遷ります。


五社でいただいた粽、個性を主張しています。
それぞれ古代に遡る歴史を持つ神社ですからね


ちょっと整理。律令以前の相模地方には、相武国、師長国、鎌倉別があり、
地方官制は、国造(くにのみやっこ)を任命する方式でした。

相武国造は、成務天皇の時代、弟武彦命を任命したのに始まります。
相模川の中流以上の地域と推定され、寒川神社が氏神と思われます。

師長国造は、成務天皇の時代、意富鷲意弥命を任命したのに始まります。
級長津彦命(師長国を開拓した神)を祀る川匂神社が氏神と思われ、
酒匂川流域から足柄平野の地域と推定されます。

三宮の比々多神社は、中間の花水川流域、伊勢原にあります。
国評里制(646~)や国郡里制(701~)で相模国ができた際、
相模国府が置かれた場所は二遷説や三遷説があって不明なのですが、
漁夫の利で、中間の大住郡に国府を置いた史実があるのかもね?
(花水川流域、大山の麓、伊勢原、秦野とか)

ちなみに、相模国府の所在地の主な説を挙げておきます:
海老名国分寺、綾瀬、伊勢原市八幡台、伊勢原市比々多、平塚市四宮、
秦野市御門、小田原市千代、小田原市国府津、大磯町国府本郷

相模国府の変遷の主な説:
二遷説 :     大住郡(伊勢原、平塚、秦野など)→余綾郡(大磯)
三遷説1:高座郡(海老名) →大住郡(伊勢原など)→余綾郡(大磯)
三遷説2:足柄下郡(小田原)→大住郡(伊勢原など)→余綾郡(大磯)



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1 コメント

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Unknown (山崎かずみ)
2012-05-07 12:52:45
おごそかな雰囲気ですね。

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