風雅庵の日々

園芸、屋上、近所の散策を中心に記録します

風雅の意味

風雅とは、自然の中に趣や味わいを感じること・さま。
風雅を目指し、自宅を風雅庵、ダイニングを風雅亭と呼ぶことにしました。

小坪路

2011-09-10 16:17:31 | 湘南鎌倉
光明寺の網引地蔵です。元は、光明寺裏山、
第1中学校洞門手前の岩窟に納められてたそうです。
この地蔵があった、小坪路の方へ行ってみます。


カンボジアの遺跡のようですが、内藤家の墓所です。
なぜか宮崎県の延岡城主、内藤家が光明寺を菩提寺としたそうです


第1中学を通り過ぎたところの脇道を行くと、
開山の良忠上人をはじめ歴代の墓所があります。
開基である北条経時の宝篋印塔もあります。


木が茂る前は展望良かったのでしょうが、、、


フェンスを回り込んで、なんとか光明寺裏山の展望


第1中学校の手前まで戻って、坂を登ります。
民家の階段のようですが、この階段が小坪坂への峠です


小坪坂を姥ケ谷へ下ります。何の変哲もない古東海道?


子育地蔵尊、りっぱなお地蔵様です。
134号線ができた頃は道路の下にあったそうです。
事故が多いので、道路の傍らの現在地に移したそうです。
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住吉城

2011-09-10 16:12:06 | 湘南鎌倉
小坪の町の山際、海前寺から神明宮への途中にある
山道を登って行くと、望洋邸というマンションの横に出ます

警戒厳重ですので、通り過ぎて「ぼんばた橋」を渡って、
振り返ると、「ぼんばたけ」の向こうに望洋邸がそびえてます。

車道に出るので小坪トンネルの方へ歩きます

134号線の飯島トンネルです。これからあのトンネルの上を回り込みます。
トンネルの上の扇山を主峰とする丘には住吉城があったそうです


住吉城址実測図です(「逗子市住吉城址」より)。先ほどの「ぼんばたけ」に家臣の邸、
「げんじヶ谷」に住吉城(城主の館?)があったと言われてます。


住吉隧道、このトンネルをくぐると正覚寺、
記主良忠上人が鎌倉に来て住み着いた悟真寺です


正覚寺の裏山には住吉社があり、住吉城址の板が置いてありました。

 戦国時代の初め、三浦道寸と弟の道香がこの山城にこもって、
北条早雲の軍勢と戦いました。道寸と道香兄弟の奮戦もむなしく
戦いに敗れ、道寸は三浦の新井城へ逃れ、道香は逗子の延命寺境内で、
家来たちと自害したと伝えられています。
 住吉城は山城ですから、近世の城のように天守閣も石垣もありません。
自然の地形をうまく利用して、攻め寄せる敵を防いだものと思われます。


祠の横にトンネルがあります。が、出口は封鎖のようです。

鎌倉攬勝考などに出てくる「くらがりやぐら」は
このあたりから「げんじヶ谷」へのトンネルのことと思われます。
「げんじヶ谷」に邸宅が建ったときに閉じられたとのこと、志村源太郎(大正12)、
幣原喜重郎(大正15)、五島慶太、秀吉魁(昭和31)らの邸宅になったそうです。


小坪海岸トンネルの上に現在の「げんじヶ谷」に立つ豪邸が見えます。
SMAPの香取慎吾さんの別荘というです


六角の井戸を通って光明寺に戻りました
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蓮乗院、千手院

2011-09-10 14:51:49 | 鎌倉33観音
第19番 天照山・蓮乗院(浄土宗)【十一面観音】

蓮乗院は以前よりこの地にあり、光明寺が材木座に移って来た時、
開山の良忠上人はこの寺で落成を督励したと言いますが、
光明寺の草創については、話がこんがらがってるようです。

光明寺開山の然阿(然阿弥陀仏)良忠上人(記主禅師)は
千葉県での活動の後に鎌倉に移住しました。

飯島の正覚寺の前身、住吉ヶ谷の悟真寺に居住していると、
1240年(仁治元)に北条経時が佐助ヶ谷に蓮華寺を建立、
1243年(寛元元)に材木座に移され「光明寺」と改められたとか、

大仏聖の浄光の坊に仮り住いの後、大仏流北条朝直の帰依を受けて
佐助ヶ谷に創建した悟真寺が、後に蓮華寺と改名され、
中興の祐崇上人の時に光明寺として現在の地に移転したとか、ありますが、
後者は辻褄合わず、風土記稿も前者だし、たぶん前者一択です。


本尊の阿弥陀如来は千葉常胤の守り本尊だったとか、
お寺の紋が千葉家の家紋の月星なのも関係がありそうです。
中央の厨子に札所本尊の十一面観音さまが見えてます


文殊菩薩坐像(下段)や弘法大師像(中段)
昔は真言宗だったそうですから


内陣の格天井絵は大町の松岡家の行業で1978年に荘厳されました。
月岡栄貴画伯を主宰とする16人により描かれたそうです。


第20番 天照山・千手院(浄土宗)【千手観音】

もとは光明寺の寺僧寮、江戸時代は寺子屋だったそうです。
昔は専修院と称しましたが、千手観音が知られて改名したようです。
清水寺式の千手観音が見たかったのですが、
公開してませんと断られてしまいました。住職変わったのかな?残念


本日いただいた御朱印です
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光明寺

2011-09-10 14:50:55 | 鎌倉33観音
第18番 天照山・蓮華院・光明寺(浄土宗)【如意輪観音】
浄土宗の大本山、大迫力の山門です。
鎌倉のお寺は谷戸の奥にあることが多いですが、ここは材木座の海岸近く、開放的です。

1243年(寛元元)、第4代執権北条経時が良忠上人を迎えて創建。
皇室との関係も深く、山門の扁額「天照山」は、後花園天皇の直筆と伝わります。
後土御門天皇からは、関東総本山の称号を受け、
関東での念仏修行根本道場として、国と国民の平安を祈る勅願所となりました。
さらに「お十夜法要」の勅許を得て、以来毎年10月12~15日に盛大な念仏法要が営まれます。
また江戸時代初期、徳川家康は関東十八檀林の筆頭と定めました。


本堂では、仏像をじっくり拝むことができました。


ご本尊の阿弥陀如来は整ったお姿、上品下生の印相です。
脇侍の観音/勢至菩薩が並んでます。
中尊は鎌倉前期・中央仏師の作風、脇侍は鎌倉後期・宋風とのこと。


欄間を見ると天女の彫り物が綺麗です


弁財天と善導大師です。
この弁財天は、口を開けて笑っているようです。八臂で彩色も綺麗です、
江ノ島の弁財天が暴風のたびに流れてきたとか、
夜な夜な善導大師像の説法を聞きに来たとの逸話があるとか。
善導大師は中国浄土教の大成者で、著作が法然に影響を与えました。


札所本尊の如意輪観音と法然上人です。
如意輪観音は浄土宗では祀らない密教的な尊像であり、客仏らしいです。
鎌倉後期の作、間近で拝することができて嬉しいです。


平安後期風の阿弥陀如来立像


小堀遠州風の記主庭園、記主とは開山の良忠上人のことです。
蓮は遺跡で発見された古代ハスだそうです。
池の向こうは大聖閣、2009年に再建されたました。


三尊五祖の石庭
中央と両脇が阿弥陀三尊、左手前が法然、右が善導大師を表してます。

見どころが多いお寺です。頂いた御朱印は次回に。
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