エミリの一筆啓上

#日記ブログ#猫ブログ
日々の思いを綴ります。

映画を観る

2018-02-27 07:19:20 | 日々のできごと
「前回観た映画はなんだったっけ」「岡田くんの永遠のゼロかアナ雪?」


随分と前であるのは確かだ。


久しぶりに次女と映画を観た。徒歩圏の映画館ではなく買い物もしたいとの事で、少し先まで電車に乗った。




数日前の新聞広告に載っていた『空海』割と好きな阿部寛さんは阿倍仲麻呂役。日中合作と聞いて『レッドクリフ』のような感じを期待していたら、あれま、なんだこれ、最悪、閉所恐怖症の私には酷である、案の定その夜の夢に出てきてうなされた。


コンピュータを駆使した映像にボンとかヒューとか擬音ばかりが頭に残る。ストーリーを重視したい私には理解不能。 そこそこお客は入っていたけど。。白居易の声優担当の高橋一生さんや阿倍仲麻呂役の阿部寛さんが名前を連ねてはいるけれど。。それだけである。


「低迷期の二月に観る映画はこんなもんだよ」次女と笑いながらブラブラ歩いた。帰省中の息子も誘ったが映画はいいやとお断わり、もし観ていたらどんな感想を持つのかちょっと聞いてみたかった、いやお昼寝タイムだったかな。。


二月もあと二日、息子のいる生活が馴染んできて、臆病な猫がようやく懐いてきたこの頃である。寒さ緩み、菜の花揺れる宮崎の地に戻る日はもう間もなくであるのだなぁ。






春の兆し

2018-02-19 07:02:01 | 日々のできごと
おはよう。
どんな朝を迎えていますか?
君の幸せについて一晩中考えてたよ。


君の望むハッピーを押さえ込み、こらこらって時折出てくる君の澄んだ思いを、モグラ叩きみたいに自分で叩いている。


何のためなのかわからずにいます。


自分らしく生きてはならないの?


自分自身がしっかりと見えていますか?


君の人生、君の生き方、共に生きるならば尊重されるべき事だと思います。

















光の春

2018-02-11 16:52:55 | 日々のできごと
日脚が長くなる立春から春分までを光の春、三月を音の春、四月を気温の春と表す。確かに、二月になると陽射しはぐっと春めく。

外で暮らす猫は、日向を目ざとく見つけ移動し体を温めている、光の春に猫は伸びやかに身体をゆだねる。

一作々日、桜咲く四月に祝言を挙げる長女から結婚式の招待状を頂いた。

友人にウェディングのボールブーケを依頼し、つまみ細工の花びらの作り方を教えて貰った。花嫁の娘が手に持つブーケ、娘が幸せでありますようにと、作る花弁の一枚一枚に小さな思いを込めてみる。

長男は試験二日目である。昨日は神社で手を合わせた。ふと肩の力が抜けた瞬間、神様は大丈夫大丈夫と呟かれたような。。


私は、一月の終わりから二月は毎年低迷期である。だからといって大きな障りがある訳ではないが、何かにつけ順調ではなくなる。

例えば、物事は意図しない方向に流れたがる、買い物はしたけど小さかったり大きかったりで必ず二度手間になる。

内向的になる気分は逆らわずそのままを受け止めるのだ。

ゆっくりと、そのうちに、ぷくりぷくりと命の音がしてくる。光の春から音の春に向かう。












春よ来い

2018-02-08 08:08:00 | 日々のできごと
六年前、息子の大学後期試験の前泊のためネットでポンと予約したホテルの名前を思い出せずにいたら、確か確か、タクシーの運転手さんに「太陽閣へ」と告げたような気がして検索してみた。『太陽閣』という名のホテルは確かに在る。


その日、私は勉強の邪魔をしない様にと山崎豊子の『大地の子』の文庫本を持ってロビーに居たのだ。窓の向こうの太平洋を暫し眺め、随分と遠くへ来ちゃったなと思った、なにせ埼玉県は海なし県であるから。


宮崎県は風光明媚な土地であるが、その日は流石に観光は眼中に無かった。私は付かず離れずの距離で息子を見守る以外何もする気がおきなかったのだ。

後期試験当日、ぎりぎりまで勉強し、ようやくテキストを閉じた息子に「行ってらっしゃい」とだけ言い見送った。宮崎は菜の花が咲いていた。

あれから六年の歳月、明日は国家試験日。春よ来い











慢心

2018-02-05 00:36:18 | 日々のできごと
睦月の晦日は赤い月であった。
スーパーブルーブラッドムーンと盛り沢山な皆既月食、猫を抱いて一緒に眺めた。

翌日の夜半から二度目の降雪、前回よりも水気の多い雪質のようであった。

3日の節分には太巻き寿司を作った。節分に恵方巻と言う名の太巻き寿司を食べる習慣は無かったが、今では当たり前の様にコンビニに、スーパーに並んでいる。慣習や流行は自然発生するモノと思いきやそうではない。人や企業が流れを創る。

易々と乗っかってしまう優柔不断さを私は好まないが、最近は逆らうよりスルーしてしまう。


情報過多な世の中、さも万人がそうであるかのような、言葉は悪いがつまらないニュースのなんと多い事か。見なければ良いではないかと思うが、ついつい見てしまう滑稽さをなんとしよう。

次女との会話である。
「朝イチの司会者が変わるんだってね、イノッチの次が吾郎ちゃんだといいなぁ。あるわけ無いけど、笑」


「そうらしいね、そのニュースみたみた。そもそも朝イチの司会者が変わるってニュースになるんだね、観てる人にとっては関心事なんだろうけど、観てないからかな、その程度の事がさも大ニュースの様に取り上げられるのってメディアの買いかぶりなんじゃないかって思うのよ。」

世の中は流れていて、次の人が座ればそのうち日常になって行く。

人は長くそこに居座ることで慢心が現れることがある。それは観ていて気持ちのよいもので無いことは確かだ。