富士北麓の浅間神社 2013-05-02 23:42:35 | 古代史 富士山が世界文化遺産に内定、おめでとうございます 以前から行きたかった富士山北麓の浅間神社を巡ってみました まず構成資産の1つ、忍野八海に寄りましたが、富士山が見えにくくてがっかりでした ■北口本宮冨士浅間神社 参道には巨大な杉が並んでます 客観的に見て、鎌倉の文化遺産がショボイのは明らかですね 吉田口登山道の起点で、富士講とのつながりが強いようです 由緒:景行天皇40年、日本武尊ご東征の折、当地「大塚丘」に立ち寄り、 富士の神霊を遥拝され「富士は北方より登拝すべし」詔されたのが始まりとか ■大塚丘 大塚丘の祠です。神皇紀には次のような記載があります。 景行天皇40年、阿祖山太神宮の阿祖彦王が神都復旧を企て、東北諸国が謀反を起こそうとした。 朝廷に洩れ、天皇は小碓尊(日本武尊)を遣わした。伊勢に詣で、尾羽張で美夜受媛を寵愛された。 富士川で戦いがあり、東軍は敗れて退いた。猟師が欺き、皇子が茅野に分け入ると 東軍は八方から火を放つが、皇子は草を薙ぎ迎え火を放ち、東軍は焚死するもの多かった。 皇子は家基都駅に至り、菅原の大塚(後の篠垣)より福知山を遥拝した。 富士古文献、延暦大噴火前の古図の部分です。右上に流れ出てるのは相模川(桂川)。 菅原に篠垣塚が描かれ、富士山は福地山、家基都駅は加吉駅と書かれてます。 このあたりは大化5年に甲斐国に編入されるまでは相模国に属してたらしく、 「家基都」は「やきづ」と読め、古事記に出てくる焼津は家基都のことらしいです ■河口浅間神社 延喜式神名帳にある名神大社「甲斐国八代郡 浅間神社」がこことされてます。 由緒:第56代清和天皇の貞観6年に富士山大噴火があり、富士山噴火の鎮祭を行った 神皇紀には次のような記載があります 貞観6年(864)5月に富士山が噴火、太神宮である七廟中3廟が焼失。 翌年7月勅使の藤原氏宗を派遣、橘末茂や伴真貞に御舟山に現れたような宮殿を再興させた。 12月勅使の藤原安麻呂などを派遣し、再び官社に列することにした。 868年に新富士に道路を拓き、歌舞音曲を演じ、加後坂において遥拝することになった ■北東本宮小室浅間神社 撮りそこなったのでストリートビューよりです ここが、富士古文献(宮下文書)を伝えた宮下家が宮司を務める神社です。 由緒:崇神天皇6年阿曽谷神社を鎮祭したことに始まる。 応神天皇第二御子(大山守皇子)が宮守を司り阿曽谷宮守神社と改称。 厩戸皇子来り富士山北東國本宮阿座眞明神と改称。 1686年(貞享3)古屋敷より今の新屋敷に引移した 神皇紀にはもっとトンデモナイ由来が記載されてます 天照大御神が阿祖谷小室の阿田都山に阿祖山太神宮(宮守の宮、元宮)を創立、 九州に遷都した鵜茅葺不合51代の即位式は、太神宮の神殿で行われた。 神武天皇が再興、崇神天皇はここから天照大御神と大御宝を大和に移した。 崇峻天皇の世、厩戸皇子が勅使として、七廟を再興。 光仁天皇の世、坂上苅田麿が先現太神と改称する勅を伝え、先現と浅間を混用 平城天皇の世、坂上田村麿が再興、坂に仁王門を創立、峠に鳥居を建設 足利氏により衰退するが、天文元年に氏子が宮守神社と福地八幡大神を再興 ■小室浅間神社の古宮 小室浅間神社の由緒によると、1686(貞享3)年以前は古屋敷にあったことになります。 大明見の交差点から宮守川の川沿いに行くと南朝英霊神と泰山府君大神があります。 何の説明もありませんが、奥にあるのが小室浅間神社の古宮とのことです これが阿祖山大神宮の祠ということになります。 何度も再興してるためか、小さな祠しか残ってませんが、悠久な話だなぁ ■福地八幡宮 富士吉田市下吉田1-12-26に鎮座します。 延暦大噴火前の古図にも描かれてます。福地は富士のことですね。 福地八幡大神=寒川大明神のはずですが、祭神を見ると違うみたい、 渡辺綱命を合祀してたりして、渡辺一家衆の神社みたい