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学歴とコネと大学の価値

2008-12-21 11:22:24 | 感想
(12月24日追記)
その後、周りの人(とくに現役学生さん)に話を聴くことができた中で、出身大学よりも、出身大学院がどこかということの方がキャリアには重要かなあという印象を受けました。学歴社会がなくなったのではなく、大学卒業では差がつけられなくなってきて、その上のステージに移動しただけのような気がします。いままで塾が担ってきたことを大学が担当し、そして大学院で最低限の品質保証としての学位+大学のブランド価値=コネの二軸で評定されているのが実情なのかなと分析しました。(追記ここまで)
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ポール・グレアム「学歴社会の次に来るもの」 - らいおんの隠れ家

感想です。

なんだか面白そうなことやってるなと、ただそれだけの理由で少しだけとはいえ臆面もなく参加させて頂きましたが、翻訳作業はとても楽しかったです。語学学習としても、文意の読み取り練習としても、lionfan様はもちろん、コメントや回答に寄せられた素晴らしい知恵から非常に多くを学ばせて頂きました。読めているつもりでも案外分かっていないもので、自分で手を動かして体験した上で理解を深めていく作業は実に刺激的。

大筋では見通しも立てられたご様子なので、ここから先は、やはり普段から背景を良く勉強されている方にお任せする領域に入っていきそうです。翻訳作業のお邪魔にならないように身を引きつつ、個人的な興味は既に、米国での学歴の意味に移っていたこともありまして、そっか、じゃあこの機会に自分の経験や見解などを書き留めておくか、てな具合で、以下、一個人の実体験に基づく主観に満ちた戯れ言になりますが、こんな様子もあるのかと気軽な気持ちで。

きっかけとなったポール・グレアム氏のエッセ-は、私にはちと難しくて、中盤や最終段落など、まだまだ理解できない部分がたくさんあって、それはまあ元々の関心の低さもあるので仕方がないとして。ただ、どうにも気にかかっていたのは、日本と米国の教育システムの違いのことでした。日本のシステムを連想していると読み誤るんじゃないかなあと懸念していました。受験の話題から始まって、「名門大学に入ること」=「学歴を得ること」という連想を与えつつ、いつのまにか「どの大学を出たか」「どんな学位を得たか」という履歴までもそこに包括して語られてしまっていることに疑問を抱いてしまいました。よく耳にすることですが、日本の大学は入り難く出易い、米国の大学は入り易いが出難いという印象があります。当たらずとも遠からじという実感です。そこで、このエッセーを米国の当事者達はどのように受け止めているのだろうという実態を覗いてみたところ、このような塩梅でした。
"After Credentials" (Paul Graham) - Page 3 - College Discussion
Hacker News | After Credentials
ついでにもう一個
Paul Graham on Credentials: My Thoughts | Leveraging Ideas
学生と社会人、それぞれの立場の違いが議論を分けるようですね。評価される側は、学歴の評価の公正さをどのように保つか、それをどのように活用するか、といったことが気になるし、評価する側に立てば、成果の予測に個人の履歴をどう取り込んで利用するのかという議論になるようだと分析しました。でも、


「こんなの酸っぱいブドウだろ(意訳:学歴ないやつの嫉妬だろ)」
「いや、彼、高学歴だから」


みたいなやりとりや、


「performanceの話でabilityとは区別しろよ」
「いえ、私はずっとabilityの話をしているつもりですが」


といった掛け合いを目にして、ああなんかわかるなあという共感が湧いてくる辺り、当初の疑問、日米の大学システムの違いなどは関係ないのかなという結論でとりあえず留めておくことにしました。

で、実際に米国の比較的アカデミックな場所に今所属して眺めてみた実感として、「学歴主義」のニュアンスが若干異なるのではないかなと思う部分があります。

先に基本的な前提として、まず米国の大学入学の仕組みの簡単な確認。大学個別の入学試験はありません。全ては申請書と個別面談で決定されます。学校での成績と内申書+推薦状が合否の鍵です……というのが私の理解ですが、自分自身が手続きを経験した者ではないので、より詳しい話は相応しい方にお任せしてしまいましょう。
日米教育委員会 制度 1 A. 日本との制度の違い
こちらは、大学の数から大学の認定機構の話まで、情報がよく整理されていて面白かったです。特に教育理念の項目が興味深い。大学は知識や技術を授ける場ではないんですねえ。他にも以下を参考に。
学ぶ意思を尊重する アメリカ高等教育の仕組み(2) - 最新号特集 - 日本語によるロサンゼルス&サンディエゴ現地情報 - ライトハウス
進路システムのしくみと大学生活(上)

進学準備の過程で申請者は、予めSATなりACT、留学生や移民ならばTOEFLなりの、各種「学力保証試験」を受けて成績を取得する必要があります。でも、これらの試験に対してprep schoolなり予備校なりがあるものなのかなあ、どうも聞いたことがないのです。ここがあまりに田舎だからかなあ。とはいえ、それに相当する言葉が存在すること自体、予備校なり塾なりの存在の証明なのでしょうね。確かに本屋にいけば一区画を占めるほどに、あの手この手の試験対策本が並べられているので、大学入学支援ビジネスが充分に成立しうることは素直に頷ける。でも中身をぱらぱらと見た限りでは、SATってせいぜいセンター試験程度のもので、癖がなく扱い易いものなのではないかなあと勝手に想像しています。なので日本で言われる程、大きなビジネスにはなり辛いのではないかと。

というのも、そもそもSATなどのウェイトはさほど大きいものじゃなくて、むしろ重要なのがGPAなる学校の成績履歴であり、ボランティア活動や人柄について保証する推薦状などになるからです。日本であれば内申書にあたるでしょうか。これが高校の担任によってどのように書かれるか、あるいは身内なり先輩なりに有力な推薦状を書いてもらえるかどうか、その辺りの駆け引きは無視できないし、そのための良好な人間関係の構築が大切と多くの人が考えているように見えます。周りの人達が自分の将来の成否の一端を握っているというのはプレッシャーですよね。そして推薦状は、コネクションというより、身元保証としての位置づけが近いようです。何しろ広い土地なもので、大学進学は独り立ちのタイミングでもあるわけでして。寮長や管理担当者などになると、警察から、ドラッグの見分け方や対応の仕方(二次的被害が出ないように部屋を換気する段取りだとか)、拳銃の安全管理の手順などを一通り指導されるようなお国柄ですから、「履歴」ってのは、治安保証の意味でもとてもシリアスなものなのです。だからこれを第三者が保証する必要がある。大学進学時の推薦状には、どうもそのような意味合いも含まれているんじゃないかなあと感じるのです。Reference letterと呼ぶのも示唆的ですよね。自分はポスドクなのですが大学院への推薦状を頼まれたことがあります。最低でも5人くらいからのレターが必要だとかで。なるほど、それくらいの人数から信用保証が求められるのだなあと思ったものです。ここ(推薦状のルール(林 文夫))ではもっとはっきりとその旨提示されています。コネクションよりも、実際に申請者の人柄を知り得る立場であることが大事だったようです。実態を知っている人物からの身元調査報告書といったところ。身元保証人ですね要は。

余談になりますが、私が触れた推薦状の仕組みはとてもシステマティックで面白い体験でした。指定されたネットのページにアクセスして、そこで直に記入するようになっていて、基本的な推薦文の項目以外にもいろいろな質問がありました。「過去に何人を推薦して、申請者はそのうち何番目に当たるか」だとか、「うちの大学にふさわしいと思うか」だとか、「分野への適性について/性格について、具体的な人柄を表すエピソードを教えて欲しい」だとか。推薦者自身のキャリアというか信憑性も問われるようで、自分のバックグラウンドの説明等も求められることがありました。

そういった状況をふまえると、学歴社会といっても、こちらのそれは、ちょっとニュアンスが違うものになりそうな気がします。むしろ信用社会といわれる方が自分にはしっくりきます。「学歴」=「信用」なのではないかなあと。で、そうみると、権力の介入に予備校が貢献できる要素は少な過ぎるのですよね。むしろ権力は直接人間関係に影響して、目に見えないままパフォーマンスの評価を歪めることがありそうです。

そのあたりの歪みを見抜くには、当人との面談も大変重要で、対面してみて素の相手を剥き出しにしようとするテクニックが面接官には要求されてくる訳ですね。自分がこれまで何をしてきたのか、進学にどのようなビジョンを持っているのか、それがはっきり提示できない人物などは信用ならないわけです。そんなわけで、大学入学の為の面談で、すでに明確な将来設計、意思表示、プレゼンテーションが要求されるのです。でもこれはこちらの人にとってごく当然のことで、そういうトレーニングは小さい頃から積まれてきている(参照:自己表現力教育)し、その内容や能力自体、常に評価され続けてきているのです。人生の節目ごとに自分の人生設計や指針を問われる訳です。説得することが自分の人生を切り拓く為に必要なのですから、この点がもはや意識されないくらいに当たり前になっていると、当人達から議論にはのぼりにくいでしょうけれど。

日本と比べれば遥かに、奨学金(返還不要)も学生ローン(要返還)も充実していて、サポートを受けられる層が格段に広いです。社会の空気としても、年齢性別経歴問わず基本的に誰でも生涯学習するのが大人のたしなみでもあるので、学校に通うことは仕事をすることと同程度に当たり前として受け入れられているようです。とはいえ、職場環境は大きな要因です。労働環境が格差を生じさせるので、経済的に苦しい立場の人は、忙しさにかまけてなかなかステップアップの余力が残らない。軍隊にいく人などはおろらく最も典型的でしょうね。任務による拘束から完全に解放されて、ようやく大学に入学する準備を始めることができる。みなそれぞれにチャンスは与えられるのだけれど、その間にも経済的に恵まれている人は、絶えず自分の適性を確認して進路転換を重ね、さらにキャリアの上積みのためにMBA、MS、PhD、MDなどを取得していってしまう。これらは学歴というよりも、サラリーの最低賃金を保証する資格という認識が強いのではないかと、普段の会話を聴いていて感じます。キャリアを積むことが安定した人生=収入をより確かなものにするという確信があるような。だから、結局は手持ちのビジネスがあるかどうか、資産があるかどうかという視点に戻ってくるのですね。実際、学歴以外の資産、土地であったり、工場であったり、貸し家やらハンティングやらでも、そういう「モノ」を持っている人はキャリア志向が薄いようで、しっかりバケーションをとるし、結果に対しても比較的おおらか。そういう人でも勉強は欠かさないという風潮がこの国の長所ですけれど。そのような人達でもいくつもの大学に通ったり大学院で学位を取得したりしますが、こうなるともう単に自己満足というか、自分の到達度チェックのための検定試験のような扱いなのかなあなどと想像してしまいます。

大学に入ることと大学を卒業すること(学位を得ること)は別個の意義があって、それぞれがきちんと、人生の成否あるいはビジネスの成功に結びつく価値あるものだと思うのです。一緒にして捉えてしまうのは勿体ない。

大学に入るとはすなわちコネを得ることです。上で挙げたリンクの教育理念の項目にもありましたが、学生自らスキルを磨き意見戦わせる場を提供することでそこに人脈ができ、ノウハウが蓄積されるのです。これを明確な目的とする才能ある学生は、夜間大学やコミュニティーカレッジから州立大学、私立名門大学に到るまで、大学を問わず決して少なくありません。スタートアップマインドがとっくに確立されている人達は大勢います。すでにその次の展開のビジョンを求めていますし、良いクラスメートに巡り会えればコラボレーションも図りたい。とりわけ際立った人達は、実際、大学あるいは院生時代に仲間とさっさと起業して学校を去り、大きく成功してそのまま中退してしまった話など、かなりあるのではないでしょうか。

大学を卒業するとはすなわち信用保証を得ること。この学位こそが信用を保証するものと判断されるのですよね。なので、韓国の受験事情が導入に使われた理由が今ひとつ分かりかねています。で、これも巡り巡ってゆくゆくは将来の人脈にも繋がるけれど、必ずしも狙ったものが得られるとは限らない。コネを獲得することは大学を卒業する主要目的ではない。より直接的には、ある種の資格証明、能力証明と受け止められるもので、必要条件として求人でも用いられるもの。コネに対する認識も日本的なウェットな信頼関係の絆という意味合いから離れているように感じます。ドミトリーとかファミリーとか、ある種のルール制約下におかれていますよという宣言。それは前提を共有している/ルールを踏み外さないことの表明として機能するのがコネなのではないかと思える節があるのですよね。

結局の所、どのような主義が広まったとしても、それは、人と人との繋がりを表明する仕組みなのだろうなと。極端な話、家柄で表記されていた権力譲渡証が、見た目だけを変えてみたものなのかもしれません。成果主義すらも、突き詰めるとそこに辿り着いてしまうかもしれませんが。人と人との繋がりが明示されるのが何よりの安心ですからね。

実は真に皆が望むものは「安心」なのであって、自分が安心するための指標として、価値基準となるのがお金であり、それを操る経済であり、ビジネスであると。

安心を担保する為に求められるものが「成果・業績」
コンスタントにその供給を保証するのが「能力・実力」
能力や実力を評価/保証する指標としての「学歴・信用」


と、こういったことなのかなあと思い到った次第です。

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