ペーパードリーム

夢見る頃はとうに過ぎ去り、幸せの記憶だけが掌に残る。
見果てぬ夢を追ってどこまで彷徨えるだろう。

言葉を飛び越えていったひと

2010-09-30 06:14:32 | 歌を詠む
100929.wed.
平成22年8月12日、夏の盛りも盛り、明日は盆の入りという日に
歌人・河野裕子さんが他界されて、はや49日・・・。
10年前に乳がんを患い、2年に再発。
同じ病を患っているということだけでも他人事とは思えず、
歌人の動向が気になっていたところへの訃報だった。

<もういいかい、五、六度言ふ間に日を負ひて最晩年が鵙(もず)のやうに来る>
<あと三十年残つてゐるだらうか梨いろの月のひかりを口あけて吸ふ>
                            以上『体力』平成9年

乳がんが発見される前に、彼女はこんな歌を作っていた、と
先月の講義で岡井隆さんが、今さらながらに訝っておられたのが心に残っている。

<今死ねば今が晩年 あごの無き鵙のよこがほ西日に並ぶ> 『家』平成12年
<さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見てをり> 『歩く』平成13年

「勢いのよさが河野の文体の力。
病気になる少し前から、人間存在の寂しさのようなものを、
その文体で新しく歌いだした」とは、夫君の永田和宏氏。

昨年出版された『母系』では、
自らの再発と闘いながら、実母を看取るまでを、
必然だったというその大きなテーマを存分に歌いきっている。

   石の上にわたしの母が腰おろし夏のひざしに縮まりてゆく

   生きてゆく一日いちにち米を研ぎ菰を乾かしお帰りと言ふ

   術後七年、障りなき日はあらざりきほつりほつりと柿の花落つ
 
   病むまへの身体が欲しい 雨あがりの土の匂ひしてゐた女のからだ   
   
   この母に置いてゆかれるこの世にはそろりそろりと鳶尾(いちはつ)が咲く
   
   誰か居てわたしは怖い 母が死ぬ真水の底のやうなこの部屋

   死ぬことが大きな仕事と言ひゐし母自分の死の中にひとり死にゆく

   何代も続きし母系の裔にして紅(こう)と私の髪質おなじ

   いい嫁でいい子でいい母いい妻でであらうとし過ぎた わたしが壊れる

   死ぬことが大きな仕事と言ひゐし母自分の死の中にひとり死にゆく

ちょうど3年前に、彼女の話を聞く晩があり
記録に留めていたので再掲載する。
読み返すと、あの晩の、河野さんのひと言ひと言が、
今、また胸に広がって、
改めて私の胸の深いところに落ちていくようだ。

“心の輪郭のようなもの”を追って追って追い続けて
・・・逝ってしまわれたのですねえ、河野さん・・・。。

<手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が>

家族が口述筆記されたという、辞世の句。
改めて謹んでご冥福をお祈りします。

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2007年9月19日(水)

現代歌人協会公開講座「河野裕子氏に聞く」
聞き手・米川千嘉子、黒瀬珂瀾
司会・穂村弘

河野裕子氏は昭和21年、熊本生まれ。
大学在学中に角川短歌賞を受賞。
昭和47年、25歳で、第一歌集『森のやうに獣のやうに』を出版。
その後歌集を次々と出し、現在14歌集まで。
ご主人は歌人の永田和宏、若手歌人の永田紅は娘。
現在、「塔」、毎日新聞歌壇NHK歌壇等の選者を務める。

京都にお住まいで、今日のように生の河野裕子さんの
姿を見て声を聞くことができるというのは、
大変珍しいのだとか。
学士会館の講堂は、ぎっしり
オバサマ、オバアサマで埋まってしまった。
オジサマもちらほら。
200名ばかり、平均年齢、高っ。
実は私は河野さんをよく存じ上げないのだが、
一度お話を聞いてみたかったので、いい機会であった。

<たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行ってはくれぬか>

<たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言えり>

<君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る>

<良妻であること何で悪かろか日向の赤まま扱(しご)きて歩む>

<さびしいよ、よよつと言ひて敷居口に片方の踵でバランスをとる>

以上、今回の自選歌であり、彼女の代表歌でもある。
以下、京都弁で。

「アメリカに2年住んで、小3と小6の子に、
 持っていった文庫の日本書紀とか万葉集ばかり読んであげていて、
 なんて日本語っていいんだろうって。
 だから、帰国したとき、俵万智さんが流行ってて、
 なんでそんなに日本語を粗末にするのー?って思ったんよ」

「40歳になってわかったこと。
 今までの歌は若い体が作っていたということ。
 もう若くない。
 自分の身のまわりが見えはじめたので、
 日常の暮らしの面白さをこれからは歌っていこうと思ったのよ」

「おだてにのるのも才能のうちや。私はその才能だけはあったの」

「強く、大きな歌を作れ、ってね、若い人をおだてるんよ。
 頭のいい人はおだてにのらんけど(笑)、
 私がおだててその気になった人は、何人も賞とってはるよ」

「良妻になって、なにがあかんの?
 フェミニズムとかなんとか、私、ようわからんのよ」

「外の気配を、自分が吸い込んでいくんです」

「家の裏に竹やぶがあるのよ。竹はすごいねえ。
 夜のうちに家の下くぐって出てきて、私の枕元に座ってるの」

「アミニズム? ようわからん。(自分の歌は)違う」

「言葉でうまく説明できないから、歌を作ってるんです」

「なぜ歌を作るのかって?
 自分の心の輪郭のようなものを、ピンで押していってるのよ。
 自分の体のなかにあるものが自分にはわからない。
 自分の体から何が出てきたのかもわからない。
 それを歌にして、(ピンで)押してるの。
 そうして自分の足場ができてるような気がするんよ」

「五七五七七という短い定型の中に言葉がどう置かれるか。
 それによって言葉って変わってくるでしょう?
 五七五七七、豊かな空間ですよ。ねえ、大きな空間じゃないですか」

舅の永田嘉七氏の句 <五十年ひたすら妻の墓洗う>
夫の永田和宏氏の歌
<母を知らぬ我に母なし五十年海に降る雪降りながら消ゆ>
「これを読んで、私わかったんです。
 本当に悲しいことは歌にできないんだって。
 歌にできるまでに50年の時間が必要だったんだって。
 私ねえ、泣いてしまいました。永田さん、やっと本音が出たなって」

「本音をとうとう出さないまま逝ってしまった人も、おるねー」

「歌集『家』を出したときにね、永田さんにいわれたんですよ。
 あなたは、こんなに淋しかったのか、って」

「言葉の出し方、心の表現の仕方はね、わからない。
 本当のことは、いちばん近くにいる人にさえわからないものですよ」

「私は助走期間が長いんです。テーブルでずーっと考える。
 家族が帰ってきて食事の仕度をせなならん。で、みんな寝るでしょう。
 そしてまたずーっと考える。
 突然でき始めるときがあるの。一晩で200も作れるの」

「いつも80点、90点の歌人は大勢いらっしゃるんです。
 でも私は25点のときもある。いっぱいある。
 どんどん駄作も作っていいの。
 駄作を発表することを恐れない鈍感な心っていうのも必要と思うわ」

「私はどんどんどんどんどんどん穴を掘ってるの。
 自ら、穴を掘る。どんどんどんどん、ね。もぐらになって。
 すると、ふと、穴が開くんです。
 私が開けたんじゃない。自ずから、開くんですよ。
 穴が開くことと歌ができることは同じことか? そうね」

「生身の自分を、言葉が飛び越えていくんですよ。
 それをね、あとになって気がつく。
 ああ、これはそういうことだったんだーって」

若い頃の体当たりの相聞歌、
結婚してからの生き生きとした家族詠が
河野氏らしさと評されることは多いが
シンとした淋しさこそ彼女の本質ではないか、ともいわれる。
年代によって、もちろん歌の対象や表現は変わっているが、
決してブレない、強固な意志のかたまりのような人だ。
小柄で可愛らしく不思議ちゃん。
今日も白群青色の色無地がとてもお似合いで美しい。
しかし、しかし、この圧倒的な存在感はなんだろう。
壇上の若い3人の歌人のみならず、
会場全体が不思議パワーに 巻き込まれたような、一夜。

                                 

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