エミリの一筆啓上

#日記ブログ#猫ブログ
日々の思いを綴ります。

花の便り~ライラック

2013-05-31 16:30:39 | 日々のできごと
昨日、仕事から帰宅。ポストに届いたもの全部をさらって愛犬が待つ部屋に入った。

私宛の手紙が二通あった。筆跡から長女と妹からの手紙だと直ぐにわかった。

妹からは写真が、長女からはきれいな便箋一枚に近況がしたためてあった。

メールも良いが手書きの手紙は違った嬉しさがある。長女の手紙にはライラックの

切手が貼られていた。春から夏の札幌の街はライラックの花と香りに包まれるという。

春が見えない雪ばかりの三月、四月はどうしたものかと娘の心の内を案じた。

GW頃に会社の研修で東京に来たが、街の新緑がやたら目につくのよ、と言った。

暖かくなれば気持ちも外に向くだろうと思ったが、そこで初めて暮らす人にとっては

先の見えない鉛色の空と雪景色は、時に深いため息だったのかも知れない。

『昨日は本当に埼玉に帰りたいと思ったよ』ってメールをもらった時は切なかった。

『いつでも帰っておいでよ』と返す甘い母だが、娘の性格からしてこのタイミングで

辞めて帰ってくるなどの選択が無い事は分かっていた。

まったりとした文面から春の暖かさによって気持ちほぐれる長女の嬉しさが伝わる。

お手紙を書いて見ようかって思う気持ちが春なのだ。笑顔が増えたかも知れない。

出盛りのアメリカンチェリーが佐藤錦に変わる六月の下旬、長女の誕生日がやってくる。

梅雨の晴れ間の抜ける青空がどこまでも広がる五月のみそか、明日はもう水無月である。














































梅仕事に思う

2013-05-29 07:56:48 | 日々のできごと
例年より早く九州地方が梅雨入りした。薄ら寒いどんよりとした雲を眺めつつ

関東も直に梅雨入りか。梅の木をよくよく見れば茂る若葉の間に梅の実が

あっちにもこっちにも生っている。季節は歩みを止める事無くどんどん突き進む。

実家にいる頃の母の梅仕事の情景は美しかった。この季節特有の気候とざるに

盛られた青梅の好ましい香りは、幼い頃の記憶をくっきりと呼び覚ます。

家族を持ち暫く経った頃、私も見よう見まねで梅仕事に精を出したことがある。

梅干し作りは、自然と人の手と時が織りなす芸術のような作業だと思った。

手塩にかけた一粒には、作った人にしか分からない愛おしさがある。

在る年、梅干し作りは母の領域であると悟って以来、私は作っていない。

母の生きている証のようなその赤い実を、有難く頂戴する。

末永く末永くと祈りながら。








美文字ブーム

2013-05-26 16:56:38 | 日々のできごと
〆切が近い。昨日、今日と缶詰状態でお習字の課題を書いている。

毎月の課題を月初めに頂く。漢字、仮名、臨書、一字書を仕上げ出書する。

同時に硬筆と硬筆かなの課題を決められた用紙に付けペンで書く。

美文字ブームという事を最近知った。昨日送られてきたフェリシモのカタログに

美文字レッスンという講座の申し込みが同封されていた。6回コースで一ヶ月千円ちょっと

だったと思う。メッセージカードや慶弔の封筒の名前書き等、さらさらと書けたら良いが、

かなりの年数を学んでいるはずの私は、さらさらとは書けない。

「書は人なり」 新しい言葉では「字は体を表わす」と言うが一理ありそうだ。

得手不得手というのでは無く、書かれた字は大体に於いてその人らしいと感じる。

穏やかな人は極端に上がったり下がったりせず字の大きさがほど良くやわらかい。

逆に、極端な上がり下がりのある字を書く人は体を表しているかなと思う事も、、、

筆圧を掛けて超スピードで書く人は集中力のある人だろう。息子はこのタイプ。

漢字も仮名も同じ大きさの人はB型のような気がする。トメやハライが自由だ。

これでいいのよって言える大らかさも良い。娘達はこのタイプ。主人もだ。

その人の書かれた字と人柄との整合性や矛盾点から人間的魅力が垣間見える。

突き詰めれば書家や文字を職業とする人でなければ、その人らしい字で不足はないのだ。

美文字も良いが、書を学ぶ端くれとして美しいものとそうでないものの違いくらいは分かる人に

成りたいものである。


























昼下がり

2013-05-24 15:54:03 | 日々のできごと
予定のない日には、庭仕事をしようと思うのに、いざとなると家事やらお習字の課題やら、

諸々が気になりついつい後回しになる。見て見ぬ振りをしていた訳ではないが、

屋根より高く伸びた月桂樹をゴミ出しの帰りにしばし眺めた。我が家は住宅密集地にある。

家族が出払った後、玄関内の傍らにスタンバイしてある高枝切りハサミを掴み、取り掛かった。

一日で終わらせるつもりは無いから疲れたらおしまい。落ちた枝は見上げた時より長く感じる。

エプロンにサンダル履きの軽装でノコギリを操る私を、ご近所さんは見慣れていらっしゃるが、

少し気の毒な目を向けられ、「良く伸びたわねぇ。大変ねぇ」 「奥さん、何でもやるのねぇ」と

声を掛けて下さる。好きでやっているので苦にはならないのだが、、、

この月桂樹には、キジバトがやってきて低い声で鳴いている。雨の夜は雨宿りをしている。

キジバトの定位置は、切らないよう気をつけたがどうだろう。巣は掛けていなかった。


少し疲れてしまった。娘や息子が使っていた二階の出窓のある部屋に横たわってみた。

枝の隙間から青い空が見える。五月の風に枝が柔らかくしなり、葉が揺れる度に風の通る音がする。

時折、昆虫の羽音が聞こえる。

実家で暮らしている頃は、こんな昼下がりが日常にあったような気がする。

朝刊では、八十歳の三浦雄一郎さん、エベレスト登頂成功の記事が一面を飾っていた。

こういう話題は嬉しい。生涯現役の原動力は良い仲間や家族の存在ではないだろうか。

一昨日、母との携帯の稽古で『だいぶうまくなったね。』と私からメールを送信。

母に本文入力をお願いし、OKボタンを三回押すよう伝えた。母からの返信が素敵だった。

『ほたるがいる』

母に写メが撮れたらどんなに素晴らしいだろう。私の方が夢膨らむ今日この頃。

天国の父の「こらこら、母さんを余り困らさないでくれよ。」って声が聞こえてきそうである。









空のどこかに

2013-05-22 10:02:32 | 日々のできごと
五月十日は父の命日である。

父が亡くなった後、父の写真を置く為に自宅の壁に棚を作った。

作ったと言っても近くのDIY専門店にて私でも手軽に取り付けられる棚のキットである。

壁面を背に三つのスクエアの枠を同封のネジで留めるだけで、三箇所の小さな棚が出来る。

小さなグリーンや小物を置いている。横に長い棚には父の写真を置いている。

所用のついでに我が家を訪ねてくれた七十になったばかりの写真の父はまだまだ逞しい。

線路沿いに立ち、幼い長女と長男と走り去る電車を見つめる目は優しく穏やかだ。

私はレンズ越しに見たこの日のこの時の情景を今も覚えている。滞在中は子供達の運動会を

見に来てくれた。後にも先にも一度きりであったが一緒にシートに座ってお弁当を食べた。

賑やかな通りで買い物をしお昼にランチをいただいた。父は出された物は残すことなくいつも

綺麗に食べた。美味しい?と訊ねると大きく頷いた。質素であり贅沢を嫌う戦前生まれの父。

母とは対象的で無口な人であったが誠実であった。そんな父が亡くなって五年が経つ。

朝にお線香を火を点し水を取り換え、手を合わせ目を閉じる。こうする事で気持ちが落ち着き

生活のリズムが生まれる。好きな香りは白檀、実家の仏間に沁みついた定番の香りだ。

白檀以外にも国産で好きな香りの物に出会うとつい手に取ってしまう。

祖父母がいて父がいて母がいて私がいて娘や息子がいる。多感になった高校生の次女が

生きる事への疑問を口にする。人は死ぬのになぜ生きるのか。脈々と絶える事なく受け継がれてきた命。

百年足らずの一生は長いのだろうか、短いのだろうか。半世紀生きた位では答えは見出せない。

三人の母となった私は、自分を産み出してくれた両親に、生まれてきた子供達に、生きている自分に

深く感謝をしたくなる。上手く言えないがきちんと自分らしく生きてみたい。父や母のように。

本日も爽やかな青空である、田植えが終わり早苗が風に揺れる。直に初夏である。

札幌在住の長女からは土筆がいっぱいの写メが送られて来た。北の大地に春の到来か。

北に南に、東に西に、そしてこの空の何処かにいる父に、思いを巡らす五月の美空である。