ペーパードリーム

夢見る頃はとうに過ぎ去り、幸せの記憶だけが掌に残る。
見果てぬ夢を追ってどこまで彷徨えるだろう。

アーティストの葛藤

2010-01-31 05:27:06 | 美を巡る
100127
アーティスト鴻池朋子さんの公開講座。
「想像力と遊ぶ動物―遊びとは魂を呼び還す技なり―」

昨年夏の終わり、東京オペラシティで見た
「インタートラベラー 神話と遊ぶ人 鴻池朋子展」はよかった。
http://www.operacity.jp/ag/exh108/
いま、私の机の上に鎮座しているスノウドームは、
そのときに購入したもの。
たまに雪を舞い上げてあげると、ミミオと6本足の狼は
噴火するマウンテンの手前で遊んでいるようだ。
また、先月から週刊文春で連載が始まった
桜庭一樹の『伏―贋作南総里見八犬伝』は、
鴻池さんの挿絵が私の興味の半分を占めている。
そんなことから、彼女が実際にどんなことを話すのか
楽しみに出かけたのだった。

「こうして皆さんを前に話す機会は初めてのことですが、
作品の解説をしようとは思いません。
これまでの自分の活動を振り返って語りながら、
自分自身に何か見えてくるものがあるのではないか、と期待していまして、
それを話せたらいい、と思っています」
この何気ない言葉の中に、彼女の創作活動の根源が隠されていたのだった。

1998年に初めてアニメーションを作った。
鉛筆の線が震え、動くことに興奮した。
そこで、自分の視点の代わりになる“主人公”を作った。
それが、ミミオ。
白い球体に手足がついた生物。
アニメの中でミミオは何をするのか?
つまり、自分の視点が何を見ているのか?
アニメ用に何千枚、何万枚の絵を果てしなく描いて、先が見えなくなったとき、
大変なことをすると「何か」の扉が開くのだ、そこがスタートだ、
と思ったという。

「なぜタイトルをつけなくてはいけないのですか?」

彼女の面白さは、表現するツールを(たぶん無意識のうちに)
おもちゃにしてしまうところ。
例えば、絵本。
画家として絵を描くことは当然だが、
彼女は左右のページの間(専門用語で「のど」という)、
ページの表裏の間(専門用語で「小口」という)に
「何か」を見つけよう、何かを創造しようとする。
彼女にとって、本は不思議な「道具」なのだ。
表紙から見返し、本文…、何か仕掛けができないだろうか、と考える。
ともすれば編集者がルーティンワークとして見落としてしまうことを
ちゃんと拾ってきて、突きつけられるような、そんなこと。
一緒に本を作ったら、きっと大変だろうが、絶対に面白そうだ。(笑)

白い本を作って、真上からプロジェクターで映像(アニメ)を投影し、
それを覗き込むように見せる仕掛けもそう。
映し出され、流れ続ける映像を、白いページをめくって、あたかも本のように眺める。
覗き込む、つまり下に向かって見ることは、
自分の世界を支配できるのではないか、というふうにも彼女は考える。
実に興味深い。

大原美術館で展覧会をしたときは、明日オープンというその夜に
四苦八苦しながら言葉遊びのようなことをしながらタイトルをつけたのだとか。
まず、やってみる。つくってみる。そこから始める。そこから考える。
彼女のその姿勢は一貫している。

「作品を人が見る、そのことによって私が見える、そんな感覚がいつもある」

数年前、海外で、世界の他のアーティスト達と展覧会をしたときのこと。
彼らは、差別やら戦争やらといった社会問題をテーマにして作品展示をするのが当たり前だ。
なのに自分の中にはそれがない、と思ったとき、愕然としたのだという。
同時に、日本人として、人間として自分がいま幸せなのだと実感した自分がいる、
ということを実感した。
そして、社会的背景を持ったメッセージもなく、
ただのインスタレーションにすぎない自分の作品が、
しかし、いちばん人気があったという事実を目の当たりにしたときに、
嬉しいと思う自分と、いい作品をつくっているという小さな自信を感じたのだという。
「見る側がそこにいることを実感する。私はそれを求めているのです」

「言葉を話したいから、絵を描いている」

数々の展覧会が評判となり、たくさんのインタビューをこなさねばならなくなった。
昔からよく言われてきたことは
「表現したい(=言いたい)ことを絵にしているんでしょう?」。
そうかもしれない。
それなのに、なぜ、自分の作品のことをしゃべらなくてはいけないの?
でも、そればかりではない。
ならば、話さなくてはならない。
彼女の中で大きな葛藤があった。
そして、ある日、伝えたいことが言葉としてあふれてきたのだ、と。
「言葉を話したいから、今は絵を描いているのです」
そう言って、彼女は最後にほっと安堵の笑顔を浮かべた。

自分の中にいる別の自分を見ること、
それは自分の作品を見る外部の人の目によって映し出される自分でもある。
自分、作品、作品の中の自分、見る人、見られる作品、見られる自分。
さまざまなところに視点をおいて彼女は動く。そして、発見し、実感する。
観客である私たちはまた、彼女の創り上げる世界の一部でもあり、
それらを包括してまた次のステージへと移っていく。

当分目が離せないなあ。

すべては、今こうなるためにあったこと

2010-01-30 04:05:21 | 暮らしあれこれ
100127
久しぶりに善福寺川界隈を散歩。
…といっても、自転車で和田堀公園を抜け、
杉並区郷土博物館へ。

ずーっと気になっていたのが、昨年からの
「2.26の現場 渡邉錠太郎邸と柳井平八展」。
とっくに終わってしまっていたのだが
(渡邉邸の一部復元は来月20日から天沼の分館で展示されるそう)
2階の資料コーナーで、錠太郎の次女でノートルダム清心学園理事長の
渡邉和子さんの講演のビデオを見ることができた。

8年前、抗がん剤の注射を打ちに通う私に
聖路加の細谷亮太先生が渡邉さんの話をしてくれたことが
ずっと胸の奥に残っていた。
以来、本棚には彼女の著書『目に見えないけれど大切なもの』(PHP出版)が
いつでも取り出せるように置いてある。
渡邉和子さんといえば、2.26事件の証言者としても有名な方。
幼くして父親を目の前で殺されるという悲劇に見舞われた彼女が
今こうして修道女としてあるのは、
みな、あの事件すらも神のおぼし召しなのだと、
すべてを受け入れていらっしゃるすばらしい女性なのである。

事件当時、教育総監だった渡邉錠太郎氏が53歳のときに和子さんは生まれた。
母親は44歳。
年の離れた長女は嫁いで妊娠しており、数か月違いで子どもを生む予定だった。
世間体もあったろうが、「この子を産みたくない」という母親に
錠太郎氏は「男が子どもを産んだらおかしいが、
女が産むのは当然だから産みなさい」と言ったという。
「だから、私はそうやって生まれてきた子どもだったのです」と和子さん。
兄二人に嫉妬されるほど、それはそれは父親に可愛がられて育ったのだという。
反面、厳しい母とは確執が強く、「はっきりいって嫌いでした」と。

昭和11年2月26日の朝6時頃、
父親と並んで寝ていた彼女は表の騒動に気付く。
起きあがった父親は押入れを開けて拳銃を取り出し、
彼女に「お母様のところへ行きなさい」と言った。
それが、最後に聞いた父の声だった。
母の元に行くと、母は玄関から反乱軍が入ってこないよう防ぐのに必死で
和子さんが「お母様」と呼びかけても見向きもしない。
仕方なく、もとの部屋に戻ると、
かいまきを身に付け、拳銃を構えた父親は困った顔をして、
部屋の隅に立てかけてあった座卓の陰に隠れるよう目線で示した。
「最後まで父は、そうやって私を守ってくれたのです」
そのうちに襖が開き、機関銃の銃口が父親の足を狙う。
そして後から入ってきた青年将校二人の銃でとどめを刺された。
和子さんは、その一部始終を、座卓の陰から見ていたのだった。

錠太郎氏の体には43発の弾が残っていたという。
射撃の名手だったというが、機関銃に敵うわけがない。
9歳になったばかりの女の子が目撃せざるを得なかった惨劇。
大好きだった父親の肉片、骨片が散った血の海を眺める和子さんの
その心中はいかばかりだったか。
布団に寝かされた父の額に触れたときのひんやりとした冷たさ。
雪の上に残る血痕も目に焼きついています、と。
「いまでいうPTSDというものに私がならなかったのは、
やはり父に愛された、最後まで父に守られたという思いがあったからです」

なぜ、殺されるのが父でなければならなかったのか。
なぜ、最初の襲撃の後、事件の連絡が来なかったのか。
逃げようと思えば逃げられたのではなかったのか。
和子さんはずっと思い続けた。
「あの時、死んだのは父一人でした。
家にいた家族、憲兵たち、一人残らず無事でした。
それでよかったのです。父は逃げずに立ち向かったのです」

その後、ミッションスクールに移った和子さんは
それまでのおてんばな生活から一転、息苦しい学校生活が始まる。
18歳で洗礼を受けると決めたとき、母親は猛反対したが、
反目する娘は言うことを聞かず、意志を通してしまう。
「洗礼を受けても、ちっともあなたは変わらない、と
母に言われて悔しくて、この道を貫こうと決めました」
そして信仰一筋の道を歩む。

後年、処刑された青年将校の命日にお墓参りに行ったときに
その弟というひとに会い、
後日、自分たちこそが先にお墓参りに行くべきだった、申し訳ない、
という手紙をもらう。
「そのときに気付いたのです。
私は私たち家族だけが被害者だと思っていた。
でも反逆者という名を負わされた残された家族の方々もまた
被害者だったのだ、と」
憎んでも憎みきれない首謀者たちのお墓参りをきっかけに
長年のわだかまりは解けていったという。

「反発ばかりしていましたが、すばらしい母でした。
父亡き後、子どもを育てることだけが私の生きがい、と
公言してはばからず、実際、なんでもできた母でした」
次第に確執もなくなり、最後の10年は
母子水入らずの蜜月のときを過ごしたそうだ。

しかし、その母親が87歳で息を引きとるときに
海外に行っていた和子さんは間に合わなかったのだ。
「父の最期を唯一看取った私は、
母の最期を唯一看取れなかった子どもだったのです。
…そういう運命だったのでしょう」

「今、この事件のことを知る人がほとんどいなくなりました。
だから、この講演をお引き受けしたのです」
終始穏やかに、言葉を選び選び話し終えたシスター渡邉は
静かに椅子に腰を下ろした。

ほんの少しのつもりが2時間近く!
入場料100円のすばらしい時間でした。

ジンギスカン♪ ジンギスカン♪

2010-01-28 13:22:10 | 美味いただく
100125
高校の先輩でスポーツライターのO氏宅で
ジンギスカンパーティー。
もとい、26日が誕生日のO氏のプレお誕生会&
バンクーバー取材壮行会&遅ればせながら新年会、でした。

久しぶりにお誕生ケーキを買うのって、わくわくしますね。
ローソク57本ください! とはさすがに言えなかったけど。(笑)
ジンギスカン♪ ジンギスカン♪
とノリノリのT先輩、K君とともに、早速買い出しに。
ところが! 肝心のマトンがない!
サントクにも丸正にも肉のハナマサにもないの!
なあに? 今日はどこの家庭でもジンギスカンなわけ~???
ようやく隣駅で、ニュージーランド産冷凍ラム肉を3㎏仕入れて、
T先輩が帰宅。
その間、K君と私はおつまみの準備。
料理上手なO氏はすでにひじきの煮物や故郷のお漬物や
ジンギス用特製ソースを用意してくれているし、もう用意万端。
その後、続々と後発組が到着して総勢8名。
その度に「かんぱ~い!」を繰り返し、宴会は絶好調に。

そもそもなんでジンギスカン鍋がO氏の家にあるわけ?(笑)
このところ故郷ネタで恐縮ですが、
わが故郷ではその昔、焼肉といえばジンギスカンだった。
なぜ? さあ?
牛肉、なかったよね。
貧しかったんだろうな、というのが一致した意見ですが。(笑)
「昔はもっとたくさん肉が食えたよなあ」と言いながら、
38歳から56歳のオジサンたち、何度も何度もラム肉と野菜を投入。

話題は当然、懐かしき高校時代の思い出に。
夜通し歩いた「強歩大会」(男子84km、女子はもっと短かったはず)
(なんとO氏は第14回大会優勝という記録ホルダー!)
玉子と小麦粉を新入生にかけて泣かせた(一度は泣いた?)入学対面式、
クラスマッチのラグビー会場には女子が一人も応援に来なかった!? …とか
まあ、いろいろ芋づるのようにあれもこれも思い出すものですね。

そんなふうにわいわいやっていたら、
時計の針はアッという間に午前0時を回り、
勝手知ったる階下の部屋に布団を敷きにいくT先輩。
帰る者は帰り、一応そこでお開きとなりましたが、
余ってしまったのがラム肉1㎏。
「カレーでも作るか」のO氏の一声で
来週、ジンギスO亭は、カレーハウスO亭に店名変更して
1日限り営業と相成りました。

って、また集まるわけ。
もうこれは親戚の寄り合いですね。とほほ。

五行歌・麹町歌会1月

2010-01-28 13:13:33 | 歌を詠む

100126
<自由詠>

白小豆が
サラダボウルの中で
プチプチと跳ねるよ
窓の外は
きっと木枯らし 

  珍しい白小豆をいただき、早速茹でてサラダにしました。
  白い色がアクセントになり、味つけも上々。
  暖かいキッチンで料理をしているシアワセ~を歌ってみたのですが。

<題詠・酒>

ハイボール
もう一杯
眼下では
最終便の新幹線が乗り入れる
どれだけのひとの人生を乗せて 

  新橋と有楽町の間にあるビルの9階。とあるバーで。
  窓から見えるのは小さな東京タワーと、ひっきりなしに乗り入れる新幹線と在来線。
  乗っている人たちの数だけ人生がある。
  今日、劇的なことを経験した人だって、きっと…。
  もしかしたら私があそこに乗っていることだってあるかもしれない。
  だんだんに乗客の少なくなっていく車両を眺めながら
  そんな他愛のないことを考えている時間が、好き。  

寅年のきもの

2010-01-28 01:40:36 | きものがたり
100126.tue.
麹町五行歌歌会へ。
久しぶりに袖を通した黄八丈は、東京都の無形文化財技術保持者である
山下八百子さん作の市松織黄八丈。



タイガースが優勝した年には勘違いされるから絶対に着るまい!(笑)と
言いたくなるような配色です。
8年前に病気をしたときに、何を思ったのか衝動買い。
きっと、元気と生きる希望が欲しかったのでしょうね。(今思えばオソロシイことを…)
帯は京都odashoの袋帯。
なんと十二支が全部織り込まれていて、今年は虎をお太鼓に出しました。
今後、きっと、この時期お得な帯(のはず)。

SO FAR

2010-01-27 16:29:41 | 旅する
100122
「旅で知り合った友人は皆消えてしまう」

小さなパンフレットに書かれたコピーと1枚の沈んだ写真。
これが気になって出かけた。
表参道、ギャラリー5610。
Jun Kawabata 写真展「SO FAR―浮遊のはじまり―時間と記憶をたどる旅」

写真のパネルの脇に、小さく Ferrara 1993.1 という文字。
イタリア・フェラーラの駅の待合室で撮られたものだ。

フェラーラは、ルネサンス期にエステ家によって統治された
イタリア東部の美しい街。
左右にルネサンス様式の邸宅が並ぶ大通り。
白大理石のダイヤモンドのような突起で有名なディアマンティ宮殿。
あの街を訪れたのは、14年ほど前の3月も終わりの頃で、
あいにくの春の雨に街の空気は白く煙っており、暗い印象が残っている。
この街で生まれた初期ルネサンスの画家コズメ・トゥーラの
陰鬱な絵のイメージがあったからかもしれない。(でも意外と好きなの。この画家)
しかし、端正な街並みと生で見たトゥーラの絵の衝撃は大きく、
もう一度行きたい都市のひとつとして、ずっと私の心の中に残っていた。

その街に存在した一人の老人を撮ったカメラマンが、ここにいた。
作曲家であり写真家でもある川端潤氏は
スペイン、イタリア、ポルトガルを中心に
ヨーロッパを旅して、街並みや駅、カフェ、バー、
そこにいる人々の何気ない姿をカメラに収めてきた。

木の下に寝転ぶ男、バルセロナの食堂の親父、崩れた東西の壁に腰掛ける若者たち…。
巡礼地のマリア像、暗く長い海岸線、小さな机とテレビのある部屋の一画…。
なんでもない風景なのに、そこから途切れ途切れの音楽が聞こえてきそうな
自分がその場にいるような、不思議な心地よさ。

週末の、ささやかなショート・トリップ。

*『写真集SO FAR』のサイドストーリー
http://www.so-far.jp/

ニューオータニ新春展

2010-01-27 01:44:24 | 美を巡る
100122
週末故にロビーや通路は忙しないホテルであるが
タワー館まで来てしまえば、ほっと一息つけるのが
ニューオータニ美術館のいいところ。

入り口すぐに展示されている
べルナール・ビュフェの「二羽の鶴」は
まさに新しい年を寿ぐのにふさわしい。
バックの水色と鶴の体の白と黒の対比が
張りつめたような緊張感を与えている。

普段なら気に留めるシュザンヌ・ヴァラドンやヴラマンクなどよりも
ポール・ギアマンの「二つのヴァイオリンのある静物」(写真上)や
ミレーの「田園に沈む夕陽」(写真下)の絵に前に長く佇みたくなるのは
1月も後半とはいえ、やっぱり年改まり、
明るい穏やかな絵を眺めたいという気分だからでもあるのだろう。
ギアマンの対象物を空想化するような軽やかなタッチがいい。
またミレーは、沈む夕陽の柔らかな光が草原だけでなく
まるで世界を包み込んでいくような幸福感を感じる絵。

奥の部屋からずっと誰かに見つめられている、と思っていた。
等身大の木彫りの人物は、平櫛田中・作、大谷米太郎坐像。
五つ紋付羽織袴姿のそれは、
とてもリアルに彫られていて、少し、コワイです。(笑)

日本画のコーナーでは、おめでたく
「寿老人」が「亀」と「鶴」を従えた三幅の軸。
実はこれ、作者が全部違う。
早世した菱田春草の遺墨「亀」のために
横山大観が「寿老人」を、下村寒山が「鶴」を描いたのだという。
富貴長生を願ったおめでたい、でもなんだか淋しそうなこの三幅対の前で
しばし立ち尽くしたのでした。