エミリの一筆啓上

#日記ブログ#猫ブログ
日々の思いを綴ります。

仔犬の思い出

2014-11-22 10:46:05 | 日々のできごと
小学校3・4年だったと思う。

実家の裏のお寺の離れの床下を住処にしている茶色い犬と仲良しになった。

チビと呼んでいた気がする。しっかりとした毛並みにスレンダーな体格、優しげな黒い目、

小さなお耳は垂れており、ゆるやかに湾曲した爪は黒かったような気がする。

チビは日向の匂いがした。犬の匂いを嗅げば懐かしいチビに辿り着く。

母の友人宅で飼われていたスピッツは、人を見ればキャンキャンと神経質に吠えたが、

チビは、むやみに吠えたりすることは一度もなかった。

雑種と呼ばれる種類の犬や猫に惹かれるゆえは、この頃の体験で備わった感性だろう。

ある日、チビは仔犬をたくさん産んでお母さんになった。

その仔犬の愛らしさに心奪われた私は、足繁く通ううち一緒に子育てに加わった。

今にして思えば、犬も時代も大らかで懐が深かった、私のお節介をチビは受け入れた。

木々の繁るお寺の離れは、人の通りは少なく静かであった。そっとチビと名前を呼べば、

ふわっと忍者のように現れる。チビに会えた嬉しさに私はどれだけ満足しただろう。

至福の時間とはあのような時を言うのだと思う。

そのうちに仔犬が育ち、食べ物を与えなくてはならないと思った私は或る行動に出た。

ドッグフードなど見たこともない時代である。母に犬に与える食べ物を願い出たところで

貰えるとは思わなかったし、ましてや仔犬の存在を知られることは何よりも避けたかった。

母にバレることなくご飯を調達するには、母を欺くしかない。

朝ごはんを自分のお腹を満たしたら、御代りをする。飲みこまない。お口の中に入るだけ

詰め込んでしまう。ごちそう様の後そのままチビの所へ駆けつける。詰め込んだご飯を

破ったノートの紙に戻す。そして喧嘩をしないよう先ずはお母さんに、その後に仔犬たちに。

一匹毎を抱え、高さのある場所に移し少しずつをみんなに与えることにした。

犬は雑食と知っていたし、実際に何でも食べてくれたのだ。ふわりとした仔犬の感触、

一心に食べる時の目、小さな手足、拙い歩き方、全てが可愛くてもう夢中になった。

毎朝の習慣になり、膨らんだ私のほっぺに妹などは気が付いて笑っていた。

母だって、私の浅智慧などとっくに御見通しだったのだろう。

子供の頃の記憶は断片的なことが少なくない。

あの仔犬たちがちゃんとに育ったのかも、チビがどれくらい生きたのかも私は覚えていない。

しかし、子供の頃に出会った生きとし生けるものが、与えてくれる愛を享受することは

その後の生き方を左右する。心から愛すること、心から可愛いと思えること、心から大切に思うこと、

そんな心が育ってさえいれば、スプーン一杯の幸せに気が付く人になるだろう。

ペットフードの恩恵を受けながらも、モノが無かった時代の方が豊かだった気がするのが

腑に落ちない。



















そのうちに























ガタつき

2014-11-13 11:30:38 | 日々のできごと
ターニングポイントの50歳を過ぎた頃から身体のあちらこちらがガタついている。

眼、肩、肘、口腔、指、左脇腹寄りの背中、首、ざっとこんな感じ。。。

年齢を考えれば、仕方あるまいとやり過ごしている有様である。メンテナンスもさほどせずに

来たわけだからたまに湿布薬を貼るくらいで済むなら、上々ではないかと思うことにしている、

やり過ごせない時に限り、家族に心配かけたくない故に受診をする。受診したところで

劇的に改善したということはあまり無い。大体に於いて年齢からくる症状つまり長年の使用による

ガタつきということになる。ならば、それらとは上手くお付き合いをしストレスを溜めないに限る。

最近、私自身が会得した人生に於いての生き方指南、つまり良い頃加減で、ということである。

世の中健康ブームで、テレビやラジオ、パソコン、新聞、雑誌、チラシ、とにかく目に飛び込んでくるのは

健康食品、サプリメント、健康器具、健康体操などのCM、書籍である

ほんの少し前までは、こんなモノはおじいちゃんとおばあちゃんが飲んだり食べたり読んだり

するんだわって思っていたけれどそんなことは無い。私はしっかりターゲットってことに気が付いた。

プレ更年期の時の方が、真っ盛りの今より神経質だったような気がする。今にして思えば

若さへの執着か、まだまだっていう根拠のない自信からくる買い被りっていうことか。

いやはや、40代から50代は結構面倒なモノ、環境の激変から来る精神的、身体的な辛さは

理性では理解していても、身体や気持ちはすんなりとは受け止められないからね。

齢を重ねることで、今まで見えなかった部分が見えてくることもあるし、逆に神経質に細かなことに

気を取られることは少なくなったかな。劇的変化の一つに子の巣立ちがあったけれど少しづつ

落ち着いてきた。長女や長男と暮らしている時は感じなかったけれど、現在は自立してくれたことに

心から感謝している。この母にしてはだけど、良い子に育ったなと思う。

長男は経済的自立までもう少しかかる。毎月の仕送りは楽ではないけれど、親としての働く喜びに

繋がっている。誰かのため、何かのために働けるって幸せな事だと思う。

熱中するものが、子育てから他のものに、上手くシフトが出来ると良いと思う。焦ったりは厳禁、

ゆっくりゆっくり自分のペースで、自分を再構築?育てていく感じは私流か。

来月は母の白内障の手術が待っている。日程に合わせて二週間ほどのお休みを貰って帰省する予定。

子育てが一段落する頃には親の介護が現実となってくる、私の子どもたちも、今の私の歳の頃になったら

「あのエミリさんが八十歳だってさ!うわァ~おばあちゃんね~」なんて言うんだろうな。。

私はといえば「四十歳、五十歳なんてまだまだ若いわよっ」って檄飛ばせるくらいに

健やかでありたいと願う。初冬の空は澄み切って真っ青である。










流血

2014-11-10 09:11:30 | 日々のできごと
これは称賛に値する美談なのだろうか。

昨日の朝刊に載った頭に包帯を巻き流血しながら演技をするスケート選手の写真。

演技前の6分間練習の際に激しく衝突し、仰向けで動けなかった。

しかし、棄権をすることなく、満身創痍での演技を終えたとのこと。

解説者はその精神力こそを讃えていたが、世の中に与える影響は小さくないだろう。

スポーツマンシップとそれは異質なものである。

あのような状態での演技を見たい人がいるのだろうか。

彼をそこまで駆り立てたものが何であるか凡人には分からないが、生身の人間である。

今さっき脳震盪を起こした人が、いくらも経たないうちにジャンプに挑むは無謀過ぎないだろうか。

その全容がテレビ放映され翌日には勇者扱いである。

何か変だよ。彼の周りには止められる人がいなかったのだろうか。

私に小さな子供がいたとして、一緒にその時のテレビを観ていたとする。

ポカンとしてる子供に私は言うだろう。「がんばらなくていいよ。がんばるときはいまじゃない」

将来のある若い選手ならば尚更な気がしている。





























夜もすがら

2014-11-06 22:31:23 | 日々のできごと
ハナミズキが紅葉し、真赤な夕焼けに山々の稜線がくっきりと美しい霜月、

霜月は天も地も人も、温かな赤い衣を身に纏う。

171年ぶりというミラクルムーン、後の十三夜の月は残念ながらお目に掛かれなかった。

171年前がどんな時代であったのか?264年続いた江戸時代は1867年で終わっている。

その24年前だから1843年、昨年の大河ドラマ、八重の桜のヒロイン新島八重さんの旦那様の

新島襄さんがお生まれになったのが、1843年とある。なるほど、この後、大政奉還がなされ

時代は明治へ向かう。もしかしたら171年前のミラクルムーンは新しい時代に向かう予兆か?

そんな風に思った江戸の人がきっといた気がする。江戸の時代はそんなに昔ではない。

日暮れが早くなって、何だか人恋しいこの頃である。

メールの一つも届かない日などは、ついつい寂しくてヤケッパチな気分になるのはお齢のせいか?

二匹の猫は、付かず離れずの程良い距離で私の心を温める。

図書館で『臨書の疑問』という本をお借りしたが、良き道標となる本であった。

良書との出会いは人との出会いと似ている。

夜もすがらもの思ふ秋は終わり、明日は立冬である。
















スマホと仲良くなるために

2014-11-01 13:23:37 | 日々のできごと
長女が幼稚園の頃だったと記憶している。

ママ友の一人が、発売されたばかりの携帯電話を見せてくれた。

我が家に子機とファックス機能がある電話が来て、間もなくであったと思う。

僅か20年程の間に、その方面の進歩のなんとめざましかったことか。

一般家庭にパソコンが普及し、書棚の百科事典が無用の長物と化した。

老若男女が携帯電話を携帯するようになり、メールを打つのに誰も彼も忙しくなった。

その後、スマートフォンが出現、あっという間に世を席巻してしまった。

ご多分に洩れず私もユーザーであるが、このスマホの存在が悩ましいのだ。

ついつい手に取って、どうでもいい掲示板などに気を取られ、あっという間に一時間経過、

このどうでもいい情報に費やす時間が、勿体ない事この上ないのである。

歯止めが利かなくなるスマホの常習性は、毒じゃないかとさえ思う。

有意義な人生を送りたいならば、スマホなんかに翻弄されてちゃダメだわ。

スマホで読書もしてみたけどイマイチだったし、自撮り写真を修正アプリでもってキラキラにしても

何だかな~って私は虚しくなるタイプ。LINEは愉しいけれど実際におしゃべりする方が嬉しい。

ごく普通に生活している私にとって、いくら便利でも、その殆どが必要のないモノだったりする。

そういうモノを潔く手離すことで、丁寧に暮らすことを真面目に考えていたあの頃に戻れるだろうか。

回顧ではなく、これからのためにである。