「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『美人好きは罪悪か?』

2009年07月11日 | Gender
『美人好きは罪悪か?』(小谷野敦・著、ちくま新書)

  男は美人(美しい女性)が好きである。テレビをはじめ様々なメディアに美人があふれている。売ろうとする商品と必然的なつながりがないにもかかわらず、多くのCMに美人が使われているのは承知の事実である。ところが、美人の学者、作家、政治家などは「美人を売り物にしている」などと批判されることがある。研究内容、作品、政治姿勢などは容姿とは無関係であるはずのものであり、その女性たちの業績が評価されるのは美人であることが上乗せされているというのである。いわば知性と美醜の評価軸は異なっているという考え方であり、こういった批判にむかしは同調していた。しかし、この考え方は変な社会的通念に基づいているだけであって、男は(たぶん女も)美人を(込みで)評価するという事実を無視しているし、そもそも知性と容姿とはけっして別のものではなく、むしろ一体の存在ではないだろうか。
  頭の良さや顔立ちの美しさは、両親から受け継いだ天性のものが基本にあって、それに自分の努力(勉強や美容など)や親の助け(経済的援助など)などが加わって、現在の状況が作られているといえるだろう。だとするならば、犯罪的あるいは非道義的行為でも行われていないかぎり、知性も美醜も同様の評価を受けるべきだろう。知的・社会的業績をプラス評価しておきながら、美人であることは好ましくないかのようにマイナス評価することは、少なくとも理にかなっていない。男性は才色兼備の女性が好きである。言葉は悪いが、バカな女性を本当の意味で好きになる男性はいないと思う。たとえば女性が書いた専門書なり小説なりを読むとき、著者の写真が美人(自分好みの女性)であれば、自分の中でその女性の業績や著書の評価が、少しなりとも上がることを否定することはできない。女性の容姿とはまったく無関係に、冷静に業績を評価できる男性もいるのかもしれないが、その気持ちを実感として理解することはできない。また、ほとんどの人が美人だと認めるような女性が「私は美人ではありません」などと謙遜したような言い方をすることがある。本当に自分では美人でないと思っている可能性もあるが、そうでないならば謙遜というよりも嫌味に聞こえるものである。女性もまた美人であることを表立って評価してはいけないと思っているのだろう。
  美人が自分の美しさを武器にして社会で闘うのは当然のことである。ならば美人ではない女性に救いはないのか。そうではあるまいと思う。容姿とは別のフィールドで闘うことである。それは知性を磨くことではないかと思う。自分の過去を振り返って、美人であることで評価を上げたのとは逆に、けっこう美人であるにもかかわらず知的な面が感じられず、自分の中で評価を下げた女性も少なくない。あまり好みの女性ではなかったが、才能に魅せられて大好きになった女性もいる。現実での女性との付き合いは極端に少ないので、その多くは女優・アイドル・研究者・作家など、いわば公的な女性に関する印象についての話だが、他の多くの男性も同意してくれるのではないかと思っている。ありきたりの道徳的な結論として受け取られたくはないが、容姿と知性とは互いに影響を及ぼし合う存在であると思う。知性と容姿とは別のフィールドであるかのように書いたが、実は同じフィールドの中の話であって、闘う武器がちがうだけなのだろう。武器の総力が勝敗を決める。どんなに美人であっても、真の知性が感じられない女性は、やがて美人の座を降りざるを得ない。一見美人に見えなくとも、知性を磨く女性は、やがて美人の座を手に入れるにちがいない。それが、いまの実感である。
  そうはいっても、現実の社会の中で女性たちは、なぜ女性だけが美人であるか否かで選別されなければならないのかと思い悩むにちがいない。しかし、男性もまた同様である。イケメンを羨望するといった問題もあるが、それ以上に経済的な選別と向き合うつらさに男性は思い悩んでいる。一概にはいえないにしても、最終的に男性は経済力の有無で社会や女性から選別されているように思う。男性は経済力を上げるために、知性というよりは学歴を付けようとするが、学歴と経済力とがうまく結び付いていない現実がある。学歴も知性も申し分なく、人間性もとくに問題がないにもかかわらず、女性にもてず、いまだに結婚できないでいる男性は周囲に少なくない。いずれにしても、現実の社会はけっして平等にはできていない。女性にとっても、男性にとっても。しかし、すべてを平等にすることは現実的に不可能である。競争で順位を付けるのは好ましくないという人もいるが、むしろ現実無視といわざるを得ない。誤解を恐れずにいえば、何らかのかたちで選別を受けるのが現実というものだろう。ただ、自らの能力で何かをしようとするとき、その可能性やアクセスが閉ざされてはいけない。たとえば社会で働く女性や障害者が大学で学ぼうとしても、女性や障害者ゆえに給与が少なく、そのため進学することができないとすれば大きな問題である。このような現実問題こそ早急に改善されるべきである。
  「美人」を出発点にいろいろと考えさせられた。小谷野敦さんの本はいままでに何冊も読んでいるが、読後感はいつも気持ちがいい。小谷野さんの考えにすべて賛成しているわけではない。ところが、自分がふだん言いたくても言えないこと、あるいは言葉にしたくてもうまく言葉にならない深層の感情のようなものを、うまく代弁してくれているように感じる。だから、読んだ後はたいてい「快哉!」と叫びたくなる。もちろん今回も「快哉!」である。これまたいつものことだが、話題がひじょうに豊富であり、その博識ぶりに驚かされると同時に、話の筋を追っていくのがけっこう大変である。本書のことを「美人というわけではありませんが、女ひと通りのことは教えてあります。気立てもいいし、不束な娘ですがよろしくお願いいたします」と自ら書いているが、やや「八方美人」の感じがしないでもない。ところで「後記」によると小谷野さんはついに(たしか二度目の)結婚をしたそうである。ますます「もてない男」返上である。

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