え~はなし

いらっしゃい!コメントしてね!

待ってたんだよ

2005年08月25日 | ほろり
「ケンタの調子が悪いらしいの」

女房言ったのが七月末のことだった。
ケンタとは女房の札幌の実家で飼う犬のことだ。シェトランドシープドッグという犬種である。

私がケンタとであったのはもう10年前になる。
当時まだ3歳。やんちゃ盛りだった。
そして彼は犬としてはいい顔をしていたと思う。
犬に対して言うのは変だが『男前』だった。

私のボロボロのジーンズの裾を知らぬ間に咬んでさらにボロにしてくれたり、興奮するとチビる癖があって、よく家族に怒られてたっけ。
「ケンタ、チビッたでしょ!」
っていうと、それをごまかそうとして更に騒いだりして。

犬は家族の順列を知っているという。
それでいうとどうもケンタの中で女房は家族で最下位だったようで、その下部たる私は更なる下僕だった。

ヤケに人間味(?)のある犬だった。

そのケンタも13歳。
目の調子が悪く片目はほとんど見えていないようだ、という。

「帰ってくるの待ってるんじゃない?ほら、動物って死期を知ってるっていうじゃない・・・」
「まさか」

なんて話をしていた。

女房と娘二人が札幌に帰るとしばらくは元気でいたという。

しかし日が経つごとにその元気も失われていく・・・
ついに半日以上寝たきりになってしまった。

娘二人の圧倒的なパワーのせいで疲れてしまったのだと感じた妻は予定よりも早く帰省を切り上げることを決断する。

そしていよいよ明日戻るという日の夜・・・
ケンタはついに動かなくなってしまった・・・

「ケンタ、ケンタ!」

揺すってももう動かない。
妻がお父さんを呼びに行こうとしたそのとき・・・

「奇跡のようだったわ」と妻。

スクッ、とケンタは立ち上がり一家の主を迎えに部屋まで歩いていったのである。

そして

家族ひとりひとりの顔を確かめるように見渡したあと、ケンタはゆっくりと眠るように天国に旅立っていったという。

「やっぱり待ってたんだよ」
「うん。今となってはそう思う」
「下部が帰ってきて、一番甘えられる人が来たから安心して眠ったんだよ」
「・・・」


ケンタ、安らかにね。

涙の表彰

2005年07月03日 | ほろり
1992年・夏―

大学二年生の私は合宿地・飯綱高原で途方にくれていた。

秋のリーグ戦本番を前に実践を重ねるメンバーを固めるための合宿だというのに、私はいわば二軍からのスタートを言い渡されたからだった。二軍といっても実質的には何の経験も持たずに入部してきた一年生の相手をするという立場だった。

私は焦りを感じていた。
チーム内でも珍しく高校からの経験者であるのに・・・
二年の秋のシーズンである程度大学のレベルに慣れておきたいのに・・・
他のポジションの二年は既に主力の座を確保しているのに・・・

当然、練習に身など入るはずもなかった。

そんなとき。

同じポジションの四年生のIさんが腰痛を悪化させて一軍の練習をリタイアすることになった。
その空席に私が呼ばれたのだった。

「このチャンスを絶対に掴みたい。掴まなければならない」
私は「スピード」という自分の長所をアピールしまくった。
100名からの所帯のチームで上級生やスタッフの目にとまるべく、頑張った。

誰よりも走った。
1ヤードでも前にボールを進めるためにねじ込んだ。跳んだ。押しこんだ。

その甲斐あってか、合宿最終日には私は1.5本目の座を確保することができた。
つまり、先発選手が怪我したら、あるいは調子が良くなければ試合に出る立場にまで上り詰めたのだ。

合宿最終日の晩というのは、合宿でのMVPや新人賞が発表される。
受賞したのは私と同じ代のQBのHだった。
彼の華々しいプレーや活躍ぶりをみれば誰もが納得するMVPだった。

そしてその打ち上げのあと・・・

私は4年生のIさんの部屋に呼ばれた。
同じポジションで腰痛で合宿をリタイアを余儀なくされた、あのIさんである。

同じ4年生のKさんも部屋にはいた。
私はビビッていた・・・一体何を言われるのだろう?

I「あのな・・・」
私「はいっ!」
I「チームのMVPは確かにHだったけどな・・・」
私「はぁ・・・」
I「オレのなかじゃお前がダントツのMVPなんですよ」
私「あ、ありがとうございます」
I「だからよ、これ・・・」

と言ってIさんが私に差し出したのは汚いノートの切れ端に書いた手書きの表彰状だった。
字だって汚いものだった。
でも確かに私の名前が書いてあった。

私は泣いた。

自分だって怪我をして悔しいだろうに・・・
私を讃えてくれたIさんの懐の深さに涙が止まらなかった

「この秋はこの人のためにプレーしよう」と心に決めたのだった。

結局そのシーズンは二部のリーグ戦に優勝し、一部との入替戦で敗退した。
私自身はポイントで試合に出ることができ、チームとしても個人としても充実したシーズンだった。
そして、そんな私を陰で精神的に支え続けてくれたのがIさんだった。

早いものだ。

あれから、もう13年が経とうとしている・・・

そんなIさんが歌舞伎町に念願の居酒屋をオープンすることになった。
今度は私が応援する番です。石黒さん。

そんな石黒さんのお店の名前は「わくわく」。
みなさん、機会があったら行ってみて下さい。
7月6日オープン。

☆居酒屋「わくわく」
新宿区歌舞伎町1-6-6橋本ビル2F
03-5272-3108


あるかまくらにすむ・・・

2005年05月29日 | ほろり
そよ風が気持ちいい午後、着の身着のまま娘と散歩。

住みなれた街。歩きなれた道。

途中で立ち寄ったコンビニで妹のお菓子も一生懸命選ぶお姉ちゃん。

帰りは長い坂道。

・・・荷物は私がもつの。

頼りになるね。

よいしょ、よいしょ・・・



・・・パパ。

ん?

そろそろ・・・つかれて、きたから・・・

うん。

あそこの、ベンチで、少し、おやすみ、しよう

いいよ。

人通りが少ない大通りのベンチで一休み。
時間がゆったり流てる。
シルバータウンも悪くない。



・・・パパ。

ん?

よろこぶかな?お菓子?

うん。きっとね。



あるかまくらにすむぱぱのきゅうじつ

5年前

2005年05月22日 | ほろり
思い出すなぁ・・・もうあれから5年かぁ

あの日は忘れもしない月曜日だった。

前の週の木曜日から私は女房の実家に泊まりこんでいたのだ。
「そろそろ産まれるかも」なんて連絡をもらったからね。

でもなかなか出てこようとしなかったんだよね

面白いもので出産に立ち会ったことのある先輩パパたちは
「絶対に立ち会うべきだ。あんな神々しいものはない」と立会いを勧め
反対に立ち会わなかった人は
「あれは女性の戦い。男が立ち入るべきでない」という。

結局私は立ち会うつもりでいたのだ。

でも。

その兆しは一向にこない。

週末を過ぎ、月曜の朝には会社に必ず顔を出さねばならないこともあり、朝一番の飛行機を手配した。
で、日曜の晩、寝た・・・

「でも、スグにまた戻ってくるからね」なんて女房にいいながら・・・

明け方。

女房がバカズラして眠る私を揺り起こす。
「ねぇ・・・病院・・・行った方がいいとおもうんだけど」
「!」

そのまま私は女房を病院に連れて行き、分娩台にあがるところまで付き添えたところで飛行機の時間が迫り、後ろ髪を引かれる思いで病院を後にした。

女房の実家に戻り義父さんと義母さんに「いま分娩台にあがりました」と報告したときの慌てぶりは忘れられない。

で、私は飛行機に乗り電車を乗り継ぎ、会社に・・・
今頃どうしてるかな・・・
そういえば腹減ったな・・・

なんて思っていたら女房から電話。息を切らせて
「いま、産まれた・・・フウ」

11時半過ぎだった。

立ち去りがたい顔をしていた私のことを気に掛けてくれていた助産婦さんが出産直後に女房の携帯を持ってきてくれて、分娩台の上から私に電話をくれたのだった。

そしてそのまま午後一番の飛行機で私は再び女房の実家に行ったのだった・・・

って、そんな思いでも今は昔。

今では女房と一緒に作ったミルクレープを抱えて
「パパは太ってるから食べちゃダメッ!」
と仕切るまでになりました。

これからも元気に育ってね。
何よりそれが親として嬉しいんだから。


おめでとう!

2005年04月06日 | ほろり
頭が、痛い。
二日、酔いだ。

私は酒が飲めない。
でも。
昨日は飲んだ。

それには理由がある。

大船で飲んだ。
会社の先輩と、だ。

大船で飲むことなど滅多にないので、ゲストを呼んだ。
高校の時の同級生の女性で、大船在住の人だ。

「大船だから少しだけ顔出さない?」とメールしたら
「じゃぁ、少しお邪魔しちゃおうかな」という返事。

高校の同級生、といっても彼女とは高校当時話をしたことなどない。
昨夏私が首謀者となって学年の同窓会を開催して以来、数名のグループで度々飲むようになり、その中のメンバーのひとりといったところだ。

とはいっても、今年に入ってから顔を会わせていなかった。

だから、彼女と会うのは久しぶりであった。

で。

彼女が到着したときには私と先輩はすっかりすっかり上機嫌になっていた。
ほどなくして場の雰囲気が和んできたので

「最近、どうよ?」

と、ありがちだけど的が曖昧な質問を投げかけた。
すると彼女、

「実は報告しなくちゃならないことがあるの」

ありゃ。
こりゃ。
そりゃ。

何ぼ察しの悪い私でも、この答えが何を意味しているかくらいは分かる。

結婚。

「だよね?」

ということになり、まずは3人で祝杯をあげた。

で、

「相手は誰なの?」

という話になるのは当然、っつーか必然。
「・・・」
彼女なかなかハッキリと答えようとしない。

「まさか・・・同じ高校の人?」

こっくりとうなずく彼女。

「マジでぇ~!誰?誰?」

聞けば確かに同級生。昨夏の同窓会がきっかけで交流が方々で活発になっていたのは当事者の私も知っていた。
その流れの中で彼女とその彼は昨秋から付き合い始め、今年になって結婚を決意しこの3月に互いの両親に紹介し・・・10月に挙式を行うことを決めたのだそうな。

「これからここに来るよ」

で、現れたのは確かにその同級生。

全く初対面の会社の先輩を巻き込んでささやかな祝宴となった。

いやぁ・・・うれしいっ!

はっきり言って昨夏の同窓会は、映画「世界の中心で、愛をさけぶ」を観て自分の高校時代を懐かしく思った私が「衝動的に」行ったものである。会そのものも盛況に終わったのはさることながら、その後いろんなところでいろんな繋がりが復活していた。

しかもっ!

それがキッカケで一生の伴侶を互いに見つけた人がいる!だなんて。

なんてうれしいんだ!

私の思いつきも捨てたものではない。

嬉しい!

本当に嬉しい!

おめでとう!おめでとうっ!

っつーわけで嬉しくて、飲みました。

だから二日酔い。
二日酔いなのに嬉しい、なんて変。

でも。

本当におめでとう。
うれしいよ。

家族ってありがたい

2005年04月01日 | ほろり
昨晩のこと。

21時頃オフィスにいたら、胸ポケットの携帯が鳴った。
画面を見ると家からである。

何となく、嫌な予感がした。
普通なら子どもたちはもう寝ている時間だ。
こんな時間に家からの電話なんてよほどのことがないと掛かってこない。

出てみると案の定、妻からで下の娘の具合が悪いという。
夕方から「おなかがいたい」と言い出してずっと泣いているという。

「スグに帰る」といって電車に飛び乗ったがオフィスから家まで一時間はかかる。

タマタマ階下に住む母のところに姉が遊びに来ており、その間に姉が病院に連れて行ってくれた。

私は家に一回戻ってから母の車(ウチの車は車検中でなかった)でスグに病院に駆けつけた。
病院に着くと娘の症状は幸いにも落ち着いており大過なくてホッとした。

しかし会社から家、病院までの約1時間半の道のりの長く感じられたこと。

苦痛に歪む娘の顔が頭に浮かぶ。
大丈夫だろうか。
苦しんでいるのではないだろうか。
何か悪い病気ではないだろうか。
あんなに小さいのにどんなに心細くて苦しい思いをしているのだろう。

入院、なんてことになったらどうしよう。

「替わってあげたい」というよく聞く子を持つ親の言葉が胸に染む。
本当に替わってあげたい、と思うものだ。

特に昨日の場合、私は状況を想像するしか出来ないので余計に心配だ。
むしろ、そばにいて抱きしめてあげられたら気持ちとしては楽なのに、なんて思ったりもする。

上の娘にも思いを馳せる。
ババの許で待って先に寝ていればいいものを、一緒に車に乗って付いていったという。

彼女なりにただならぬ気配を感じていたのであろう。

眠いだろうに・・・

私が病院に到着して、姉が帰宅しても私と一緒に車でふたりきりになっても彼女は寝ようとしなかった。

ところが妹と妻が戻ってきて、車が動かした瞬間、流石にホッとしたのかコテっと寝てしまった。

帰る道すがら思った。

家族の健康って本当に大事。
私がこうして毎日を充実して過ごせるのも、家族が健康でいてくれるからだ、と。
妻でも、娘でも、体を壊したらと思うと・・・

一方で昨日の昼間、私は知人のお父様の葬儀に参列していた。
長い間闘病した末に他界なさったという。

告別式で目を真っ赤に腫らしながらも気丈に挨拶する知人を見て、私が両親を見送る立場になったとき果たしてああも気丈に挨拶できるだろうか、とフと思った。

フーテンの父と口性のない母ではあるが、やはり親は親。
最小の社会単位といわれる家族の他界に際しては流石に涙を流すかも知れないな、と思った。

なんて『家族』というものを強く意識した一日だった。

・・・病院から戻ったら、もう十二時を回っていた。
ぐったりと寝てしまった子どものずっしりとした重みが、ある意味で幸せの証拠かもしれないと思った。

冬の夜空の下で

2005年02月21日 | ほろり
「しゃ・・・ちょう!」

と、呼び止めてから「しまった!」と思った。

振り向いた顔は間違いなく、その人のものだった・・・

冬の夜のガソリンスタンド。
今流行の、というよりも、最近ようやく定着しつつあるセルフ方式のガソリンスタンド(GS)だ。いつものように私は原チャリを降り、ヘルメットをかぶったまま給油する。セルフのGS特有の機械が喋る声だけが響き、私も他の客も黙々と作業をしている。人の温もりとは無縁の効率だけを追求した「サービス」が夜を余計にしらけたものにしていた。

あまり目立たないがこうした方式のGSにも機械のメンテや給油の方法が分からない客のためにユニフォームを着た店員がいる。

いつも利用しているので気に掛けたことなどないが、その日はそのうちの一人がタマタマ私の横を通りかかったのだ。

「!」

私にはスグ分かった。昔、今の仕事に就く前にお世話になったあの人だ。

当時その人はある会社を経営していた。
男ばかり7、8人程度の小さな所帯ではあったが、力仕事も多くいわゆる男の職場だった。
その会社に所用で顔を出せば奥から野太い声でしか返事がなかったし、現場で一緒に仕事をすれば発注者である私をそんなことはお構いなしに小僧扱いして「おいっ!これやってみろ」なんていいながら背中を叩かれたものだった。
そんな荒っぽい職場にありながら、その長としてまとめ上げていた「社長」には腕っ節の強さとそれなりの威厳を感じさせる人柄だった。
その会社に社長の息子が入社した、と聞いたのは私が今の仕事に就いた直後だった。
その「二代目」は大学を卒業してしばらく他の企業で経験をつんでいたが、社長の年齢を考えるとそろそろ父親の会社に入って・・・ということらしかった。

あの元気な社長もそろそろゆっくりと過ごしたいのかな、そういえば年齢もオレのオヤジとそうは変わらないだろうしな、などと思ったものだ。

ところが二年くらいして急にその会社が解散した、という噂が流れてきた。
入社した息子が業界に慣れなかったのではとか、親子喧嘩したらしい、というあくまでも憶測の域を出ない噂でしかなかったが。
もう何の関りもなかったが、あれだけ結束の固かった会社があっけなく解散したと聞いて何となく寂しさを感じた。

その社長が今、目の前に立っている。
つい声を掛けてしまった。

「しゃ・・・ちょう!」

振り向いたその顔を見て私は思うのだ。
「しまった!」

その顔は昔の現場で活き活きと社員やあるいは私に指示をしているものとあまりに違っていた。
生活に、疲れた顔をしていた。

ヘルメットを被ったままだと気づいた私は慌てて脱いだ。
そして「ご無沙汰しております・・・」と挨拶をした。

「ああ・・・」
とだけ、ばつが悪そうに彼は言った。
どうやら私の顔は憶えているようだが、名前までは出てこないようだ。

気まずい雰囲気が流れる・・・

このアタリに住んでいるお母さんの介護をして暮らしていること、このGSの経営者が昔からの知り合いで土日の夜勤をさせてもらっていること、肉体的に楽な年齢ではないなどということを、昔の彼を知る、息子ほども年の違う私に話していた。
懐かしくてという話し振りではなく、状況の説明として話した、という雰囲気だった。

熱っぽく背中を叩いたあの勢いは、なかった。

私はバツの悪さを感じていた。

早くその場を立ち去りたい衝動に駆られた。

どういう事情があるにせよ、自分のオヤジほどの年齢の人が土日だけとはいえ徹夜の仕事をしている。

「どうしてだ」
という思いを抱え、ありきたりな挨拶をして私はそのGSを後にした。

冬の夜気はキーンと冷えてとがっていた。

昼間・公園にて

2004年11月09日 | ほろり
娘たちを連れていつも行く近所の公園。
川の近くにあって日も良く当たるんだけど、周りを壁に囲まれていてちょっと場末の雰囲気。
大きな道から奥まったところにあるせいか、普段から人はまばらで「公園デビュー」なんてしきたりとも無縁の静かな公園。

いつものように妻と娘が公園で遊んでいるときにその人はやってきたという。

どこからか音楽が聴こえる。

妻がそう思っているとおじいさんが隣接する介護施設からハーモニカを吹きながらやってきた。
どうやら介護施設に最近入所した人のようだ。

ハーモニカを吹きながらベンチに腰掛けるおじいさん。
小さな場末の公園は即興の演奏会の会場になった。

観客は妻とウチの娘たち。

上の娘はおじいさんの横に座って聞き入っていた。
その感動的なほどの腕前。

その腕を買われて以前はテレビにも出ていたこともあるとか。

気がつくと介護施設からの散歩のグループに周りを囲まれていた。
歩くことすらままならないおばあさん。
視点の定まらないおじいさん。
車椅子のおばあさん。

そんな人たちが目を閉じてハーモニカの音に聞き入り、一曲ごとに大きな拍手。

「感動的な光景だったわ」と妻。

「いつでもどこでも人を感動させることができる本当にすばらしい趣味だわ」

その光景を思い浮かべただけで私も心が温かくなった。
早く会ってみたいな。そのおじいさんに。