「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

「べつの道」へ~「センス・オブ・ワンダー」の諸相―『センス・オブ・ワンダーへのまなざし』

2015年01月01日 | Ecology
☆『センス・オブ・ワンダーへのまなざし』(多田満・著、東京大学出版会)☆

  農薬などの合成化学物質による環境汚染に警鐘を鳴らした『沈黙の春』で知られるレイチェル・カーソンが亡くなったのは1964年4月14日のことである。本書は、それから50年後の命日にあたる昨年(2014年)4月14日に出版された記念すべき本である。1964年といえば、日本では東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されるなど、官民挙げて高度経済成長という名のハイウェイを走りはじめた時期である。さて、著者の多田満さんは、国立環境研究所に所属するいわば理系の研究者であるが、その興味関心は自然科学のみならず、環境に関わる思想・文学・芸術などに至るまで、ひじょうに広範に及んでいる。多田さんは、カーソンの意思を継ぎ、カーソンの思想を啓発する目的で設立されたレイチェル・カーソン日本協会の主要メンバーでもある。
  よく知られているように、カーソンも科学者としての経歴の前に、文学を志した過去をもっている。いわゆる「海の三部作」は、科学者としての観察眼と作家としての感性とが融合した作品である。『沈黙の春』もまたたんなる科学書の枠を超えて、文学作品としての趣を感じることができる。カーソンは科学者と作家という両面をもつがゆえに、少なくとも表面的にその魅力を語ることはたやすい。しかし、カーソンの思想の神髄について論じようとすると、科学に精通しているだけでは不可能であり、文学的な面からの照射だけでは科学的な側面の説明が不十分となる可能性を孕んでいる。その意味でも、多田さんの手による本書は必要にして十分な条件を満たしている好著といえるだろう。
  著書としての『センス・オブ・ワンダー』は、カーソンの死後に友人たちによって出版されたが、そこに込められた「センス・オブ・ワンダー」のメッセージは、カーソンの人生、カーソンのすべての作品を貫き、さらに未来へと向けて発せられている。「センス・オブ・ワンダー」は「不思議さ(とくに自然がもつ不思議さ)に驚嘆する感覚・感性」とふつう訳されるが、その捉え方だけでは不十分であり、「センス・オブ・ワンダー」がもつ豊かな内容を見失うおそれがあるように思う。多田さんは「センス・オブ・ワンダー」を三つに分類することで、その豊かな内実と可能性を論じている。まず「情意」による直接的な経験としての「根源的なセンス・オブ・ワンダー」。自然の不思議さに目を見張り、自然のなかで遊び楽しむ体験がこれに当たるだろう。次に「情意」に加えて知的情報をともなった「知情意」によって捉えられる「二次的なセンス・オブ・ワンダー」。科学・芸術・思想などによって新たな「気づき」を得る経験である。すぐれた科学者や芸術家はこの「二次的なセンス・オブ・ワンダー」が研ぎ澄まされている。「根源的なセンス・オブ・ワンダー」が受動的であるのに対して、「二次的なセンス・オブ・ワンダー」は能動的な精神能力であるという。また、いわば理性へとつながる感性ともいえるように思う。さらに「根源的なセンス・オブ・ワンダー」や「二次的なセンス・オブ・ワンダー」から派生して、社会に対しても「疑う、怪しむ」(そもそもwonderには「疑う、怪しむ」という意味がある)という感性をはたらかす「派生的なセンス・オブ・ワンダー」を提示している。「センス・オブ・ワンダー」の諸相について、これほど広く、またこれほど深く、一人の著者によって論じられていることに驚かされる。
  本書の目次を眺めると、一見網羅的な印象を受ける。しかし、第1章で「三つのセンス・オブ・ワンダー」の定義づけを読むと、その後の「自然」・「科学」・「芸術」・「生命」・「社会」と進む章立てが、実に周到であることがよく理解できる。そして最終章のその最後は「奥日光外山山麓の鳥たち―科学詩」の紹介で終わる。これは「科学コミュニケーションのためのひとつのツールとして、科学論文の引用をもとに詩の形式(科学詩)に構成する」試みを受けたものである。科学と社会とをつなぐ科学コミュニケーションの重要性は言うまでもない。しかしながら、科学コミュニケーションの実践が「二次的なセンス・オブ・ワンダー」に偏り、「根源的なセンス・オブ・ワンダー」や「派生的なセンス・オブ・ワンダー」がやや置き去りにされているような印象を受ける。科学コミュニケーションをあらためて見直すうえでも、本書は大きな示唆を与えてくれるように思う。
  デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」は、グローバル化された現代へとつながる西洋近代の幕開けを象徴する言葉であった。しかし、いまや現代文明は文明と野蛮との連鎖に陥り、理性が理性を危うくしているかのようである。いうまでもなく、われわれ人間は理性によって人間となり、理性を捨て去ることはできない。これまで来た道を戻ることは意味をなさないが、この道を行くことは破滅へとつながる予感がする。言い換えれば、理性の偏重とともに感性の摩耗や萎縮を感じざるを得ない。それは「根源的なセンス・オブ・ワンダー」体験の減少と軌を一にしているように思われる。外的自然であれ内的自然であれ、自然環境の危機的状況を深く省みて、今西錦司の言葉として本書で紹介されている「われ感じる、ゆえにわれあり」(カーソンの言葉に置き換えれば「知ることは感じることの半分も重要ではない」)に思いを馳せ、いまこそ幻想のハイウェイを降りて「べつの道」を歩まねばならない。

  

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