遠藤周作さんのエッセイです。
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もう何年も何年も前であった。
友人の夫婦に初めての娘が生まれたとき、
私はまだ一人前の小説家になっていなかったから、
彼らにお祝いの品物を贈るだけの余裕が
なかったのである。
それでも何かを贈らねばならないと
私は頭をひねった。
ちょうど同じ頃、甥が誕生日だったので
私はいろいろ考えたあげく、
近所をうろついている小さな野良犬を
リュックサックに入れて持って行ったことがあった。
甥はまだ小さかったから、
リュックからすっとん狂な顔をだした犬ころを見て、
キャッキャッと手を打って悦んだが、
兄夫婦は、
「へぇ、汚い犬だなあ。
誕生日のプレゼントに野良犬とは、
周作も考えたもんだ」と変な顔をしていた。
友人の赤ん坊のためにまさか、
野良犬を持っていくわけにはいかないから、
途方にくれながら路を歩いていると、
ちょうど夕暮れの道の片隅で
苗木を売っている露店が眼についた。
客が誰も来ず、汚いお婆さんが鼻をすすりながら
店をしまうところであった。
私はポケットをさぐり二十円をだして、
これで何か買えないかとたずねたのである。
そして一本の小さな木蓮の苗をゆずってもらった。
あれから十数年たった。
私は久しぶりに神戸に行く用事があって、
六甲にすむ彼の家に電話をすると、
「ちょうどいい。あすは娘の誕生日だ。
すぐ来てくれないか」そういう返事である。
彼の家をたずねると、
友人の娘はもうすっかり可愛いお嬢さんになって
白い洋服を着て幸福そうに笑っていた。
いや、それよりも彼の家の庭に
真っ白な花をいっぱいつけた木蓮が
そのお嬢さんのように清純に咲いていた。
「おぼえているかい」
友人は教えてくれた。
「この子が生まれた時、君がくれた木蓮だよ。
あれはいい贈り物だった。いい贈り物だった」
はて、私にとって
心に残るプレゼントとは何だろう。
記憶をたどると・・・やはりこの子たちね。
食べ物や身に着けるものは忘れてしまっても、
命ある贈り物のインパクトは強烈。
この子たちと過ごした日々は
今なお心の奥に刻まれています。
プレゼントしてくれたのは夫。
これがきっかけで、
鳥のいない暮らしは
考えられなくなったのでした。
今はこれに猫も加わりましたけどね。