「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

哲学風どんぶりレシピ―『なやむ前のどんぶり君』

2009年12月01日 | Life
☆『なやむ前のどんぶり君』(明川哲也・著、ちくまプリマー新書)☆

  きっかけは朝日新聞掲載の「悩みのレッスン」。誰かに抱きしめてほしくて、ネットで探した初対面の人にも会いに行くという若い女性。彼女の悩みに答えて「卑下せず、断定せずに生きていって欲しい」と語りかける明川哲也さん。道徳的な説教はいっさいないが、悩みの本質を突いているように思えた。「悩みのレッスン」をコーチする明川哲也とは何者かと思い、ネットで検索した結果出会ったのがこの本。
  明川さんはかつてドリアン助川の名でライブ活動をしていた人とわかった。ドリアン助川の名前だけはなぜか覚えがあって、失礼ながら場末のアングラ芸人のように思っていた。実はドリアン助川はかなりの売れっ子だったらしい。ところが壁にぶつかり、さまざまな挫折を味わう。本書はそんな経験から生まれたといってよいだろう。
  このように書けばありきたりな人生教訓本のように思えてくるが、「悩みのレッスン」同様に本質を捉えながらも教訓を垂れる類とは一味も二味もちがう。そもそも語り手がどんぶり飯を盛る器のどんぶり君である。一見かたいイメージで無機質などんぶり君だが、彼の語りは人間以上に人間味に溢れ、ときに軽妙、ときに人生の深淵に及ぶ。「所有」の話などは生半可な哲学書よりよほどわかりやすく、自分自身の問題として考えることができるように思う。
  味わい深いのは語りだけではない。一つの話題ごとに紹介されるどんぶり飯のレシピは、それこそまさしく味わい深い。著者自らが調理して撮影したカラー写真が口絵を飾っている。これだけ見ているとどんぶり飯をすすめる本のように見える。いや、たしかにどんぶり飯のすすめなのだ。
  レシピはややこじつけの感がしないでもない。個人的には嫌いな食材も使われている。それでも、どんぶり飯は肩肘張らずに食べられるし、身体もこころも暖めてくれる食事だ。警察の取り調べのシーンではないが、どんぶり飯は悲哀と、悲哀を乗り越える希望がよく似合う。だから明川さんはどんぶり飯を作り、どんぶり飯を食べようというのだろう。
  この本は、まだまだ柔軟さを失っていない若い人たちに向けて書かれたものにちがいない。どんぶり飯は若者たちの旺盛な食欲も満たしてくれる。けれども、中年オトコの固くなったこころにも沁みるものがある。狭くて汚い部屋でひとりどんぶり飯を作り、悲哀や懊悩とともに飯を味わったり、温かな飯に希望の光を託そうとする世代はけっして若者だけではない。
  サブタイトルにもなっている「世界は最初から君に与えられている」とのメッセージが心地よい。悩みが消えてなくなるわけではない。しかし、悩みを悩みとして受け止めること。自分は自分でいいのだと思うこと。天才バカボンのパパ、いや赤塚不二夫の言うように「これでいいのだ」と思うこと。
  自分というストーリーはまだまだ続いている。「悩みのレッスン」でも「ストーリーは続いているということだけは忘れないでくださいね」と明川さんはいう。悩みながらも、天に召されるまではストーリーを紡いでいかねばなるまい。
  


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